転の章
透が里子と結婚して跡継ぎ修行を開始した段階から、夏の世界イベントに向けて出発するまでの期間の話となります。
構成上、三番目の話となるので、割り込み投稿とさせて頂きました。
「さてと、何から始める?」
俺は旦那様に尋ねられた。
旦那様とは里子のお父さん、旅館の経営者にして最高責任者。
俺から見ればお義父さんだ。
ただ仕事をする上では、家族が従業員であっても、お客さんには関係ない。
だから、お義父さんではなく旦那様と呼ぶように言われた。
同じく、お義母さんは、女将さんで、里子は若女将と呼ぶように言われた。
まあ社会的には当然のことだろう。
いずれであるが、俺も若旦那と言われるようになると言われた。
それまでは旅館の人達には「透さん」と呼ばれることになっている。
まあ半人前以下の存在としては妥当だろう。
みんなに認められて初めて若旦那になる。
大学に入学して里子と結婚した俺は、さっそく旅館での跡継ぎ修行を開始した。
出来るだけ早く一人前になりたい。
だがいきなり経営がどうのこうのというのはない。
まず旅館とは、どんな仕組みで動いているかを理解する必要がある。
そのためには、実際に旅館で働いてみるのが一番良い。
観たり聞いたりも大切だが、体験するのが重要だ。
将来、問題が起きたときにも経験があるのとないのでは対処の仕方が全く違ってくる。
周りの人間の受け取り方や指示通りに動いてくれるかも左右される。
やったこともないやつが、偉そうに口だけ言ったって説得の欠片もない。
働く立場の人間の気持ちを理解していないと駄目だ。
しかも俺は家付きの人間じゃないから、自然に見聞きしていていることもない。
実家が旅館でもないので単なる、ど素人だ。
ちなみに里子の見合い相手に選ばれていたのは、同じ地方にある旅館の三男だった。
知識や経験がある人物が跡継ぎになってくれたほうが心強かっただろうと、それに関して俺は少し卑屈になっていた。
だが旦那様の考えは違っていた。
「変な色が付いていない分、うちのやり方をそっくり受け入れて貰えるから、時間は掛かるだろうけど、問題ないよ。」
「それ以上に里子を大事にしてくれる透のほうが良いよ。」
俺が里子と結婚出来た理由は、里子を大事にする、という一点が決定打というのは明らかだった。
それから、お義父さんは俺のことを「透」と呼んでくれる。
君とか、おまえ、とかではない分、親身に思ってくれているのだと感じる。
「いきなりバトンタッチ出るのなら、そんな楽なことはないよ。どんなことでも苦労するのは何でも一緒だろう。」
お義父さんは苦笑していた。
たしかに、ビリヤード場を独りで切り盛り出来るようになるのも一年間は必要だった。
かなりの時間をバイトに費やしての一年間だったから、普通なら2-3年は必要だっただろう。
そう思うと、最低一年間は旅館の仕事に慣れるのに費やすのがいいだろう。
現実的に本当に後を継げるのは、10年後くらいだろう。
「最初にする仕事としては、何がありますか?」
だが俺は旅館の仕事と言われても何をしたら良いか皆目わからない。
分からないことは分かる人、旦那様に尋ねるのが一番だ。
「初心者がする仕事と言えば、下足番から玄関番だな。」
お客さんが来たときに、部屋まで荷物を運び、履物を整理する係だ。
「だけど、透はお客さんが来たときとか、帰るときには居ないことが多いだろう。」
たしかに、チェックアウトは9時から11時くらい、チェックインは14時から18時くらいが多い。
朝早い出立や、夜遅い到着もあるが、数は少ない。
夕方はともかく、それ以外は基本的に俺が大学に行っている時間帯になる。
姿が見えない下足番など当てにもならず意味はない。
仕事を教えてもらうどころか、業務が混乱して迷惑を掛けるだけだ。
俺は普通の順序で仕事を覚えるのは無理だと悟った。
ならば出来ることから始めるしかないとして、風呂番からすることになった。
風呂番の仕事は、源泉からのお湯の誘導が一番重要だ。
だが、それ以外にも大浴場の掃除や整備がある。
教育係はベテランの爺さんだ。
爺さんは70を超えているが若々しくまだまだ現役だ。
「じゃあ、まずは風呂掃除の仕方から教えてやろう。」
源泉関連は爺さんが一手に担ってくれている。
いずれ俺も出来るようになった方がいいだろうが、いきなりは無茶だ。
失敗して、大浴場を本日休業とかにしたら終わりだ。
旅館に俺では責任の取れない大ダメージを与えることになる。
なので誰にでも出来る仕事として、俺の自由の効く時間帯の深夜の風呂掃除から開始した。
掃除は基本的に一日二回、昼間と深夜に行っている。
それ以外には、何かで汚れた場合に臨時で掃除をしている。
「温泉旅館で、大浴場と言えば、旅館の売りにもなるマストアイテムだ。」
巧妙に英語を使いこなす爺さんは真剣だ。
「大浴場が汚いとかで入る気がしないとかなら、二度と泊まりには来てはくれんだろう。」
確かに爺さんの言うとおりだろう。
温泉旅館で看板の風呂が汚いはないだろう。
だが、現実には結構汚れが目立つ大浴場をそのままにしている旅館も多い。
そこの経営者は何を考えているのか、俺には分からない。
「見えないところにも気を配って、お客さんに気持ち良く過ごしてもらうのが、ワシらの仕事じゃ。」
爺さんは、風呂番とは言っても誇りをもって仕事をしている。
その姿勢は師匠と呼ぶにふさわしいだろう。
ただこの爺さんは、風呂番だけが仕事じゃない。
庭の樹木の剪定もするし、簡単な建物の修理、建具や襖の調整など、ありとあらゆる雑用をこなしている。
とても俺が簡単に追いつけるようなレベルじゃない。
ただ爺さんには言われた。
「いずれ、経験するくらいなら教えてやってもいいが、経営者の一人になる透が出来るようになる必要はないがな。」
「それよりは出来る人材を育てて揃えることを考えてくれたほうがいい。」
「でも、出来ないより出来たほうがいいですよね。」
俺が質問すると、爺さんにたしなめられた。
「趣味でやる程度なら、邪魔だから止めておいたほうがいい。」
「専門家の仕事を奪うようなことはせんほうがええ。」
「植木職人もおるし、建具職人もおる。」
「経営者になるなら、この温泉街全体のことを見るようにしたほうがいい。」
なんでも出来る爺さんが言うには矛盾していると思ったが、そうすることが俺には大事なんだろうと納得しておいた。
大浴場は建てられた時には、立派なものだったのだろう。
白い壁に石作りの浴槽、タイル張りの床。
だが経年変化でいろいろとガタが来ている部分が多い。
