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想の章

<里子視点の話です。>

「死ぬまで責任をもって可愛がって飼って下さいね。約束ですよ。」

思い出すだけで、頬が暖かくなる少し恥ずかしい記憶だ。

ペットショップで働いていたから変な言葉を選んでしまった。

だけど、もう透と結婚するなんて不可能だと思っていたから、とっても嬉しかった。


高校生の透を、実家の旅館の跡継ぎ問題に巻き込むのは絶対にダメだと思っていた。

わたしは、自分と似合いの相手と見合い結婚して、実家を盛り立てるのが役目と覚悟を決めていた。

透は無限の可能性があるのに、わたしなんかに付き合う必要はない。

だから、本当は大好きな透をきっぱりと拒絶していた。


なのに、透は、わたしのためにマラソンで世界の頂点を狙ってくれた。

透こそがわたしの夫に相応しいと、みんなを納得させてくれた。

売名行為と言われようが、虚名と言われようが、名を売って旅館の評判を上げようとしてくれた。

ただ、わたしと一緒になってくれるためだけに全力を尽くしてくれた。

その透に、わたしは心を激しく揺り動かされて、透のプロポーズを受けた。

これまでの、わたしの人生で最高に幸せな瞬間だった。




透と初めて出会ったのはビリヤード場だった。

わたしは大学を卒業して働きだして、あまり時間も経っていなかった。

ペットショップに勤め始めたものの、思い描いていたのと現実は違っていた。

犬や猫が好きだというのと、その犬や猫を商品とする商売は全く別物だった。

ホテルや旅館に泊まるのが好きでも、旅館やホテルで働くのが別なのと一緒のことだ。

それでも、自分で選んだ仕事だし、投げ出す気はなかった。

ただ仕事に慣れてきた時期に、わたしは壁にぶつかって悩んでいた。

売りたくないと思うような人でも、お客さんなら動物を売るしかない。

買われていった動物が幸せに暮らしているかどうか心配になった。

この仕事は自分に向いているのか迷いが生じていた。

そんなわたしを気にしてくれた先輩が、気晴らしにとビリヤード場に連れて行ってくれた。

行った先のビリヤード場で出会ったのが透だ。


透を見て最初に思ったのは、大人しいシャイな人だなあ、だった。

だけど手際よく客をあしらい、球戯場と飲食カウンターを廻していた透がカッコよく見えた。

一目で、仕事が出来る人、あこがれの対象になった。

そして、わたしの眼からは透は一人前のベテランに見えた

でも話を聞いたら、透はビリヤ-ド場のアルバイトだった。

アルバイトなのに店の切り盛りをしていたのは、本当にすごいと思った。

「彼は若いわよ。」

先輩が言っていたが、さすがに自分より年下だとは思ってなかった。

実際の年齢を聞いてびっくりした。

透は高校二年生だった。

わたしよりも6つも年下だった。




「ビリヤードは初めてですか?」

透に聞かれて、わたしはドキドキしてしまった。

「ええ、初めてなの。わたしは宮下里子と言います。」

なんでフルネームを名乗ったのか分からない。

ひょっとしたら、わたしは透に名前を覚えて欲しかったのかも知れない。

けれども、透が笑って名前を呼んでくれたのには惹かれてしまった。

「里子さんと言うのですね。」

「そう。むかしからリコって呼ばれることが多かったの。里って字はリって読めるじゃないですか。」

透と自然に会話が出来るようになっていた。


「高校生なのでしょ。偉いわねえ。ビリヤード場を切り盛りしているなんて。」

「たいしたことじゃないですよ。」

「わたしなんか、仕事していても、まだまだなのよね。」

「そうなんですか。」

「ペットショップだけど、犬種や猫種を覚えて勉強してね。」

「大変ですね。」

「そうね、でも大変だけど、楽しいから頑張れるけどね。」

透と会話するのが、わたしは楽しかった。

後から考えてみたら、この時から透が好きになっていっていたと思う。




先輩に連れられて行ったあとも、何回か一人でビリヤード場に行った。

「また来たよ。」

「今日は、一人なんですか?」

「そうなの。」

「楽しんでいってくださいね。」

「ありがとう。でも教えてくれると嬉しいな。」

透にビリヤードを教えて欲しいと頼んだ。

本当はビリヤードを教えてもらうより、透と話をするのが狙いだった。

透と話をするのは面白かった。

仕事で嫌な思いをしても、透が吹き飛ばしてくれるようだった。


「帰りに御飯に行きませんか。」

ある日、早上がりだと言う透が、晩御飯に誘ってきてくれた。

「高校生なのに社会人を誘惑するの。」

わたしは冗談めかして言ったけど、断る気はなかった。

二人で食べに行った御飯は本当に美味しかった。

そして帰りに告白された。

「まだ知り合って間もないけど、それに年下だけど、俺と付き合ってください。」

突然でびっくりだったけど、嬉しかった。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

「ありがとう。嬉しいよ。」


告白を受け入れたのは、透が年下というのが大きかったのだと思う。

それまでは同じ年か年上の人しか、周りにはいなかった。

それで、どうしても旅館の跡継ぎのことが頭を離れなかった。

だけど、高校生の透には、旅館のことなんか関係ない。

純粋に付き合いだけを楽しむことが出来る、楽しんだら良いと、そのときは思った。




ビリヤード場には、軽食が摂れるカウンターもあった。

そこで透に聞かれた。

「何か食べる?」

「お勧めは何かなあ。」

「そうだなあ、パスタはどう。」

「じゃあ、それでお願い。」

透は手早くパスタを作ってくれた。

わたしが何も言わなかったら、サービスでコーヒーを付けてくれた。

わたしは、コーヒーは少し苦手だった。

だけど、透の入れてくれたコーヒーは美味しかった。

「このパスタ美味しいね。」

「ありがとう。」

「料理上手なのね。」

「そんなことないよ。」

褒めると透が照れていたのが可愛かった。

「里子は料理が上手?」

「わたし?あんまり上手じゃないかな。」

「そんなことないでしょ。上手そうに見えるよ。」

「そうかなあ。」

わたしは、上手じゃないって言ったけど、旅館の生まれだし、厨房で手伝っていたこともあるから一通りの料理は出来るようになっていた。

「手料理が食べたいな。」

わたしの手料理を食べたいと透が言ってきた。

「ええ、仕方ないわね。」

