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リコール ~ re:call ~  作者: 鈴花 夢路
第十章 平穏
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痛みと本能

大事件!

 男子用の公衆トイレは、同じことを考えていた横着者の先客によって、酷い汚れ様になっている。

手洗い場は無料のシャワーとして使われた為砂だらけで、数か所は詰まっていた。

この場で着替えるのは無理だと判断した俺は、隣の多目的トイレのドアに手を掛けてみる。

ガタッと内側から音がした扉は固く閉ざされていて、鍵が掛かっていることに気付いたので『失礼しました』と謝り、諦めて2つしかない男子更衣室の順番を待つことに決めた。


「んんっ・・・け・・・・・すけて」

去り際に個室内から擦れる様な声が聞こえた気がして、慌てて扉を叩く。

「だ、大丈夫ですか!?具合が悪いのなら、ライフセーバーを呼んできますか?」

そんな俺の問いかけに、また『ううぅー・・・』と言葉にならないか細い女性の声で返事があり、強い力で壁を叩くようなドンッという物音も聞こえてきた。


「あーーー・・・だ、大丈夫だから、放っておいてくれる!?」

なぜか先程とは違う、焦ったような男の声でそんな答えが返って来た時、頭の中に嫌な想像が一気に広がった。

「・・・呼ぶのは警察の方がよさそうですね。今すぐに扉を開けてください。」

俺は短くそう言って携帯で110番を押し、通話先の担当者に海岸の名前と状況を説明する。

すぐに近くの駐在所から警察官が来ることになり、通話を終える様子を聞いていたらしい個室内の人物は、諦めた様に鍵を開けた。

「余計な事すんなよ。ちょっとした意見の行き違いだから・・・。」

酷く酒の匂いを漂わせた30代のサーファー風の男は、そう言いながら乱れた服を整えて半ズボンのベルトを慌てて締めなおしている。

奥の方では蓋のしまった洋式便座に座り込んだ女性が、手すりに掴まって必死に体を支えていた。


「わ・・・たし、お茶しか飲んでない・・のに・・・眠くて」

途切れ途切れに荒い呼吸混じりで話す女性のTシャツは、肩の部分が無理に引っ張ったかのように破けており、黒い下着の大部分が見えている。

「・・・な!ぐ、具合悪そうだったから世話してただけだし。そこ退いて!」

金髪の男はそう言いながら、洗面台に置いていた自分の財布をポケットにねじ込むと、扉の前に立っている俺を押しのけて慌てて出ていこうとした。

「お、おい!」

「そ・・・の人が飲めって」

苦しそうに胃の辺りを押さえながら汗をポタポタ垂らして女性が立ち上がり、俺を見つめて小さく呟く。

砂まみれになった膝丈のピンク色のスカートの隙間から、引きずり降ろされた黒い下着が垣間見えた瞬間、一気に心拍数が跳ね上がった。


 個室の内側から扉に手を掛けた男の手首を両手で掴んだ俺は、一気に手の甲を内側に折り曲げる。

痛みから逃れようとする相手の動きとは逆向きに、そのまますぐに手首を外側へ捻り上げ、背後に回り込む。

ふらついて前に倒れそうになる男をトイレ外の壁際に押し付け、自分の全体重をかけて圧し潰した。

ぐふっ・・・という空気の漏れるような咳をした男は、横顔を壁に擦りながら地面に座り込もうとするが、俺は自分の脚を相手の腿に押し付けて関節技の決まった形を維持し続ける。


