愛について 後編
説得で戦う。
ボロアパートの住人達は朝起きるのが遅いため、部屋の前に立っても辺りは物音一つしなかった。
階段の踊り場に降り注ぐ朝日は、せり出した桜の木の葉でキラキラと揺れている。
ポケットから鍵を出した時、急に吹き抜けた風に身体を押された気がした。
『私はすり抜けられるんだから、もし誠士くんが居ない間に鍵が開いてたら・・・
中にいるのはきっと泥棒なんだよ!気を付けてね!』
不意に、刑事ドラマを見終えた朱莉がそう熱く語っていた事を思い出す。
まさかな、と思いながら鍵を差し込まずにドアノブをゆっくり回してみる。
――扉が開いた。
心臓が早鐘のように脈打つ。
少しずつ引いた扉の中から、部屋の灯りと共に擦れる様な声も聞こえてきた。
『どうして分かってくれないの?・・・』という、護の悲痛な叫びが、
先ほど晴見巡査が話していた、柳瀬一家の苦しみを嫌でも思い出させる。
ふと、凛ちゃんの悲しげなジェスチャーが脳裏に浮かぶ。
憐れみが胸に押し寄せて、何が正解なのかも分からなくなりそうだった。
しかし、開いた扉の先に広がる光景を見た瞬間に、俺の行動は決まっていた。
苦しそうにもがく朱莉の声と、それを全く意に介さず自分の主張を叫ぶ護。
靴のまま部屋に飛び込み、少年の名を呼ぶ。振り向いた顔は殺意に満ちていた。
床に倒されている朱莉を踏まない様に飛び上がって足を蹴り出す。
ぐにゃりと折れ曲がる様に吹き飛ぶ護の身体から、嫌な感触が伝わる。
想像以上の衝撃に耐え切れず、俺自身もそのままベッドに倒れこんだ。
「そんなもんは・・・自分で探し出せ。甘ったれ・・・」
俺は息を切らしながら起き上がり、転がったまま動かない護に冷たく言い放つ。
朱莉は真っ赤な顔で涙を零し、咳込みながら手を伸ばしてきた。
すぐに抱き上げてベッドに寝かせる。
繋いだ手からは人間らしい温かさが伝わってきた。
何か少し口を動かそうとして、すぐ意識が薄れていく彼女に『ただいま』と囁く。
物音のした窓の方を見ると、顔を押さえた護がゆっくりと立ち上がる所だった。
「い・・・てぇ・・・人間だったら死ねたのにな・・・。」
「そんなに死にたいなら一人で死ねよ!って言いたい所だけどな・・・死ななくて良かったよ。
お前を助けようとしてる刑事に悪いからな。」
朱莉に手を出せない様に、ベッドの端に腰を下ろしながら俺はそう呟いた。
「・・・なにまた甘っちょろい事言っちゃってんの?僕は元々、その刑事に捜査を止めるように言えって伝えにここに来たの!そしたらさーあんたは居ねーし、朱莉ちゃんは忠犬みたいにしっぽ振ってご主人様の事待ってんだもんねー。少し遊んでやろうとしただけなのに・・・そいつさ、せっかく僕がクソみたいな一家の悲劇のお話を聞かせてやったのに、絶望するどころか『お母さんを救えるのはあなただけなの』とか言っちゃってよー・・・マジむかつく。みんなに大事に守られてるだけのバカのクセにさぁー・・・本当の愛情について何を知ってるってんだよ。」
護は会話を思い返したのか、苛立ちを抑え切れない様子で足を踏み鳴らす。
「愛についてね・・・。昨日コンビニのバイト行く前にさ、どうしても気になって
もう一度踏切へ行ってきたんだ。凛ちゃんと筆談できる様にメモ帳を持ってね。」
護の視線が揺らぐ。俺は折り畳んだメモをポケットから出して彼に投げた。
【お兄ちゃんへ。わたしは、たのしかったよ。お父さんはこわかったけど、おいのりもいやだったけど、お母さんとお兄ちゃんがだいすきだよ。あと3回おたんじょう日きたら、いっしょにこわい人が
おいかけてこないお家にいけるって、おやくそくしてくれて、うれしかったよ。
あの日いえなかったけど、15さいのおたんじょう日おめでとう!】
護のメモを持つ手が震える。頬を伝う涙を拭きもせず、その場に座り込んだ。
「母親が、どうして逃げ出せなかったのかは・・・俺にはよく分からない。
でも、お前の後悔は良く分かる。俺も、嫌なことからずっと逃げてたから・・・
自分が父親を止めてればって後悔は、たぶん消えることはないと思う。
でも、必死に前に進もうとしてたんだろ?
