その十七 魔女のホテル⑭
ある日の朝のことだった。
支配人が電話を切ると言った。会長が牛乳をご所望である、レストランまで持って行け。
ラウンジでグラスに牛乳を注いで、別館の最上階に上がった。
レストランでは会議の最中らしかった。
会長の周囲を、蒲田支配人を始め、ラブホの社員やら営繕の男たちが二十名ほどで取り囲んでいた。
会長の前にグラスを置いた。
会長は何やらまくし立てていた。大の男たちが揃いも揃って、しおらしく拝聴していた。
恐らく、いつもそのような調子だったのであろう。
程なくして、私はそのホテルを辞めた。
その後は長いこと、ホテルに近づいたことはなかった。
しかし最近になって、ちょっと終電を逃したため、ホテルの近所のカプセルホテルに泊まってみようと思い立った。
そこのフロントにいたのは、何と社員の山川さんだった。
転職したのかと思いきや、カプセルホテル自体がホテルの傘下にあるという。
ホテルの方は相変わらず。会長も存命、社長は既に亡くなった。
実は、社長が亡くなったことは既に知っていた。理由はまた別の機会に述べよう。
カプセルのテレビは映らなかった。古いタイプのブラウン管テレビで、どうも地デジには対応していないようだった。
テレビはカプセルに組み込まれているため、テレビを変えようと思ったらカプセルごと変えなくてはならないのであろう。
前のオーナーはそれが面倒で、会社を手放したのではあるまいか。
そして申し出を受けて、また何も考えずに、会長が買収だか譲渡だかを承諾して、自分のものにしてしまったのではないだろうか。
大浴場は立派だったが、やはりぬるぬるしていた。脱衣所は散らかり、タオルが干されていた。
翌朝、ちょっとホテルの前を通ってみた。
ホテルはまだ、しぶとく生き残っているようだった。
しかし、パーキングの入り口は物置と化していた。恐らく費用の問題で、メンテとか修理は断念したのであろう。巨大な設備が、地下で放置されたままになっているようだった。
他にもホテル内で、あの人とあの人の声が響き渡っているとか、あの人とあの人が不倫しているとか、ヤクザが銃撃戦をおっ始めたりとか、いかれた作家が斧を振り回したりとか、一九六九年産のワインがなかったりとか、クマが暴れたりとか、楽しい話がまだまだたくさんあるのだが、それはまた次の機会に紹介したい。
社長が自己愛性PDであったかどうかは不明である。猜疑性PDということも考えられる。会長は、誤解を恐れずに言えば、ダメな女性経営者によくいるタイプであろう。読者の皆さんも心当たりがたくさんあるはずだ。二人とも、自身の能力を弁えていないという点が一番の問題だと思う。そして、他人の話を聞かないし、常識レベルで話が通じない。順法意識も薄い。会長は、その時の気分と感情で重要な判断を即断即決する。最早経営能力以前の問題だった。
ホテルというのは、ハコさえ造ってしまえば、存続させるだけなら難しくないのかもしれない。しかし立派な外観の内側は、完全に腐りきっている。普通なら、そこまで放置せずに撤退することを考えるだろう。
そのような状態で、会社を存続させているのは、案外有能なのかもしれない。或いは、最早撤退すら出来ない程の無能なのか。読者の皆さんは、どう思いますか。
会長が死んだらどのような事態になるのか、想像もつかない。
相続は、融資は、業者への支払いは、建物の解体費用は捻出出来るのか、息子やジャージ姿の社員たちに対処出来るのか。その時、都内の繁華街の一角がゴーストタウンと化すかもしれない。
しかし、そのような事態にはならないような気がする。
実は、彼女は魔女なのだ。恐らく後百年は生きるであろう。そして、我々が死んだ後も、ホテルと彼女は生き続けるのだ。
次回から新章です