散花の檻
男のものとなった公国の宮殿での遭遇に、娘は、苦々しいような、悲しいような面持ちだった。雷に打たれたごとく固まった男の瞳を、予期していたことを物語るかのように。
「……なぜ、貴女がここに?」
「……ツェーザル、殿下……」
もはやその娘にしか口にすることを赦されていない呼称に、男は即座に反応した。娘の繊手をとり、その腰を片手で深く抱き込んだ。
娘の艶やかな栗色の髪、澄んだ藍色の双眸、やわらかな乳房、たおやかな腰からつづく脚――――そのすべてを一瞬のうちに肌に感じ取った男は、熱い息を吐いた。
「会いたかった」
娘の手袋越しの繊手に口づけ、次いで眼前に晒された白い首筋に強く吸い付いた。娘は、細く啼いた。その慄きに合わせるように、娘の衣裳の厚みなどものともせず、男は娘の両脚の間にグッと深く自身の片足を割り入れた。
「……っ」
しなった娘の背を支えながら、その耳元に唇を寄せ、娘の名を――――否、彼のただ一人しかいない肉親を呼んだ。
「可笑しな話だよね? もう貴女にしか赦していない呼び名なのに、それに“殿下”を付けるなんて。ねえ、だからそんなふうに、他人行儀に俺を呼ばないで。――――――姉上」
「……ツェーザル!」
「……ん、何でしょうか姉上」
姉と呼んだ娘の手に自分の指を絡め、男は瞼を下ろして、彼の姉である、いまは隣国の王族の婚約者となった娘の耳を吸った。
「お願い、こんなところでやめて……」
「貴女は、それに応える男の回答がひとつしかないことを、ご存知なのか? あの男は、貴女になにも教えていないと、俺は歓喜してもよいと?」
「なんのこと……」
宮殿の回廊の真ん中にあって、二人の息はすでに乱れていた。夜半とはいえ、一組の男女を照らすものは、蝋燭でもあり、月明かりでもあった。焦燥も露わに身をよじる娘を、男は熱烈に見つめた。
「姉上。ほんとうに判らない? 聡明な貴女なら、おわかりのはずだけど。……安心して。貴女が無垢を装っていようといなかろうと、俺の貴女に対する想いにはなんの揺らぎも起きはしないから。……あの男を、心の底から殺したいと思うことはあっても」
男の、一段低くなった声に、彼の姉はハッと顔を向けた。その動きで、娘の澄んだ藍色と同じ輝きの耳飾りが、月明かりをうけて煌めいた。その様子に、男は双眸を細めた。
「この耳飾り、身に着けていてくれたのですね……」
「ツェーザル……」
耳飾りは、姉が、彼女の故国を去るまえに弟である彼が贈ったものであった。故国の慣習である、恋人への贈り物として。
感極まったように、男は娘を抱きしめた。それは、ふるえる娘の心に呼応するかのような抱擁だった。
「ツェーザル、やめて……」
「俺が貴女のそんなかわいらしいお願いに耳を貸すと、本気でお思いか?」
娘の瞳のゆらめきは、あるいは蝋燭の火のゆらぎであったのだろうか。
彼女を抱き込んだまま、腰まで垂らされた髪をいとおしげに梳いた男は、もう離さないからと囁いた。髪も目も、自分とすべて同じ色をした姉を、天地のいかなるものよりも至上であると気づいたのは、いつであったろうか。彼女の笑顔に、やわらかい抱擁に、胸がふるえるほどの歓喜をおぼえたのは。忘れはしまい。貴女を必ず迎えにいく、そう告げ、身が引き裂かれる痛みに、きつく瞼を閉じた日を。
「ねえ……。我々の、梨棚でのあの秘め事をよもやお忘れではないでしょう?」
何かを耐えるように、男の式服の胸元にある徽章を握りこみ、娘は顔を伏せた。
「……姉上……?」