少し自信はなかったけど、手料理を振舞って食べてもらった。

「美味しいよ。」

「気に入ってくれて嬉しいわ。」

透にわたしの手料理を食べて貰って幸せだった。

誰にも、当の透にも言ってないけど、実を言えば、透は、わたしの初の恋人だ。

それまでに好きになった人は居るし、仲良くなった人もいた。

だけど、ちゃんと恋人になった人は居なかった。

だから、余計にわたしは透を誰にも渡したくない気持ちになった。




二人で紅葉を見に行った。

「紅葉を見に行こう、里子。」

「いいわね、行きましょう。」

透から誘ってきたけど、車を用意したのは、わたしだった。

透は高校生だから免許を持っていなかった。

「夜の紅葉が綺麗なところがあるんだ。」

「へえ、そうなの。良く知っているわね。」

誰かと行ったことがあるのかと思って、ちょっともやっとした。

「里子と行きたかったから、調べたんだよ。」

でも透は知っていたわけじゃなくて、調べてくれただけだった。

ただ夜と聞いて、わたしは夜道の運転が心配だった。

けれども行きは、まだ明るい時間帯だったから問題はなかった。

「そこを真っ直ぐに行って、右の坂を登っていくんだ。」

透のナビに従って運転するだけですんだ。


到着したところは、期間限定で特別拝観をしている寺だった。

数百年の歴史があって、国宝クラスの貴重な文化財を多数所蔵している。

山門をくぐって、調和の取れた庭を眺めながら奥に進んでいく。

書院造りの建物に入り、二階にあがる。

窓の外に広がるライトアップされた幻想的な紅葉は忘れられない。

「きれい。」

涙が出そうなくらいの感激だった。

「里子も綺麗だよ。」

耳元で囁かれた透の言葉に心が跳ねた。

「もう、透ったら口がうまいのだから。」

しかし言葉にしたのは恥ずかしさから冗談のような口調になった。

でも、とっても嬉しかった。


ただ帰りの運転は怖かった。

透にもバレバレだった。

「ひょっとして、夜の運転ってしたことない?」

「うん、ほとんどしたことないの。」

わたしは涙眼だったと思う。

「じゃあ、出来るだけ明るい大きな道を通っていくことにするよ。」

透は走りやすい道を選んでナビをしてくれた。

おかげで無事に家まで帰れた。

ほんとうに頼りになる透だった。




そんな関係だったけど、心の何処かで透との深みに嵌ったらダメだと思い続けていた。

年下の男の子なのだから、付き合うだけに留めておきたかった。

将来をともに出来る相手じゃない。

だけど、自分の心を抑えることが出来なかった。

好きな人と一緒になりたい。

綺麗な夜景に、美味しい食事、やさしい透、わたしは透に酔っていた。

気が付いたらクリスマスに一線を越えてしまっていた。




正月には近くの神社に歩いて初詣に行った。

「神社に初詣に行こう、里子。」

「いいわね、透。」

本殿の前で柏手をうって願い事を祈った。

「何をお願いしたの、里子。」

「内緒。」

わたしが願ったのは透の将来だった。

透は春から高校三年生になる。

将来を考えて、大学受験に悩む時期だ。

わたしなんかと付き合って時間を浪費している暇は、これからの透にはない。

わたしには背負っている荷物があるけど、その荷物を透に背負って貰うことは出来ない。

透との関係に早目に決着を付けないといけないと思い始めていた。




春に夜桜を見に行った。

いつもは透から誘われていたけど、この時は、わたしから誘った。

夜は寒いからコートと手袋をした。

そして無意識だったけど、透からクリスマスに貰ったリングを左手の薬指に付けていた。

有名な桜名所で、二人で肩を寄せ合ってライトアップされた桜を眺めた。

綺麗だったけど、散りゆく桜を見ていると、残された時間は少ないのだと切実に思わされた。

焦りに似た気持ちで、わたしは別れを決意した。

あとは何時告げるかだけだった。

だけど踏ん切りがつかずに、言い出せずに時間だけが過ぎていった。




「里子、落ち着いて聞いて。」

お母さんから電話があったのは夏前だった。

「お父さんが倒れたの。」

「え、お父さんが。」

目の前が暗くなった。

「でも、大きな問題はなくてね、直ぐに元に戻ったの。」

続くお母さんの言葉に、安堵した。

よかった、お父さんは無事だ。

「一時的に脳に血がいかなくなっただけで、後遺症も残らないようなの。」

「それでね、里子に相談したいことがあるの。」

お父さんが脳梗塞で倒れた。

後遺症は残らなかったけど、次も同じとは限らない。

わたしもそれなりの歳になっている。

結婚して、旅館を継ぐ時期が来たのだと理解した。

お父さんが元気なうちに家に帰ろう。

「わかった。お見合いだね。」

「里子、いいの。」

「もちろんだよ。約束だったでしょ。」

「ありがとう、里子。」

お母さんと話をして実家に帰る時期を決めた。

年末に実家に帰って、年明けには見合いをして春には結婚をする。




透に別れを告げるのは辛かった。

別れたくない。

でも心を鬼にして言った。

「実家に帰るの。両親からは見合いを薦められているの。」

「おまえの隣に立つ資格は俺にはないのか。」

透は自分が婿になるのはダメかと言ってきた。

「わたしの実家の問題に縛られる必要なんかない。」

「透は透の人生を歩むの。これは決まったこと。」

だけど、わたしは無理やり笑って、きっぱりと断った。

透と出会えて過ごした時間は一生の宝物。

その記憶があれば、わたしは大丈夫、頑張れる。

わたしは自分の心を自分で力任せに捻じ曲げて納得させていた。


だけど、その後も、透は何度も連絡してきた。

「里子、話を聞いてくれ。」

「もう連絡してこないで。」

わたしは連絡も拒絶するようにした。

そうしないと自分の心が揺らぐ思いがしたからだ。

「じゃあ、最後にデートをしたい。それだけは御願いだ。」

そうしたら、透が最後のデートをしたいと言ってきた。

「分かったわ。思い出のクリスマスにデートをしましょう。」

だから、クリスマスに最後のデートをして完全にお別れしようと言った。




わたしは、仕事先のペットショップに辞めることを伝えた。

皆からは残念がられたけど、実家に戻ることは理解して貰った。

わたしも折角、慣れてきて仕事が面白くなってきていたところだった。

だけど、最初から分かっていたこと、自分の気持ちを押し殺して帰郷の準備をした。

お母さんからは見合い相手の情報を受け取った。

同じ地方の旅館の三男さんで、歳は三つ上の人だった。

