陽の章
「キャンセル不可だよ。」
「返品もなしだよ。クーリングオフもないからね。」
「それでもいいの?」
里子は上目遣いでくぐもった声で俺に向かって聞いてきた。だが俺に異存があるはずもない。
「なんの問題もない。注文を確定してくれ。」
俺は里子の言葉の内容に合わせて返事をする。
「最終確認です。本当にいいのですね。後で説明不足とか欠陥があってもクレームは受け付けませんよ。」
俺に対して里子の口調が変わる。事務的な内容説明だが表情は真剣だ。
「ああ俺は本気だ。」
俺は真面目に答える。俺の答えを聞いた里子は、息を呑んで一拍置いてから零れるような泣き笑顔を見せた。しかし営業トークで続ける。
「お買い上げありがとうございます。配達にされますか、それともお持ち帰りにされますか。」
「お持ち帰りで。」
俺の即答に里子は顔を赤く上気させながらうなずいた。
「ありがとうございます。死ぬまで責任をもって可愛がって飼って下さいね。約束ですよ。」
照れくさいのか逆にハキハキしている。だが眼には涙がある。
「約束するよ。大事にするよ。」
ペットショップで働いている里子との会話だった。
だが俺が買い上げたのは犬でもなければ猫でもない。
場所もペットショップではない。クリスマスの夜景の見える展望台だ。
俺が里子にプロポーズして、里子が受け入れてくれた瞬間だった。
大粒の涙を流す里子は無言で俺に抱きついてきた。俺は里子を抱き止め、里子の顔を少し上に向けさせてキスをした。言葉は要らない。体温だけでお互いの思いが伝わった。
しばらく無言で抱きあっていた俺たちは、会えなかった時間の分まで相手の成分を全身に吸い込んでいた。お互いにお互いの成分をたっぷり吸い込んで満足して落ち着いてからゆっくりと会話を続ける。里子は俺の腕の中に居る。
「お買い上げ頂いた女の子は、割と不器用です。努力はしますけど、御飯がまずくても怒らないで下さいね。」
里子が俺を見上げている。俺は里子より頭ひとつ背が高くなっている。一年半前は、あまり変わらなかった。俺の身長は伸びている。人間としても成長出来ているだろうか。
「里子が作ってくれたものは何でも美味しいよ。これまでも色々作ってくれたじゃないか。」
事実、里子は料理が下手と言うことはない。味付けが俺の好みと違うこともあったが、それは産まれ育った土地と環境が違うのだから当然だろう。不満を言う筋合いのものではない。満足がいかないのなら自分で作ってみせろと言うところだろう。
「掃除や洗濯なども、問題があれば仰って下さいね。」
ここは確かに里子の不器用が能力を少し発揮することがある。白いものが色物になるのは日常茶飯事だ。だが家事は別に女性だけの仕事じゃないだろう。俺がするのでもおかしくない。してもらって文句を言うくらいなら自分から率先してするべきだろう。
「あとは、その、夜に御不満があれば何でも仰って下さいね。」
最後に里子が紅くなりながら小さい声で付け加えた。
「ありがとう。かわいいよ。」
ここにたどり着く迄は長い道のりだった。そして出会いから今までが走馬灯のように俺の脳裏に浮かびあがった。
時はクリスマス。里子からは最後の思い出にデートをしようと言われていた。だが俺は最後の思い出にするつもりなどなかった。最後まで里子と結ばれる道を求めて足掻いて足掻いた。そして今日を迎えた。
「実家に帰るの。両親からは見合いを薦められているの。」
里子の実家は温泉地にある老舗の旅館だ。里子は長女で、下に妹がいるだけだ。いずれ二人のうちのどちらかに婿を迎えて家業を継ぐことになると言っていた。
妹には自由に生きて欲しいから、わたしが婿を迎える役目は果たすと里子は前々から言っていた。それは俺も知っていた。だが、まだまだ先の話だと思っていた。こんなに早くその日が来るとは思っても見なかった。
しかし考えてみれば、結婚自体は早いとは言えないかも知れない。里子は24歳になっている。結婚する年頃としてはおかしくない。
それに里子のお父さんが先日脳梗塞で倒れた。幸いにも軽く済んでお父さんは後遺症もほとんどないらしい。だがもう一度脳梗塞が起こればどうなるかは分からない。お父さんが倒れてそのまま亡くなるということがあれば、旅館はたちまちに立ち行かなくなるだろう。