ただ大浴場の設備的な部分は予算も掛かるし、対費用効果を考えなければならないから今の俺の守備範囲じゃない。
それより24時間稼働している大浴場はカビの温床だ。
タイルの黒ずみはそれだけで、心理的に嫌悪感を抱き、入浴意欲を削ぐ。
古びたカビだらけの大浴場に入りたい客はレアだろう。
俺はせっせとタイル磨きを毎日地道にやっていった。
「端から溝に沿って綺麗にしていってくれ。」
「ワシは最近眼が悪くなって汚れがちゃんと見えなくなっているようなんじゃ。」
「眼がよく見える若い透が来てくれたのは助かるのじゃ。」
磨けば磨くほど綺麗になるタイル磨きは俺の性に合っていたようだ。
ルンルン気分で深夜業務に励んでいた。
「透は変わっておるの。若いもんはこういう仕事は嫌がるかと思っておったんじゃがな。」
「ましてや若女将の旦那として来たわけじゃからな。」
俺は里子の夫だが、旅館の達人なんかじゃない。
経験値ゼロの単なる新人に過ぎない以上、文句をいうこともない。
むしろ里子の役に立てると思うと、いっそう気力が沸いてきた。
結果として、大浴場はまっさらとはいかないものの光輝く白い空間となった。
浴室全体が綺麗になったら、置いてある桶や椅子も磨いていった。
こういった備品が綺麗かどうかも心象に大きな影響を与える。
浴槽自体は無理だったが周辺も含めてピカピカにした。
「最近、宿のアンケートで大浴場が綺麗で気持ち良かったと書かれることが多いわよ。」
女将さんに、お客さんから好評価されていると言われて、俺は更に頑張る気持ちになれた。
風呂場の掃除が終わったら、脱衣所の掃除と修繕もコツコツしていった。
蝶番が緩んでいる棚の戸を締め直して、壊れている鍵を外していく。
「お金が掛かる部分は、旦那と女将に言って、予算を組まんといかんからな。」
爺さんは旦那様を旦那と呼び、女将さんを女将と呼ぶ。
これだけでも旅館のなかでの爺さんの立ち位置が高いことが分かる。
しかし脱衣所にある体重計については、爺さんは面白いことを言っていた。
「この体重計は壊れとるんじゃ。壊れとるというか、本当より少し軽く表示されるんじゃ。だから、このままでいいと思っているんで修理する気はない。」
俺は、それでいいのかと思ったが、まあ毎日大浴場で体重を計る客もいないだろうから、軽く表示されてお客さんが気分よく過ごせるのならいいかと思った。
ただ風呂業務のなかで男の俺として困ったのは、女性風呂の掃除だ。
深夜と言えども、お客さんが入ってこないとも限らない。
その点、男性風呂は男である俺に取っては何ということはない。
普通にお客さんに挨拶して、掃除をしていて済みませんと言えば特に問題はない。
だが女性風呂は、掃除の最中にお客さんが入ってくると、お互いに気まずい思いをすることがある。
いや、気まずいと思っているのは俺だけかも知れないが、お客さんも何かしら思うところがあるだろう。
一度は妙齢の女性が入浴してきて焦った俺は掃除の途中で逃げ出した。
「余計怪しい行動だろうが。」
爺さんには呆れられた。
「堂々と掃除をしろ。」
アンケートに女性風呂の掃除当番は女性にしてくれと書かれるんじゃないかと俺はビクビクしていた。
「それは男性風呂でも同じことだよ。」
俺が悩みを打ち明けた里子は、視点の違いだけだということを説明してくれた。
「男性風呂で若い女性、わたしみたいな女性が掃除していたら、気にするお客さんは割と普通にいるわよ。」
「やっぱり、それなりの年齢の女性がするとか、男性が担当してれば、男性のお客さんも特に変化はないけど、わたしだと慌てて「出ます。」と言われたこともあるしね。」
「折角ゆっくりして貰おうと思っても、掃除で追い出していたのならダメだと思うのよね。」
どうしたら良いものかと思った俺は旦那様たちに相談した。
旦那様、女将さんに、裏方を一手に引き受けてくれているベテランの爺さん、先代の時代から務めている生き字引が相談相手だ。
「どうするのが良いと思うんだ。」
旦那様が俺に尋ねてきた。
「問題があるのは分かった。ただ、これまでは大きな問題になったことはなかった。しかし改善したいと、透が言い出したんだ。たたき台として、一つくらい答えを出すのが筋だな。」
「指示をくれと言うのは簡単だが、将来指示を出す立場になるのなら、それで済ましていてはダメだろう。」
そう言われても、俺には名案はすぐには浮ばなかった。
「ワシくらいじゃと何も問題にならんのだよな。まあ、透は若いからなあ。若女将もそうじゃろうが、若いうちは何かと問題になることもあるよな。」
爺さんは年齢が問題になるんじゃろうと言っている。
「でも、いつまでも透が風呂掃除をするわけじゃないとしても、爺ちゃんがいつまでも居てくれるわけでもないでしょ。次の当番が若い人だったら、結局問題になるのじゃないの。」
ベテランの爺さんを爺ちゃんと呼ぶ里子が口を挟む。
「まあ、それはどうするのが良いか考えて、また考えを聞かせておくれ。」
女将さんが一旦話し合いを締めた。
たったこれだけのことでも簡単に解決することじゃない。
あと風呂と言っても、温泉ではないが各部屋に備え付けの風呂もある。
うちの旅館にあるのは、家庭でもよく見られる標準的なものだ。
その掃除も俺の仕事だが、備え付けの風呂を磨きあげてもあまり意味はない。
備え付けの風呂が綺麗だからと言って、温泉旅館に来る人はいないだろう。
いや中にはいるかも知れないが、それは何か違う理由で泊まりにきた人のような気がする。
一般的に温泉旅館に来て、部屋に備え付けの風呂に入る人は少数だ。
利用するのは理由があって大浴場に入りたくない人だ。
代表的なのはオストメイトなどだろう。
ただ、風呂掃除に入るうちに、うちの旅館の大浴場はバリアフリーが不十分じゃないかなと俺は思うようにもなっていた。
いきすぎたバリアフリーは健常者をして異和感を感じさせることになる。
ちょうど良いくらいの構図にするのが一番だろうと思う。
里子に話しをすると里子も思ったことがあるということだった。
なんか仕事をしながら里子と相談することが出来ると、俺もそれなりに役立てるんじゃないかと勇気を貰えるような気がしてきた。
ただ仕事が風呂関係ばかりでは進歩がない。
というか、温泉旅館とはいえ俺は風呂屋の仕事しかしていない。
風呂屋の仕事は好きだが、別に風呂担当専門になりたいわけでもない。
将来、風呂のことしか分からない経営者だと、部下が苦労するだろう。
そういうことにならないように他の仕事もやっておくべきだろう。