写真も送られてきたけど、穏やかな印象の人だった。

だけど、それが透の写真だったら良かったのにと思ってしまった。

自分がどれだけ透のことが好きか分かって、涙が流れてきた。

透が好き、別れなくて済むのなら別れたくない。

でも、それだけは許されない。

透には透の人生がある。

わたしは何度も自分で自分の心を踏みしめて決意を固めた。




わたしが別れを告げたあと、透が何をしていたのか、わたしは知らなかった。

連絡することもなかったし、ビリヤード場に行くこともなかった。

それが分かったのは12月だった。

世界イベントの選考会を兼ねたフルマラソン大会があった。

その大会で、透はトップでゴールテープを切り優勝していた。

テレビに映る透を見て、わたしは驚いた。

透はマラソンをしていたのだ。

むかし透は陸上部で走っていたと、話には聞いていた。

だけど、今は市民マラソンをしているだけだと言っていた。

それなのに世界に挑戦するレベルに達していた。


透は自分の世界に戻っていったのだと、わたしは思った。

透が遠く感じられて寂しかった。

でも、これで良かったのだと思うことにした。

透は本来の人生を歩み始めたのだ。

そんな世界に羽ばたく透の前途をわたしが邪魔するわけにはいかなかった。




クリスマスデートは一年前と同じ夜景の見える展望台で待ち合わせだった。

わたしは、透におめでとうと言うつもりだった。

だけど、会ってすぐに、逆に透にプロポーズされた。

透はダイヤのリングを差し出してくれた。


ただ、それを見ても、わたしの決心はびくともしなかった。

「透はマラソンで世界のメダルを狙う立場になったのよ。わたしなんかに関わっていたらダメ。」

冷静に透に結婚出来ないと返事をした。


でも透に言われた。

「俺がマラソンで優勝したのは里子と一緒になるためだよ。」

透の言葉の響きに、わたしの心がグラついた。

お父さんの許可も貰っていると言われて、電話して確認したら本当だった。

「わたしは反対しないよ。そして里子の幸せを祈っているよ。」

お父さんに言われた。

信じられなかった。

でも透はマラソンの世界に戻ったのじゃなかった。

わたしの為に、走っただけだった。

そして、さっきまであった、わたしの決心がもろくも消え去っていた。

ダムが決壊して流れていくようだった。

一瞬のうちに、わたしの心を囲っていた壁が崩れ去った。

あるいは、それは単なるアメ細工の壁だったのかも知れない。

透の言葉の熱に溶かされて消えてしまった。

茫然とした、わたしは、しばらく動けなかった。

なんども頭で透の言葉を繰り返して、ようやく事態が呑み込めた。

自分の望んでいた未来が目の前に広がっていた。

わたしは嬉しくて、本当は、すぐにでも透に抱きつきたかった。

でも透に、わたしで良いのか何度も確認してしまった。

そして、わたしは透に買い上げて貰った。

心から、死ぬまで透の傍に居たいと思った。

二度と透と別れたくない。




あれ以来、透はずっとわたしのことを大事にしてくれている。

わたしには、不満は何もない。

でも気になっていることというか、申し訳なく思っていることが一つだけある。

それは、透がわたしと一緒になって本当に良かったのかどうか。

今になっても、透には別の人生があったのじゃないだろうかと気になっている。






わたしは地方の温泉地にある旅館の長女として産まれた。

産まれてからしばらくは、お父さんとお母さんに可愛がってもらえた。

だけど、生まれて1歳が過ぎたとき、旅館には激動の時代が待っていた。

お祖父さん、お父さんのお父さんが亡くなった。




わたしのお父さんは、幼馴染のお母さんと恋愛結婚した。

だけどすんなり結婚出来たわけじゃなかった。

お父さんは旅館の長男だったけど、お母さんは旅館とは関係ない生まれだ。

二人は生まれ育った土地が同じということで仲良くなった。

時間と共に密かに将来を誓いあう関係にまでなっていたそうだ。


それなりの歳になった、お父さんは結婚する時期になっていた。

だけどお父さんは、お祖父さんに結婚相手を準備されていた。

同じ地方で温泉旅館を営むところのお嬢さんとの見合いだった。

お父さんが全く知らないところで話だけが進められていた。

お祖父さんに、いきなり見合いの話をされたお父さんはびっくりした。


お祖父さん自身は、別の温泉旅館のお嬢さんを奥さんに貰っていた。

だから、お父さんにも同じことを当然のことと決めていた。

ちなみに、お祖父さんは、お母さんの存在は知っていた。

だけどお祖父さんは、恋愛と結婚は別という考えの人だった。

お祖父さんは家と言うものを中心に考える人だった。


しかし、お父さんはその見合い話を断った。

自分の好きな女性、お母さんと結婚すると突っぱねた。

「おまえは何を言っているんだ。」

「親父は、俺に好きな人がいることを知っていて、なんで見合いなんか準備したんだよ。」

「それは、おまえのことを思ってじゃないか。」

「なにが俺のことを思ってだよ。」

「旅館を切り盛りするのに、同業の娘さんを貰うのが一番安定するだろうが。」

「旅館の安定が一番なのか。」

「当然ではないか。お前は旅館の跡継ぎなのだぞ。」

「結婚する当人の意思は関係ないのかよ。」

「旅館を存続させるためになら、多少のことには眼を瞑ったらどうだ。」

「多少のことではないわ。一生のことだわ。」

お祖父さんは、旅館経営を第一にと言った。

だけどお父さんは結婚する当人が一番だろうと主張した。

わたしは、お父さんに賛成だ。

好きな人がいないのならともかく、結婚しようと思う人が居て、見合いをするなんて非常識だ。

それで、お父さんとお祖父さんの間には亀裂が入った。

それ以上に、お父さんとお祖父さんの奥さんとの間に修復不可能な亀裂が入った。

見合いを強く勧めていたのは、お祖父さんの奥さんだったからだ。

「所詮血が繋がらない息子など、どうにもならないわ。」

「母子二代に渡って、人の神経を逆なでしてくれるわ。」

知り合いのお嬢さんを見合い相手に選んでいたのはお祖父さんの奥さんだった。

奥さんは面子を潰されたと激怒していたそうだ。


「親父は、自分の女房に負い目があるから、俺に後始末をさせようとしているだけだろうが。」

「そんなつもりはない。」

「じゃあ、どういうつもりなんだよ。」

お父さんはお祖父さんと口論を続けた。