旅館が潰れるといった事態を避けるためにも、今から準備をしておくというのは経営者として当たり前のことだろう。そして跡継ぎを得ても、一人前になるには10年は必要だろう。だからまだお父さんが元気で指導出来る間に後継者を迎えたいと考えるのは自然なことだろう。
「俺ではダメか。俺ではおまえの夫にはなれないか?おまえの隣に立つ資格は俺にはないのか。」
里子は地元の高校を卒業してから、都会の大学に進学した。地元で旅館の女将の人生を送ることになるであろう里子に、青春時代の思い出を作らせようという両親の親心からくる進路設定だった。
里子も、それを承知の上で、大学に通った。そして大学を卒業してからも、しばらくは好きな仕事をしたいという里子の願いを両親は認めてくれた。それで里子は大学を卒業後、ペットショップスタッフとして働いていた。
「透はまだまだ無限の可能性があるんだよ。わたしの実家の問題に縛られる必要なんかない。わたしは透と出会えて幸せだった。短い時間だったけど、一生の記憶だよ。だから透は透の人生を歩むの。これは決まったこと。」
里子は笑って俺の申し出を柔らかくきっぱりと拒絶した。今年の8月のことだった。
それ以降、俺が何度連絡して説得しても里子は翻意しなかった。それだけじゃなくて、俺からの連絡も拒絶してきた。だから俺は最後にデートがしたいと頼み込んだ。そうすると言われたのがクリスマスデートだった。
年明けに里子は実家に帰る。見合いをして婿取り結婚をして実家を継ぐと言った。それを聞いた俺は、それまでが勝負だと覚悟した。
里子の実家の旅館はそれなりに名が知られた存在だ。調べればすぐに分かる。俺は密かに里子の父親に面会を申し込んだ。
里子には知らせていない。見も知らぬ俺からの面会を不審に思われたようだが、会うだけは会ってみようという判断のもと、父親は俺に会ってくれた。
俺は包み隠さず話をした。
自分が18歳の高校3年生であること、一年ほど前から里子と恋人として付き合っていること、里子には秘密で実家に現れていること。
お父さんが倒れ里子が婿を取り実家を継ぐ予定になったことは知っていること、元々婿取りの予定があったことは知っていたこと、俺が婿入り希望したら里子が実家の問題に巻き込まれる必要はないと俺のことを拒絶したこと。
俺が話すのを父親は黙って聞いていてくれた。
「君のことは知らなかった。里子は何も言ってなかったからね。見合いの話をしたときも、普通に見合いを受け入れてくれた。昔からの約束だからと言っていたしね。」
「だが恋人がいるならいると言ってもいいだろうに言わなかったよ。別に婿は見合いで迎えなければならない理由はないんだしね。だけど君の話を聞く限り、里子は君を巻き込まないようにしたんだよね。それで君は何をしにここに来たんだね。」
里子の父親は特に怒っている様子でもなかった。
「俺に里子と結婚する資格はありませんでしょうか。ここの近くの大学に進学すれば、学生と旅館での跡継ぎ修行の二束草鞋も不可能ではないと思います。」
「それは確かに不可能ではないだろうね。だが、既に見合いの話を進めている。相手もいる。それを覆すだけのものが君になければ難しいだろう。それとそれでは里子が納得しないのではないかね。里子は君のことを考えて拒絶したんだろう。」
「仰る通りです。ですが、わたしが里子と結婚することが、旅館の経営にプラスになると判断して頂けるだけの材料があれば、わたしのことを里子の夫として考えに入れて頂けますでしょうか。里子は里子で俺自身が口説き落としてみせます。」
俺は、お父さんはお父さん、里子は里子で分けて説得するつもりだった。
「ふむ。それだけの材料があるのなら話は別だ。だが何を君は示せるのだい。」
「ご納得頂けるだけのものを用意致します。ただ、いま直ぐには無理です。お時間の猶予を頂きたいです。」
「あまり長くは待てないよ。」
「構いません。今年いっぱい御時間を頂けませんでしょうか。」
「年末か。時間的には問題ないだろう。もともと見合いは年明けと考えていたしね。ただ君が何を見せてくれるのかは少し興味があるよ。親としては娘が喜ぶ話になるほうが良いからね。だがそれで里子は説得できるのかね。」