風呂以外で旅館の売りとなる場所と言えば、客室もあるだろう。
ということで、俺は客室業務に足を踏み込んだ。
「透さん、若女将の夫としてではなく、単なる新人さんとして扱わしてもらいますよ。」
ベテランの爺さんの女性版と言ったらいいだろうか、髪は白くなりながらも眼光はするどい仲居頭のまとめ役の婆さんが俺の指導係だ。
この道、何年なんだろうか。
だが、旅館にいる仲居さん達は、みな優秀だ。
この婆さんが鍛えたのだとしたら、指導者として不足はない。
「よろしくおねがいいたします。」
完全な新人である俺としては何の文句もない。
びしばし鍛えて貰って構わない。
むしろ、そのほうが楽に仕事が覚えられていいだろう。
自分で考えて行動することに比べれば容易いことだ。
「まず部屋に入ったら、入り口のドアと窓を全て開けて換気します。」
「トイレを含めて全ての電気をつけます。」
「切れている電球がないかを確認するためです。」
「バスタオルや浴衣などは全て廊下にだします。」
「次に布団をチェックしてしまっていきますよ。」
客室に敷かれたままの布団を確認して、カバーを外していく。
その際に忘れ物がないかどうかを点検する。
布団を片付けるのは思った以上に重労働だ。
布団は、たたまずに引きっぱなしで放置してくれていた方が楽だと初めて知った。
当たり前だが、4人宿泊客が居れば、4つ布団がある。
滅多にないが、一人で泊まってくれた客だとラッキーだ。
逆に8人も泊まっていると、疲労感は半端じゃない。
旅館的には一部屋に8人は嬉しいだろうが、掃除する係としては、げんなりだ。
「次に、部屋のなかに忘れ物がないか、ざっと確認します。」
これもテレビの後ろとか、なんでこんな所にというところに置き忘れがあったりする。
押し入れや洗面所も結構な確率で置き忘れがある。
「捨てていったのか、忘れたのか分からないものも多いのですが、ゴミ箱に入っていないものは、全て忘れ物として扱います。」
ゴミ箱に入っているものは、さすがにゴミだろう。
それが忘れ物だと言われても、対応のしようがない。
だが、机のうえに置かれた書きさしの紙一枚でも忘れ物として保管しておく。
こちらにとっては意味がなくとも、お客さんにとっては重要な内容かもしれない。
「以前に、何かのアイデアを書き付けた紙は残ってないかと言われたことがあります。そのときも、きちんと保管していたのでお渡しすることができました。」
お客さんには、かなり感謝されたそうだ。
評判というものは、ものではなく、サービスに因るところが大きいだろう。
肝に銘じておくことだ。
忘れ物は、ビニール袋に入れて、日付と部屋番号を記載しておく。
フロントに連絡伝票を送って、ビニール袋は倉庫にしまっておく。
保管期間は3ヶ月を目安としているそうだ。
その期間に問い合わせがあれば対応する。
取りに来てくれるお客さんもいるが、大概は送ることになる。
「こちらから連絡はしないのですか?」
俺が質問すると、答えはケースバイケースとのことだった。
「お客さんが、どういう形で来られていたかが問題になる場合があります。お忍びだったりしたら、騒動になることもあります。」
「基本的には旅館から連絡することはありません。ただ明らかに、子供のリュックとかなら連絡する場合もあります。」
旅館に泊まる人もいろいろあるから、不用意に連絡をして怒りを買うこともあるということらしい。
「相手が、どのような人か、何をしにきたのか、どういう関係の人達か、さりげなく言葉の端から捉えておくのも、仲居の仕事です。」
一人の泊まり客は自殺の可能性も疑う必要がある。
「むずかしいですね。」
「どの仕事でも一緒でしょう。簡単な仕事なんてものはありませんよ。」
婆さんの指導も、生やさしいものじゃなかった。
忘れ物の確認が終わったら、次は掃除だった。
「最初は水回り、洗面に風呂とトイレですね。」
「部屋の備え付けの風呂が、汚れていることはあまりありません。」
「むしろ使用されていないことで汚れが溜まることが多いです。」
「バスタブとトイレを一気に洗い上げます。」
「一番先に洗っておけば、部屋の清掃をしている間にほぼ自然に乾きます。」
効率重視の掃除の順番だ。
バスタブ内と壁をスポンジで磨いて流し、乾いたタオルで上から下に拭く。
鏡はぬれタオルで拭き、洗面ボウルはスポンジで磨き、乾いたタオルで拭き上げる。
「重要なのは、髪の毛を残さないように注意することです。」
「あと金属部分は光具合が同じになるように磨き上げてください。」
あまり利用されることはないとは言っても、利用される可能性もある。
そのときに落胆されたのでは旅館の名折れになる。
掃除のプロフェッショナルの至言だ。
部屋は箒で掃いてから、掃除機を掛ける。
「家具は正しい向きや間隔で配置されているか確認してください。」
「部屋のなかの照明は乾いたタオルで拭きます。」
「ハンガーの数を確認し、向きもそろえます。」
「細かいことですが、テレビの音量設定や目覚まし時計のアラーム解除も抜かりなくお願いしますね。」
「前に泊まった人の痕跡を綺麗に消せたら合格です。」
俺は言われた通りに指示通りにやっていく。
婆さんは俺を指導しながらも、自分の手はテキパキと動いている。
あっという間に一部屋終わった。
本来掃除は複数で分業してやっていくほうが早いということだった。
確かに全てを自分がやるより、この作業だけというやり方のほうが早いだろう。
だが今日は俺の特訓なのか方式が違う。
なんでも全て独りで出来るようになれということらしい。
「じゃあ、このフロア頑張って下さいね。」
にこりともしない鬼指導教官の命令だった。
「透、元気にしている。」
フロア全ての部屋を掃除して回って、のびていた俺に里子が声を掛けてきた。
「いやあ、疲れた。鬼の教官様が扱いてくれたよ。」
「あはは、婆ちゃんは容赦ないからねえ。」
指導係の婆さんを、里子は婆ちゃんと呼んでいる。
「別に厳しいわけじゃないんだけど、ダメだしを何回も喰らうと精神的ダメージが大きかったよ。」
「わたしも婆ちゃんには鍛えられたからねえ。」
里子は笑って同情してくれた。
俺が掃除した部屋は婆さんが点検していった。
問題がある場所は指摘され、直ちに訂正していった。
ワンフロアなのに午前中いっぱい掛かった。
「でも、合格貰えたのでしょ。」
「ああ、最後は何とか通してくれたよ。」
「じゃあ、良いのじゃないの。」
里子は、まかないの昼ご飯を準備しながら、褒めてくれた。
