その三 副票
その数日後。
定時でUCに戻ると、浦田に、新海君が医務室に運ばれたと聞いた。
「倒れたの」
「いや、倒れてはいないですけど。何か、動けなくなって固まってたんですよ。呼びかけても反応がなくて」
低血糖だろうかと思った。その後救急車が来て、近所の病院に搬送されていった。
糖尿病で、アルコール依存症で、あれだけの重労働をして、周囲の無理解でプレッシャーをかけられていれば、倒れるのも当然であろう。その週は休むことになった。
ところが、新海君が休んでいる間に、今度は成見が休むかもしれないと言い出した。
後で、誰からともなく理由を聞いた。
昨年に、祖母か誰かが危篤となり、一時帰郷していた。どうも、今度は本当にヤバイようだった。成見の様子も元気がないように見えた。
流石に気の毒だとは思ったが、そういう時に限ってまたミスをした。
土曜日のことだった。
朝、実験Z棟の鍵が開いていなかったので、朝礼後に、私が正門の守衛詰め所まで鍵を取りに行った。笹井さんは休みだった。しかし、ミスとはそのことではない。
月半ばにして、やっと06Fの部品が揃い、今月分のセットをやろうとすると、カンバンの製番が、従来通りの日付を基にした仮入庫ナンバーとなっていることに気付いた。
入庫カンバンに仮入庫ナンバーが記載されている場合は、梱包時に副票を入れると聞いていた。セットのことは何も聞いていなかった。
そういう訳で松井さんには、そのまま副票を入れて梱包するように指示した。私も防錆の作業をした。
仕事に興味はないが、こんな私でもヤードにセットを並べると、一仕事終えたという達成感を感じる。この時だけは何故かカタルシスもひとしおだった。
しかし、週が明けると衝撃の事実が判明した。
今月分からは、セットで仮入庫ナンバーが振ってあっても副票はいらない。
それ、早く言ってよ。
作業の前に確認をするべきだった。
セットの四パレットが、実験Z棟に並んでいた。まるで、腐ったキャベツ畑のように見えた。ラベルを貼らなくて良かった。
しかし、こいつらをどうするのか、朝の時点では何も聞けなかった。そのままラベルを貼って入庫してしまうのか、まさか、全て箱をバラシて梱包し直すのか。自分から何か言い出すのは躊躇われた。
『そのまま入庫しちまっていいんですよね。まさか、副票抜くとか言わないっすよね、へへへへ』
言わなくて良かった。
やばそうなので、午前中はそのまま放置し、午後になった。昼礼でも何の言及もなかった。
実験Z棟に、成見が現れた。
「じゃあ、やりますか」
え、何を。
どうやら、箱を全部バラシて入れ替えるらしい。
正式に、そのようなことは聞いてはいない。一言も聞いていない。しかし空気でわかる。
改めて聞くのも躊躇われた。下手に聞いてキレても困る。どうも、バラスのが当然であるという空気を感じる。そして私が理解しているのが当然だと思っているようだ。しかし、もう驚くには当たらない。こいつは自己愛性PDだからだ。
これは私のミスだ。一言確認するべきだったのだ。
しかし、これを全部バラすのか。
箱は全部で幾つあるのだ。Eワイに06FピンにELMS。パレット四枚分で、合計で八十四個ある。
自分が悪いのは重々承知だが、ここまでやる必要があるのか。
あまりにもアホらしい。
一体何時間かかるのだ。
いや、これは私のミスだ。私のミスだということはわかっている。
しかし、どう客観的にみてもバカじゃないかと思う。
こんなもんメールで一言送れば済むことではないのか。
『副票入ってるけど、気にしないで。捨てといて』
相手は海外とはいえ一応自社工場である。自動車メーカーではない。形式上は別会社となっており、社外クレーム扱いとなるが、そこは大人の対応をすればいいだけの話ではないのか。自己愛性PDでもなければ話が通じるはずだ。
いや、悪いのは私である。私が悪いのだ。『バッドバッドバッドバッド』。御免さない。許して下さい。
しかし副票一枚入っていたから何だって言うのよ。従来通り適当に処分しておけば済むことではないのか。
そんな私の葛藤には関係なく、成見が箱をバラし始めた。仕方なく私も加わった。
凄い量だった。
バラした段ボール箱が山になった。こいつらの処分だけでも大した作業量になるだろう。
祖母が大変だろう時に、私のミスで余計な作業に付き合わせてしまって、本当に申し訳なく思った。
しかし、成見は文句一つ言わない。
それどころか、箱のバラシ方を優しく教えてくれた。空き箱の底をグーパンチすれば、ガムテープを破って簡単に蓋を開けることが出来る。どうも、リサイクル業で培ったノウハウらしかった。
ああ、何ていい奴なんだろう。
彼に比べて私ときたら、自分のせいで大変なことになっているというのに、自責の念とか罪悪感もあるようなないような、わからないような状態だ。本当はサイコパスなのではないだろうか。
こいつが社員になるのも当然だ。
こんなに無駄な時間を使わせてしまって、本当に申し訳ない。本当にこいつは文句一つ言わない。悪態の一つでも吐かれた方が、まだマシだった。
しかしここで思った。ちょっと待てよ。
これだけ大変な手間のかかる作業なのに、何故怒っている様子が全くないのか。
よくよく考えたらこいつは、仕事が増えることに対しては何も感じていないのではないだろうか。感じていないどころか、むしろ残業が出来て喜んでいるのかもしれない。
いや、これは防衛機制だ。自分のミスをなかったことにしたいだけだ。彼も、大変な時なので私を責めるような元気もないだけなのだ。
だいたい、セットは仮入庫ナンバーを継続して使用するとか、一言言ってくれればいいのに。
幸いなことに、この日,長田さんは現れなかった。
結局、箱を全てバラシて、中身を入れ替えて、ラベルを貼って入庫するのに三時間かかった。