流の章
透が里子と結婚して、跡継ぎ修行をしている段階での、少し先での話となります。
「ようこそ、いらっしゃいませ。わたくしが当館の女将でございます。」
フロントからの連絡を受けて、つい先ほど到着したばかりの客が案内された部屋に入り、威儀を正した女将は頭を畳に付けて挨拶を行った。
その客室にいたのは、うら若い見目麗しい女性が一人だった。
女将は、一見して、うちの旅館には少し似つかわしくない御客様だなと思った。
泊まり客でよく見ることが多いのは、家族連れか、年齢のやや高い夫婦だ。
温泉旅館で大浴場が有名だし、家族風呂も充実しているのが理由だろう。
じっさいのところ温泉が目当ての客が大半だ。
若い人が来ないわけではないが、それでも大抵はカップルだ。
若い女性の一人旅というのは珍しい。
女将は万一のことを恐れたりもしたが、女性客の表情は明るく死を覚悟した旅のようには見えなかった。
「ご丁寧に、ありがとうございます。こちらこそ宜しくお願い致します。」
女性客は女将に対して丁寧に返事を返してきていた。
返事を聞いた女将は、女性客の口調からも特に問題となる雰囲気を感じとることは出来なかった。
女将は気持ちを切り替え、接客の本来の仕事に立ち戻った。
「御茶を用意させて頂きますね。」
女将は部屋に準備してあったポットのお湯と茶入れのセットを用いて御茶を入れ、茶菓子と共に女性客の前の机の上に置いた。
「当館の案内をさせて頂きます。」
引き続き、売店や大浴場など旅館の設備に営業時間、フロント業務に食事時間や場所、非常口や部屋に備え付けの道具などの説明を型どおりに行った。
女将が説明している間、女性客は特に口を挟むことなく話を聞いていた。
「以上でございます。何か御質問等ございますでしょうか。」
最後に女将は疑問点や説明漏れがないか女性客に確認をとった。
「特にありません。丁寧にありがとうございました。」
女性客からは特に質問などなく、女将は客室を退室しようとした。
だが、そのときに女性客から声を掛けられた。
「すみません。」
「はい、なんでしょうか。」
女将は女性客が何か聞きたいことが浮んだのかと思い聞き直した。
「女将さんは、女将さんですよね。」
「ええ、そうですが。」
やや奇妙な質問に対して女将は、それでも返事はちゃんと返した。
「若女将さんという方は、今日はお出でじゃないのでしょうか。」
女性客は女将ではなく若女将について質問をしてきた。
「若女将で御座いますか。申し訳ございません。生憎と若女将は本日休みを頂いておりまして、勤務しておりません。」
女将は申し訳ないと女性客に謝った。
普段は、若女将と手分けをして、宿泊客への挨拶を行っているが、今日は若女将は休養日で自宅で過ごしている。
だから今日は女将独りで全ての挨拶周りをしている。
「お客様は、若女将の知り合いで御座いましょうか。」
女将は女性客が若女将の大学時代か、かつての職場での知り合いかと思って尋ねてみた。
「いえ、全然違います。知り合いではありません。」
しかし女将の質問に対して女性客は慌てて否定してきた。
「そうでございますか。」
若女将のことを聞いてきたのに、知り合いではないと言った女性客に、女将は不思議な思いだった。
女将は女性客に何処かで会ったことがあるか記憶を探してみたが、思い当たる答えは得られなかった。
「不躾なことを申し上げてすみませんが、若女将さんに御会いすることは出来ませんでしょうか。」
だが知り合いではないと言ったにも関わらず、女性客は若女将に会いたいと言い出し、女将は少し驚きを隠せなかった。
「若女将に御会いになりたいのですか。なぜでしょうか。」
知り合いでもない若女将に会いたいという女性客の意図が分からず、女将は理由を尋ねた。
けれども女将の質問に対して、女性客は直ぐには返事をせず、答えを言い淀んでいた。
ただ黙っているのではなく、何かを言おうとしては、言えないというか、言うのを諦めるような、そんな様子だった。
口を開きかけては、閉め、また口を開きかけては閉じるを繰り返していた。
女性客を見ている女将の頭には疑問符が飛ぶばかりであった。
しばらくの間、二人の間には会話がなかった。
しかしながら、女性客は意を決したかのように言葉を紡ぎ出した。
「御礼を言いたいのです。」
「御礼ですか。」
「はい、御礼です。」
「何の御礼でしょうか。若女将はなぜ御客様に御礼を言われることがあるのでしょうか。」
「それは、いま言わないとダメでしょうか。直接会って理由を言って御礼を申し上げたいのです。お願いできませんでしょうか。」
女性客は、理由は言わず、ただ会って直接御礼を言いたいと言った。
女将にとっては、娘である若女将を女性客に引き合わせて良いのかどうかが躊躇われる状況だった。
「若女将さんは、何処か遠くにお出かけでしょうか。」
女将の返事が得られないことに、若女将が居ない可能性に辿りついた女性客が何処か不安そうに尋ねてきた。
「いや、そういうわけでは・・・。」
女将は曖昧な返事をする以外なかった。
「理由を仰って頂ければ、若女将に聞く事も出来ますが。」
女将としては理由さえ分かれば娘に尋ねることも出来る。
けれども理由が分からなければ娘も判断のしようがないだろう。
「あの若女将さんだけではなく、若女将さんの御主人様にも御会い出来れば嬉しいのです。」
なのに理由を言わずに若女将に会いたいと言っていた女性客は、更には若女将の夫である若旦那にも会いたいと言いだした。
そう言われたことで、逆に女将には女性客が若女将に会いたい理由が思いついた。
「お客様は若旦那のファンか何かなのでしょうか。」
「いいえ、違います。いやファンかと言われると、そうとも言えますが、会いたい理由ではありません。」
だが女性客は若旦那のファンというわけでもないようだった。
女将には混迷が深まるばかりだった。
「わたしの名前は大西汐里と申します。」
「ええ、それは伺っております。ご予約頂きましたのも大西様ですし、宿帳にも記載して頂きましたので。」
「わたしの名前を若女将さんに伝えて頂けませんでしょうか。その上で、会って頂けるのであれば、会って欲しいのです。お願いできませんでしょうか。」