「普通は数人でやるのを一人でやりきったのだから、すごいじゃないの。」
「まじかよ。あれ普通は一人でやっているんじゃないのかよ。」
俺は数人の仕事を単独でやらされていたらしい。
「てっきり一人分の仕事だと思っていたよ。」
「まあ、婆ちゃんなら、一人でやるけどね。」
婆さんは俺に自分と同じレベルを要求していたようだ。
高スペックのベテランに1日で追いつけるかよ。
「なんか新兵なのに、いきなり最前線に一人で立たされた感じだったよな。」
俺がぼやいていると、通りすがった教官様がのたまった。
「午後からは離れの掃除があるから、ご飯を食べたらきっちり休憩しておくのですよ。」
「早く一人前になってくださいよ。」
一人前というのは、どのレベルを指しているんだろうか。
全館を独りで制覇出来るのが一人前なんだろうか。
婆さんなら、それ以上を要求してきそうだった。
俺は気が遠くなりそうだった。
必要に迫られてだが、俺はお客さんの送迎のために運転免許を取得した。
うちの旅館では、最寄り駅から旅館まで、お客さんの送迎をしている。
重要ではあるが、どこの旅館でもやっている普通のサービスだ。
もちろん車両担当者はいるが、休みとか病気とかで稼動する送迎車が減っては困る。
そして人手が多くて困ることはない。
里子は免許を持っているが、着物の若女将が運転はない。
するとしても、最後の手段になる。
とうぜん俺に御鉢が回ってきた。
空き時間を見つけては、近くの自動車学校に通った。
短期間で集中して、学科と実技をこなした。
おかげで早々に免許を獲得することが出来た。
「これで運転が出来るぞ。」
「良かったね、透。早速、車両担当が指導してくれるそうだよ。」
里子が指さす先には、担当者が笑顔で待ち構えていた。
結論から言えば、なんのことはない、俺の業務が増大しただけだった。
送迎者は、お客さんに最初に接するので、対応次第で旅館そのものの印象を左右してしまう。
安全運転で運行するのは当然、お客さんを待たせないように時間を厳守して、荷物の積み下ろしなど、お客さんが気持ちよく感じるようにしないといけない。
列車の遅延情報などもきっちり把握しておいたほうがいい。
お客さんから観光について聞かれることもあるので、常に地域の最新情報を把握しておく必要もある。
新しく出来た施設や土産物もアンテナを張っておけば耳に入ってくるので説明ができる。
それに仕事は送迎だけじゃない。
自家用車などで来訪してくれた、お客さんのために、必要に応じて車を預かって移動させることもある。
左ハンドルの運転は出来ないとかではダメだ。
車によって運転の仕方が違うから、いろんな車の知識がないと危ない。
サイドブレーキがきちんと掛けられていなければ、事故が起きる可能性がある。
雪が降れば、除雪作業や車の上に積もった雪下ろしもしなければならない。
あとは旅館の送迎車両の洗車や点検管理なども仕事だ。
エンジンオイルやタイヤの状態など、車両のチェックは常時欠かせない。
送迎車の外装と内装を常にきれいにしておくのも当たり前のことだ。
お客さんに与える印象が違ってくる。
ここは客室の掃除に通じるものがある。
そして、ときどき送迎車の中に忘れ物を見つけることもある。
到着時はあまり問題にならないが、帰りの時には、お客さんが列車に乗るまでに発見して届けなければならない。
車両担当も割と忙しい。
送迎がないときには、旅館周辺の掃除もしている。
何であろうとも楽な仕事はない。
状況にあわせて臨機応変に対応をすることが求められている。
厨房業務とフロント業務を除く旅館業務を一通り経験した俺は、食事の個室会場の傍にある喫茶コーナーも担当するようになった。
厨房は板長が居るし、調理師免許を持っているわけでもなく、将来的にも取る予定もない俺は邪魔になるだろうという判断から、経験しなくてよいということになった。
専門意識の高い板長に自由に裁量してもらうほうが、料理の提供には良いという旦那様の判断でもある。
素人がごちゃごちゃして、下手をして食中毒でも起こしたら最悪だ。
フロントは予約を受けたり、各部署に指示を出したりと、うちの旅館では、かなり重要なポジションだ。
旅館全体の状況が把握出来ていて、人員調整も可能な立場でないと無理がある。
将来はともかく、今の俺では務まらないということで外された。
ちなみに喫茶コーナーの営業時間は、夕方から夜中までと、朝早くの時間だ。
もともと営業していたのが、なぜか誰もやらなくなっていた部分だ。
だから前任者は誰もいないので、俺が一から準備した。
こういうのは自分の好みで出来るので楽しい。
それに、ここにはビリヤード場での経験が役にたった。
ビリヤード場は、遊技場としてだけでなく、カウンターでの飲食店の届け出もしていた。
だから、軽食を含めて喫茶を提供していた。
俺は、それも一手に引き受けていたから、割と得意分野だ。
喫茶コーナーでは、コーヒーをメインに、夏場はカキ氷やソフトクリームも提供することにした。
ソフトクリームはバニラが王道だろう。
だが個人的にチョコも捨て難かったので、チョコとマーブルの二種も追加した。
期間限定で、他の味も出すのもいいだろう。
お客さんの反応を見ながら変更していくのも楽しい。
けっして業者の押しに負けたわけではない。
コーヒーは、まずは豆に凝った。
次にドリップ式で入れ方に拘った。
フィルターペーパーを濡らさないように少量の湯でコーヒーを蒸らす。
湯を注いで30秒から1分程度そのまま待つ。
蒸らしが終わったら、コーヒーの抽出だ。
真ん中から円を描くように、少しずつ湯を注ぐ。
人数分がサーバーに落ちたら、ドリッパーを外す。
朝のコーヒーは旅館を出立する前に、お客さんにくつろいで貰えるようにとサービスで提供した。
薫り高い旨いコーヒーは、それだけを目当てにくる、近所の隠居爺もいるくらいの人気になった。
無料だからって、泊り客でもないのに毎日飲みに来る神経の太さには驚いた。
だが、それが近くの大きな老舗旅館の先代当主だと、里子に知らされて更に面食らう俺だった。
隠居爺は俺を試しにきていたのかも知れん。
失礼なことをしなくて良かった。
「お前さんは、里子ちゃんの旦那じゃろ。」
「そうです。透と申します。」
「わしゃあ、近くにある老舗旅館の隠居爺じゃ。」
隠居の爺さんは、里子を小さい頃から知っている。
まあ20年前は、眼の前の爺は同業の現役だったわけだしな。
いまは跡継ぎに任せて悠々自適の年金生活を送っているそうだ。
