陰の章
「ごめんなさい。透のことは友達としか見てないの。だから恋人として付き合うのは無理。ごめんなさい。」
幼なじみの汐里に告白して断られた。小さい頃から一緒にいることが多かったし、俺は汐里の側にいるものだと考えていた。自分で言うのもなんだが俺と汐里の仲も割と良かった。
だから、その延長線上に告白があって恋人として付き合いが始められるものだと普通に考えていた。だけどそう思っていたのは俺だけだった。
高校に入学して間もない4月の土曜日のことだった。時間がたってしまうと、汐里が誰かに告白されてしまうかもしれない。そうなると俺が付き合うことが出来ないと焦った気持ちがあった。汐里とクラスが別になったのも焦りに拍車を掛けていた。
普通に考えたら誰かが告白したとしても、汐里がOKするかどうかは分からないことだった。なのにその時の俺は、告白されたら汐里に恋人が出来るとしか考えることが出来なかった。
汐里はかわいいし綺麗で気配りも出来る。中学時代には周りの男子からも女子からも人気があった。狙っている男子は一人や二人じゃなかっただろう。だけど汐里は特定の恋人を作ることもなく中学卒業を迎えていた。
汐里に恋人がいない今のうちがチャンスだと、焦っていた俺は告白のタイミングや場所と言うものにほとんど気を配ることが出来なかった。当然相手の気持ちにも考えが及んでいなかった。
家からコンビニに買い物に行こうとした時にたまたま出会った汐里に告白をしてしまったのだ。
「やあ汐里。俺と付き合ってくれないだろうか。」
「何を買いに行くの。」
俺に問題があっただろう。格好は普段着だ。サンダル履きに財布を手に握っていた。本当に買い物に行く途中だった。冷静に考えたら俺でもその格好で声を掛けられたら告白だとは思わないだろう。
汐里も買い物に付き合うものだとばかり思ったのだろう。告白だとは全く思わず軽く返事を返してきた。だが俺は買い物に付き合ってほしいわけじゃなかった。
「違うよ。そうじゃない。」
俺の反応に汐里は変な顔をしていた。
「そうじゃないって、どういう意味?」
「だから付き合うってのは、そのなんだ。」
俺はちゃんと考えて覚悟を決めて告白したわけじゃなかった。汐里に出会って勢いで声を掛けただけだ。そんな俺から上手い言葉が出てくるはずもない。結局出てきた言葉はとうてい汐里の気持ちを動かすことが出来る代物ではなかった。
「だから、一緒に御飯食べたり映画にいったりする特別な関係になりたい、ってこと。」
俺の分かりにくい言葉を汐里はなんとか理解してくれたようだった。
「えっと、それって恋人になりたい、ってこと。」
「そうだよ。」
それに対する答えが冒頭だった。しかも続きがあった。
「恋人としては無理だけど、友達としてなら御飯とか映画は構わないわよ。」
汐里としては、ごく普通の反応だっただろう。恋人としては無理でも、友達としては問題ない。これまで幼なじみとして過ごしてきた時間は無意味じゃない。
それに考えてみれば、普通の友達として過ごしているうちに、特別な関係になれる道もあっただろう。
けれども俺には耐えられなかった。告白して振られて、これまでの関係が維持出来るとは考えられなかった。
だから、告白をして振られた日から汐里を避けるようになった。振られた日はコンビニに買い物に行くことも出来ず汐里と何と言って別れたのかも覚えていない。
俺と汐里は、中学時代陸上部だった。俺たちだけではなく、他にも男女含めて何人も仲の良い友達が陸上部にいた。そして同じ高校に進学した仲間で、高校でも陸上部に入って頑張ろうと約束していた。
俺は昔から速く走るのが得意というわけではなかった。ただ小学校の頃、冬場はグラウンドがぬかるむことが多く、体育で校外を走ることが多かった。そのときは早かった。ようは持久走に向いていた。