だんだん女性客の様子は必死の様相を呈してきていた。
その姿からは、女性客が何か悪巧みをしている様子には見えなかった。
本当に何か理由があって娘に会って御礼が言いたいのだろうとは見えた。
女将は、疑問は解決されていないが、女性客の名前を娘に伝えて、娘が何というかで判断するので良いかと考え始めていた。
娘が夫と共に女性客に会うのであれば危険も少ないだろうという判断もあった。
「わかりました。若女将に、御客様の御名前を伝えます。その上で、若女将が何と言うかはわかりませんが、それで宜しければ承ります。」
「ありがとうございます。それで御願いいたします。」
女性客は飛び上がらんばかりの様相で、頭を下げて頼み込んできた。
だが女将には、女性客がそこまで娘に会いたい理由は思いつかなかった。
「里子、休みのところ悪いんだけど。」
「なあに、お母さん。」
自宅では里子は母親のことを、お母さんと呼んでいる。
だが旅館では、当たり前だが、公私を区別して女将と呼んでいる。
母親も、仕事場では娘のことを若女将と呼んでいる。
「あのね、里子に会いたいという人が来ているの。」
女将は娘に先ほどの若女将に会いたいといった女性客のことを伝えに来たのだ。
「あれ、呼び鈴がなっていたの。ごめんね。旅館から、わざわざお母さんが来てくれたなんて御免なさい。」
だが里子は自宅に客がきたものだと誤解した。
自宅の呼び鈴がなったのに、里子が気が付かず、旅館にいた母親が気が付いて対応してくれたものだと思ったのだ。
「ちがうわよ。自宅のことじゃないわよ。旅館のほうに、里子に会いたいという御客さんが来ているの。」
「ええ、旅館のほうに。だれかしら。以前に泊まったことのある御客さんかしら。」
「違うわね。初めて泊まりにきた御客さんよ。」
女将は、台帳を確認して、大西汐里と名乗った女性客が、初めて泊まりにきたことを確認していた。
「初めて泊まりに来た御客さん。誰かしら。大学時代の友達かしら。」
「わたしもそう思ったのだけど、知り合いじゃないって言っていたわ。」
「知り合いじゃないのに、わたしに会いたいなんでちょっと気味が悪いわね。」
「たしかにそうよね。でも若い女性の方なのよ。」
「若い女性。やはり、わたしの同級生なのかしら。」
里子は、面識がない大学時代の同級生が、旅館の話を思い出して訪ねて来てくれたのかと思った。
「少し違うかも。里子より若いような。いうなら透と同じくらいの年齢かしら。」
女将には、娘の里子より女性客の方が若いと見えていた。
そして年齢的には里子の夫である透と同じくらいではないかと踏んでいた。
長年客商売をしてきた女将には客の年齢は見た目でだいたい判別がつくようになっていた。
「透と同じくらい。なら透の知り合いかしら。」
「それは聞いてないから分からないけど、そうなのかも知れないわね。最初は里子に会いたいって言っていたのだけど、後から透にも会いたいって言っていたからね。」
「そうなの。透にも会いたいと言ったのなら、透の友達じゃないのかしら。」
「でも、里子に会いたいと言っているのよ。」
「分けが分からないわ。」
「透のファンなのかと思って尋ねたけど、ファンかも知れないけど、会いたい理由じゃないって言ったのよね。」
「そうなの。何ていう方。旅館の御客さんなんだよね。」
「そうよ。名前はね、大西汐里って名乗ってらしたわ。」
「大西汐里。」
母親から客の名前を告げられた里子は、雷撃が走ったかのように震えた。
「透の知り合いだ。」
「知っているの。」
「うん、そうね。知っていると言うか、わたしが知っているのは名前とあと少しくらいかな。会ったことはないわ。」
「どういう方なの。」
「なんて言えばいいかな。難しいな。どういう人かっていうのは透から聞いて知っているけど、説明するのは難しい。」
「そうなのね。その大西さんが、里子に会って御礼を言いたいと言っているの。」
「御礼・・・?」
「そう御礼。」
「なんで、わたしに。」
「知らないわよ。そう言われただけなのだし。」
「御礼。御礼。ひょっとして気が付いた。でもそれなら透に言うことじゃないのかな。わたしに言うことじゃないと思うんだけど。」
里子は母親に向かってというより、ひとり言のように言っていた。
「とりあえず、どうしたらいい。断るのなら、わたしが断るから。」
母親は、ひとり言を言っている里子に向かって、娘を守るのは自分の役目とばかりにはっきりと言った。
「えっと、少し時間をくれるかな。透が帰ってきたら相談して、それから返事をする。汐里さんには、そう伝えてくれるかな。」
母親は、娘の言葉に、おやっと思った。
娘が、大西さんではなく、汐里さんと呼んだからだ。
娘の言葉からは、会ったことがないのは本当だろう、でも知り合い以上に知っているかのように感じられた。
「わかったわ。そう伝えておくね。」
旅館に戻った女将は、汐里に対して、娘の言葉をそのまま伝えた。
返事を聞いた汐里は、会って貰えるかどうかはまだ不明にしても、門前払いにならなかったことで安堵したようだった。
「透、お帰り。」
「ただいま、里子。」
大学から自宅に帰ってきた俺は里子に、ただいまのキスをした。
可愛い里子が笑顔で俺に応えてくれる。
俺は両腕に里子を抱きしめ、愛しい里子を身近に感じて幸せに浸る。
「今日の晩御飯は何かなあ。」
俺がいつものように尋ねると、なぜか里子が少し改まった様子で返事をしてきた。
「あのね、少し話がしたいの。」
いつもなら、季節のなんとかだよと、嬉しそうに教えてくれるのに、今日に限っては様子が変だ。
俺は何か不味いことでも言ったのだろうか。
必死で足りない脳みそを動かして理由を検索するが見当たらない。
やばい、なんで俺は里子を怒らせたんだ。
何をしたんだろう、というか何かすると約束したことをやってないのだろうか。
「里子、ごめん。俺が悪かった。」
先手必勝とばかり、理由が分からない俺はまずは里子に謝ることから始めた。
「なんで、謝るの。謝るようなことをしたの。」