頭は禿げ上がり、磨いているのか光が反射して鏡のようだ。
眼光は鋭く、隠居というには生臭い雰囲気を漂わせてもいる。
「お前さんは、面白い。自分の名声とコーヒーで客を呼び集めておるようじゃな。」
ひゃひゃっと笑う隠居爺は喰えない。
ただ爺の言うことは事実だ。
俺の虚名とコーヒーの薫りが合わさって、喫茶コーナーが理由で泊まってくれるカップルがいる。
目的は、コーヒーを二人で飲みながら、俺の目の前で彼女にプロポーズすることだ。
「結婚して、美味しいコーヒーをずっと一緒に飲んで欲しい。」
正直なところ、時と場所を考えてくれと言いたい。
他にも客がいることがあるのに、関係なしにやってくれる。
ただYESと言って貰える確率はかなり高い。
これまで成功率100%だ。
一度、プロポーズが実演されている時に、里子が来て、眼を白黒していた。
カウンターの端に潜んでいる隠居爺が黙って笑っていやがった。
二人が仲良く消えてから、里子に聞かれた。
「今の、なになのあれ?」
「え、何って、プロポーズ。」
「プロポーズ。喫茶コーナーのカウンターで?」
「そうだ、俺が見届け人らしい。」
「透が、見届け人?」
「そうだ。俺が見ているから、身命を掛けてということらしい。」
里子は、理解が追い付かないのか頭を振っている。
「まあ、本人達がいいのならいいけど、うちの旅館でプロポーズね。」
「成功率は100%だぞ。」
「すごいのか、すごくないのか、分からないわね。」
里子は、喫茶コーナーでプロポーズするのが流行るのはどうなのだろうと言いながら立ち去った。
まあそれが理由で宿泊客が少しでも増えているので、禁止するつもりは毛頭ないようだった。
立派な経営者の片鱗が見える里子だった。
夕方からの喫茶コーナーのコーヒーは流石に有料だ。
だが、良心的な値段で美味しい食後のコーヒーが味わえると評判を呼ぶことが出来た。
こういうのは口伝えの噂話が大事だ。
逆に、何かヘマをすると一瞬のうちに信用が地に落ちる。
俺は問題が起きないように細心の注意を払っていた。
ところで喫茶コーナーと言いつつ、夜はアルコールも提供していた。
ただ俺が提供出来るつまみは乾きものを中心に簡単なものだけだ。
本格的な肴は、厨房に依頼することにした。
酒は、地元の小さい蔵の日本酒を中心に、知られざるラインナップを揃えた。
これは大学に通っていることで情報を手にいれることが出来た。
地元出身の同級生に、蔵元の血筋が居た。
そいつから色々教えを乞うことが出来たのは有り難かった。
「透は日本酒呑んだことあるのか?」
「いや、未成年だし呑んだことないよ。」
「なんだと。呑んだこともない酒を、客に勧めるとは業腹だな。」
日本酒に誇りと自信を持つ、蔵元の同級生は酒瓶を片手に言い放った。
大学の構内、しかも真昼間だった。
「呑め。」
俺は勢いに圧されて口を付けた。
舌の上から喉に伝わるひんやりした薫りは、コーヒーに通ずるものがあった。
「うまいな。」
自然に口から静かに出た言葉に、同級生は満足してくれた。
「俺が口を利いてやる。少量で、他所には出回らないものを集めさせてやる。」
こういう縁は大事にしたい。
蔵元というのは、一見を嫌う。
付き合いというのは長い時間を掛けて成り立つものだ。
簡単に仲良くしてくれるものじゃない。
俺は同級生を手がかりに、いくつもの蔵元に貴重な伝手を得ることが出来た。
そして俺が蔵元の酒を広めることが出来れば、蔵元に買いに行ってくれる人も増えるだろう。
そういった、お互いに役立つ存在でないと、長い付き合いは続かない。
小さいことばかりだが、こつこつするのは俺の性に合っている。
懸念材料も少しずつ解消していった。
家族風呂を整備して、部屋の備え付けの風呂を利用するお客さんにも温泉に浸かって貰うようにした。
温泉旅館にきて、温泉に入らないなんて意味がない。
その家族風呂も趣向を凝らすようにした。
和風作りや洋風作り、年齢や性別に関係なく楽しめるようにした。
当然、バリアフリーを取り入れ、身体が不自由な方でも、安全に入れるように考慮した。
手すりを備えて、専用の車いすで直接入れるようにした。
家族風呂の整備の実務は爺さんに頼んだ。
爺さんはぶつぶつ言いながらも、結構楽しそうに作業をしてくれた。
「なかなか面倒なアイデアを出すじゃないか、透は。」
爺さんが俺を褒めてくれたと思いたい。
完成した風呂に一番に入っていた爺さんは嬉しそうだった。
だが家族風呂を改装したことで、家族連れのお客さんが増えた。
特に小さい子供を連れた人達に喜ばれた。
やはり、小さい子を面倒みるのには両親が揃っていたほうが安全だ。
一人で観ていると子供が怪我をする危険性がある。
言うことを聞かないのが子供の特性だからな。
なんで家族風呂には小さい子用の道具やおもちゃも揃えた。
そして風呂上りには、夕涼みが出来るように場所を整えた。
評価は高く、リピートしてくれる人も居た。
俺は旅館で仕事をしながらバイト時代のあれこれを思い出していた。
里子と出会ったビリヤード場だ。
「なんでバイトしたいの。」
俺がバイト希望で訪れたら、ちょうど居たビリヤード場のオーナーがすぐに面接をしてくれた。
「俺、幼馴染の女の子が好きなんです。で、高校に入学してすぐに告白したんです。」
「それで。」
「振られました。」
「そうかあ。」
「そいつと顔を会わしたくなくて、中学からやっていた陸上も止めたんです。そいつも陸上やっています。」
「陸上ね。」
「それで、することが無くなったんで、勉強ばっかりしているんです。成績は良くなったけど、友達もいなくなったし寂しくなったんです。」
「なるほど。」
「それで人との付き合いが欲しくて、バイトしたくなったんです。」
「実に変わった理由だな。普通なら、金が欲しいとか、ビリヤードが好きだとか言われるんだけどな。」
オーナーは笑っていた。
「まあ、いいんじゃないかな。人生いろいろだしな。良かったら今日から働いていくか。」
「お願いします。」
俺は迷うことなく頭を下げていた。
「ああ、ひとつ聞きたいんだけど、なんでうちのビリヤード場なんだい。」
「通学路にあって、眼に入ったからです。バイトしやすいだろうとも思いました。」
「君は本当に面白いな。気に入ったよ。頑張って働いてくれ。」
こんな調子で俺はビリヤード場のバイトを始めた。
最初にやったのは掃除だ。
まあ、どんな職場でも新人の仕事になるだろう。
台やラシャ、玉やキュー、床を綺麗にしていく。