「……忘れるはずはないわ。だったら、なぜわたしがこのような場所まで追いかけてきたというの?」
「姉上……」
「引き返そうと、幾度も……。ここに来たときでさえ、戴冠式の今日、あなたを一目見たら、すべてを胸にしまって王国に戻ろうと誓っていた。あなたに見つかってしまったときでさえもよ」
ああ、姉上。男は娘の両頬に手を添え、親指の腹をゆっくりとそこに滑らせた。
待てなかったのよ。彼の姉も、彼とおなじように弟の頬に手を添えた。
「口づけひとつでわたしの心を縛って、いつまでも迎えにこないわたしの憎い弟を」
男は、花がほころぶがごとく笑った。
「ああ、ひどいひとだ。俺の心は、とっくに貴女に奪われていたというのに」
*
蝋燭の火が、重なり、ときにひとつに溶ける影を室内の壁に映していた。
恍惚とした余韻にふけりつつ、娘は、寝台の脇に脱ぎ捨てられた式服につけられた徽章をゆっくりとなぞった。いくつもの身分を表すそれは、この公国の最高位のものが着る式服に身を包んだ男が、自らの手で掴んだ地位であった。
「ほんとうに、公国の大公になってしまうなんて……」
わたしのために、と吐息まじりに娘はつぶやいた。
「まだ終わりではありませんよ」
「え……?」
徽章をなぞっていた娘の手を後ろからやさしくとらえて、彼はふたたびそこに口づけを落とした。
「言ったでしょう。俺の名は、貴女にしか呼ぶことを赦してはいないと。今のままではまだ不足なのですよ」
「ツェーザル」
「この公国は、小国に過ぎない。周辺を取り込んで、いずれは、貴女の嫁ぐ予定だった王国を掌握しなければ。俺は、この大陸の真の王となるのですよ。貴女のために。世界を、貴女の手に」
「まさか……!」
深い藍色の双眸を、娘は驚愕に見開いてふり返った。栗色の髪を自身の指に絡めて、男はやさしげに笑んだ。
「貴女がそれを言うのですか? ほんとうは、おわかりだったでしょう? 愛しいひと。あの梨棚の下で、愛を告げたときに、いいや、それ以前から、貴女はこうなることを予期していたのではないですか」
「ツェーザル……」
花下で戯れた久しい日々を、彼女は想った。幼かった顔立ちが、凛々しい青年のものへと移りゆくさまを。
彼女に焦がれ、乞い、熱に浮かされたような容が日に日に色濃くなってゆくとき、禁域に踏み込む己の姿に随喜の息をもらした。このうつくしい弟の愛を総身にうけおうことに、なんの否やがあろうか。
「わたしのために、国を亡ぼすのね」
彼女と同じ色の髪と瞳をみつめ、男の髪に触れた。眩しげに頬をゆるませた彼は、彼女の剥き出しの肩に口づけた。
「はい」
「わたしのために、国を手に入れるのね」
「ご不満ですか」
「そうね、わたしは傾国になんてなりたくないもの。ただ――――」
「ただ?」
「わたししか目に入らぬように、あなたしか見えぬように、わたしたちの世界を囲って、わたしを満たして? 一心に、わたしを愛するならば」
熱烈に溺れてやまない姉の言葉を聞いて、彼は貪るように彼女の唇を奪った。姉上、と呼吸の合間にささやく。
やっと、貴女を手に入れた。梨棚の花のしたで戯れた、麗しい光のなかに、永遠にさめない夢のなかに、貴女を閉じこめましょう。希った至高の花を、散りこぼれる輝きの檻へ、やわらかく。
溢れる想いのままに、男は姉を掻き抱いた。
「ツェーザル、返事を聞かせて?」
ツェーザルは身を起こした。
囚われの想い人は、彼の記憶と寸毫たがわぬ煌めきで微笑んだ。
「――――――御意に」
ひかれるように、やわらかく口づけを落とす影を、室内の灯火だけが映していた。