逆効果だったようで、俺は火のないところに火をつけたようだった。
もうだめだ、俺は全面降伏することにした。
「理由は分からない。でも里子が怒っているように思えて、とにかく謝ろうと思って謝っている。ごめん。」
俺の言い訳を聞いた里子は呆れているようだった。
「訳分からないこと言ってないで。わたしは怒っているわけじゃないから。あんまり意味不明に謝ると本当に怒るよ。」
よかった、里子は怒っているのじゃなかった。
「よかった。里子、愛しているよ。大好きだよ。」
俺は里子を抱きしめ、口づけをして、里子の唇を味わっていた。
しばらくは俺の成すがままになってくれていた里子だが、このままでは話が進まないと思ったのだろう、半ば強引に俺を引き剥した。
「ちょっと、話を聞いて。」
「ごめん。ちゃんと聞く。」
さすがに里子の様子から俺もきちんとしないとダメな状況だとは理解した。
「あのね、御客さんが来ているの。」
「本当か。すまん。待たせているんだな。悪かった。」
俺は、来客があったことを知らされ、自宅で待っているものだとばかり思った。
「誰が来ているんだろうか。オーナーか、或いはオーナーの妹さんか。それともコーチの誰かか。」
俺は思いつく限りの来客を、ビリヤード場とマラソン関連の人ばかり、上げて行った。
「違うわよ。それに自宅じゃなくて、旅館にきているの。」
「旅館に。なら会長さんか。それとも営業の方か。」
俺は旅館業務で関わりのある企業の会長や営業回りの人が来ているのかと思って焦った。
何時間待たせているんだ、場合によっては今後の付き合いに支障が出てしまう。
「それも違うわよ。落ち着いて。」
「落ち着いているよ。」
あまり落ち着いては居なかったが、口では落ち着いていると俺は答えた。
「来ているのはね、汐里さん。」
「汐里が?」
俺は里子の口から出た客の名前を聞いて驚いて、逆に落ち着いた。
「そう。」
「なんで。」
「さあ。分からない。けれども、お母さん、女将さんが伝えてくれたのは、汐里さんが御礼を言いたいってことだった。」
「御礼。」
「そう。」
「なんの御礼だ。」
「それは、たぶんだけど、あのことしかないと思うわよ。」
「あれか。だが、それなら誰かが約束を破って汐里に教えたのか。」
「わからない。だけど、最初は透に御礼を言いたいと言ったのじゃなくて、わたしに御礼を言いたいと言ったらしいの。そのうえで、透にも会えるのなら会いたいって言ったそうなの。」
俺には汐里が里子に御礼を言いたい理由が良くわからなかった。
俺に御礼を言いたいというのなら、思いつく理由は一つだけあるが、その理由を汐里が知っているのなら、誰かが約束を破ったことになる。
「よくわからないが、汐里に会うしかないな。それでいいだろうか、里子。」
「良いに決まっているでしょ。愛する旦那様。」
里子は笑顔で俺に同意してくれた。
俺は、去年の12月にフルマラソンの大会で優勝した。
優勝すれば4年に一度の参加することに意義があると言われる世界イベントの出場資格を得ることが出来る選考会を兼ねたフルマラソン大会だった。
その大会で優勝した俺は、今年の夏に世界イベントに参加した。
その時のことは夢のようでいて、現実であり、今でもありありと思い出すことが出来る出来事だった。
「透、すまん。こんな時に電話をしてすまん。」
俺が自分の携帯電話に着信を受けたのはレースの4日前のことだった。
突然電話を掛けてきたのは真二だった。
中学時代の陸上部仲間で、高校に入ってからは俺が陸上部に入らなかったことで袂を分かった真二。
俺が選考会を兼ねたフルマラソン大会で優勝したときは、理由を求めて詰め寄ってきていた。
だがそれだけで、それ以降は繋がりが切れたままだった。
その真二がいきなり連絡をしてきた。
「なんのようだ。」
俺は、はっきり言って、かなり冷たかったと思う。
真二と袂を分かった理由は、どちらかと言えば俺にあっただろう。
俺が汐里との関係を自分で勝手に拗らせ、汐里を避けるついでに陸上部仲間とも縁を切っていったんだからな。
だが幼なじみだった汐里との記憶すら砕け散っていた俺には、陸上部仲間だったメンバーとの繋がりなど雲散していた。
「だいたい、誰に俺の電話番号を聞いたんだよ。」
俺の詰問に真二の答えは意外だった。
「お前の御袋さんだ。頼み込んで教えて貰った。」
俺の御袋が真二に俺の電話番号を教えたらしい。
俺は両親に、汐里とのことを伝えたときに、陸上部仲間とも切れていることを伝えていた。
原因は俺にあったとはいえ、陸上部の連中と今後も付き合うつもりが全くないことは言っていた。
だから、その陸上部の連中の一員である真二が俺に連絡を取りたいと言ってきても、俺が嫌がっている以上は簡単には教えないだろう。
なのに御袋が教えたということは何か教えるに足る理由があったんだろう。
まあ中学時代のみんなと俺の繋がりからしたら、御袋にとっては俺の行動は理解しにくい部分があっただろう。
折角仲良くしていたのに、いとも簡単に友達との関係を切っていった俺のやり方にこそ問題があるとは思っていただろう。
汐里に告白して振られたということが理由の発端だけに情けないとも思われていただろう。
だが、その後の俺の軌跡、バイトに励み、新しい人間関係を作り上げたこと、ビリヤード場のオーナーやオーナーの妹さん、オーナーの出身大学の陸上部のメンバーやコーチ、そして里子については、両親に否定されることはなかった。
だからこそ、俺は里子と夫婦になり、大学に通いながら旅館の跡継ぎ修行をしている。
「汐里のことなんだが。」
真二の返事を聞いた俺は通話ボタンをOFFにしようとした。
「電話を切っていいか。」
「待ってくれ。聞いてくれ。」
「俺が大事なレースを控えているのに、俺に嫌がらせをするために電話をしてきたのか。」
「違う。そんなことをするために国際電話などしない。」
「ならなんのために電話してきたんだよ。」
俺にとって、よりによって汐里の名前が出てくる意味のない内容だった。
俺が陸上部に入部しなかった理由を真二が知っているのかどうかは知らない。
だが仲が良かった俺と汐里が断絶していることは知っているはずだ。