「汚れていると、お客さんも気分が良くないから、楽しさ半減だ。眼に着いたらすぐ綺麗にしていってくれ。」
「わかりました。」
オーナーは、ひとつひとつ手本を見せてくれて、俺はそれを真似して仕事を覚えていった。
最初のうちは、オーナーが点検してくれていたが、合格を貰えたところから独り立ちしていった。
ポケットビリヤード台と四つ玉台の数がそれなりにあって、お客さんが増えてくると仕事も加速して増えていった。
客が入店したら、人数を確認して、遊戯予定時間を聞いて、伝票を書く。
混んでいるときには、時間制限をしたり延長を断る必要もある。
そのとき、言い方ひとつでお客さんの機嫌も悪くなる。
もめ事を避けるためにも、言葉使いは大事だ。
最初のうちは苦労した。
だが慣れてくると、捌けるようになってきた。
「いらっしゃいませ。何名ですか?」
「3人。」
「時間は?」
「一時間で頼むわ。」
「了解しました。ただし今日は混んでいるので、延長を御断りすることもあります。」
「わかった。」
「4番台でお願いします。」
伝票を書いてボードに貼る。
客には複写伝票をバインダーに挟んで渡す。
帰りに持ってきてもらって精算だ。
余裕のあるときには、客にビリヤードのコツを聞かれることもある。
はじめは俺も初心者なので、オーナーが一手に引き受けてくれていた。
だがそのうちに俺も上達して、簡単なことなら説明出来るようになった。
そして暇なときは、自分で玉を突いて練習もしていた。
上手く突けるようになると楽しくなって、もっと上達したくなった。
自分専用のキューも購入した。
自分で言うのもなんだが、それなりに突けるようになっていた。
そして人に教えるのも、かなり出来るようになっていた。
ビリヤードが縁となって、同じ高校の同級生と知り合いにもなれた。
「川村って、ここでバイトしていたんだ。」
「ああ、そうだよ。」
「始めて間がないから上手になりたいんだけど、どうしたらいい。」
教えているうちに、いろいろ話しをすることになって、仲良くなった。
中学時代からの友達はいなくなったが、新しい友達は出来た。
学校でも話をする相手が出来て、学校自体も楽しくなっていった。
それからカウンターでの軽食と飲み物は即時精算だった。
ビリヤードとは別会計で対応していた。
待ち時間に飲食する客もいた。
なぜか飲食だけする客もいたので割と忙しかった。
ここは飲食店じゃなくて、ビリヤード場なんだと言いたかった。
だけどオーナーは、同じお客さんだよと気にしてなかった。
その姿勢は見習うべきものだった。
提供していたものは、サンドイッチとかと炭酸飲料にコーヒーとかだった。
アルコールは出していなかった。
酔っぱらいは面倒だということで、オーナーは酒を置いてなかった。
たしかにラシャに吐かれたら大惨事だしな。
「ナポリタン一つに、紅茶一つ頼むわ。」
「紅茶は、アイスかホット、ミルクとレモンはどうしますか。」
「アイスでストレートで頼む。」
「かしこまりました。」
手早く準備して提供する。
ビリヤ-ドの順番が来たら、すぐに行ってしまう。
時間との勝負だったから、手際は早くなった。
お客さんに対する姿勢を叩きこまれた懐かしい記憶だ。
旦那様について、旅館の取引先とも顔繋ぎをする。
「こっちは、娘の夫になった透です。」
旦那様が俺を紹介してくれる。
いまだ婿入りはしていないので、婿ではなく夫と言ってくれる。
俺は頭を下げて挨拶をする。
「よろしく御願い致します。」
「こちらこそ、若輩者ですが、宜しく御願いいたします。」
旅館の浴衣やシーツなどのクリーニングを一手に引き受けてくれている業者の責任者に握手された。
海千山千の強者が、若輩者と謙遜してくるビジネス世界だ。
ほんものの若輩者である俺には、まだまだ厳しい。
だから旦那様が居る間に、慣れていくしかない。
「これは、最近売り出された名物でして。」
別の機会に挨拶した土産物の営業担当が熱心に勧めてくる。
売り出されたばかりで名物なのかよ、と突っ込みたくなる。
温泉饅頭、源泉を利用した饅頭が本当に旨いのか。
試食したが、俺には旨いとは思えなかった。
名物に旨い物なしと良く言われるはずだ。
「お茶菓子に如何でしょうか。手頃な値段でもありますし、気に入って頂ければお土産物コーナーにも置いて頂ければ。」
手練れの担当者は、お茶菓子にお土産にと喰い込んでこようとする。
見た目若いが、粘り腰で見事に口と手が動いている。
この土地と、どう関係あるんだという置物も勧めてくる。
「また、ゆっくり考えてから返事をさせて頂きますわ。」
旦那様が適当な頃合いに切り上げてくれた。
営業もしつこく食い下がる気はないようであっさりと引き下がった。
「また、参りますので、よろしく御願い致します。」
旦那様が俺に説明してくれた。
「まあ、ああいうのは日常茶飯事だ。彼も営業だからな。本気で言っているかは別問題。ただ仲良くなれば本音が聞ける。」
狐と狸の化かし合いは精神的に疲れる。
そんな遣り取りをすることに比べたら、バイト時代は恵まれていた。
仕入れ業者相手の対応は基本的にオーナーの仕事だった。
俺が関わることがあるとしても、数量調整だけだった。
値段交渉までは俺の仕事じゃなかった。
「もうちょっと、買っておいて頂戴よ。」
「うちレベルの規模で、そこまで必要ないですよ。」
「そんなことないでしょ。繁盛しているじゃないの。」
流行っていることと、消耗品が大量に要るかどうかは別だろう。
要らんものは、要らんですませないと、不良在庫を抱えるだけだ。
出入り業者と丁々発止をやっているところを里子に見られたことがある。
「凄いのね、透。」
「いや、たいしたことじゃないよ。」
「でも、仕入れの交渉までしているなんて。」
「値段交渉はない、数合わせだけだからね。」
「それでもすごいよ。」
里子は、俺を尊敬してくれたようだった。
俺は面映ゆい気持ちでいっぱいだった。
俺が旅館業務にも少し慣れてきた頃に、オーナーの妹さんが泊まりにきてくれた。
しかも閑散期に集団でやってきてくれた。
ありがたいが、問題はやってきたのが酒のみ集団だということだ。
かつての市民マラソンの打ち上げの悪夢が思い出される。
里子に出会う前のことだ。
酔っ払いに理屈は通じない。
もっと呑ませて潰したほうが処理は早い。
そう思わせてくれた彼女達だった。
市民マラソンと言えば、オーナーのことも思いだされる。
「透は走るのを止めたのか。」
「いまは走っていないですね。」
「もう走るのは嫌か?」
「いや、そんなことはないですよ。」
