対流の章
<流の章を中心とした汐里視点です>
「汐里どうしたの、どこか痛いの、気分が悪いの。何があったの。」
わたしを心配してくれるお母さんの声が耳の傍で聞こえている。
だが、わたしの眼からは涙が流れて止まらない。
わたしの口からは嗚咽の声が漏れてくる。
気が付いてなかった、本当にこんな単純なことに気が付いてなかった。
世の中、そんな都合のよい話がいくつもあるはずはない。
わたしは自分の記憶と現実の融合が遅すぎて情けなかった。
眼の前のテレビには、マラソンのリアルタイムの実況中継が映し出されている。
遠い異国の地で開催されている夏の世界イベントだ。
走っている選手は、各国の選りすぐりのアスリートばかりだ。
世界の頂点を目指す熾烈な争い。
そして画面に大きく映っているのは、トップを走る日本の代表選手だ。
その選手は日本国中から金メダルを期待されている
だが、その選手の体は右に左にブレ、地面を蹴る脚もタイミングがバラバラだ。
誰の眼にも失調していることが明らかだ。
原因ははっきりしている。
腰から脚に流れる赤い血が雄弁に物語っている。
ドクターストップが掛かってもおかしくない。
しかし血が流れていることが分かっても、血が流れる理由まで理解出来る人は少ないだろう。
わたしはその少ない人間のうちの一人だ。
理解出来るというより、思い知らされたと言ったほうが正しいだろう。
血が流れているのは、わたしのせいだ、わたしが原因だ、わたしの責任だ。
血を流しながらも必死に走っている選手を、わたしは良く知っている。
いや知っていたというべきだろう、今の彼のことはほとんど知らない。
むかしは知らないことはないと言うほど、彼のことなら何でも知っていた。
好きな食べ物、好きなマンガ、好きなアイドル、そして好きな女の子。
だけどある日を境に彼との繋がりは切れてしまった。
切ったのは彼かも知れないけど、切らせたのはわたしなのかも知れない。
いずれにせよ、遠い異国にいる彼との心の距離は、今は遙か遠い。
「看護師さんを呼んでくるわ。先生にも来て貰うから。」
お母さんは、わたしが泣いているのは、体調が悪いからだと思っている。
わたしの様子に激しく動揺して、看護師さんや先生を呼ぼうとしている。
だが、わたしが泣いている理由はそんなことじゃない。
「大丈夫。身体はどうもないから。心配しないで、お母さん。」
泣きながら言うわたしの言葉に、お母さんはどうしていいか分からないようだった。
でも、わたしは泣きながらテレビの画面を見つめ続けた。
血を流している選手、川村透は日本で最も有名なアスリートの一人だろう。
陸上界に彗星の如く現れ、去年12月に開催されたマラソン大会で優勝した。
優勝したことで、今年の夏の世界イベントのマラソン出場権を獲得した。
それまで全く無名だった透の名前は、たった一度の優勝で日本中に知れ渡った。
出場権獲得を目指した理由が、奥さんにプロポーズを受けてもらうためだったことは、いまではあまりにも有名な話だ。
世紀のラブロマンスと持て囃された。
透の奥さんや奥さんの実家の旅館のことも、週刊誌なんかで何回も取り上げられてきたから、誰でも知っている。
旅館は縁結びの聖地として人気になり、宿泊客が沢山増えたらしい。
マラソンで世界の頂点を獲ることを奥さんに誓約したと書かれているものもあった。
それが真実かどうかは、わたしには分からないし、確かめる術もない。
だけど、透が奥さんの里子さんと結ばれるために、ある時期から生活のすべてを注ぎ込んで、走ることだけに人生を賭けてきたことは事実だ。
マラソンで勝つために透が選んだのは、独特の理論に裏付けされたトレーニング方法と勝利の方程式だった。
それは、とある大学の陸上部のコーチ陣が編み出したものだ。
栄養療法に身体管理、練習方法から走法まで、これまで定石と言われていたものとは一線を画する異色の理論だった。
そもそも一定のラップタイムを全行程で維持するなど人間のやる技ではない。
そしてラップタイムを1秒ずつ縮めることで記録を伸ばすという手法。
言葉で言うのは簡単でも、実現するのは至難だった。
しかも勝者となるものが産まれないことで、否定されつつあった理論だった。
それが透の優勝で一躍脚光を浴びた。
今回の世界イベントはその理論が世界に通用することを証明する最大のチャンスだろう。
理論の正しさを万人に認めてもらうことは、コーチ陣の悲願に違いない。
だが、負ければ全てが御破算になる。
わたしが透と出会ったのは、小学校のことだった。
席替えで席が隣になったことが切っ掛けで話をするようになった。
「これからよろしく。わたしは大西汐里よ。名前くらい知っていてくれているよね。」
「うん、まあ。」
透は引込み思案で口数も少なく大人しい性格だった。
対照的に、わたしは活動的で口が達者だった。
透は体が小柄で力も強くはなかった。
わたしも体が大きいというわけではなかったけど、透よりは背が高かった。
透は休み時間も教室で本を読んだり友達と話をしていることが多かった。
外で遊ぶということはあまりなかった。
逆にわたしは休み時間は外で遊ぶのが基本だった。
「ねえ、何の本を読んでいるの?」
透が読んでいる本が気になってわたしは訊いた。
「え、なんでもないよ。」
「それ答えになってないじゃないの。」
会話といっても基本的にわたしから話しかけて透に答えて貰うというパターンだった。
透の反応は薄く、わたしとあまり関わりたくないようだった。
だけど、わたしは折角隣の席になったのだからとしつこく透に話しかけていた。
透に振り向いて貰いたくて、意地になっていたのかも知れない。
それで、少しずつ打ち解けて話が出来るようにはなっていった。
「昨日のテレビでやっていた映画はみた?」
「うん、見たよ。」
「わたし、あの主人公が素敵で凄く気に入ったんだ。透は誰が気に入った?」
「僕は、敵役で出ていた運転手がカッコよかった。」
ただ残念なことに、趣味というか、好みはあまり合ってなかったと思う。
外で遊ぼうとわたしが透を誘うこともあった。
「天気もいいし、外でドッチボールしようよ。」
「いや、いいよ。僕は教室で本を読んでいるよ。」
「そんな、不健康なことを言っていたらダメ。さあ、行くよ。」
しぶる透をわたしは無理矢理連れ出した。