いまの俺にとって汐里のことは、マイナス感情を生み出すだけだ。
「実は汐里は入院している。」
「ほう、そうなんか。」
「白血病なんだ。」
「ほう、大変だな。」
「そうなんだ。大学に入ってすぐに発病してな。色々治療したんだが上手くいっていない。いまは骨髄移植だけが、生き延びる唯一の光と言っていい。」
「そうか。それでお前は俺に何が言いたいんだ。」
「頑張ってくれ。お前がマラソンで走ることを、汐里は応援している。お前が頑張っている姿を見て、汐里は自分を重ねて勇気づけて頑張ろうとしている。」
「あいつがそう言っていたのを、お前が聞いたのか。」
「いや、そんなことを俺は汐里から直接は聞いていない。だけど、汐里は仲良くなった看護師さんには言っているらしい。テレビを見ながら、お前のことを、手に入れたいものを守るために全力を尽くした男だと、尊敬していると褒めていたと伝え聞いた。」
「そんなことを聞かされてもな。ところで、お前は汐里と付き合っているのか。」
「いや、付き合っているわけじゃない。好きだけど、告白していないし、付き合っているわけでもない。汐里は先輩と別れてから恋人は作っていない。」
「そうか。」
やたらと真二が事情に詳しいから汐里と恋仲なのかと思ったが、まだだったようだ。
なにしろ真二は病院の名前は当然、病室の中の様子や主治医の名前や病状まで知っていたからだ。
それにしても俺は、汐里が俺のことを評価していると聞いても、何をか言わんという気持ちしか起きなかった。
だが、白血病で骨髄移植をするという話だけは聞き逃すことが出来なかった。
「骨髄移植は近いのか。」
「ああ、近々だ。だが提供される骨髄が貰えるかどうかが微妙らしいとは聞いた。」
「そうか。」
「なんでもタイプが一致しないかも知れないらしいことが分かったという話で、俺には難しいし詳しい話は分からんのだが。」
俺は適当に真二に返事をして電話を切った。
真二は最後まで金メダルを取ってくれ、それが汐里の励みになると言っていた。
電話を切ったあと、俺は小学校時代の社会見学のことを思い出していた。
俺たちが小学校から行ったのは、一風変わった研究所で、変わった研究者がいた。
俺たちとは仲が良かった時代の俺と汐里のことだ。
だが研究者は自分の仕事に誇りを持っており、誰にも負けない熱意があった。
その研究者の研究内容は、人間の遺伝子情報について調べることだった。
人間には自己と非自己を区別することが出来る能力がある。
その区別するための元となる遺伝子情報がある。
その遺伝子情報は人間一人一人で異なっていて、一卵性双生児など以外は完全に一緒の人はいない。
兄弟は確率25%で一致することがあるらしい
だが、たまに他人でも良く似た情報を持っている人もいるんだという話だった。
それを試しに調べてみようということで、血液検査で俺と汐里の情報を検査したことがあった。
その結果は、冷静な研究者をして狂喜させるものだった。
6座完全一致という、非血縁間ではあり得ない確率での一致だった。
「君たちは凄いね。血縁じゃないんだろ。ならこれは凄いことだよ。」
「将来、どっちかが白血病になって骨髄移植が必要になったら、片方から分けてもらうことが出来るよ。それも拒絶反応の可能性が低い、成功率の高い移植になるよ。」
そう言って、渡された結果の紙は、意味不明の数式と図式が並んでいたが、書かれている内容の意味だけは理解出来た。
俺は白血病になった汐里を救うことが出来る可能性がある。
中学からの付き合いだった真二はそのことを知らない。
俺は過去の回想をしながら、目の前の現実にどう対処するか決断を迫られていた。
「コーチ、お話があります。」
俺は現地に同行してくれていたコーチに話をしに行った。
「なんだ、透。レースのことか。」
「違います。」
「じゃ、なんだ。」
コーチはコーヒーを飲みながら、穏やかな口調で俺の話に付き合ってくれた。
「日本に一時帰国したいと思います。」
「おまえ、正気か。レースまであと何日だと思っているんだ。ここで練習してようやく風土に慣れてきたのに、いまから帰国して何をするんだ。」
「白血病になったやつを救ってきたいのです。そいつは骨髄移植を必要としていて、俺は型が一致しています。」
「まて、骨髄移植って、お前が提供するのか。」
「そうです。」
「そんなことをしたら、走れなくなるかも知れないだろう。メダルを目指してきたのはどうするんだ。」
「確かにそうかもしれません。メダルは獲れないかも知れません。ですが、知った以上は、行動しないという選択枝は俺にはありません。座してあいつを見殺しにしたのであれば、俺の一生の十字架になります。悔やんでも悔やみきれません。」
俺にとって汐里は、既に関係ない人物になっている。
だが心のうちのどこかに完全に切れていない、切れていたくないと思う心があるんだろう。
俺は汐里に人間として否定されたように思ったことがある。
だがあれは汐里が原因ではなく俺が原因だった。
まして今回、型が一致しているのに、助けることが出来る可能性があるのに、救いの手を出さなかったら俺は完全に人でなくなる気がする。
いまになって俺は汐里に人として認めて貰いたいのかも知れない。
あるいは密かに自己満足したいだけなのかも知れない。
自分の心のうちのことなのに、自分でもはっきりとは分からなかった。
「だが、行き帰りはどうする。時間的に間に合うのか。」
「間に合わせます。金を使いまくります。金で解決出来ることは金で全て解決します。」
世界イベントに出場する俺には色んなスポンサーがついた。
それに伴って俺の懐は豊かになっていたが、使い道もなく貯めているだけだった。
使いどころは今しかないだろう。そう判断した俺は、チャーター便を直ちに手配して最速での帰国の準備を整えた。
「先生、国際電話が掛かってきています。」
総合病院の血液内科の専門医は交換から告げられた言葉に困惑していた。
「国際電話って何処からで誰からなんだよ。いま忙しくて大変なんだが。」
「それが、良くわかりませんが、先生の担当している患者さんのことでお願いがあるとのことです。」