「そうか。それなら走らないか?」
「そうですね。いいですね。」
大学で陸上をしていたオーナーは市民ランナーになっていた。
自分で走るのに合わせて、俺を誘ってくれた。
誘ってくれただけじゃなくて、大学の陸上部にも紹介してくれた。
そのことが俺の人生の針路を変えてくれたと言っても過言じゃないだろう。
俺は電話連絡を受けて駅まで妹さん達を車で迎えにいった。
そして旅館まで連れてきた集団を、荷物運びを手伝いながら部屋まで案内をした。
「透、嫁さんは元気か。」
「なんで俺じゃなくて、里子のことを先に聞くんです。」
「当たり前じゃないか、ここは透の奥さんの旅館だろうが。」
「そうですが。」
「なら一番に気にするのは、実力者の奥さんだろうが。」
微妙に俺の心を折りにくる妹さんだった。
「里子は元気ですよ。」
俺は苦笑しながら答える以外なかった。
「そうか。それは良かった。で、お前は元気か。」
「はい、元気ですよ。」
「うん、まあ見れば分かるけどな。」
妹さんは豪快に笑いながら部屋に入って行った。
部屋に入って、内装を見た妹さんは俺に向かって言葉を掛けてきた。
「なかなか上等な部屋を用意してくれたんだな。」
「ええ、折角泊まって頂くのであれば、良い部屋に泊まって頂きたいですしね。」
閑散期で良い部屋も予約がなかったので、グレードアップして準備していた。
「気を使わせてすまんな。」
「いえいえ、妹さんにはお世話になりましたから。」
本当に妹さんには世話になった。
俺は落ち込んでいるときに妹さんに救われた。
汐里に人間として否定されたように思ったときだ。
ただ感謝はしているが、やり方は賛成できない。
あれはビリヤード場でオーナーに慰められていたときだ。
妹さんは、何も言わずに俺を掴まえて車の助手席に押し込んだ。
妹さんの車は右ハンドルだが外国製のクーペだ。
高速では200kmを超すことが出来ると豪語していた。
その車のタイヤを鳴らしてスピンターンをした妹さんは、一直線に海に向かっていった。
港までは、あっと言う間だった。
俺が何かを言う暇もなかった。
そして妹さんは、桟橋ギリギリに車をドリフトさせながら止めた。
海に車が落ちるんじゃないかと、俺はひやひやだったのを覚えている。
車が止まったら、妹さんに言われた。
「透、降りろ。」
俺が降りるために助手席を開けると、その瞬間に妹さんに突き落とされた。
油断していたというか、そんなことをされるとは思ってもみなかった俺は、見事に海に落ちた。
ただ幸いにというか、溺れることはなかった。
「あれで溺れていたら死んでいたんじゃないですかね。」
「いやあ、1回死んだほうが元気になるかなと思った。」
「死んだら、終わりでしょうが。」
「とうぜん死ぬ直前に引き上げる気だったよ。」
妹さんは自信満々で言っていた。
「スキューバダイビングのインストラクターは伊達じゃないよ。」
「むちゃくちゃですね。」
「臨死体験というのを経験したら、人間成長できるだろうからな。」
ショック療法と言うものだろう。
「そんな体験、だれもやりたくないですよ。」
「でも見事に立ち直れただろう。」
「確かに。」
「ただ透は溺れもせず、笑って泳いでいたから気持ち悪かったよ。」
スイミングスクールに通っていたのが無駄にならなかった良い例だろう。
しかし、だれも桟橋から突き落とされたときのために水泳は習わないだろう。
そんなことより、付き合う人の選び方を学んだほうが賢明で有益だろう。
ただマラソンが得意だったのが、心肺機能が鍛えられていたが分かったのは良かったかも知れない。
無茶苦茶なことを俺にしてくれた妹さんだが、女性との話の仕方も教えてくれた。
「透、そんなに会話で結論を求めるんじゃない。」
「女性は、話をするのが目的なんだ。」
「色々なところに話が飛ぶけど、楽しんでいるだけだ。」
俺には理解しにくい女性との会話だったが、里子と話をするときには役にたった。
「かわいい、という言葉は、いま心が動いているという意味くらいに捉えておけ。」
「女性が、かわいいと言ったものをプレゼントしても外れることが多い。」
「女性に贈り物をするのなら、相手との関係を考えて、出来るなら相手と一緒に選んだほうが、まだ意味がある。」
「ただ誠意を示すという分には、はずれでも喜んでもらえる。」
「自分に好意を持ってくれている女性限定だがな。」
贈り物の選び方もレクチャーしてくれた。
その後で、妹さん相手に実践練習が待っていたのは言うまでもない。
部屋に到着して一息ついた妹さんが、荷物から箱を取り出した。
「これは土産だ。」
酒かと思ったが、妹さんが渡してきたのは、評判のタルトクッキーだった。
「里子が喜びますよ。ありがとうございます。」
俺が御礼を言っているところに、里子と女将さんが来てくれた。
「本日は、ようこそお越し下さいましてありがとうございます。」
女将と若女将の挨拶の揃い踏みだ。
二人が俺の恩人に対して礼を尽くしてくれる。
俺も後ろに下がり、正座をして挨拶をした。
女将さんから温泉の説明を聞いた集団は、浴衣を着てさっそく出撃していった。
夕食後に、俺の居るカウンターに酒のみ集団はやってきた。
「お風呂はどうでしたか。」
「肌が綺麗になって良かったぞ。」
「気に入って頂けて嬉しいです。」
「病気治癒にも効くと書いてあったな。」
「そうですね、血のめぐりが良くなって自然治癒力が上昇すると思いますよ。」
「打ち身や腰痛にはよさそうだな。」
「ええ、湯治に泊まられる方もおられますしね。」
妹さん達は温泉に満足してくれたようだった。
「夕食もずいぶんサービスして貰ったみたいだ。」
「そうなんですか。そこは俺の立ち入れる範囲じゃないんで。」
厨房関係には俺は手出し出来ない。
俺は料理人になるわけでもないし、あまり手を広げても仕方ない。
喫茶コーナー程度で済ましておくのが良いだろうと思っている。
爺さんにも言われたことだが、本職の板前の邪魔をしても意味はない。
料理は、里子か女将さんが気を利かしてくれたんだろう。
「で、うまい酒がここには用意されていると聞いてな。」
妹さんの顔が期待で綻んでいる。
「準備してありますよ。」
俺は蔵元から仕入れていた、酒を並べて行った。
日本酒の仕込み時期から時間が経っているから、生酒はなく火入れのみだが、それでも胸を張って勧めることが出来る逸品ばかりだ。
蔵元の血筋に連なる大学の同級生に感謝だ。
やつは卒業したら杜氏になると言っていた。
必ずや旨い酒を造ってくれることだろう。