「自分の女房が推薦する女性だから、俺の見合い相手にしようとしているだけだろうが。違うのか。」

「違う。おまえのためだ。」

「俺のためなんかじゃない。」

お父さんとお祖父さんの二人が折り合うことはなかった。

派手に言い争う姿は、色々な人の眼にとまった。

とうぜん見合い相手にと言っていたお嬢さんにも情報は伝わった。

なので、この話はなかったことにという形になった。


それで、最終的にお父さんはお母さんと結婚した。

だけど結婚式にお祖父さんとお祖父さんの奥さんは欠席した。

親戚もお祖父さんに遠慮して欠席した人が多かった。

旅館の従業員は、お祖父さんに付く人、お父さんに味方する人で分かれた。

人数で言えば、お祖父さんに付いた人のほうが多かった。

お母さんの両親や親戚は結婚に反対したそうだ。

これからの長い人生を考えたら、幸せになれないと主張した。

でも、逆効果だった。

お父さんとお母さんは周囲の反対に負けずに逆らって結婚した。

ひたすらに好いたもの同士で結婚した。

茨の道を敢えて突き進んだ。

結婚後に、お母さんは、お父さんとお祖父さんやお祖父さんの奥様との間を、取り持とうとしたが不可能だった。

あたりまえのことだけど、お祖父さん達に、お母さん自身が拒まれていた。




結婚してから、お母さんは初めて旅館で働き始めた。

それも、いきなり女将という立場になった。

お父さんとお母さんの結婚に反対した、お祖父さんとお祖父さんの奥さんは、隠居すると言った。

そしてお祖父さんの奥さんは、お母さんに何も教えなかった。

経験もない、知識もないお母さんは苦労をした。

さらに、避けるということはないにしても、お祖父さんに付いた従業員は、よそよそしい態度を取った。

そのなかで、お母さんに好意的だった人達がいた。

お父さんに味方してくれた人たちだ。

そのうちの一人が仲居頭筆頭の八重さんだった。

八重さんが味方してくれていたことで、お母さんは旅館の女将の役目を果たすことが出来た。

お母さんは八重さんを頼りにして旅館を切り盛りした。




その八重さんについては衝撃的なことがあった。

わたしが5歳の頃の記憶のことだ。

「里子。お祖母ちゃんと呼んでやってくれないか。」

お父さんが、わたしに言った。

病院に見舞いに行ったときのことだった。

「お祖母ちゃん?」

「そうだ。」

わたしはベッドに横になっている女性を見つめた。

小さい頃から、忙しいお母さんに代わってよく面倒を見てくれた。

旅館の仲居頭筆頭を務めていてくれた人だ。

わたしはいつも「八重さん」と呼んで後ろを付いていっていた。

やさしくて、本当のおばあちゃんという思いもあった。

だから普通に呼べた。

「お祖母ちゃん。」

「ありがとうね、里子お嬢ちゃん。」

八重さんは、わたしの手を握って、嬉しそうにわたしの名前を呼んでくれた。

「普通に里子って呼んでやってくれよ。」

だけど、こんどは、なぜかお父さんが涙を流しながら、逆に八重さんに言っていた。

「でも。」

「でもじゃない。もういいじゃないか。最後くらい親子として別れを惜しませてくれよ、母さん。」

わたしは、お父さんの言っていることの意味が分からなかった。

だけどお父さんの語気の強さには驚いていた。

「あなた、少し落ち着いて。」

お母さんがお父さんにお願いをしていた。

「落ち着いていられるかよ。」

「そうね。おまえには苦労させたね。こんな母親でごめんね。」

苦しそうながらも、穏やかに笑った八重さんだった。

でも、わたしはびっくりだった。

八重さんがお父さんのお母さんだなんて知らなかった。

わたしの本当のお祖母ちゃんだったのだ。


「里子。お父さんとお母さんと仲良くするのよ。お祖母ちゃんは、遠くからいつもあなたを見ているからね。」

わたしを抱きしめてくれた八重さん、お祖母ちゃんは、震える声でわたしに話してくれた。

その3日後、お祖母ちゃんは亡くなった。


わたしは幼かったから記憶は正確じゃない。

後から聞いた話が混じっているのかもしれない。

だけど、八重さんがお祖母ちゃんだったという事実は変わらない。

お祖母ちゃんだと分かってみれば、ほんとうに可愛がっていてくれたということが分かる。

熱をだしたわたしを一晩中抱っこしてくれていたり、縁日に行きたいと駄々を捏ねたわたしを仕事で疲れていたのに笑って連れていってくれた。

お父さんとお母さんは仕事で忙しいから到底つれていく余裕なんかなかった。




中学生になったときに、お父さんから詳しい話を聞けた。

妹は小さかったから八重さんの記憶はない。

八重さん、お祖母ちゃんの記憶があるのは、わたしまでだ。


「おふくろは、この旅館の仲居を長くしていたんだ。」

「親父には、奥さんが居た。」

「母さんの後に、亡くなったから里子も知ってはいるだろう。」

「だけど親父と奥さんの二人の間には子供が出来なかった。」

「親父も50も越えていたし、養子を迎えるかという話もあったらしい。」

「だけど、そこに俺が産まれた。」

「どういう流れで、おふくろが俺を産むことになったのかは知らない。」

「おふくろも親父も、その話は頑として俺にしてくれなかったからな。」

「だけど、少なくとも、おふくろは親父のことが好きだった。」

「親父がどうだったかは分からん。昔の人だからな。」

そのときのお父さんは少し寂しそうに苦笑していた。

お祖父さんとお祖父さんの奥さんの間には子供が出来なかった。

どちらに何の問題があったのかは昔のことだし分からない。

だけど、養子を迎えるという話が出ていたそうだ。

そこにお父さんが産まれた。


お父さんのお母さんは、旅館の仲居をしていた八重お祖母ちゃんだ。

お父さんのお父さんは、先代の当主だったお祖父さんだ。

どっちからどうしたのかまでは分からない。

お父さんも二人から聞いていない。

だけど、八重お祖母ちゃんはお父さんを身籠って産んだ。


わたしはお祖父さんの記憶は全くと言っていいほどない。

お祖父さんは、わたしが1歳くらいのころに亡くなった。

だけどお祖父さんの奥さんの記憶は少しだけある。

八重お祖母ちゃんが亡くなってから、少しして亡くなった。

残念ながら可愛がってもらった記憶はない。




お祖父さんの奥さんは、八重お祖母ちゃんがお父さんをお腹に宿したことを知って激怒したそうだ。

「飼い犬に手を噛まれるとはこういうことを言うのよね。」

お祖父さんの奥さんは、うちとは別の老舗旅館のお嬢様で気位が高かった。

その旅館は、うちの旅館と規模はあまり変わらないが、少しだけ創業が早い。