「俺の担当している患者さんのことでお願い。」
「はい、そう言っておられます。」
「よく、わからん。」
「確かに、そうですが、掛けてきている方は、骨髄を提供したいと言われておられます。」
骨髄提供という言葉に医者は話を聞こうという気持ちになった。
「わかった。繋いでくれ。」
交換手は電話を繋ぎ変えた。
「ハロー、マイ ネイム イズ・・・」
「申し訳ありません。日本語でお願いします。」
「ええっと、日本の方ですかね。」
「そうです。はじめまして、俺は川村透といいます。」
医者は、交換手が、相手は骨髄を提供したいと言っている、と言っていたことを思い出し、そもそも日本語で会話していたのだと気が付いた。
「俺は血液が専門です。何か俺の患者のことで、骨髄提供をしたいという話だと聞いたのですが。」
「はい。先生が主治医を務めておられる患者の大西汐里の骨髄移植が行わる予定だと聞いております。ですが、一致率が足りないので無理になりそうだという情報も聞いております。それで電話させて頂きました。」
「誰から聞かれたのです。」
「知り合いからですね。それで、それが事実なら、俺が骨髄を提供したいと思っています。如何でしょうか。」
「まず、あなたが仰った骨髄移植に関する情報は事実です。このままだと移植そのものが成立しないことになる見込みです。だが、あなたが骨髄の提供者になれるかどうかは、俺はどうやったら判断できます。」
「妻に書類を持っていってもらいます。それを見て判断してください。古いデーターですが、研究所の研究者が検査してくれたものです。」
俺は、あの時は無名に近かったが現在では天下に名前が轟いている研究所と研究者の名前を伝えた。
高名な先生の名前を聞いた医者はびっくりしていた。
「あの先生が調べられたものですか。なら本当に信用できるものですね。あとあなたは何時ならこっちに来られますか。」
「現在は海外にいますが、24時間以内に到達できます。」
国際電話であったことを医者は思いだし納得した。
医者との通話を切った俺は再度国際電話を掛けた。
「里子、お願いと頼みと許しが欲しい。」
俺からいきなり国際電話を掛けられた里子はびっくりしていた。
「何があったの。怪我でもしたの。」
「違う。俺は健康そのものだ。だが、どうしてもやりたいことがある。」
「何をしたいの。」
「まず、俺の机の右の引き出しの一番下のところに青いファイルがあると思う。」
里子は俺の指示に従って机の中から青いファイルを見つけ出してくれた。
「あったわよ。」
「それを病院に届けて欲しい。」
「病院?」
「そうだ。少し遠いが、いまから届けて欲しいんだ。」
俺は総合病院の名前と場所、届ける相手の医者の名前を伝えた。
「これを届けたらいいのね。」
「そうだ。頼む。」
「わかったわ。」
余計なことは詮索せず里子は俺の言葉を呑んでくれた。
「あとは何をしたらいいの。」
「空港まで俺を迎えに来て欲しい。」
「え、それってどういうことなの。」
「一時帰国する。」
「一時帰国?」
「そうだ。」
「なんのために。」
「骨髄提供のためだ。」
「骨髄提供?」
「そう。」
「どういう意味か分からないわ。」
「白血病で生死の境目に立っている奴がいる。そいつを助けるために俺は骨髄提供をすることが出来る。俺とそいつは型が一致しているんだ。里子に届けて貰う書類は型が一致していることを証明する書類だ。」
「いつ、そんな検査を受けたの。」
「小学校時代のことだ。」
「小学校時代?」
「そうだよ。小学校から行った社会見学の出来事なんだ。」
俺は里子に社会見学のことを説明した。
当然だが、骨髄提供する相手が汐里だということも伝えた。
「俺は汐里のことはどうも思っていない。だが、死に瀕したあいつを見殺しには出来ない。だから俺が骨髄提供することについて、妻である里子からの許可が欲しい。」
「透は汐里さんのことを大事に思っているんだね。」
「いや、そんなことはない。一番大事なのは里子だ。」
「違うわよ。そういうことじゃないわよ。透。自分に正直になった方がいいよ。」
「正直に。」
「そう。わたしにプロポーズしてくれた透でしょ。わたしは透のおかげで自分に正直になれたんだよ。だから透と結婚したし、結婚出来た。わたしは幸せだよ。」
「里子。」
「透は汐里さんのことが好きだった。告白して振られた。前に全部教えてくれたでしょ。」
里子の言葉が続く。
「でも吹っ切れた。乗り越えた。だから、わたしに全力で向かってきてくれた。」
「わたしのために、世界の頂点を目指してくれた。わたしはそんな透が大好きだよ。」
「でも、汐里さんのことが嫌いになったわけじゃないでしょ。忘れたわけじゃないでしょ。だからこそ、今回汐里さんのことを救おうとするのでしょ。違うの?」
「違わない。」
「だったら自分の気持ちを認めなさい。わたしは自分を犠牲にしても、幼馴染を救おうとする夫を誇りに思うわよ。」
「ありがとう、里子。」
俺は眼に涙が溜まり里子に頭が上がらなかった
俺はチャーター便をノンストップで飛ばし帰国した。
空港で待ち構えていた里子と共に総合病院へ駆け込んだ。
里子が届けた書類を読んだ医者は研究者へ連絡して情報の再確認をしていた。
「すみません。突然のことで失礼いたします。わたしは総合病院の血液内科の専門医です。高名な先生に御教示頂きたいことがあって連絡差し上げました。」
医者の連絡にたいして高名な先生は普通に対応してくれた。
「何の御用ですかね。あまり実臨床には詳しくないので、それについて質問されても困るのですが。」
「いえいえ、御謙遜されては、わたしの立つ瀬が御座いません。ですが、今日お聞きしたいのは遺伝子の型一致についてのことなのです。」
「先生が8年前に研究所で検査された結果の書類を見せて頂いているのですが、血縁でない二人の男女で6座完全一致した事例を覚えておいででしょうか。」
医者の問い合わせに高名な先生は少し興奮しながら答えてくれた。
「覚えておるとも。あんなのは、あれ以前も以後も一度もない。奇跡のように一致していた。あの二人なら骨髄移植の障害などほとんどないだろうと思えたよ。」