「あの・・・だ、大丈夫ですか?」

遠慮がちに背後から声を掛けられて振り向くと、先ほど近くの更衣室に並んでいた大学生らしき青年が、心配そうに俺とその前で潰されている男を見比べていた。

「・・・こいつは暴行犯です。中に被害者が居るので、すぐに女性のライフセーバーを呼んでください。警察にはもう通報済みです!」

「はっ!?・・・マジかよ。すぐ呼んでくるから、もう少し頑張って下さい!」

青年は俺にそう叫ぶと、仲間らしき誰かを大声で呼びながらすぐに救護所の方へ走っていく。

「いてぇな!放せよっ・・・お前には何も関係ねぇだろうが!」

男は肩を揺すりながら俺を睨み、激しく怒鳴り散らして来る。

「関係ないからって、逃げる訳にはいかねーんだよ!!」

今まで出した事のない怒鳴り声は、自分の鼓膜すら痛くなる程の大きな声になり、

暴れていた男は驚いたように体を震わせ、完全に黙り込んだ。


 だんだん手首を掴む自分の指が痺れてきて、これ以上押さえていられないと思ったので、男を地面に倒そうとして壁から一歩下がった。

その一瞬の隙をついた男が、前のめりに転がるようにして俺の手を振り払って、駐車場の方へ走り出す。

しかし、俺が叫んで引き留める間もなく、彼はトイレの先の通路から飛び出して来た大男に思いっきりぶつかって、尻餅をつく様に派手に後ろに倒れる。

無言で男をうつ伏せに返して腰に座り込んだタンクトップの大男は、日焼けして真っ黒の顔をゆっくり上げて俺を見つめると、前歯を出して笑顔をみせた。

「私はこの近くの海保で働いてる飯塚です。緊急逮捕ご苦労様でした!」

急に現れた味方らしき人物の言葉を聞き、安堵感で膝から崩れる様に地面に座り込む俺の後ろから

『大丈夫ですかー!?』という凛々しい女性の声が聞こえてくる。


「おーーい!龍兄ぃー!無事・・・に決まってるよねー・・・アハハ!」

先程救護所に向かって戻ってきた青年は、赤い水着のライフセーバーらしき女性を急いでトイレの個室に案内すると、飯塚と言った大男に親しげに声を掛けた。

大知やまと、一応確認だけどさー、カスはコイツで良い人はその兄ちゃんで合ってる?」

「そうだけど・・・って、えー!?また話聞く前に直感で動いたのかよ!?