わたしは透に口で負けたことはなかった。
いつも、ささいなことでも透を言い負かしていた。
でも、わたしは楽しかったし、透も楽しんでいるものだと思っていた。
わたしは言い争いすらコミュニケーションの手段になっていたと思う。
わたしは放課後や休みの日も男女含めて数人の友達で遊ぶことが多かった。
透と話をするようになってからは、透も誘うようになった。
「ねえ、こんどは公園に遊びに行こう。」
「ええ、暑いし、外は大変だし。」
「なにをお爺さんみたいなことを言っているのよ。明日の10時集合ね。約束よ。」
透は家の中で遊ぶのを好んだけど、わたしは透を外に引き摺り廻していた。
透はわたしの提案を拒むことはなかったから、わたしは透が嫌がっているとは思ってなかった。
考えてみたら透はわたしに逆らえなかっただけかも知れない。
そう言えば、小学校時代にこういうこともあった。
「お風呂入れて。」
わたしの頼みに透はびっくりしていた。
「なんで。家の風呂はどうしたんだい。」
そのとき、わたしの家のお風呂は空焚きが原因で使えなくなっていた。
だけど夏場の暑い時期に、お風呂なしは、わたしには耐えられなかった。
だから仲が良くなったと思っていた透の家に風呂を借りに行った。
なんで透の家を選んだのかは分からない。
ただ借りただけでなくて、透と一緒にお風呂にはいった。
「別々だったら、お湯が倍必要になるでしょ。」
今から考えたら意味不明の理由だ。
一緒に入ろうが、別々に入ろうが、シャワーで使うお湯の量は変わらなかっただろう。
しかし引っ込み思案で弱気だった透は、特に文句を言うこともなかった。
それで、わたしの家のお風呂の修理が終わるまで一週間の間、透と一緒にお風呂に入っていた。
わたしは体を動かすのが好きだったけど、走るのも速かった。
体育会のリレー選手にはわたしは必ず選ばれていた。
それに対して、透は走るのはあまり速くなかった。
当然のことながら体育の50m走で、わたしは透に負けたことはなかった。
勝つのが面白くてなんども透に勝負を挑んでは勝利していた。
走るだけでなく、他の体育の競技でも透には勝ち続けた。
だけど一つだけ透に勝てないものがあった。
わたし達の小学校は冬にはグラウンドが凍ることが多かった。
グラウンドが凍ると体育は校外マラソンに変更された。
わたしはマラソンが苦手だったけど、意外なことに透は得意だった。
「なんで、速くは走れないのに、早く走れるのよ。」
「知らないよ。ゆっくりと時間を掛けて走るのは苦にならないんだ。」
唯一マラソンだけは、わたしは透に勝てなかった。
その透が中学生になると陸上部に入った。
「なんで、いきなり運動部に入るのよ。しかも陸上部。あんたは運動が好きじゃないし、走るのは速くないでしょ。」
「そうだよ、でもじっくりと走るのは苦手じゃないからね。」
透が陸上部に入ったことで、わたしも陸上部に入った。
理由は自分でも分からなかったけど、透には負けたくなかった。
ただ同じ陸上部に入っても、わたしの適性は短距離で、中距離すらきつかった。
それに対して透の適性は長距離だった。
でも中学では3000mが最長で、透は成績が残せなかった。
透はもっと長い距離が向いていた。
部活の顧問には、高校になったら5000mをするように勧められていた。
なのに、わたしは、そんな透に短距離で勝負を挑んでいた。
「透、100mで勝負しよ。」
「え、なんで、そんな勝負をしないとだめなんだよ。」
そもそも本来的に男女で勝負する必要などない。
体格も違ってきているのに勝敗の意味もない。
更には長距離選手に短距離で勝負を挑むなど無茶だ。
だけど、わたしは、透に何度も何度も勝負を挑んだ。
透は、勝負を断ることはなかったけれど、勝敗はわたしの圧勝だった。
わたしは、それで透と交友を持っているつもりだった。
中学を卒業して同じ高校に入学した直後に、透は分かりにくい告白をわたしにしてきた。
買い物に付き合うものだと思ったら、恋の告白だった。
正直ちゃんと理解するまでに時間が必要だった。
でも突然のことで、わたしが断ったら、1回だけの告白で、いとも簡単に諦められた。
そんな簡単に諦められるとは思ってもみなかった。
もちろんわたしは透が好きだったわけではないけど、嫌いだったわけでもない。
ただ、わたしは漠然とだけど、恋人にするなら自分より背が高い人がいいと思っていたのがある。
当時の透はわたしより少し低いくらいの身長だった。
でも中学時代からの流れで、あのまま距離が近づいていたら好きになる可能性はあったかも知れない。
だけど距離は遠ざかってしまった。
高校に入学した頃には、わたしは、透のことは親友だと思っていた。
遊ぶのでも陸上をするのでも何をするのでも一緒に出来る仲間だと思っていた。
だから、告白を断っても、付き合いは続くと思っていた。
だけど、透にとっては違ったらしい。
透があっさりと離れて行ったのは、わたしには信じられない思いだった。
これまで、わたしと関わりなく別行動することがなかった透に、わたし自身がどうして良いか分からなかったのも事実だ。
一緒に頑張ろうと約束していた陸上部にも透は入部しなかった。
仲間が理由を聞くと、透は走るのに向いていない興味を失ったと答えた。
それでも一度、わたしは、朝にランニングしている透を見かけた。
透は走るのを止めたんじゃなかったんだと、正直嬉しかった。
だからわたしは透に声を掛けた。
「走っているじゃないの。」
そして、告白のことや、わたしを避けていることについても理由を聞いた。
責めているつもりじゃなかった。
だけど透は何も言わずに消えて二度と走る姿は見なくなった。
わたしはどうしてか追いかけることが出来なかった。
わたしは弱気な透は嫌だった。
でも、どこかでわたしは期待していたのかも知れない。
強く言えば、反発してもう一度わたしに向かってくれるんじゃないかと。
これまで、強く言っても透は逃げたりはしなかった。
だけど透は、陸上だけじゃなくて、わたしと仲間とも完全に袂を別った。
どうしようもなく寂しかったけど、仕方なくわたしは透のことは忘れるようにした。
透は陸上部に入らなかった分、勉強は頑張っていたようだった。