・・・お前、18歳になったら働いて凛ちゃんと暮らそうとしてたんだよな。」
あと少しで自由になれそうだったのに、たった一つの希望を失う。
想像に耐え難い地獄だ。項垂れる彼を見ていると、俺まで胸が潰れそうになる。
「今朝、お母さんが教祖の宝来を刺したらしい。でも、死ななかった。
俺さ、気付いたんだ。本当に悪い奴は・・・死んでくれない。
俺たちがどんなに憤ったって、簡単には死んでくれないんだよ。
生きて、戦うしかないんだ。お前の母親は人殺しじゃない。まだやり直せる!」
「母さんは川島をもう殺したじゃないか・・・。
あの日、電話で川島を家に呼び出したあと、母さんは急に居なくなった。
急いで追って探しても見つからないまま、僕はあの踏切で死んだばかりの川島を見つけたんだ。
きっと今頃、僕の首絞めて道連れにしようとしてるだろ・・・。」
護は諦めた様に笑うと、静かに溜息をついた。
「・・・お母さんは、話し合いの前に凛ちゃんに花を手向けに行ったんだ。
『頑張って戦うからね』って言ったそうだ。開かずの踏切を渡って帰ろうとしていた時、
時間より早く走ってきた川島を見つけた。
彼は電柱の陰の花を見た時に偶然、凛ちゃんの姿が見えてしまったらしい。
そのまま彼は・・・泣きながら電車に飛び込んだ。それがあの日の真実だ。」
「・・・。」
俺の言葉が理解できないといった様子で、護は額を壁に叩きつけ始めた。
急いで彼の元へ駆けつけた俺は、折れそうな程に華奢な肩を必死に抱きしめる。
「川島は教祖のやり方に、ずっと後悔していたんだろう。
だから耐え切れずに死んだ。でも・・・本当に悪い奴は、死んでくれないんだ。
そして、大切な人に死んでほしくないなら・・・自分で戦うしかない。
お母さんは今、宝来を殺したと思ってる。
凛ちゃんとお前がそんな状態になったのも自分のせいだと責めて、罪悪感で一杯のはずだ。
戻ってやれよ・・・戻って『母さんのせいじゃない』って、言ってやれ!」
長い沈黙の間、俺は彼の背中を擦り続けた。
護はしばらく天井を眺めていたが、少しだけ微笑んでメモを握りしめる。
「ごめんね。お兄さん・・・朱莉ちゃんにも謝りたいけど、僕はもう行くよ。
凛にも・・・謝っといてくれると助かるよ。」
「・・・朱莉には伝えておく。
でも踏切へは自分で行け。ちゃんと生きてる身体で・・・お母さんと一緒に。」
護は静かに頷くと、青いカーテンの隙間から差す朝日に目を細めて語り出す。
「あの・・・朱莉ちゃんは、事故じゃ・・・」
「朱莉の事は俺が自分で探し出す。護は早くお母さんを助けに行きな!」
護の言葉を掻き消す様に答えると、彼は『敵わないなー』と言って苦笑いする。
「でも、これだけは聞いて!刑事さんの彼女を狙ってる奴は、ネットでよく
【パペットマスター】って名乗ってた!プロバイダは突き止められなかったけど、
僕のパソコンにメッセージのスクショが残ってる。パスワードは、【RIN0614】」
護の言葉を忘れない様に、一瞬目を閉じて頭の中で復唱する。
再び俺が瞼を開けた時にはもう、彼は光り輝く窓の外へ飛び立った後だった。
静かになった部屋には、朱莉の寝息の音だけが微かに漂う。眠気と空腹で膝から崩れそうになりながら、俺は樫井さんにメールを送った。
ひっくり返ったテーブルや、壁際に吹き飛んだ雑貨類にも手を付ける余裕はない。
靴だけ脱いでそのままベッドの壁際で眠る朱莉の隣へ倒れこむ。
床に落ちたタオルケットを拾って、彼女の胸の上まで掛けた。
『んんっ・・・』少しだけうなされて横向きに寝返りをうつ。
俺の方を向いて、安心しきった様な笑顔を見せている朱莉の髪を、顔にかからない様に背中側へ流す。
それは自分でも経験したことのない、欲望とは違う不思議な感情だった。
ただ、生きていてくれて嬉しい。隣で大切な人が息をしている事、それがこんなにも満たされる事だと知れただけで、自分の生きる意味がまた1つ増えた気がする。
俺は朱莉に背を向けて反対側の壁を見た。
時計の横のカレンダーの空欄は、彼女の書き込んだ些細な予定で埋まっている。
背中にかかる吐息の温かさが、ゾクッとする様な快感と共に穏やかな眠気も誘う。
なんだかんだと考えていた俺はいつの間にか、閉じた瞼を再び開けるのには一苦労しそうな、
深い眠りに落ちていった。
ホッと一息