「やはりそうですか。先生、世の中は不思議なものですね。女性の方が白血病となり、男性の方が骨髄提供を行ってくれることになりましたよ。」
「本当か。それはまたなんというか、言ってはなんだが不幸中の幸いだな。」
「確かに。でも確認させて頂いてありがとうございました。これ以後はわたしの仕事です。」
「うん。頼むよ。」
医者は高名な先生との会話を終えると、骨髄移植に向けた準備を進めていった。
「先生、お聞きしたいことがあるのですか。」
「はい、なんでしょうか。」
汐里の母親に廊下で呼び掛けられた医者は足を止めた。
「実は、娘に骨髄を提供してくださる方と型が一致しないという話を聞きまして・・・。」
「確かにその通りです。ですが、それは解決しております。大丈夫です。心配ありません。」
医者は自信を持って大丈夫だと答えることが出来た。
それでも汐里の母親の不安は拭えなかったが、医者が大丈夫だと言うものをそれ以上は言えることもなかった。
不安を増さないように娘にも何も伝えることはなかった。
「先生、俺のことは絶対に誰にも話さないでください。」
俺は骨髄を提供するが、俺の情報は漏らさないように医者に頼んだ。
「当然だ。守秘義務もある。誰からの提供と言う話は絶対に患者さんや家族には伝えないよ。」
医者は力強く確約してくれた。
俺は全身麻酔を受けて骨髄を採取され、腰には骨髄採取の針を刺したことによる傷がいくつも出来た。
医者からは数日間の安静が必要だと言われたが、麻酔から覚めた俺は一直線に42.195kmの戦場に舞い戻った。
わずかな時間だったが、現地で休憩を取って、俺は世界が舞台の頂上決戦に出撃した。
俺は、走っている最中に腰の傷から出血し、痛みのためにフォームが崩れた。
ラップタイムを維持することも出来なくなったが、歯を食いしばり朦朧とする意識のなかで、ひたすら前進することを遂行した。
現地の暑さで全員のタイムが落ち込んでいたのが幸いした。
途中の魔の時間を過ぎた俺は覚醒することが出来た。
その後にランナーズハイに入った俺はペースを取り戻し爆走した。
そしてトップでゴールテープを切った俺はそのまま倒れ込んだ。
だが、倒れこむ俺をコーチ陣が抱きしめてくれた。
俺の無謀な挑戦と勝利を心から祝福してくれた
腰からの出血をマスコミには色々と聞かれたが、こけて擦って傷が出来ていたのだと誤魔化した。
金色に輝くメダルを持ち帰った俺を、里子は何も言わず抱きしめてくれた。
帰国してからしばらくして、医者から俺に密かに連絡があった。
汐里の治療が上手くいき、治癒が期待できるレベルで、近々退院するということだった。
当然、俺のことは秘密で本人を含めて誰も知らないことだと言っていた。
俺は死の淵から汐里が戻ることが出来たことを心のうちで祝福していた。
俺の選択は間違っていなかったと自信を持つことが出来た。
だが里子は、男なら堂々と汐里さんを祝福しなさいと俺に発破を掛けていた。
俺は一生里子に頭が上がらないだろう。
俺が骨髄を提供したことを汐里は知らないはずだ。
情報を知りえる人物は医者以外にも複数いたと思うが、約束を誰も破ってはいないはずだ。
なのに、汐里は御礼を言いたいと、それも里子に対して言いたいといって、俺たちのところにやってきた。
いまひとつ汐里が来た理由と意図が分からない。
だが、折角来た汐里を追い返すのは、どうかと思う。
骨髄提供をして汐里の命をすくう賭けに出た癖に、ここで訪ねてきた汐里から逃げても締まらない。
俺と里子は、女将、里子の母親に連れられて汐里が泊まっている部屋に案内された。
「失礼します。」
女将が挨拶をする。
「はい。」
中から汐里の返事が聞こえる。
「若女将と若旦那が挨拶に参りました。」
女将の言葉で、汐里の雰囲気が改まったのが襖越しに感じられた。
女将が襖を開けると、床の間の前の座布団に独り正座している汐里が居た。
「わたくしが当館の若女将でございます。本日はようこそ当館にお越し頂きありがとうございます。」
里子が正座をして手を突き頭を下げて、若女将の挨拶をする。
「わたくしが当館の若旦那であります。お見知りおきを願います。」
俺の挨拶はどこか変だったのだろうか、女将が微妙な顔をしていた。
「会ってくださり本当にありがとうございます。」
少し硬い顔をした汐里は座布団から降り、畳の上に直接正座をし直して、里子に向かって頭を下げていた。
「いえいえ、そんな御礼を言われるようなことを、わたしは何もしていないと思うのですが。」
里子は汐里に普通に答えていた。
「里子さん、このたびは本当にありがとうございました。里子さんが、わたしに骨髄提供をすることを透に許して下さった御蔭で、わたしの治療は成功しました。」
やはり汐里は俺が骨髄提供したことを知っていた。
「わたしが許したわけじゃないですよ。」
「いえ、妻である里子さんが、許す、言い方を代えれば受け入れて下さったからこそ、骨髄が提供されて、わたしは今生きています。」
「いや、許すとか受け入れるって・・・。」
「里子さんは、透が世界イベントの出場権を獲得したことで、里子さんのお父様に認めて貰えて、結婚なさったのですよね。」
「まあ、そうですね。」
汐里の独演が続く。
「当然のことながら、その続きとして世界イベントで金メダルを獲得するというのも視野にあったことでしょう。」
「なのに、わたしに骨髄提供することで、その夢が破れる可能性が非常に高かった。」
「その危険性が分かっていても、わたしに骨髄を提供することを認めてくださったのは里子さんの御心。」
「結果として、金メダルも獲ることが出来たのは偏に透の実力がすべて。透が里子さんのことを考えた結果。」
「あと、これは言っていいのか、正しいことなのか分からないけど、わたしのことも考えてくれたんじゃないかと思いました。」
「わたしに骨髄を提供したことで、金メダルを獲れなかったのなら、それはわたしの責任。だけど透は金メダルを我武者羅に獲りにいった。だから、そのことでは、わたしは心に重荷を背負わずに済みました。透が配慮してくれたんじゃないかと独り勝手に思っています。」