毎回テストの成績上位者が廊下に張り出されていたけど、透は常にトップ10に入っていた。
透もやれば出来るんだと、わたしは感心していた。
でも、そのうちに通学路にあったビリヤード場でバイトを始めたようだった。
ビリヤード場でバイトを始めた透は学校で笑顔を見せるようになっていた。
でも相変わらず、学校では、陸上部の仲間、中学時代からの知り合いとの付き合いはなかった。
それ以外で友達を作り、楽しそうに話をしていた。
わたしは心のうちでモヤモヤしたものを抱きながらも、透に話しかけることはなかった。
高校二年の時に彼氏と一緒にいるときに街で透に出会った。
そのとき一つ年上の陸上部の先輩が彼氏だった。
先輩に告白されて付き合うようになっていた。
先輩はわたしより身長が高く、顔はそこそこ整っていた。
透に出会ったとき、わたしは、思わず透から顔を背けていた。
理由は、自分がどんな顔をしているか分からず、透に顔を見られたくなかったからだ。
次の日に、登校中に透を見つけて、声を掛けた。
「一度の告白だけで諦めるなんて、わたしを完全に避けて逃げるなんて男として最低だよ。」
かなりきつく詰ったけど、透は何も言い返してこなかった。
何か言い返してきてくれたら、言い争いも出来たのに、透は黙って逃げて行った。
結局、それからも透との付き合いはまったくなかった。
道ですれ違っても挨拶はもちろん眼も合わしてもこなかった。
完全に関係は切れていた。
噂ではビリヤード場で知り合った彼女と楽しく過ごしているらしかった。
わたしが高校三年になって、彼氏の先輩は大学生になった。
夏になったときに、別れを告げられた。
「ごめん。他に好きな人が出来たんだ。ごめん。」
先輩から他に好きな女性が出来たと言われた。
わたしは悲しくても誰にも悩みを相談することは出来なかった。
当然、彼女しか眼中にない透に話をすることなんか出来るわけもなかった。
でも、その時は知る由もなかったけど、同じ頃に透も彼女との別れ話が持ち上がっていたらしかった。
その透が冬の12月のマラソン大会でゴールテープをトップで切った。
世界イベントの出場者の選考会を兼ねた大会のことだった。
その透の姿をテレビで見たわたしは眼を疑った。
陸上を捨てたはずの透がマラソンで優勝しているのが信じられなかった。
確かに夏から冬までの透の様子は変だった。
テストの成績もトップ10に載らなくなっていた。
ひょっとして彼女に振られて自棄になっているんじゃないかと密かに心配をしてもいた。
ただ透の眼つきは鋭く、体つきも妙に筋肉質になっていたようだった。
まさかマラソンを再開していたとは思っても見なかった。
でも、かつて自分に告白してきた透が、別の女性のために身命を掛けて勝負に挑んだことを知ったわたしは、羨ましさを通り越して妬みたくなる心境になった。
彼氏だった先輩と別れて独りだったのも影響したのかもしれない。
自分勝手かも知れないけど、わたしのことは、あっさりと諦めたくせに、なんで別の女性のためにはそこまで頑張れたのよと悔しかった。
だけど、年が明けて学校で見かけた透にわたしは何も言えなかった。
透を振ったわたしには、何かを言う資格があるとは思わなかった。
そのまま卒業になり、本当の別れ別れになった。
透は大学のスポーツ推薦を高校から言われていたが歯牙にも掛けなかった。
透は奥さんの旅館の近くの大学へ進学した。
わたしは、陸上のスポーツ推薦で別の大学へ進学した。
「汐里、頑張ろうな。」
中学からの付き合いの真二は同じ大学のスポーツ推薦を受けていた。
他にも数人、スポーツ推薦で同じ大学に入学した仲間が居た。
中学から高校のときと同じように、わたし達は大学でも陸上部に入部した。
陸上漬けの大学生活の始まりだった。
体に異変を感じたのは、5月の連休前だった。
「なんかしんどいなあ。だるいし熱もあるような感じ。」
「大丈夫、他に症状はないの。」
「そうね、おしっこをするときに痛いかな。」
「膀胱炎かしら。そんなんだったら、病院に行ってきたらどう?」
お母さんに言われて、わたしは近くの病院を受診した。
その時は、風邪でも引いたんかなと軽く思っていた。
「ちょっと検査でもしてみましょうか。」
病院の先生は気軽に血液検査と尿検査を勧めてきた。
勧められるままに検査を受けて結果を待合室で待っていた。
そしたら血相を変えた看護師さんが呼びに来た。
「大西汐里さんってあなたかしら。」
「そうです。わたしです。」
「先生から話があるから診察室に入って頂戴。」
看護師さんに引っ張られるようにして、診察室に入ったら先生に言われた。
「紹介状を書くから、いまから直ちに総合病院へ行ってください。」
いきなりでびっくりして、わたしは尋ねた。
「どうしてですか。何があったんですか。」
「驚かずに聞いて欲しい。あなたは白血病の疑いがあります。それもかなり重症です。だから出来るだけ早く検査と治療を受けたほうがいい。」
「明日じゃだめですか。」
「だめです。いますぐ行ってください。」
「そんなこと言われても、家族もいませんし、詳しい説明もしてもらいたいです。」
「時間が勿体ないです。紹介状に詳細は書いておくから、向こうの病院でしっかりと検査を受けて治療を速やかにして貰って下さい。」
先生は、すぐに行きなさいと言うばかりだった。
仕方なくわたしはお母さんに連絡した。
「お母さん、なんかよく分からないけど、総合病院に行きなさいって言われた。」
「なんで、総合病院へ行かないとだめなの。そこの病院じゃだめなの。」
「うん、そうらしい。先生からは白血病の疑いがあるって言われた。」
わたしの言葉にお母さんはびっくりしたようだった。
「白血病ですって!?」
でも、わたしは白血病という病気は聞いたことはあっても、どんな病気かは全然わかっていなかった。
急いで病院に来てくれたお母さんと一緒に総合病院へ行った。
総合病院で診てくれた先生は紹介状を読んでわたしとお母さんに言った。
「今日から入院して治療を開始しましょう。」
突然のことで、わたしは心の準備が出来ていなかった。
だけど、逃げ出すことも出来ず、そのまま入院した。
入院の用意は、お母さんが家に帰って持ってきてくれた。
その日から点滴をされて治療を開始されたのにはびっくりだった。
昨日までは走り回っていたのに、今日からベットの上で絶対安静だった。