「何かを御見せするのではないです。いや、少し表現がおかしいですね。しかし、お父様が御自身でこれならば婿に迎えても良いと思えるだけの人物であると認識して頂けるように致します。それに里子はお父様が俺を受け入れて頂ければ口説けると思っています。」
「ふむ。良くわからないが、君が何かを持ってくるというわけではないということで良いのかな。」
「はい。」
「それで、わたしが君に関して婿として納得いくだけの材料を示すということだね。」
「そうです。」
「わかった。年末まで待つことにするよ。」
「ありがとうございます。」
俺は頭を畳に付けて御礼を言った。俺は第一関門を突破した。
俺は里子の実家から帰ると、すぐにバイト先のオーナーを訪ねた。
俺は高校1年の春から、ビリヤード場でバイトをしている。
高校入学直後に告白した幼なじみの汐里に振られて陸上部に入ることを止めてからだ。
ビリヤード場のオーナーは陸上経験者だ。オーナーが通った大学の陸上部メンバーとコーチに頭を下げた。理由を説明して教えを乞い練習を積んだ。
以前みたいに市民ランナーとして、そこそこの成績を出すためじゃない。記録を出すための特訓だ。
俺は生活の全てを走ることに注いだ。栄養管理から身体管理、練習方法から走法まで、コーチ陣の指導に必死に従った。
目標は12月に開催される選考会を兼ねたフルマラソン大会だ。
優勝すれば4年に一度の参加することに意義があると言われる世界イベントの出場資格を得ることが出来る。
だが、選考会にエントリーするためには標準記録を突破する必要がある。
だから前哨戦として、公式記録を得るためのハーフマラソンに参加しなければならなかった。そして俺は人生初の陸連登録をした。
俺は寝食を忘れて走ることに没頭した。中学時代もそれなりには頑張っていた。だが、とても比較するのもおかしいくらいの圧倒的な物理的時間的な差だった。寝ても覚めても走ることだけを求めた。1秒でも速く走ることだけを考えた。人間やれば、人間に出来る範囲で不可能なことはない。
学業に割く労力は最低限で済ませた。高校に入ってから部活人生を選ばなかった俺は勉学には力を注いでいた。だから大学入試を突破するだけの貯金はある。本番で余程のことをしなければ里子の実家近くの大学には合格出来る自信があった。
コーチ陣の教えのおかげで標準記録は余裕で突破出来た。
コーチ陣からは言われた。本番でも同じ走りをするんだ。何も考えるな。頭を空にして走ることだけを考えろと。
俺は訓練でマシーンのように精確に走ることが出来るようになっていた。ラップタイムは最初から最後まで一定で狂わない。1kmあたりの走破時間は42kmに渡って同じだ。そしてそれを支えるだけのスタミナを身に着けていた。
道路のアップダウンやランナー同士の駆け引きに一切影響を受けない。勝つマラソンではなく、記録を叩き出す走りだ。結果が他の選手より速ければ勝利だ。
俺は一般参加者として選考会を兼ねたフルマラソン大会で走った。寒風吹き荒ぶ氷点下に近い気温でのレースだった。だが国内外からの招待参加者に混じり、ラップをコンスタントに刻み、ペースを一切狂わすことなく最後まで貫徹した。
結果は、優勝候補筆頭をぶち破っての優勝だった。
これで俺の世界イベントへの出場権が確定した。
無名だった俺の名前は国内あまねく至るところに知れ渡った。
優勝した俺は里子の父親に連絡した。
「虚名かも知れません。」
「ですが名前を知られた存在の俺は婿として不足ですか。」
父親は言ってくれた。
「君は自分の力でそこに辿りついたんだ。」
「評価する価値があるだろう。」
「それ自体、君が里子に掛ける思いの強さじゃないかな。」
「娘の親として実に嬉しいよ。」
「そこまで娘を思ってくれる男が居たんだからな。」
「里子が君を選んだなら反対はしない。」
「見合いの縁談は一時凍結してあったから、心配は要らんよ。」
父親は俺を待っていてくれた。感謝した。涙が流れた。