言いたいことを言いきった汐里の言葉が止まる。
汐里の話を聞いていた俺と里子、女将は、汐里が里子に御礼が言いたかった意味が何となくわかった。
夫である俺が汐里のために何かをしようとして成したこと、そのために夢が失われる可能性があったこと、だが妻である里子はそれをそれで良しとしたこと、だから汐里が生きて人生を歩めること。
「汐里さんを見殺しに出来ないと言ったのは透ですよ。だから、わたしはその気持ちを尊重したまで。まあ、もちろん見殺しにするような夫なら、こっちから願い下げしますけどね。」
汐里の言葉を最後まで聞いた里子が静かに笑って言った。
「透、ありがとう。」
汐里が俺に向かって言ってきた。
「御礼を言われるようなことじゃないよ。まあ、なんだ。生きていてくれて良かったよ、汐里。死んでほしいわけじゃないからな。生きていてくれたほうが何万倍もいいよ。」
俺も正直に汐里に答えた。
「透、ありがとう。」
汐里の眼に涙が浮んでいた。
これで汐里と俺の人間関係が少しでも続くのなら、人生悪いことだらけじゃないだろう。
「ところで、一つだけ聞きたいんだけど、俺が骨髄を提供したことをどうやって汐里は知ったんだ。」
俺は疑問に思っていたことを汐里に質問した。
「テレビを見ていて分かった。」
「テレビを見ていて分かった?」
「そう。走っているときに透は腰から出血していたでしょ。あれでピンときたんだよ。骨髄採取をした傷から出血しているんだとね。」
「看護師さん達から聞いていたんだ。わたしに提供してくれる予定の人の型が実はわたしの型と一致しない可能性があるってね。」
「でも途中で、何やら分けの分からない話で大丈夫だってことになって不思議だった。」
「先生に聞いても、大丈夫の一点張りで、副作用や合併症についても色々言われていたのに、手のひらを返したように問題ないって言いだしてね。」
「わたしを不安にさせないためかと思っていたけど、聞いていた拒絶反応も実際全く出なかったし、副作用や合併症が全然なかった。」
「看護師さん達が、さすが完全一致していると違うわよね、と言っていたのも奇妙だった。」
「一致しない可能性があるって言っていたのに、完全一致していると、って言われたら狐に包まれたような感じよ。」
「でもね、その時に、わたしは思い出したんだ。小学校の社会見学をね。気が付くのが遅いよね。だけど検査で透と型が一致したことは覚えている。あの結果の用紙もまだ持っている。」
「全部がつながったときに、わたしには分かった。透が来てくれたんだってね。透が骨髄を提供してくれたんだって。だから透が血を流しているんだって。」
「だから御礼を言いにきたんだよ。透の行動を許してくれた里子さんと透にね。」
汐里の話を聞いて俺は理解した。
「そうか、汐里は自分で気が付いたんだな。」
誰も約束は破っていなかった。
俺は自分の勝手な想像で医者を悪者にしていたようだ。
汐里が里子に御礼を言ったあとは食事になった。
女将に別室に用意してあるからと言われて案内された。
そこには、3人分の夕食が用意されていた。
不可解に思った俺と里子が女将を見つめると言われた。
「たまにはいいんじゃないの。それに貴方達は今日は休養日でしょ。」
確かに俺と里子は今日は休みの日だ
だからと言って、旅館の料理を喰っていいわけじゃない。
「明日から頑張ってくれたらいいから、今日は旧い友達と御飯を食べなさい。」
女将の言葉に今日のところは甘えることにした。
汐里と本当に久しぶりに一緒に食事をして会話をした。
里子も混じって三人で沢山の話をした。
「汐里さん、透の小さい頃ってどんな子だったんですか。」
里子が汐里に俺の小さい頃のことを尋ねている。
「そうですね。割と引っ込み思案でしたね。あと、こんなこともあったんですよ。」
「下校中のことだったんですが、大雨が降ったときに通学路の途中に大きな水溜りが出来ていたんですよ。」
「それを飛び越えられるか何人かで挑戦していたんですよ。」
「透はそれに失敗して水の中に落ちて、全身ずぶ濡れになって半泣きになって家に帰ったんですよ。」
「実はその水溜りというのは、用水路と一緒になった、今から考えたら危ない場所だったんですよね。」
汐里、俺の昔の恥ずかしい話を里子にばらすのは止めてくれ。
俺の願いを無視して、汐里は笑いながら他にも尾ひれはひれを付けて里子に俺の暴露話を延々としてくれた。
幼馴染というのは実に厄介だ。
「そう言えば、小学生高学年の頃だったかな、透と一緒にお風呂に入っていた時期があったんですよね。」
一緒に風呂に入っていたことまで話すんじゃねえ。
里子のコメカミがピクっとしていたぞ。
だが里子は数多くの俺の良い話が聞けたとホクホク顔だった。
汐里、勘弁してくれよ、俺の明日からの立場が。
だが離れていた汐里との距離が無くなったような気がしたのも事実だ。
汐里はさらに懐かしむように話をする。
「入院している間、いろいろ昔を思い出すことがあったわ。」
「透と中学時代、陸上で競争していたこともあったわよね。」
「わたしは短距離向きだったから、短距離では長距離向きの透に負けることはなかったけどね。」
「100mから200mまでだったな、わたしは。400m以上はきつかった。」
「高校になってから透の告白を断ったら、縁が切れたけどね。」
「あれって実際には切ったのは透なのか、わたしなのか微妙よね。」
「離れていく透をそのままに、離れたのは、わたしもだしね。」
「透に偉そうに言ったけど、わたしも透との関係をそこまで大事にしていたわけじゃないってことだよね。」
俺たちは夜遅くまで話をしていた。
「そろそろお風呂にご案内しますね。」
とうの昔に食事は終わっており、時刻も遅く里子が言い出した。
「そうだな。うちの風呂は期待していいぞ。」
俺は汐里に向かって自慢した。
「じゃあ、一緒にはいろう。」
だが汐里は俺に向かって直球発言だった。
女房がいる身で別の女と一緒に風呂に入れるわけがないだろう。
「無茶いうなよ、汐里。」
俺がありえないという口調で言うと、なぜか汐里が裏切られたという顔をしていた。