それ以来、わたしはずっと入院して治療を続けている。
一度も退院はもちろん外出も外泊もしていない。
出来る体調でも病状でもなかった。
治療はほんとうに辛かった。
「汐里さん、御飯食べられるかしら。」
「気分が悪くて、吐き気が強くて食べられません。」
薬の副作用は色々出たのに、効果はほとんど得られなかった。
食事も摂れないので、点滴が止まることはなかった。
「だめです。効果がありません。薬を変更して治療を行います。」
主治医の先生はいつも険しい顔をしていて、笑顔だったことはなかった。
真剣な表情で、検査結果と治療方針を次々と説明してくれた。
それだけ余裕がなくて切羽詰っているということだったのだろう。
わたしが突然白血病になって入院したことを知った大学の同級生はときどき見舞いにきてくれて励ましてくれた。
特に真二はよく見舞いにきてくれた。
治療方法はどんどん変更されたけど、薬の効果がまったく期待出来ず、最後は骨髄移植を選ぶ以外ないという状況になっていた。
幸いにも骨髄バンクに型が一致する人が登録してくれていて協力が得られるという話だった。
だけど何日かすると、型が一致しないかも知れないという凶報を、仲良くなっていた看護師さんから、わたしは手に入れていた。
その看護師さんとは入院した当日に出会った。
「大西汐里さんね。よろしくね。わたしが担当になります。」
「よろしくお願いします。」
「大西さんて、あの高校出身だよね。」
「ええ、そうです。」
「わたしもそうなのよ。」
「ええ、そうなんですか。奇遇です。」
「それに陸上部でしょ。わたしもそうだよ。」
なんと看護師さんは高校の先輩で陸上部の先輩だった。
学年は6つ上なので、同じ時期に高校にも陸上部にもいたことはないけど、共通の話題に事欠くことはなかった。
年が近かったこともあって、かなり仲良くしてもらって、色々な話をするようになっていた。
「治療は大変だけど、頑張ろうね。」
「はい、お願いします。」
「分からないことがあったら何でも聞いてね。」
先輩の看護師さんはやさしくて親切だった。
「これはどうしたらいいんですか。」
「ああ、それはこうしてくれたらいいよ。」
先輩の看護師さんには、ずいぶん助けてもらったし心強かった。
治療上のことでなくても病院内のことでも、分からないことは何でも教えてくれた。
先輩の看護師さんは競技は引退していたが、陸上に関心を持ち続けていた。
夏の世界イベントの出場者も詳しく知っていて、よくその話をしていた。
「マラソンに出る川村選手って、汐里の同級生でしょ。」
「ええ、そうですよ。」
「川村選手って高校のときは陸上部に所属していなかったんだよね。」
「ええ、そうですね。陸上部じゃなかったですね。」
「それなのに、マラソンで世界に挑戦するレベルに達したんだよね。すごいよね。」
「ええ、本当にそうですね。わたしも彼を尊敬しています。」
透のことを聞かれて、わたしは自然と尊敬していると答えていた。
自分でもそんなことを思っているとは思わなかった。
「彼は手に入れたいものを守るために全力を尽くした男ですしね。」
「それって奥さんのことよね。」
「ええ、そうです。」
「じゃあ、汐里も頑張らないとね。川村選手は奥さんのためにも金メダルを目指しているんだしね。」
わたしは透が頑張っている姿を見て、自分も頑張らなければと思った。
透に負けるわけにはいかない。
だけど透とむかしは仲が良かったとは先輩の看護師さんに言えなかった。
治療方針が骨髄移植に絞られてから、それに向けた準備が整えられていた。
だが先輩の看護師さんが教えてくれた情報が、わたしを不安にした。
「汐里、極秘情報だけど、骨髄バンクの情報を詳しく調べたら、汐里と型が一致しないかも知れないって話がチラっと耳に入った。だけど、先生は全力で一致する型の人を探してくれているっていう話だった。」
先輩の看護師さんは親切で教えてくれたんだろうと思う。
だけど、わたしは骨髄移植が出来るのか、自分が助かるのか、心配で不安だった。
それが、ある日を境に状況が全く変わった。
「先生、骨髄移植は可能なのでしょうか?」
「大丈夫。心配いらない。いまは移植に向けて体調を整えるのが一番大事だよ。」
「副作用や合併症は大丈夫でしょうか?」
「大丈夫。全く問題ないよ。心配いらないよ。」
先生が、「大丈夫。」としか言わなくなった。
それまで副作用や合併症の話を繰り返していたのに、「大丈夫。」の一点ばりだった。
わたしは疑問で仕方なかった。
わたしを安心させるために不安にさせないために言っているのかと思っていた。
だけどお母さんも大丈夫としか言わなかった。
「先生に任せて置いたら大丈夫よ。心配は要らないわよ、汐里。」
とうとう骨髄移植の日がやってきた。
それまでに大量の薬を投与されて準備していたから、日程を変更することも出来ない。
本当に移植が出来るのか心配だったけど、ちゃんと移植して貰えた。
「いまから点滴するからね。何かあったら直ぐに言ってね。まあまず何も起こらないけどね。」
言ってみれば余裕が感じられる位のやわらかい顔の先生の様子だった。
これまでの治療で険しい先生の顔しか見てこなかったわたしにはびっくりだった。
けれどもそれからどうなるのか、わたしは、もの凄く心配だった。
だけど実際、拒絶反応や言われていた合併症や副作用が全く出なかった。
わたしは助かったと思う反面、不思議でしかなかった。
夜に見回りに来てくれた先輩の看護師さんがぽろっと言った。
「さすが完全一致していると結果が全く違うのね。」
「いや、ひとり言。ごめん、忘れて頂戴、汐里。」
わたしは、何を言われたのか良くわからなかった。
たしか型が一致しないかもと言っていたのじゃなかっただろうか。
一致する人を探してくれているとは言っていたけど、完全一致なんて宝くじクラスだと言ってなかっただろうか。
先生はどんな方法で見つけてくれたんだろう。
テレビ画面で血を流す透を見たときに、過去がフラッシュバックした。
小学校で社会見学に行ったとき、あの研究者は言った。
「君たちは凄いね。将来、どっちかが白血病になって骨髄移植が必要になったら、片方から分けてもらうことが出来るよ。それも拒絶反応の可能性が低い、成功率の高い移植になるよ。」