だからだろうか、自分の実家のほうが家格が高いと思っていたらしい。

なので、夫であるお祖父さんが、八重お祖母ちゃんと通じたことが我慢ならなかった。

だけど、旅館の跡継ぎという大事の前に怒りを呑みこんだそうだ。

ただ容赦はなかった。

「産まれる子供が男の子であれ女の子であれ、どちらでも構いません。」

「産むことは許します。」

「夫の子供であることに変わりはないのですから。」

「ですが、母親を名乗ることは許しません。」

「あと、産まれたら私たちの養子にします。」

「男の子なら跡継ぎに、女の子なら婿養子を取ってもらいます。」

「それで良ければ産んで構いません。」

「それが嫌なら、堕ろしなさい。」

お祖父さんの奥さんが、八重お祖母ちゃんに向かって言い放った言葉だ。

わたしは、その話を旅館に昔から勤めているベテランの爺ちゃんから聞いた。

なんでそんな話をベテランの爺ちゃんが知っているのか不思議だった。

でも爺ちゃんが八重お祖母ちゃんの弟だってことを、そのとき初めて知って納得した。


八重お祖母ちゃんは、お祖父さんの奥さんが出した条件を呑んでお父さんを産んだ。

産まれてきたお父さんは、直ちに養子にされ、八重お祖母ちゃんの手元から取り上げられた。

八重お祖母ちゃんはお父さんが小さい頃は近付くことも、声を掛けることも許されなかったそうだ。

八重お祖母ちゃんの心のうちを思うと涙が出てくる。

なんでお祖父さんの奥さんは、そんな残酷なことが出来たのだろうか。


ただ視点を変えれば、理解出来ないことじゃないのかも知れない。

奥さんから見れば、八重お祖母ちゃんを泥棒猫呼びするのも当然かも知れない。

結婚している男性と通じたのだから、八重お祖母ちゃんは不倫と非難されても文句は言えない。


だけど、お父さんの視点に立てば、幸せだったのかは、わたしには疑問だ。

お父さんは、成人するときに、自分の戸籍を見て初めて自分が養子だと知った。

そして自分の母親が、旅館の仲居をしている八重さんだと突き止めた。


「なんで、母親から子供を取り上げたんだ。」

お父さんはお祖父さんに詰め寄ったそうだ。

「それが筋だからだ。」

「何が筋だ。自分で決着を付けなかっただけだろうが。自分の女房を説得することもなかったんだろうが。」

「うるさい。おまえはワシに逆らうのか。」

「筋を通すのなら、離婚して結婚すればいいだろうが。」

「そんなことが簡単に出来るものか。」

「なら、なんでおふくろに手をだした。」

お父さんの問いに、お祖父さんは何も答えなかったそうだ。

「きっちり責任が取れないのに手を出して、あとは知らんぷりかよ。」

「おふくろのことを好きじゃなかったのかよ。」

お父さんはお祖父さんを罵倒したそうだ。

お父さんは、母親と思っていた人が、実の母親を虐げていたことを知り、反吐が出る思いをしたそうだ。

それから、お父さんとお祖父さんの奥さんとの間には隙間風が吹いていた。

そんな状況で、お祖父さんの奥さんが、お父さんに見合い話を持ってきたのは、最初からうまくいくはずもないことだったと思う。

たとえ、お父さんに幼馴染で好きなお母さんのことがなかったとしても無理筋だったと思う。

お祖父さんの奥さんは、どういうつもりだったのだろうか。




お父さんとお母さんが実質的な経営者となったときに、かなりの従業員がお父さん達の言うことに素直に従わなかった。

お父さんは、お祖父さんが生きていた時代に、当主になっていたけど、実質的に支配者は隠居と言っていたお祖父さんだった。

そのお祖父さんが亡くなってからお父さんが真の経営者になった。

お父さんは、大学で勉強したことや、自分で色々な旅館やホテルを見てきたことで、これまでの経営方針を変えないと旅館が生き残れないと考えていた。

団体旅行客を中心に相手にするビジネスモデルはいつまでも通用しない。

個人客や色々な分野の人達を相手にするべきだと考えていた。

だけど古くからの従業員から猛反発が起きた。


従業員がお父さんの言うことをきかなった理由の一つは、お父さんとお母さんの出自にあった。

お父さんはお祖父さんの息子だけど、母親はお祖父さんの奥さんじゃない。

不義密通の結果できた子供だと見られていた。

お母さんは、別に問題があったわけじゃないけど、旅館業とは関係ないところの産まれだったから、侮られていた。

プライドがあると言えば良い言い方かも知れないけど、これまでのやり方や自分の考えに固執して、新しいものを受け入れることが出来ない人達が多かった。

お父さんとお母さんの結婚に際しての、トラブルも尾をひいていた。

一度お祖父さんに付いた人たちは、最後までお父さんやお母さんに心服することはなかった。

お祖父さんの奥さんの実家から付いてきていた人たちは言うまでもない。


その中で数少ない味方になった一人に、爺ちゃんがいる。

八重お祖母ちゃんの弟だった爺ちゃんも、長く旅館に勤めていた。

そして爺ちゃん自身が仲良くしていた仲居さんや板場の人達が、お父さんやお母さんの味方に付いた。

それでも、離反した沢山の人が退職することになって、一時期旅館は人出不足で大変だったそうだ。

「いやあ、あのときは大変だった。」

「それこそ、何でもやったぞ。」

爺ちゃんが懐かしそうに話をしてくれた。

けれども涙を呑んで、予約を制限して、従業員が足りるようになるまで我慢の時代だったそうだ。

お父さんとお母さんが八重お祖母ちゃんにわたしを任せっきりにしたのも頷ける。




爺ちゃんは八重お祖母ちゃんの弟だけど、腹違いだ。

八重お祖母ちゃんの実のお母さんは、早くに亡くなった。

それで八重お祖母ちゃんのお父さん、ひい爺ちゃんは再婚した。

再婚相手の女性が産んだのが爺ちゃんだ。

だから八重お祖母ちゃんと爺ちゃんは年が離れている。

でも八重お祖母ちゃんと再婚相手さんは仲が良かったそうだ。

再婚相手さんは、八重お祖母ちゃんを実の娘のように可愛がってくれたそうだ。

八重お祖母ちゃんも再婚相手さんを母と慕ったそうだ。

だから世間で言われるような継母との軋轢とは、八重お祖母ちゃんは無縁だった。

そして、ひい爺ちゃんが亡くなったときに、爺ちゃんはまだ幼かった。

八重お祖母ちゃんは、再婚相手さんを助けるために、うちの旅館で働き始めたそうだ。

だから再婚相手さんは、八重お祖母ちゃんに深く感謝していた。

でも残念なことに再婚相手さんも、割と早くに亡くなってしまった。

それで残していく爺ちゃんのことを、八重お祖母ちゃんに託していった。