汐里の反応に俺が戸惑っていたら、里子に言われた。
「汐里さんと昔は入っていたんでしょ。」
「いや、昔の話だし、今は状況が全然違うだろう。」
「据え膳喰わねばなんとやらと言うじゃないの。」
まるっきり話が違うだろう、里子。意味分かって言っているのかよ。
「それって少なくとも女房から別の女の前で言われるセリフじゃねえよ。」
「その女房がいいって言っているんだからいいでしょ。」
どういうことだよ、俺は里子の言葉に翻弄されるばかりだった。
汐里を見ると、伏せ眼で悲しそうな顔つきをしていた。
「男でしょ。」
里子の最後の一押しに俺は負けた。
「わかった。入るよ。」
俺が入ると言った途端に、汐里の顔がパーッと笑顔になった。
「ありがとう、透。」
なんで感謝されるのか、なんかどうしたらいいのか分からない俺だった。
「わたしも一緒に入るから。」
里子の一言が救いだった。
最低限そうでなかったら俺はお義父さんに殺される。
「あと、透は汐里さんと仲直りしなさい。」
里子が俺に汐里との仲を直すように言ってきた。
俺が汐里の顔を見ると、汐里が先に言ってきた。
「透、仲直りしよ。高校時代のことは悪かった。わたしだけが悪かったとは思わないけど、責任がないとも言わない。だから仲直りしたい。」
汐里はストレ-トに俺に言葉を投げてきた。
俺は一瞬躊躇っていたが、里子の強い視線が正直になれと言っていた。
「俺が悪かった。おまえの言う通り、一度の告白で諦めて逃げ出した俺が悪かった。だから俺もお前と仲直りしたい。幼馴染としての関係を取り戻したい。」
俺の心から正直な言葉が出てきた。
俺の言葉を聞いた汐里と里子は満足そうな笑顔だった。
「うわあ、すごいお風呂。」
バスタオルを身体に巻きつけた汐里が、湯煙にかすむ家族風呂の内装を見たときに言った。
「結構、俺も頑張っているんだぜ。」
俺は少し自慢気に汐里に風呂の説明をした。
跡継ぎ修行のなかで、俺はお客さんにリピートしてもらうために、何があれば来てもらえるかを考えた。
その一つが家族風呂で、源泉を利用した、ししおどしを備えた和風テイストだ。
「透はいろいろとやってくれるからね。頼りになるよ。」
里子が誇らしげな口調で俺をほめてくれた。
「奥さんと仲いいよねえ。でも、透って、なんか奥さんの尻にしかれているような感じだよね。尻にしかれるというか、手のうちで転がされているというかな。」
うすうす俺が感じていることを汐里はずばりと言い当ててきた。
まあ、俺は一緒に居られたら里子にどういう扱いをされても幸福だ。
その後に、バスタオルを取った汐里が痩せていたのは本当に悲しかった。
汐里は肉が落ち肩甲骨と肋骨が浮き上がっていた。
陸上をしていた昔は筋肉もついていたのにな。
「そういう眼で見られると女の子は傷つくんだぞ。」
俺の目線に気が付いた汐里は、少し泣き顔で俺に文句を言っていた。
「すまん。でも、おまえ、本当に病気したんだよな。身体に出ているよな。」
俺は汐里の病気というものの怖さを眼の前にしていた。
「そうだよ。でも生きていられるんだよ。透のおかげでね。」
「おまえが頑張ったからだろう。治療つらかっただろう。よく耐えたな。」
俺は自然と涙が流れてきて、思わず汐里を抱きしめていた。
抱きしめられた汐里も俺の首に腕を回して抱きついてきた。
「だったら少しは労わってね。」
汐里の言葉に俺は黙って汐里の薄くなった身体を抱えていた。
岩風呂に三人で並んで浸かって、ゆったりとして、ししおどしの音をきく。
「落ち着くなあ。それに生きているって実感がある。」
汐里が感慨深くつぶやく。
「そうだな。生きていればこそだよな。」
俺も、汐里が生きていることに感謝する。
里子も黙って笑顔で浸かっていた。
しばらく無言の時間が流れていたが、なぜか湯舟のなかで二人が黙って左右から俺に抱きついてきていた。
どっちが先だったかわからないが、二人はなにか競うように俺に密着してきていた。
なにしているんだよ、おまえら産まれたまんまの姿だろうが。
だが据え膳を喰わぬはなんとやら、遠慮なく抱きしめた二人の肌ざわりは良かった。
「「このスケベ。」」
俺の顔が緩んでいると、二人に揃って言われた。
誤解だ。いや、誤解じゃないか。
「二人とも大事だよ。大事な妻に、大事な幼馴染だよ。」
そして俺の言葉を聞いた二人の顔は獰猛に笑っていた。
なんか好敵手って感じで怖かった。
帰る前に旅館の前で見送りに立つ俺たちに汐里が挨拶をしてきた。
「また来てもいいかなあ。」
「またいらして下さいね。お待ちしておりますよ。」
里子は若女将の妻の余裕の笑顔だった。
「分かりました。また来させて頂きます。」
汐里は再訪を約していた。
「透、送っていってあげてよね。」
「わかった。送ってくるわな。」
俺は、送るのが汐里独りなので、送迎用の車ではなく自家用車を運転して最寄駅まで送って行った。
短いドライブだが、汐里は楽しそうだった。
「透の運転で送って貰えるなんて嬉しいな。」
駅のプラットホームまで俺は汐里の荷物を持ってついていく。
「気を付けて帰れよ。」
「分かった。」
汐里は電車に乗り込もうとしたときに振り向いて言った。
「透。」
「ん、なんだ。」
「好きになった。また来るね。」
おまえ、それはどういう意味で、何をしにくるんだよ。
俺の家にヒビを入れに来る気かよ。
そんなんだったら来るんじゃねえ。
汐里は小悪魔的な笑顔で手を振って帰っていった。
【LOVE、透&里子。再見。】
俺が家に向かっている途中に、汐里からメール着信があった。
誤字脱字、文脈不整合等があれば御指摘下さい。
骨髄提供のために海外から帰国して再度世界での戦いの場に戻ると言うネタは、恋人に対して行うという設定で話にしようと思っていました。ですが、話を沢山作るのも収拾がつかなくなると思ったのと、この話に持ち込むことも出来るかと思い、作ってみました。
実のところ、陰の章と陽の章も別々の話として書いていたのですが、表と裏のように合わせて一つの設定の中での話に組み上げたのです。この連載は、色々なものが合わさったものとなっていくようです。