型が一致することなど血縁でも難しく、一致率がどれくらい高いかで成功率が左右されると言われる移植だ。
ましてや他人で完全一致などまずは期待できない。
探しても見つかるはずもない。
だけど、わたしと型が完全一致する他人が、この世の中に一人いて、わたしは、その人を知っている。
そうだったんだ。
わたしに移植されたのは、あり得ない確率と言われる完全一致した透の骨髄だ。
拒絶反応や副作用や合併症が起こらないはずだ。
ただ、その代償に透は骨髄を採取した傷口から血を流している。
血を流しながら必死に走っている。
わたしは、今の今まで気が付いてなかった。
透は遠い異国の地から、はるばる一時帰国してくれた。
そして、わたしに骨髄を提供して、戦場にトンボ返りしたんだ。
背負っているものの大きさと重さが透を押しつぶそうとしている状況なのに。
これで負ければわたしの責任だ。
わたしを助けるために透はメダルを棒に振ったことになる。
わたしは奥さんに何て御詫びすればいいんだ。
コーチ陣の人たちはどんな思いでいるんだろう。
わたしはピクリとも出来ず息を殺して、テレビ画面にくぎ付けとなっていた。
わたしには時間の流れがゆっくりと感じられた。
画面に映る透は左右に揺れながらふらつきながらも着実に前進していた。
しぶとくトップを保ち続ける透には、何か執念のようなものが感じられた。
そして気温は、レースをするには過酷な温度に達していた。
だからだろうか、全体のペースはかなり落ちていた。
ハラハラしながら見ていたが、35kmを過ぎたあたりで状況が激変した。
透の顔が悟りを開いたようになっていた。
なにがあったのか、透の走りが見事に元に戻っていた。
かつて選考会で優勝候補筆頭を破って優勝した時の力強さがあった。
そして透はトップでゴールテープを切った。
その直後に糸が切れるように倒れ込んだ。
待ち構えていたコーチ陣がバスタオルを何枚も掛けて透を受け止めていた。
透は見事に金メダルを獲得した。
『透、おめでとう。そしてありがとう。』
口に出すことは出来ないから、わたしは心のうちでだけ言った。
眼からは涙が流れ続けていた。
わたしの口からは嗚咽の声が漏れ続けていた。
骨髄移植が成功したわたしは順調に回復した。
先輩の看護師さんも喜んでくれた。
「よかったね。治療成功だよ。汐里、元気になってきたよね。」
食事も食べられるようになって、落ちていた体力も回復してきていた。
「そろそろ退院できるよ。」
主治医の先生から、秋も深まった頃に言われた。
「ありがとうございます。先生の御蔭で生きて退院できます。」
「俺の力なんて、わずかなもんだよ。ほとんど君が頑張ったんだよ。」
だけど先生の口から透のことは出ない。
骨髄提供者の話は守秘義務が掛かっていて一切話はされない。
聞くことも御法度だから、わたしも聞くような野暮なことはしない。
でも、入院中わたしはずっと考えていた。
透がわたしに骨髄提供するには奥さんの里子さんの許しがあったはずだ。
そうでなければ提供はされなかっただろう。
それに透にとって、わたしの存在は、もはや何ものでもなかったはずだ。
逆にレースで負ければ、透は失うものが莫大だった。
それでも透はわたしの命を助けにきてくれた。
わたしは決心をしていた。
退院して旅行が出来るくらいの体調になったら里子さんに御礼を言いに行こう。
透にも御礼が言いたい。
だけど御礼を言うと言ってもどうしたらいいだろう。
そうだ、旅館に泊まりにいったらいいんだ。
里子さんは若女将さんとして修行していると週刊誌には書いてあった。
泊り客なら挨拶に来てくれるだろうから、その時に御礼が言える。
上手くいったら透にも会えて御礼が言えるだろう。
わたしは割と単純な考えのもと、里子さんのいる旅館に泊まるつもりだった。
退院後は、しばらく自宅で療養していた。
定期的に先生の外来受診をして検査は受けていた。
「先生、旅行とかは何時になったらいけるでしょうか。」
わたしの質問にお母さんが声を荒げた。
「何を言っているの、汐里。旅行なんてまだまだ無理にきまっているでしょ。ねえ、先生。」
だが先生は穏やかに笑っていた。
「そんなことはありませんよ。次の採血で問題がなければ、登山とか体力が必要なものじゃなければ大丈夫ですよ。」
「ありがとうございます。」
わたしは里子さんに会いにいける日が近づいたことが嬉しかった。
次の採血で問題はなかった。
「短期間の旅行なら問題ないですよ。」
「温泉の1泊2日とかいいですか。」
「問題ないですよ。」
先生の御墨付きが得られて堂々と旅行に行くことが出来ることになった。
それでもお母さんは心配そうだった。
一人で訪れた里子さんの旅館は、立派な建物だった。
わたしがこれまでに泊まったことのないレベルの旅館だった。
目の前の建物の威容に、気圧されるようだった。
玄関前に並ぶ従業員の方々に出迎えられ、部屋に案内された。
従業員の中に透が居ないかと思って探してみたけど、居なかった。
残念なような、ほっとした感じだった。
でも透にいきなり出会ったら話が出来たかどうかはわからない。
わたしの部屋に挨拶に来てくれたのは、背筋がピンと伸びた、いかにも旅館を背負っているという威厳のある壮年の女性だった。
残念ながら若女将さんではなく、女将さんだった。
わたしは、女将さんが挨拶と説明を終えて出て行こうとした時に呼び止めた。
「すみません。女将さんは、女将さんですよね。」
我ながら、理解不能な質問だったが、さすがに女将さんは普通に返答してくれた。
「若女将さんという方は、今日はお出でじゃないのでしょうか。」
若女将さんのことを尋ねたら、今日は休みということだった。
逆に知り合いかと尋ねられて、慌てて知り合いじゃないと否定したら、女将さんは不思議そうな顔をしていた。
確かに知り合いでもないのに、若女将のことを聞く客は不思議だろう。
だがここで怯んでいては、話が進まない。
「不躾なことを申し上げてすみませんが、若女将さんに御会いすることは出来ませんでしょうか。」
若女将に会いたいと頼むと、女将さんは少し驚いて理由を聞いてきた。
だがわたしは理由を言うのが躊躇われた。
若女将さんにとっては迷惑かも知れない、何とも思っていないのかも知れない。