だから八重お祖母ちゃんは、爺ちゃんを旅館に連れてきた。

のちに大きくなった爺ちゃんも自然に旅館で働くようになっていた。




八重お祖母ちゃんは、口数が少ない人だった。

美人かと言われたら、人によっては美人といってくれるだろうとは爺ちゃんの弁だ。

でも、困っている人を見捨てることは出来ないし、助けた人は最後まで面倒を見る責任感の強い人だった。

引き取った爺ちゃんも、旦那様、お祖父さんに頭を下げて置いてもらった。

最初は、おどおどしていた爺ちゃんだったけど、そのうちに環境に慣れていった。

そして働くには早かったけど、自分の立場が理解できていた爺ちゃんは、自分の出来る範囲で旅館の手伝いをしていった。

布団の片付け、皿洗い、庭の草抜きなど、雑用をひたすらしていった。

長じて、何でも出来る人になった。

「器用貧乏に過ぎん。何かの達人というわけでもないしな。」

爺ちゃんはぼやくけど、貴重な人材であることに変わりない。

屋根瓦を葺いて、ボイラー修理まで出来る人はそうそういない。

お父さんが旅館の実質的な経営者となったときには、爺ちゃんの存在は本当に助かったそうだ。

お父さんから見て、爺ちゃんは血の繋がった叔父さんだ。

なんでも相談出来る相手で、今でも頼りにしている。


ところで爺ちゃんは、旅館の仲居をしていた人と結婚した。

八重お祖母ちゃんをお姉さんと呼んで慕っていた娘さんだった。

わたしは、爺ちゃんの奥さんを婆ちゃんと呼んでいる。

婆ちゃんは、仲居の仕事をわたしに叩き込んでくれた。

透にも婆ちゃんは仲居の仕事を叩き込んでくれた。




「先代が体調を壊したことがあってな。」

爺ちゃんが、高校生になったわたしに話をしてくれた。

二人で深夜の風呂掃除をしながらだった。

「そのとき先代の奥さんは、たまたま長期の海外旅行の予定があったんじゃよ。」

「それまでは旅館の仕事で旅行もままならない生活だったしな。」

「やりくりして、ようやく行けることになっていて、先代の奥さんは楽しみにしていたんじゃよ。」

「で、先代のことは、たいしたことはないだろうと考えてな、奥さんは予定通りに出掛けた。」

「先代も単なる腹痛じゃと考えていたからの、行ってきたら良いと奥さんを快く送り出した。」

「だけど、先代は腹膜炎じゃった。」

「病院に行くのが、もう少し遅かったら、あの世行きじゃ。」

「先代の様子がおかしいのに気が付いたのが、姉さんでな。」

「夜中に救急車を呼ぼうとしたんじゃ。」

「じゃけど、旅館に救急車を呼んではならんと先代が言ってな。」

食中毒などの風評を気にした先代は、自分の一大事にも関わらず、救急車を呼ばさなかった。

「仕方なく、タクシーを呼んで病院に行った。」

即入院で即手術だったそうだ。

御蔭でギリギリ命は助かった。

だけど、旅館には主人も奥さんもいない状況になった。

それで一時のことだったけど、八重お祖母ちゃんが旅館を取り仕切ることになった。

八重お祖母ちゃんは長く勤めていたこともあって、そのとき既に立場は仲居頭の筆頭になっていた。

無茶苦茶になりそうだった旅館を纏めたそうだ。

そして医者の言葉を振り切ったお祖父さんが無理やり退院してきて何とか旅館の体面を整えた。

二人で旦那と女将代行を演じていたらしい。

お祖父さんの奥さんは、連絡を受けてもお祖父さんが無事だと分かると旅行を続けたそうだ。

「奥さんが居ない間の先代の世話をしたのが姉さんだった。」

「まあ、その結果、生まれたのが当代だよな。」

爺ちゃんは、枯れたような笑いをしていた。

わたしは思いもかけず、お父さんが生まれた経緯を聞くことが出来た。

「お父さんに、その話はしてないの?」

「しとらんよ。里子もするなよ。姉さんと先代が、墓場まで黙ってもって行ってくれと二人して言っていたからな。」

わたしにはしゃべってしまった爺ちゃんが口止めをしてきた。

でも八重お祖母ちゃんとお祖父さんが、少なくとも愛し合っていたような気がしてわたしはほっとした。

自分の夫が病気で入院しているのに、旅行を続けたお祖父さんの奥さんの行動は、どうなのだろうか。

そのときに、どんな状況で、どんな事情があったのかは分からないから一概には言えないだろう。

でも、奥さんが旅行を切り上げて帰ってきていれば、お父さんは生まれてこなかったのじゃないだろうか。

当然、わたしもこの世に存在してなかっただろう。


言ってみればお父さんが出来た原因の一つが、お祖父さんの奥さんの旅行になる。

ひょっとして夫であるお祖父さんが病気なのに旅行をしていた後ろめたさが、奥さんにはあったのかも知れない。

だから、お父さんが産まれてくるのを、奥さんは許したのかも知れない。

それとお祖父さんの奥さんは、お父さんを産んだ八重お祖母ちゃんを旅館から追い出したりはしなかった。

仕事も続けるのを邪魔したりはしなかった。

どこかで、母親である八重お祖母ちゃんがお父さんの近くに居ることを認めていたのかもしれない。

お祖父さんの奥さんとほとんど話をすることはなかったから、何を思って何を考えていたのかは、わたしには永遠に分からない。

でも、お祖父さんとお祖父さんの奥さんは、お父さんとお母さん、それに八重お祖母ちゃんとの人間関係が上手くいかなかった。

ただ、わたしは、まだ分からないけど、どこかに正解があったのじゃないかと思っている。

八重お祖母ちゃん、爺ちゃん、ひい爺ちゃんの再婚相手さんの話を聞く限り不可能なことじゃなかったと思う。

もし同じような問題が起きることがあったら、わたしは誰も傷つかないような答えを見つけたいと思う。




八重お祖母ちゃんは、両親に代わって小さい頃のわたしの面倒を見てくれた。

いろいろなことを教えてくれた。

だから、わたしの考え方、行動原理に、八重お祖母ちゃんは大きな影響を与えていると思う。

わたしは、困っている人を見捨てることは出来ないし、助けた人は最後まで面倒を見るのが当然と考えている。

自分を犠牲にしても、相手が喜んでくれたら、それは自分の幸せと感じることが出来る。

そして、八重お祖母ちゃんが大切にした旅館を、わたしも大切にしたいと思った。

うちには娘二人、わたしと妹しかいないから、どちらかが婿取りをする必要があるだろう。

なら、わたしが婿取りをして旅館を継いでいきたいと高校時代には決意していた。

そうすれば、お父さんとお母さんも喜んでくれるだろう。

八重お祖母ちゃんも喜んでくれると思いたい。




高校3年になって進路を考えていたときだ。