「透は長距離ランナーを目指すのがいいだろうな。」
中学の時に陸上部顧問にも言われた。
「高校では5000mがあるから、やってみたらいいんじゃないか。」
中学では3000mまでしかなかったし、勝つのは難しかった。だが距離が延びれば勝機も出てくる。俺も長距離を目標としていた。
「透。陸上部の仮入部の手続きに行こうぜ。」
中学からの陸上部仲間の真二が月曜日の放課後に声を掛けてきた。
今週から2週間は仮入部期間だ。お試しで仮入部して自分には合わないと思えば本入部しなくて良い。だから本気ではなく、冷やかしの体験入部も認められている。もちろん逆に見込みがあると思われたら本気の勧誘がくるのは世の常だろう。
「ごめん。ちょっと今日は用事があって早く帰らないと駄目なんだ。」
嘘だ。汐里に会いたくないからだ。
「ええ、そうなんか。仕方ないよな。じゃ、透は明日からで、俺は今日から行ってくるわ。」
真二は特に疑問に思った様子もなく手を振って陸上部に向かって行った。俺は真二が簡単に納得してくれたのに感謝して家路に着いた。
家に帰ると、母親から疑問の声が掛けられた。
「あんた、部活はどうしたの?今日から仮入部期間で部活だって言っていたじゃないの。」
母親に部活の話をしたのは先週のことだ。汐里に告白する前だった。
「いや、今日は体調が悪かったら帰ってきたんだよ。」
俺は嘘を重ねた。
「身体は大丈夫なの。」
「たいしたことないよ。でも走るのは難しいだろうし、止めただけだよ。」
俺は何とか母親を誤魔化した。だが翌日以降はどうしたらいいかは分からなかった。
翌日から俺は逃げた。
「今日は大丈夫だろ。」
真二が誘ってきた。
「いやちょっと気が変わった。俺は陸上に向いてないと思うんだ。」
「はあ、いきなり何を言っているんだよ。」
「だから陸上部には入部しないよ。」
分けの分からない俺の話に真二は面食らっていた。昨日まで入部すると言っていた俺が今日になったら手のひらを反しているんだからな。ただ昨日も入部するつもりはなかったし、入部すると言った覚えもない。
中学からの仲間たちは何でなんだよと聞いてきた。
「どういう理由で向いていないと思うようになったんだよ。」
「だから走るのに向いていないと思うようになったんだよ。」
「そんなことないだろう。確かに短距離は向いていないだろうけど、持久走は向いているだろ。高校になったら5000mを目指すって言ってたじゃないか。」
本当の理由は恥ずかしくて言うことも出来なかった。ただひたすら向いていないと言い続けた。
「それに走ることに興味を失ってきたんだよ。」
俺は更に嘘を重ねた。ほんとうに走ること自体に興味を失っているわけじゃなかった。だが俺は汐里と会いたくなかった。汐里は当然だが仮入部を済ませていた。
ある朝、俺は日課のランニングをしていた。
「走っているじゃないの。」
そこに同じく朝のランニングをしていた汐里に声を掛けられた。俺はどう反応していいか分からなかった。だから黙って走って去ろうとした。
「この間のことが原因なの。」
汐里に呼び止められた。その通りだ。俺は汐里と顔を合わせたくないから陸上部に入るのを止めたんだ。そう言いたかったが、言えなかった。だが、汐里にはバレていた。
「なんで、それだけのことで陸上部に入らないとか、わたしを避けようとするの。」
俺にとっては、それだけのことじゃなかった。だが言えなかった。踵を返すと何も言うことなく俺は走って逃げて行った。汐里は追いかけては来なかった。俺は日課のランニングも止めた。陸上から完全に離れるようにした。
それでも俺を陸上部に誘い続けてくれた仲間たちだったが、時間の経過と共に諦めた。諦めただけではなく、俺から離れていった。俺は孤独になった。