やつが造ってくれた酒をじっくりと味わいたいもんだ。
将来の楽しみの一つだ。
俺が並べた酒瓶を目の前にした妹さん達の眼が輝いている。
「お勧めはどれだ。」
「こちらのお酒を最初に召し上がってください。」
長い酒盛りの始まりだった。
喫茶コーナーで出せるアテでは酒には足りない。
ピザで呑めないことはないだろうが、やはり違うだろう。
剣先スルメを焼いてマヨネーズと唐辛子を付けるもの、漬けホタテ、手羽先のパリッと焼きなど、厨房にお願いして出してもらった。
俺は途中で深夜の風呂掃除に出掛けたが、帰ってきても宴会は続いていた。
さすがに明け方が近くなったところで御開きになったが、蓄えてあった酒がかなりの数消え去った。
恐るべきザル集団だった。
だが、里子との付き合い方を教えてくれたのは妹さんだ。
これくらいなら恩返しとして安いものだ。
翌日、昼近くまで寝ていた妹さん達は、朝ごはんと言う名の昼ごはんを食べてから帰っていった。
「また泊まりにくるな。次は冬に来たい。雪見酒が楽しみだ。」
「はい、新酒もお出しできると思いますからお待ちしております。」
俺は笑って返事をするしかなかった。
でも、今回は喫茶コーナーで暴れることもなく、女子会を延々としていただけだったから被害はなかった。
つまみも土地のものを楽しんでもらえたようで、良かったと思う。
次にはもっと喜んで貰えるものを提供できるようにして精進しておきたいと考えていた。
妹さん達が帰ってから、しばらくして、こんどは大学の集団が来た。
ガタイの良い元気な大集団だ。
「透、元気にしていたか。」
「コーチありがとうございます。」
「本番まであと少しだからな、頑張ろうな。でも、こんな立派な旅館で合宿させて貰えるのは有り難いよ。」
大学のコーチ陣が陸上部のメンバーを連れて旅館に合宿に来た。
旦那様が特別に離れを陸上部の貸切にしてくれた。
陸上部のメンバーは、俺の夏の本番への調整も兼ねて一緒に合宿をしてくれる。
ペースを確実に維持するには、練習のときにペーサーが複数人必要だ。
大学の陸上部のメンバーは部員でもない俺のために力を貸してくれる。
「まあ、俺たちの大学の名声も掛かっているしな。」
御礼をいうとキャブテンには笑って言われた。
俺は大学が違うし陸上部員でもないが、去年から名誉部員になっている。
「そうだな、俺たちコーチ陣にとっても正念場だしな。」
コーチ陣の指導が世界に通用することを証明するのが、こんどの世界イベントでの俺の役目だ。
失敗は許されない。
「透は俺たちの希望の星だからな。」
コーチ陣の口元は笑っているが、眼は笑っていない。
悲願達成まであと少しだ。
ところでコーチ陣というが、実際に走るアスリートは少ない。
では、何の専門家がいるのかということだ。
まず人体工学の専門家がいる。
人体というより、動物の力学を研究している。
速くタフに走るのには、どのような体型がふさわしいのか。
地球上に存在する生物を研究して、走ることに適した条件を追及している。
そして、人間において、どの筋肉を鍛えたらいいのか、どのくらいの太さがあればいいのかの最適解を求めようとしている。
持久力の筋肉と瞬発力の筋肉のベストな配合を考えている。
本来の目的は、人型ロボットの作成だった。
そして人体工学の専門家の理想とする体型を作るために、必要な栄養素は何かを考える管理栄養士がいる。
どの食材から、どの栄養を摂取して、身体のどこの部位に反映させるか。
トレーニングの専門家と組んで理想体型を形成しようとしている。
この筋肉を鍛えるために、こういった姿勢の運動を繰り返して、この程度の力が付けばよいというものだった。
鍛えれば良いと言うわけでもなく、あくまでバランスを重要視している。
さらに新陳代謝のサイクルを効率よく回すために、水分摂取の量とタイミング、睡眠時間はどのくらいが良いかまで指示された。
最後に、走る専門家、アスリートだ。
速く一定の速度で走るための走法を研究している。
その走法を身につけるために、どんな練習が適しているか考えている。
それらの集大成が、俺に注ぎ込まれている。
「みなさん、よろしくお願い致します。」
里子が離れに挨拶に来た。
「おお、噂の奥様ですね。聞いている以上に美しい。」
コーチの一人がにこやかに挨拶をしている。
「御上手ですね。会う女性全員に仰っておられるのじゃないのですか。」
里子が笑顔でいうと、コーチは顔を引き締めて応えた。
「そんなことはありません。透がいつも惚気ているので、会うのが楽しみだったんですよ。」
「まあ、そうなのですか。」
笑い声が上がり穏やかな時間が流れる。
俺は旅館業務を一旦離れて、走ることだけに集中する。
体を休め、身体を作り、体調を整える。
軽く走ってペースの確認をする。
世界戦で勝利するために万端の準備を整えていった。
世界イベントの行われる国への出発の日が来た。
レースのある日より10日前のことだ。
決戦の日に向けて、異国の風土になれて調整するために早めに現地入りする。
これまで力を貸してくれたコーチ陣も半数が同行してくれる。
そして最後まで一緒に合宿をしてくれた陸上部のメンバーが旅館の前に勢揃いして見送ってくれた。
「行ってらっしゃい。」
里子が声を掛けてくる。
「ああ、行ってくる。」
俺は里子の顔を見ながら返事をした。
仕事があるから、里子は空港までは来られない。
繁茂期の夏に若女将が旅館を空けることは許されない。
女将さんと旦那様は行って来たらいいと言ってくれたが、里子は行かないと返事をしていた。
前日の夜に里子は俺に向かって言った。
「透。無理をしないでね。金メダルは獲れたらいいけど、獲れなくても透はわたしの大好きな旦那様だからね。」
微妙に意味が通らない言葉だったが、言いたいことは分かった。
だが俺は里子のために金メダルを獲りに行く。
「メダルを獲るのは、約束だからな。必ず持って帰ってくるよ。」
俺は里子にメダルと持って帰ってくることを誓った。
だが大事なレースの直前に俺の人生を左右する出来事が起きた。
誤字脱字、文脈不整合等があれば御指摘下さい。
今回の話に登場した人物の中に、里子の人格形成に影響を与えた人との繋がりを持つ人がいます。
里子が爺ちゃんと呼ぶベテランの爺さんのことです。
ただ人格形成に影響を与えた人は、まだ登場していません。
次の投稿(第6話目)では、里子視点での物語を展開する予定で、その話に登場してきます。
そして里子が汐里を受け入れた理由も明らかにしたいと思います。