わたしは家の近くの大学を受験するつもりだった。

「里子は何処の大学を受験するんだ?」

「ここから一番近い大学に行くつもりよ。」

「里子、都会の大学に興味はないか。」

「都会の大学?」

「そうだ。」

「この近くにある大学じゃなくて。」

「ああ、世界は広い。いろいろなものを見て経験をすることは悪いことじゃない。」

お父さんが、都会の大学に行くことを勧めてきた。

「なんで?」

「里子は、旅館を継いでくれると言っているよな。」

「うん、里子が継ぐよ。」

「ありがとうな。」

「どういたしまして。」

「それでな、近くの大学に行ったら、そのまま旅館の仕事をするつもりだろう。」

「そうだよ。」

わたしは、中学時代からちょこちょこ旅館の手伝いをしていた。

当然高校になっても続けていた。

大学に入ったら本格的に手伝うつもりだった。

「でもな、一時期、旅館とは離れて違う世界の経験を積むのは悪くないぞ。」

「そうかなあ。」

「ああ、父さんも大学で色々な体験をしたし、色んな人にも出会った。」

お父さんは昔を思い出しているようだった。

「そのことは、直接じゃなくても今に生きていると思う。」

そんな話の結果、わたしは都会の大学に進学することになった。

「好きな人を見つけるのでもいいからな。」

お父さんとお母さんは幼馴染だ。

わたしは、幼馴染に女の子はいるけど、男の子はいない。

だからお父さんやお母さんみたいに幼馴染と結婚するということは出来ない。

それに、これまで好きな人は出来たことはあるけれど、恋人は出来なかった。

だからだろうか、お父さんは恋愛も勧めてきていた。

「まあ、恋人は出来たらね。出来なかったら、見合いで良いと思っているからね。」

でも、わたしは見合いのほうが旅館には良いかも知れないと漠然と思ってしまっていた。

お祖父さんの考えを受け継いだわけじゃないけど、好きな人が居ない状態なら、見合いも悪いことじゃないだろう。




都会の大学にいくことにしたけど、何を勉強するかは少し考えた。

無目的で大学に行っても、意味はない。

旅館に関すること以外で目的を見つける必要があった。


わたしは昔から動物が好きだった。

だけど旅館で食べ物を扱うので、動物を飼うことは禁じられていた。

だから、友達が犬や猫を飼っているのをみて羨ましかった。

それで大学は生物の環境管理を勉強する学部を選んだ。

大学生活は楽しかったし、友達も沢山出来たけど、残念ながら恋人は作れなかった。

どうしても結婚相手は旅館の跡継ぎという考えが頭にあって難しかった。

そこそこまで仲良くなっても、それ以上は踏み込めなかった。


無事に卒業した後は、動物を扱うペットショップに勤めた。

まだしばらく好きなことをしたらいいと、お父さんとお母さんに言われていた。

そして透と出会い、一度は別れようとしたけど、最後には固く結ばれた。




透と結婚して旅館の隣にある実家で一緒に生活するようになった。

大学に通いながら、透は跡継ぎ修行を開始してくれた。

修行をしながら旅館のなかで透は色々活躍をしてくれた。

透が理由で、旅館に泊まりにきてくれる人達も少しずつだけど増えてきている。


わたしは、透のプロポーズを受けたあとから、実家に戻って若女将として修行をしていた。

お母さんからは、仲居としての仕事は中学から高校時代に散々やったから、もう要らないでしょと言われて、女将としての仕事を教えられた。

仕事は大変だったけど、透と一緒に仕事をするのは楽しかった。

そして夏になって、透は世界戦に旅立った。




透が旅立ってから、遠い異国の地でどうしているだろうと、いつも気になっていた。

毎日連絡するのも透の邪魔をすることになる。

自分も仕事をしているから、暇なわけでもない。

時差もあるし、連絡するのも、なかなかタイミングが難しかった。


でも、そのときに運命の電話が掛かってきた。

「里子、お願いと頼みと許しが欲しい。」

それを聞いて心臓が飛び上がる思いがした。

わたしは、透が怪我でもして走れなくなったのかと思った。

不安と焦りでどうしようかと思った。

いますぐ透のところに駆け付けなければと思った。

でもそうじゃなかったから、それはよかった。


で、告げられた言葉の内容は一大事なことだった。

「白血病で生死の境目に立っている奴がいる。」

「骨髄移植をして、そいつを助けたい。」

助けを必要としているのは汐里さんだった。

透の幼馴染で、透の初恋の相手で、透が告白して振られた相手。

透は骨髄移植で、その汐里さんを助けたいと言った。

型が一致しているので、透は汐里さんを助けることが出来る。

透は、汐里さんを見殺しには出来ないといった。


そのときに、わたしは悟った。

透の心のうちのどこかに汐里さんとの繋がりが残っている。

でも、それは悪いことじゃない。

透は汐里さんに振られてから、それまでの繋がりを全て断ち切ってしまった。

当時の透には、余裕がなかったら、そうするしかなかったのだろう。

だけど、時間が経った今は違う。


「透は汐里さんのことを大事に思っているんだね。」

わたしの問いかけに、透は強く否定した。

「一番大事なのは里子だ。」

一番大事なのはわたしだと言ってくれた。

だけど、そういう意味じゃない。

わたしの顔には自然に笑みが浮んだ。

わたしには分かる。

透は、汐里さんに振られた。

吹っ切れて、わたしに全力で向かってくれた。

そのことは、わたしの幸せだ。


でも口で何と言っても、昔の思いが心の奥底には残っていることを認めたらいい。

とくに男の人ってそういうところがあると聞いたことがある。

もちろん透自身が自覚しているわけじゃないだろうし、わたしを愛してくれていることを疑う余地もない。

ただ、この機会は透が失ったものを取り戻すチャンスだ。

透が過去に手放した汐里さんの手を、もう一度掴むことが出来る。

大袈裟かもしれないけど、そうしてあげないと、透が不幸なままになる。

骨髄移植は、人として間違ったことをしようとしているわけでもない。

困っている人を助けるのは、わたしの本望でもある。

それに、わたし自身は、金メダルがどうしても欲しいわけじゃない。

透が金メダルを手に入れたら誇らしいけど、別に手にいれなくても透はわたしの一番大事な旦那様だ。

そして、わたしは、筋違いかも知れないけど、このことで、これまで感じてきた、透に対して申し訳なく思っていたことが、晴らせるような気がした。