兄ちゃん・・・そんなだからユリちゃんにクソゴリラって言われんだよ。」

「・・・。」

大和は重すぎる身体に潰されて息もろくに出来ていない金髪男と、むすっとしたまま喋らなくなった飯塚を交互に見て、大きな溜息をついた。


 それから間もなくパトカーのサイレンの音が聞こえ、駆け付けた警察官は無線で鑑識と女性警察官の応援を要請している。

近くの駐在所に着き簡単な聴取と身分証明を済ませていると、担当の中年の警察官は窓から空を見上げて静かに語り始めた。

「・・・ボクにも娘がいてね。世の中、君みたいな若者ばっかりだったら皆幸せに暮らせるのになぁー。本当に良く頑張ってくれたね・・・。」

「・・・俺なんて、ただ弱いのに無理してるだけです。なんの役にも立てない。」

警察官はじっと俺を見たがそれ以上は何も話さず、後ろで待っていた飯塚兄弟を呼んで、もう一脚椅子を用意した。

大和が『コレが終わったら話そうよ』と誘ってきたが、友人が待ってるからと名前だけ伝えて早めに話を切り上げた俺は、大急ぎで着替えてビーチへと戻った。


 なるべく平然を装ってレジャーシートに腰を下ろした俺を、ズルズルとラーメンをすすりながら樫井さんがじっと見つめる。

「遅かったねー・・・探しに行こうと思ったんだけど・・・取り敢えず大丈夫そうで良かった!」

普段ふざけていても、やはり彼はプロだ。パトカーの音や売店の噂話などで薄々感づいているらしい。

「いやー、あの子たちが危なっかしいからさ、ここで見張ってないと・・・。」

樫井さんはそう言って、波打ち際でビーチボールを投げ合って遊んでいる女子たちを目で指し示す。

俺も彼の視線の先を見ると、彼女達の横を通り過ぎる若い男のグループがしつこく声を掛けた後、腰に手を当てて怒鳴る香苗にビビッて逃げ去る光景が目に映った。

「アハハ・・・あれは、心配いらないんじゃ・・・ないかな。」

ムリに笑おうとして声が引き攣ったのが伝わったのか、樫井さんは空の食器を椅子に置くと俺の顔を覗き込む。


「もし結果が悪かったとしても、松宮君に助けられた人は・・・きっといつか感謝すると思う。

その指の拇印の跡は、誇りに思っていいんだ。」

「・・・。」

彼の優しい気遣いに触れ、張り詰めていた緊張の糸が切れる。

幸せそうな朱莉たちの笑顔を見るたびに、目に焼き付いた凄惨な光景がフラッシュバックして心が蝕まれそうになった。

膝を抱えて泣き始めた俺の頭に、樫井さんは黙ってタオルをかける。


「あーっ!誠士、やっと帰ってきてるじゃん!おーい・・・着替えたならビーチバレー強制参加だよぉーー!」

タオルの向こう側から俺を呼ぶ香苗の元気な声が聞こえてくるが、顔を上げることは出来なかった。

「松宮君、ちょっと眠いから代打、俺ーーー!」

「えーー樫井、絶対球技ってタイプじゃないでしょ!?」

「ば・・・バシッってやっちゃダメですからねー!?」

明るく返事をした樫井さんが海の方へ走っていく足音が遠のき、杏花さんの楽しそうに迎え入れる声が弾んでいる。

俺は頭からタオルを被ったまま、レジャーシートの上にうつ伏せに寝そべって目を閉じた。


「大丈夫?・・・熱中症とかになっちゃった?」

急に耳元で声がして、ゆっくり瞼を開けてみる。

捲ったタオルの隙間から覗き込む瞳と目が合った俺は、慌てて視線を伏せた。

暫くじっとしていた朱莉は、何も言わず同じ姿勢に寝そべったらしい。

潮風で少し冷えた彼女の二の腕と自分の肌が触れ合うと、ひんやりとした柔らかさが伝わってきて心地よくなってくる。

あんなに嫌悪を感じた後なのに、もっと胸の奥がくすぐったくなる快感を味わいたいという、不思議な感情に満たされていく自分の心がどうしても理解出来ない。

「・・・ごめん、ちょっと今おかしいから・・・離れて?」

「私はここに居たいの。・・・手が冷たいから良くなるかな?」

やっと絞り出した意見をかき消す様にそう答えた朱莉は、冷たい手を俺のうなじに当てて高くなる体温を下げようとした。

もう一度、顔を上げて隣にいる筈の彼女の方を見る。

朱莉は自分の頭もタオルに突っ込んで、息がかかりそうな程近くで微笑んでいた。


 もう駄目だ。意外な事に自分でもその瞬間がはっきりと分かる。

うなじを這う彼女の細い手を掴んだ俺は、そのまま引き寄せて顔と顔を近づけ桃色の唇を強引に塞いだ。

『んんっ・・・』という声と共に微かな吐息が漏れる。

苦しそうに紅潮する朱莉の顔色に気付き、慌てて唇を離す。

驚いた相手の表情が変わるのを見ていられず、俺はすぐに目を逸らしてしまう。

謝るのも何か違う気もして、黙ったままタオルをかぶり直して反対側へ寝返ると、そのまま次に起こされる彼女の反応に、ただひたすら怯えていた。