いまさらながら、わたしは連絡もせずに来たことが無謀だと思えてきていた。
辛うじて御礼が言いたいのだと伝える事はできた。
だが更に御礼を言いたい理由を聞かれて答えることが出来なかった。
最終的に、透にも会いたいと言って、若女将さんに名前を伝えて会って貰えるかどうか尋ねてくれるように頼むのが精一杯だった。
だけど、女将さんからわたしの名前を聞いた若女将さんは、透と相談して返事をしてくれるという話だった。
女将さんから、返事を聞かされたわたしは、門前払いだけはされなかったことにほっとした。
そして若女将さんがわたしの名前を知っていた様子なのに何故か安堵した。
骨髄提供してくれたのは透で間違いないことが確認できた感じだった。
それは緊張の一瞬だった。
女将さんの案内で、里子さんと透が部屋にやってきてくれた。
わたしは、座布団から降りて、畳に正座をして頭を下げて挨拶をした。
「会ってくださり本当にありがとうございます。」
「いえいえ、そんな御礼を言われるようなことを、わたしは何もしていないと思うのですが。」
里子さんは穏やかに答えてくれた。
「里子さん、このたびは本当にありがとうございました。里子さんが、わたしに骨髄提供をすることを透に許して下さった御蔭で、わたしの治療は成功しました。」
わたしは里子さんにちゃんと御礼を伝える事が出来た。
里子さんは何もしてないと言われたが、十分してくれていた。
「透、ありがとう。」
透にも御礼が言えたし、透もわたしの存在を受け入れてくれた。
透には、どうして骨髄提供者が透と分かったのか聞かれたけど、テレビで血を流す透を見た、一致しないと言われていた型が完全一致だった、小学校の社会見学を思い出した、で分かったんだと説明して理解して貰えた。
穏やかな雰囲気のなか、女将さんの御厚意で、わたしは透と里子さんと夕食を頂くことが出来た。
「汐里さん、透の小さい頃ってどんな子だったんですか。」
里子さんが透の小さいころのことを尋ねてきた。
「そうですね、引込み思案だった透が、友達にそそのかされて、通学路の途中の家の柿を獲ったことがあるんですよ。」
「それが学校にバレて怒られてね。でも柿の木が生えていた当の家の人は、柿なんか獲る人はいなくなっているから好きなだけ獲ったらいいよって言ってくれたんですよ。」
むかしの透の悪事をバラしたら、透が笑って怒っていた。
「そそのかした友達って、お前だろうが。」
「ごめん、透。本気で獲るとは思ってなかった。」
「俺は悪い友達を持っていたもんだ。」
透はわたしのことを友達と言ってくれた。
「里子さん、透がいじめる。」
「透、女の子をいじめるんじゃありませんよ。」
「どうなったら、そういう話になるんだよ。」
実に楽しかったし、遠かった透との距離が無くなったようで嬉しかった。
美味しい御飯のあとはお風呂だった。
里子さんの御蔭で透と一緒に家族風呂に入ることも出来ることになった。
里子さんが透と仲直りもさせてくれた。
里子さんには感謝しても感謝しきれない。
ししおどしを備えた和風の岩風呂を見た時、わたしは、我知らず声を上げていた。
「うわあ、すごいお風呂。」
「結構、俺も頑張っているんだぜ。」
透が自分の仕事を自慢していた。
「透はいろいろとやってくれるからね。頼りになるよ。」
里子さんが誇らしげな口調で透をほめていた。
「透って、なんか奥さんの尻にしかれているような感じだよね。尻にしかれるというか、手のうちで転がされているというかな。」
わたしは、里子さんと透の関係って、昔のわたしと透の関係と似たような感じだよねと勝手に思っていた。
その後に、わたしの痩せた身体をみた透の視線が痛かった。
「そういう眼で見られると女の子は傷つくんだぞ。」
わたしは、少し泣きそうになりながら透に文句を言った。
そうしたら透は鶏がらのようなわたしを抱きしめてくれた。
少し恥ずかしかったけど、わたしも透の首に腕を廻して抱きついた。
その時に、透がわたしより背が高くなっていたことに気がついた。
身体的にも精神的にも、透ってわたしの理想の男になっていた。
なんか嬉しくなってそのまま透に抱きしめられていた。
その後に三人で入ったお風呂でも、わたしは嬉しくて透に抱きついていった。
透はわたしが密着してくるのを最初は戸惑っていた。
だけど、里子さんが据え膳喰わねばと言っていたからだろうか、ぎゅっと抱き寄せてくれた。
わたしは抱き寄せられて、大西汐里という存在そのものを透が引き寄せてくれたように思った。
透の傍に居ても許されるんだと思えた。
そして反対側では、里子さんがわたしに対抗するように透に抱きついていた。
透は里子さんも抱き寄せていた。
透の顔が緩んでいたんで、思わず言ってしまった。
「「このスケベ。」」
里子さんとハモったのは笑った。
里子さんは恩人でもあるけど同志だった。
家族風呂から上がった後で、里子さんと二人で話をした。
「里子さん、なんで透と結婚したのですか?」
「何を言っているのか、質問の意味が分からないわよ。」
里子さんは、柔らかく笑っていた。
「そのままの意味です。」
「好きだから、愛していたから、別れたくなかったから。透がプロポーズしてくれたから。」
里子さんは、これ以上ないというくらい幸せそうだった。
「悔しいです。羨ましいです。」
里子さんの答えを聞いたわたしは、羨望の眼差しだった。
「なら諦めなければいいんじゃないの?」
里子さんは、何を言っているのという顔だった。
「それは、どういう意味ですか?」
「文字通りの意味よ。」
わたしは思いもよらないことを言われて固まってしまった。
「透は諦めなかったわよ。」
続く里子さんの言葉に頭を殴られたような気がした。
わたしは唖然としながら里子さんを見つめていた。
でもその後に、思わず言ってしまっていた。
「じゃあ、わたしも諦めません。」
「それでいいわよ。透も喜ぶんじゃないかな。」
それを聞いた、わたしは逆に少し不安になった。
「透が喜ぶって、里子さんは、それでいいんですか?」
わたしは、恐る恐る聞いてみた。
「諦めるか諦めないかは、汐里の問題よ。わたしが、どうこう出来ることじゃない。それに透が幸せなら、わたしは幸せだからね。」
里子さんには絶対勝てないと思った瞬間だった。