タイトな時間繰りをして、透は帰国してきた。

帰国手段にはチャーターした飛行機を使った。

そして密かに骨髄を提供して、すぐに世界戦に戻っていった。

安静を拒否した透のことが心配で本当は引き留めたかった。

だけど、金メダルを獲りに行こうとしている透を止めるのも違うと思った。

透がやりたいように、したいようにさせてあげたかった。

金メダルが獲れるのなら取ったほうが良いと思ったのも事実だ。

だから、わたしのすることは無事を祈ることだけだった。


でもテレビで血を流す透を見た時、止めれば良かったと心から後悔した。

ただただ透のことが心配だったけど、心の反対側では頑張って欲しいとも思っていた。

わたしは金メダルがどうしても欲しいわけじゃなかった。

けれども、汐里さんを助けて金メダルが獲れなかったらのなら、わたしの存在が軽くなるような気がした。

妻としての意地だろうか、わたし自身、自分でもよく分からない感情だった。

ひょっとしたら汐里さんに対する嫉妬だろうか。

わたしが一番大事だと言ってくれた透から、金メダルをプレゼントして欲しくなった。


トップでゴールテープを切った透は、最高に輝いて見えた。

金メダルと共に帰ってきた透は、間違いなく、わたしの一番大事な透だった。

わたしは生きている透を黙って抱きしめた。

透は、わたしの首に金メダルを掛けて抱きしめてくれた。

わたしは幸せだった。




しばらくしてから、汐里さんが、白血病が治ったと御礼を言いに来た。

旅館にお客さんとして泊まりにきた。

最初わたしに御礼を言う汐里さんの言葉が理解できなかった。

だけど、聞いてみれば、透のやることを認めたことに対する御礼だった。

透がしたいことをして透が幸せなら、それはわたしの幸せになる。

だから透が骨髄提供をして汐里さんが助かったのだから良かった。


汐里さんを入れて、3人で御飯を食べた。

むかしの透のことを、汐里さんは沢山知っていた。

わたしの知らない時代の透だ。

透は汐里さんと共有していた時間がある。

そして話をしているうちに離れていた透と汐里さんの二人の距離は、昔の距離に戻っていた。


3人でお風呂に入ったとき、汐里さんの体を見て、病気をするということの意味を理解した。

まさしく汐里さんは死線を潜り抜けてきたのだ。

そして透は汐里さんを死の咢から間一髪救い出した。

さらに透自身も金メダルを諦めなかった。

まさしく全てが奇跡のなせるわざだろう。

でも透に抱き着く汐里に、わたしは負ける気も完全に譲る気もなかった。


お風呂のあとに汐里と話をした。

思った通りに、汐里は透のことが好きだった。

自覚していてはいなかったのだろうけど、むかしから汐里は透のことが好きだったのだろう。

ちょっとした運命のいたずらで、わたしが透の妻になった。

その事実は変わらない。

変えるつもりもない。

だけど、わたしは汐里に透を諦めさせようとは思わなかった。

だから、わたしは汐里に諦める必要はないと言った。

汐里は驚いていた。

でも、それは、わたしの本心からだった。

汐里との繋がりが続くことが透の幸せになるのなら、それはわたしの幸せだ。




家に帰った汐里から連絡があった。

「スポーツ入学した大学に居る意味がなくなってやめようと思うんです。」

汐里が走れなくなったから大学を辞めると言ってきた。

だけど、辞めたあとに、どうしたらいいかわからないそうだ。

口調からは本当に悩んで困っているのが分かったけど、わたしに連絡をしてきた時点で、うちの旅館に来たいのだろうと思った。

なんか可愛いく思えてきた汐里に、悪戯っぽく聞いてしまった。

「どうして、わたしに相談するの。わたしは、汐里の好きな男、透の奥さんだよ。」

そうしたら汐里は負けじと返事をしてきた。

「だからです。」


それで、うちの旅館で働くように誘った。

「わたしは若女将で、汐里は一従業員。それでも良かったら歓迎するわよ。」

汐里は喜んで働きたいと言ってきた。

でも、そのあと汐里に言われた言葉は、かなりショックだった。

「病気のせいで子供が産めないかも知れないんです。」

病気というものの影響の恐ろしさを実感した。

汐里の受けた精神的ダメージは計り知れなかった。

ただ可能性の問題なのだし、不可能を可能にしたらいいと、わたしは普通に思った。

「温泉で養生して身体を直して元気になれば、成功の確率も上がるかも知れないわよ。」

汐里には元気になって欲しい、それも、わたしの本音だった。


けれども一方で、子供が出来ない汐里なら透の傍に居ても問題はないと考えたと言ったら、わたしは冷徹だろうか。

お父さんのことで揉めた、お祖父さんと奥さん、八重お祖母ちゃんのことが頭を過ぎったのは否定しない。


他方で一緒になることを諦めなかったお父さんとお母さんの姿が、透と汐里に被ったのも否定はしない。

それにわたしは、汐里となら上手くやっていけるような根拠のない自信があった。

汐里は気配りが出来る娘だ。

わたしが透を失いたくないのと同じで、汐里も透を失いたくないだろう。

それなら、お互いが気を付ければ破滅的な結果には至らないのではないだろうか。


もし汐里が、ずっと透の傍にいることがあっても、お祖父さんの奥さんみたいには絶対にならない、なりたくない。

それに命を助けたのなら最後まで面倒を見る、どんな状況になろうとも途中で投げ出したり諦めたりしてはいけない。

八重お祖母ちゃんから教わった、わたしの座右の銘だ。

わたしは自分の人生に誇りを持って生きていきたい。


誤字脱字、文脈不整合等があれば御指摘下さい。


里子は、現代に産まれ育っていますが、家を中心とした少し古い価値観を重んじているところもあります。

旅館の跡継ぎといった部分は、まさしくその価値観を具現したところです。

そして本家の跡継ぎは、分家の面倒を全てみる義務があるといった感覚もあります。

反面分家は本家に従うという、武家一族の集団のようなものです。

核家族となった現代には失われた部分が多いですが、地域によっては一部残っていると思います。


里子に取って汐里は守る対象であって、汐里は里子に従うものというところでしょうか。

その部分は、お祖父さんの奥さんの考えと通じるものがあると思います。

ただ奥さんと里子のやり方自体は違っていますし、それを受け入れられるものかどうかは、人によって違うかも知れません。

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