孤独になった俺はやることもなく仕方なく勉学に励んた。そして勉強だけでは辛くなりバイトをするようになった。バイトは通りすがりに眼に入ったビリヤード場だった。単なる偶然にすぎなかったが、俺にとって運命の出会いに繋がる選択だった。
ビリヤード場のオーナーは魅力がある人物だった。俺からバイトをしたい理由を聞いて、人生いろいろだし構わないじゃないかと言ってくれた。
俺は、幼なじみに告白して振られた、幼なじみと顔を会わしたくないから中学からしていた陸上を続けるのを止めた、することがないから勉強を励んでいる、だけど孤独になって寂しいから人と繋がりたくてバイトをする気になった、ということを隠すことなく説明した。
俺はビリヤードをしたことがあったわけじゃない。だけどやってみたら結構面白くて腕はたちまち挙がった。マイキューも購入した。バイトを通じてそれなりに人間関係も出来た。
普段はスキューバダイビングのインストラクターをしていて、たまにバイトしているのかビリヤードをしにきているのか分からないオーナーの妹さんとか。変わった理由でバイトを始めた俺をひっぱりまわして色んな遊びや店を教えてくれた。
オーナーは大学時代に陸上をしていた。実業団に行くほどでもなかったから、卒業後は市民ランナーとして市民マラソンに参加していた。そして俺のことを誘ってくれた。俺は陸上部には入部しなかったが、本当に走ることが嫌いになったわけじゃなかった。走っていると無心になれる。
オーナーは自分の出身大学の陸上部のメンバーやコーチも紹介してくれた。俺は練習方法を教えてもらい実践した。それで走るのが少し速くなった。密かに日課のランニングを再開した。誰にも見られたくなかった俺は自宅から遠く離れた場所で走るようにしていたが。
その結果、秋口から冬場に展開される、数多くの市民マラソン大会でも楽しく走れた。そこそこの記録が出せた。俺は長距離に向いていた。仲間との打ち上げも楽しかった。ベロンベロンになったオーナーの妹さんは酒癖が悪かった。笑い話だ。
そんな人生を送るようになっていた俺だが、高校二年の5月に街でばったり汐里に出会った。陸上部の先輩である彼氏と一緒にいた汐里が俺を見て顔をそむけた。そのときには俺と汐里の間では何も会話はなかった。
翌日の登校中に一瞬だけ俺の隣に立った汐里は俺に吐き捨てるように言った。
「わたしだって、透のことが嫌いだったわけじゃないよ。だけどあんなに簡単に離れていった透のことは信じられない思いだった。」
「だから透のことは忘れることにしたんだよ。昨日は彼氏といるところを見られたのが嫌だっただけ。わたしがどういう顔をしているかわからなかったしね。」
「一度の告白だけで諦めるなんて、それだけの思いでしかなかったってことでしょ。透のわたしに対する思いなんて。しかもそれから、わたしを完全に避けて逃げるなんて男として最低だよ。」
俺の二度目の本当の失恋だった。期待していたわけじゃない。諦めていたから付き合うことが出来ないことは問題じゃなかった。だが汐里に人間として否定されたように思えた。かつて幼なじみだった記憶も完全に砕け散った。
「泣きたいだけ泣け。失恋はいい経験だ。人間の深みが増す。」
ビリヤード場のオーナーの慰めの言葉だった。
沈んでいた俺を、無理やり立ち直させてくれたのは、オーナーの妹さんだった。
いきなり車に乗せられて海に連れて行かれて、桟橋から突き落とされた。びっくりした俺だったが泳ぐのは得意だった。溺れることもなく着衣水泳が出来た。小さいころからスイミングスクールに通っていたからだ。
そのときに俺は気が付いた。心肺機能が鍛えられていたのはスイミングのおかげなんだ。だから持久走に向いていたんだなと。
海の藻屑にされそうだったのに、自分の身体の秘密が分かった俺は満足そうに笑っていた。それを見ていた妹さんは、気持ちが悪かったと後で言われた。