俺はクリスマスデートの待ち合わせ場所、夜景の見える展望台で、里子にダイヤのエンゲージリングを見せた。稼いだバイト代を注ぎ込んだ一世一代の勝負品だ。サイズは一年前のクリスマスに里子にリングをプレゼントしたから知っていた。
「俺と結婚してくれ、里子。」
「そんなのは無理。言ったでしょ。わたしは実家に帰って見合いするんだって。透はマラソンで世界のメダルを狙う立場になったんだよ。これからの人生があるんだよ。わたしなんかに関わっていたらダメ。」
ダイヤを見ても里子の反応に変化はなかった。だが俺は言った。
「俺がマラソンで優勝したのは里子と一緒になるためだよ。マラソンで得られた俺の虚名が旅館の経営にプラスになるとお父さんは評価してくれたよ。電話を掛けて確認してくれ。」
「お父さん?なんでお父さんが出てくるの。」
里子はとまどいの疑問を上げた。だが、その場で父親に電話をした。
「もしもしお父さん。」
「透くんは得難い男じゃないかな。あとは里子自身が決めたらいい。わたしは反対しないよ。そして里子の幸せを祈っているよ。」
俺がお父さんと話を付けていたことを知って、電話を終えた里子は呆然として俺を見つめていた。そして再起動した里子と冒頭の会話が繰り広げられた。
その日、クリスマスが俺と里子にとって、二度目の付き合い初めになった。
年が明けた一月に俺は両親に里子の話をした。汐里とのことも話した。
俺が高校3年の夏場から人が変わったように気が狂ったように走ることに熱中した理由を、両親は初めて知った。なんのためにマラソンを走り世界の頂点を獲ろうとしたのかを知った。
そして高校に入って陸上部に入部しなかった理由も知った。
全てを聞いて知った両親は、俺が選んだ俺の人生の進路を認めてくれた。
旅館の書き入れ時を避けて、正月が過ぎてから里子と里子の両親に、俺は自分の両親と3人で挨拶に行った。里子の両親は穏やかに俺と里子の結婚を祝福してくれた。
里子の嬉しそうな幸せな顔を見ることが出来て俺は満足だった。俺の眼から涙が流れた。
「不束者ですが、末永く宜しくお願いします。」
振袖に身を包んだ里子は俺に向かって静かに頭を下げてくれた。
里子は俺より一足早く実家に戻り若女将としての修行をスタートさせていた。俺たちは、大学入試が終わり、俺が高校を卒業したら結婚式を挙げることにした。
里子の父親は、婿入りはしなくて良いと言ってくれた。里子と一緒になって旅館を守ってくれたらいいと言われた。
実のところ、高校を卒業して入学試験を受けて大学に入学する段階で名前が変わると事務手続きだけで死ぬような思いをするので、大いに助かった。
だが、名跡を絶やすわけにはいかない。俺は大学を卒業したら養子となって婿入りすることでお互いの妥協を図った。
三学期が始まった高校で俺はかつての陸上仲間に囲まれた。
俺が中学時代に一緒に走っていた同級生たちだ。
高校に入って俺が陸上部に入部せず、何を言われても振り向かず、袂を別ったメンバー達だった。話をすることもなくなっていた連中だ。
彼らはテレビを通じてマラソンで優勝した俺を見ていた。
「あれは何だよ。あんな力をどうやってつけたんだよ。」
「陸上はやめたんじゃなかったのか。」
「俺は陸上部に入るのを止めたんだ。」
「走るのを止めたんじゃない。」
事実、俺は走るのは止めていなかった。
市民ランナーとして走ることは一生の楽しみにするつもりだった。
いまは選手としてメダルを狙う立場になったが。
原動力は惚れた女と結婚することだった。
高校から陸上で有名な大学に推薦するという話が出た。
俺は笑い飛ばした。
「何を今更言い出すんだ。」
「俺の知ったことではない。」
俺は里子の地元の大学に行くんだ。
そして里子と結婚して旅館を継ぐ。
汐里は何かを言いたげだったが結局何も言わなかった。
里子のことを知った汐里は自分のときとの違いが言いたかったのかもしれない。
けれども俺は何も聞かなかったし話もしなかった。
汐里とは幼なじみとしての関係すらも既に無くなっている。
離れた道は交わることもなくなっている。
小さい頃は仲が良かった。
もっともっと大人になって年を取って、人間に円熟味を増すことがあれば、思い出話をすることが出来るかも知れないが、今は無理だ。
誤字脱字、文脈不整合等がありましたら御指摘下さい。