透が、わたしではなく、里子さんを選んだ理由が目の前にあった。
里子さんと透の間に割り込むことは無理だ。
でも、里子さんから傍にいる許しは得たような気がした。
そのなかでささやかな自分の幼馴染のポジションを守りたい。
次の日は旅館から駅まで、透が車で送ってくれた。
帰る前に、また来ていいかと里子さんに聞いたら、どうぞと言われた。
なんか妻の余裕が感じられて素敵だった。
短い時間だけど、透の運転でドライブだと思うと楽しかった。
駅で別れるときに、透に告白した。
「好きになった。また来るね。」
透が慌てているのが面白かった。
メールも送っておいた。
【LOVE、透&里子。再見。from your close friend。】
わたしは透から骨髄提供を受けて病気を治すことが出来た。
これから他の人と同じように人生を歩むことが出来る。
だけど病気をしたことで、女性として厳しい現実が一つだけあった。
里子さんと透に会いに行ったあとに、病院を受診したときのことだ。
なぜか病棟勤務の先輩の看護師さんが外来にいて、先生と三人で話をした。
お母さんはそのときは居なかった。
「元気にしていますか。」
「はい、おかげで旅行も出来ました。」
「それは良かったです。顔色もいいし、幸せそうな表情になっています。」
わたしは先生に心のうちが読まれているようだった。
だけど、そのあとに続いた先生の言葉は重かった。
「これから君は、恋をするかも知れない。結婚ということもあるだろう。」
先生は一旦言葉を切って、しばらく黙っていた。
「どうしようもなかったし、どうしようもないけど、謝っておかないとダメなことがある。」
おもむろに先生は話を再開したが、真剣な顔をしてなぜか謝ってきた。
面食らっているわたしに先輩の看護師さんが言ってきた。
「あのね、汐里。治療のまえに、将来を見据えた対処が出来なかったの。」
先生が後を引き継いだ。
「ほんとうに大量の薬を使った。言い訳かも知れないけど治療のためには仕方がなかった。入院当日から直ちに血漿交換をしなかったら、数日も持たずに死ぬ危険性もあった。」
「無理矢理やれば卵子や卵巣の温存手術も出来ないこともなかったかも知れない。ただ休む間もなく薬の大量投与で攻め続けなければ病気に負けた可能性が高かったとも思う。」
「骨髄移植に辿りつくまでが、時間的にギリギリだった。余裕はなかった。君は治療が成功して命は助かった。でも、その結果、自分の子供を手に抱くことが難しいかも知れない。」
要するに子供が出来ないかも知れないという話だった。
「汐里、しっかりしてね。」
外来診察なのに病棟勤務の先輩の看護師さんが一緒に居てくれた理由が分かった。
わたしと一番仲が良かった先輩が何かあった時のために外来まで出向いてくれていたんだ。
説明の終わった静寂の診察室で、わたしは自分の居る場所がどこか分からなくなっていた。
未来に続く可能性という通路のシャッターが閉まった音が確かに聞こえた。
先輩の声が遠く聞こえ、暗闇の中に一人取り残された感覚だった。
信じたくなかった。
病気は治ったのに、まだ苦しみは続くのか、涙が出てきた。
先生の言葉がグルグル頭を回って、現実ではないと思いたかった。
どのくらいの時間が過ぎたのかは分からない。
でも、わたしはハッと気が付いて先生に確認した。
「子供が出来ないかも知れないというのは、あくまで可能性の話なんですよね、先生。」
すがりつくようなわたしに、先生は答えてくれた。
「ああ、確かにそうだが、薬の種類と量からすると、出来る可能性はかなり低くなったと思う。すまん。」
それで十分だった。
絶対じゃない、不可能じゃない。
ショックはショックだったけど、絶望する程までじゃなかった。
「謝られるようなことじゃないですよ。先生は、全力で助けてくれました。みんなわたしを助けるために力を貸してくれました。感謝しています。」
可能性をかなり失ったかも知れないけど、わたしの命は残っている。
それに透の骨髄がわたしを支えてくれている。
そう考えることだけがわたしの心の拠り所だった。
それと、わたしは陸上を続けられる身体じゃなくなっていた。
走れないわけじゃないけど、以前みたいに記録に挑戦するような無理は出来ない。
もし病気をせずに陸上を続けられていたら、大学を卒業後に実業団という道もあった。
だけど、それも今は無理な話だ。
それでスポーツ推薦で入学した大学にわたしは居続ける理由がなくなった。
元々、ほとんど授業にも出ず、陸上ばかりしていた。
単位も陸上をしていれば貰えても、していなければ貰うことも出来ない。
いまさら普通に授業に出て、みんなについていくことも出来ない。
どうしようか考えていたけど、わたしは大学をやめることにした。
大学をやめて何をするかは、どうしたらいいかは分からなかった。
ばくぜんと、学生じゃなくなったし、働くしかないだろうとは思っていた。
でも働くとしても誰かに相談したかった。
そしてわたしが選んだ相談相手は、なぜか里子さんだった。
里子さんとは連絡先を交換していたから、簡単に相談できた。
「スポーツ入学していた大学だったから、スポーツが出来なくなったら、大学に居る意味がなくなって、やめようと思うんです。」
「やめて、なにをするの?」
里子さんは優しく聞いてくれた。
「どうしたらいいか分からなくて、里子さんに相談したくて連絡したんです。」
「どうして、わたしに相談するの。わたしは、汐里の好きな男、透の奥さんだよ。」
里子さんは悪戯っぽく笑って言っていた。
「だからです。」
わたしも負けずに笑って答えていた。
「うちに来る?」
「いいんですか。」
「来たいから、わたしに連絡してきたんでしょ?」
里子さんに見透かされていた。
「一応、わたしは若女将だからね。汐里は、一従業員だよ。それでも良かったらおいで、歓迎するわよ。」
お互いの立場が違うということは釘を刺された。
でも、わたしは喜んで旅館に住み込んで働くことをお願いしていた。
「わたしは子供が産めないかも知れないんです。」
あと病院で言われたことも里子さんに相談した。
「あくまで可能性の問題でしょ、それに不可能を可能にするのも楽しいことじゃないの。」
「温泉で養生して身体を直して元気になれば、成功の確率も上がるかも知れないわよ。」