そんな出来事があった後に、俺は里子に出会った。6月の梅雨の時期だった。
里子は大学を卒業して、ペットショップで働いていた。仕事にようやく慣れてきた頃だった。職場の先輩に連れられてビリヤード場に遊びに来ていた。
俺は勤め始めて一年以上経ち、バイトながらビリヤード場を切り盛りするようになっていた。
「高校生なのに偉いね。」
里子は感心してくれた。
「わたしなんかまだまだなんだよね。犬種や猫種を覚えて、特徴を把握して、それぞれの対応の仕方を勉強してね。でも大変だけど、楽しいから頑張れるけどね。」
「むかしからリコって呼ばれていたの。里ってリって読めるでしょ。だからね。」
笑顔で自分の話をしてくれる里子に俺はひかれた。
「また遊びに来たよ。」
独りでも何回かビリヤード場に来てくれた里子を俺は食事に誘った。
「高校生なのに社会人を誘惑するの。」
里子は冗談のように言っていたが、断られることはなかった。
俺は里子と健全な付き合いを積み重ねていった。オーナーの妹さんの教育のおかげで、女性への接し方が理解出来ていた俺は里子と楽しい時間を過ごすことが出来た。
「里子の手料理が食べたいな。」
「まあ、わたしの手料理が食べたいの。」
「うん。」
「仕方ないわね。あまり上手じゃないから恥ずかしいけど。」
里子が作ってくれた料理はおいしかった。好きな人が作ってくれたものは何でも美味しいと言ったら失礼だが、味の好みが違っても嬉しかった。俺はその時点で里子に胃袋を捕まれていた。
「ねえ、紅葉を見に行こう。」
俺は里子を誘った。里子も賛成してくれた。
「いいわね。」
夜のライトアップは綺麗だった。
「里子も綺麗だよ。」
「もう透は口がうまいんだから。」
里子は楽しそうだった。俺も楽しかった。
積み重ねは積み重ねられ、その年のクリスマスには自然な形で男女の仲になるところまで行った。
「ずっと一緒に居られたらうれしいな。」
そのころから俺は里子との将来を考えるようになっていた。
「そうね。本当に一緒に居られたらいいわね。」
ただ里子の反応は微妙だった。それが俺にとって気がかりだった。
「神社に初詣に行こう、里子。」
「いいわね、透。」
柏手をうって願い事を祈る。
「何をお願いしたの、里子。」
「内緒。」
「教えてよ。」
「言ったら成就しないでしょ。」
そのときは幸せな時間だった。
「桜きれいに咲いているよ。夜桜を見に行こう、透。」
めずらしく里子から誘ってくれた。俺から誘うことがほとんどだったから嬉しかった。
「そうだね。でも夜は寒いから暖かい恰好をしていなかないとね。」
里子はコートと手袋をしてやってきた。手袋のなかの左手の薬指にはクリスマスにプレゼントしたリングが光っている。肩を寄せ合って眺めた夜桜は儚い尊さがあった。
そして出会ってから一年が過ぎた翌年の高校3年の8月に急展開が待っていた。
里子から別れを告げられた。しかし、汐里のときとは違って、俺は簡単には諦めなかった。オーナーの言う通り、失恋の経験が人間として俺にしぶとさを身につけさせていた。俺は最後まで足掻いた。
ちなみに汐里は高校3年の夏に陸上部の先輩彼氏と別れたらしい。直接聞いたわけじゃない。噂で聞いただけだ。中学時代からの仲間とも話をしなくなっていた俺には情報は入ってこない。
先輩が大学生になって色々と遊びを覚えていくにつれて他の女性に気持ちが移っていったというだけのことだ。よくあることだ。
だが、そのことで汐里と俺は話すことはなかった。俺は全くの他人になっていた汐里に関心がなくなっていた。汐里も俺に関心はなかった。
俺にとっては里子が心の全てを占めていた。
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