 布一枚を隔てていても、相手の行動は案外良く分かるものだった。

どうやら朱莉は逃げも怒りもせずに、俺の肩に額を付けている状況らしい。

高鳴り続ける心音は、たぶん背中側にも伝わっている。

怖がって遠ざけてもらった方がどれ程楽だったかは、後になって気付いた。

言いたい事が分からないまま無理に目を閉じると、さっきまでは気付かなかった疲労感に襲われる。

香苗の『ルール位覚えてよ脳筋!』という笑い声と、樫井さんの『アウトだったもん!』という切ない叫びが聞こえたのを境に、波や風の音、カモメの鳴き声・・・

通りすぎる人の会話など、俺の周囲からは少しずつ音が消えていく。

朱莉が呼吸する微かな音だけは最後まで消えず、いつまでも耳に残っていた。


 強く身体を揺さ振られて、唸りながらゆっくりと瞼を開ける。

強い西日が寝起きの両目を突き刺した刺激で、欠伸と共に涙が流れた。

目を擦った時に顔についた砂の感触で、自分が海に来ていたことを思い出す。

「あ・・・松宮さん、大丈夫ですか?食事もしないでずっと寝てるんで心配しましたよー!」

杏花さんは心配そうに俺を見下ろしながらそう言った。

シャワーや着替えを済ませたのか朝のワンピース姿に戻っていて、少し濡れた髪を三つ編みにしてタオルを肩にかけている。

周りを見ると、パラソルやサマーベッドは殆ど返却されている様で、俺が寝ていたレジャーシートの上は皆の荷物で埋め尽くされていた。

「すみません・・・最近寝不足だったのかも。すぐに着替えて来ます。」

オレンジ色の大きな夕陽をぼんやり見つめながら、苦笑いで俺は答えた。

さっきより近くなった波打ち際には、いつもの真っ白いワンピース姿に戻った朱莉が一人で佇む。

半透明の足首まで海水に浸かりながら、彼女も遠くの地平線を眺めている。

「・・・。」

じっと目を見つめて感情を読もうとしてくる杏花さんから逃げる様に、俺は荷物をまとめて更衣室まで走り出した。


 蒸し風呂の様な更衣室で、一度も海水に触れていないのに汗でびしょ濡れになった水着を脱ぐのに苦労していると、パラソルを返却し終わった帰りらしき樫井さんと香苗の声が外から聞こえて来た。

「・・・で、誠士がどうして抜け殻みたいになったか、あんた知ってる?」

「えー・・・。」


「あ、あのー・・・すみません。松宮さんですか?」

困った様に言葉に詰まる樫井さんに、別の若い女性が話しかけている声がする。

「いえ・・・でも、彼と一緒に遊びに来た友人です。どうかされましたか?」

「あぁ、やっとお知り合いに会えた。・・・先程、妹が大変お世話になったので御礼をと思いまして。」

さんざん走り回ったかの様に声に疲労が滲む女性は、小さくそう呟く。

「妹さんは・・・どうしたの?大丈夫?」

「今日は・・・入院するので、直接はお会いできないと思います。

皆さんで楽しくご旅行の最中に、本当にご迷惑をお掛けしました・・・。」

香苗の質問に答えにくそうに語った女性が、何度も頭を下げている気配がした。

「そ、そんなお気になさらずに・・・彼にはちゃんと伝えておきますので。」


「・・・そういう事ねー。本当に王子は一人で苦しみに耐えるタイプだね。」

「杏花さんには・・・どうせ俺の頭から読まれてバレそうだけど、朱莉ちゃんにはきっと言いたくないんじゃないかな?」

「ふーん・・・男ってそういう思考回路なんだ・・・。

朱莉たんの事、そうやっていつも過保護にして、みんなでないがしろにしてるの・・・本人はもう分かってる気がする。女はね、ガキに見えても意外と強いの。

本能で・・・愛する男の傷を癒したくなる。

痛みを分かち合う事に喜びを感じてしまう。そういう・・・生き物だから。」

「・・・。」

樫井さんと香苗の足音が遠のいてからも、脱水症状を起こしそうな小部屋からは暫く出れなかった。


 遊泳客が居なくなった浜辺では、三人とも並んで沈みゆく夕日を眺めていた。

朱莉は茜色になった海面を指で触りながら、一人で波打ち際をふわふわと漂う。

皆の方を振り向いた朱莉は、ゆっくりと歩いて近づく俺を見つけ日葵の様な笑顔を見せて手を振った。

彼女の髪が風に揺られる度、香苗の言葉が頭の中でぐるぐると巡る。


 自分の行動の意味も、きっと同じだ。

ごちゃごちゃした理屈や、複雑な未来は関係なかった。

あの薄いタオルの下では、確実に二人は愛し合う恋人だったのだ。

今の俺にはきっと、その事実だけで充分すぎる位の幸せだった。

いろいろ大事件。

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