不可能を可能にした、世界頂点の金メダルを手に入れた男の妻のセリフだった。
里子さんは優しいお姉さんみたいだった。
わたしは素直に頷いていた。
大学をやめる手続きをしたわたしは、引っ越しの準備をしていた。
その最中に真二が訪ねてきた。
「汐里、何をしているんだよ。」
「引っ越しの準備。」
「なんで引っ越しするんだ?」
「大学やめたしね。働くことにしたんだ。」
「働く。」
真二が驚いている。
「なんで、そんなに驚くの?」
わたしは逆に不思議だった。
「なんでって、病気が治ったばかりだろう。」
「そうだけど、別に寝込んでいるわけじゃないし、学生じゃなくなったからって、遊んでいるわけにもいかないじゃない。」
「それは、そうだけど。」
真二はまだ納得していないようだった。
「まあ、わたしの病気のことを良く知っている知り合いのところで働くし、無茶をするつもりはないよ。」
わたしは、真二を安心させるために敢えて明るく言った。
そんなわたしを真二はしばらく眺めていた。
その後に、いきなり真二がわたしに告白してきた。
「汐里、好きだ。愛している。」
真二の告白を聞いたわたしは真二の顔をまっすぐ見た。
「ありがとう。嬉しいわ。」
わたしは自分でも驚くくらい自然に、ありがとうと笑顔で言えた。
わたしの返事を聞いた真二の顔が喜びに震えている。
「でもね、真二の思いに応えることは出来ないわ。」
真二は幸せの絶頂から不幸のどん底に突き落とされた顔になった。
その顔を見ながら、わたしは続けた。
「わたしね、好きな男がいるんだ。」
「そう、そうなんだ。」
「うん。ごめんね。」
「き、聞いていいかな。誰か。」
泣きそうな顔をした真二は震える声で尋ねてきた。
「うん、透だよ。」
わたしは微笑みながら答えた。
「透。」
「うん。」
「透って、あの透。」
「そうだよ。わたしと真二の間で透っていったら一人しかいない。」
「でも、あいつは、違うだろ。」
「なにが。」
「あいつは奥さんが居るだろ。」
「うん、いるね。」
「汐里とは縁が切れていたよな。」
「そうだね。切れていた。」
「なのに、なぜ。」
「わたしね、真二に御礼を言うことがあるの。」
「御礼?」
「そう、御礼。」
「何の?」
「真二が知らせてくれたんでしょ。透に。わたしの病気のこと。」
「ああ、確かに、汐里が透を尊敬しているって伝えた。透が頑張って走っているのを汐里が自分に重ねて頑張っているって言った。」
「そう、それで、わたしは助かったんだよ。」
「助かったって、何が。」
「真二は知らないよね。小学校の出来事だから。」
話が飛んで真二は理解が追い付いていないようだった。
わたしは小学校の社会見学で行った研究所がどういうところだったかを真二に簡単に説明した。
「うん、それでね。わたしね、透と骨髄の型が一致しているんだ。」
「で、わたしに提供してくれる予定だった人の型が実は一致してなかった。だから、あのままならわたしは骨髄提供が受けられずに死んでいた。」
話の内容の深刻さに真二は黙って聞いてくれている。
「だけどね、透が骨髄を提供してくれたの。だからわたしは助かった。」
「透が?どうやって?」
「日本に帰ってきてくれた。チャーター便を手配して、一直線にわたしのところに来てくれた。」
わたしの病気をレースの4日前に知った透は次の日には日本に居た。
わたしに骨髄を提供してくれたあと、すぐに現地に戻った。
向こうで休憩出来たのは、二日に足りない時間だったって話だった。
体はとても元に戻っていなかった。
それでも透は自分の命を賭けのコインにして勝負に出た。
「世界イベントのマラソンで透って血を流していたでしょ。」
「ああ確かに流していたな。」
「あれね、骨髄採取した腰の傷からの出血だったの。」
「骨髄採取した傷。」
「そう。」
わたしの脳裏に、あのときテレビで見た光景が浮んできて、胸が痛む。
「痛みで、まともに走られない状態だったけど、血を流しながら歯を食いしばって走っていた。わたしが病気と闘っているから、自分も負けるわけにはいかないってね。」
里子さんのために、わたしのために、コーチ陣のために、金メダルを獲る使命があったって、透は教えてくれた。
わたしが心に重荷を背負わずに済んだって言ったときには、頑張った甲斐があって良かったよって、笑って答えてくれた。
わたしは、透に自分が大事に思われていたことが分かって心から嬉しかった。
「透は、海を越えて、わたしを助けて、もう一度海を越えて、世界の頂点を手に入れたの。わたしの好きな最高の男だよ。」
「元気になって退院してから、透の奥さんの里子さんの旅館に行ったの。里子さんに会って、透に骨髄を提供することを許してくれたことの御礼を言いにね。」
「里子さん、笑って言っていた。透がわたしを見殺しに出来ないと言ったから、その意見を尊重しただけだって。」
「もしわたしを見殺しにしていたなら願い下げしていたって、里子さん、透と一緒で幸せそうだった。」
わたしの頬に自然に涙が流れた。
「でも、里子さんの仲立ちで透と仲直り出来たの。わたしは透との幼馴染の関係を取り戻せたの。それで透は、わたしのことを大事な幼馴染って言ってくれた。」
「三人でお風呂にも入ったの。ガリガリになったわたしの体を見た透が、涙を流して抱きしめてくれた。」
「そのとき思ったの。わたし、透が好きだって、惚れているってね。」
わたしは笑って続ける。
「だから、わたしを見殺しに出来ないって言って助けてくれた透の傍に居たい。奥さんがいるけど、その奥さんが構わないって言ってくれたからね。」
里子さんは、構わないと言ってくれた。
わたしが旅館に住み込んで働くことを許してくれた。
それで、わたしは、透の、若旦那の傍で働くことが出来る。
たぶん、何がどうなっても透はわたしを見殺しにしたりはしない。
だから、わたしも里子さんと透の力になりたい。
足を引っ張って邪魔するだけの存在にはなりたくない。
そして可能性を追求して諦めなければ、いつかわたしも自分の子供を抱くことが出来るだろうか。
不可能を可能に出来るだろうか。
わたしだけの金メダルを手にすることが出来るだろうか。
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