トラブルと後始末
私は偶然、お手洗いに起きた時、扉が閉まる音を聞いてしまった。
「誰だろう……?」
書斎の方からだった。
こんな時間に誰が書斎に入ったのだろう?
父だろうか?
それとも、使用人の誰かか?
侍女はそもそも、書斎には入らないし、執事の誰かが父の付き添いで入ることはあるが、単独で入る所は見たことがない。
「お父様の仕事……かしら?」
それなら邪魔しては悪いかもと思いつつ、私は書斎に近づいて行く。
稀に書斎に入ることはあるが、今まで怒られた事はない。
そもそも、最初から盗賊だという考えは、思い浮かばなかった。
ゆっくり歩きながら、書斎の方に向かって歩いた。
一歩、また一歩と、自分でも足音の小ささは自覚しているが、物音をほぼ立てずに書斎の前までたどり着いた。
そして扉を開いた。
中は暗く、誰かが居るような様子は見当たらなかった。
「誰か、居るの?」
声を掛けると、誰かが息を飲む気配がした。
少し心細くなりながらも、意を決して中に足を踏み入れると、誰かいた。
黒い格好をした少年が一人、居た。
見知らぬ人物で、灯りで照らすと顔が一瞬見えるが、すぐに顔を隠した。
「どなた……ですか?」
「……」
この人はいわゆる、盗賊なのかもと、考えた。
だが、嫌な気配を感じなかった。
社交会で感じるような、不愉快な視線でもなく、仲の悪い貴族から向けられる、刺すような視線でもない。
私に、害を成そうとする視線ではないと、そう思った。
「あの、誰にも言いません。だからどうか、少しだけお話ししませんか?」
困惑したような気配が伝わってきた。
きっと、この人は悪い事をしている最中なのだろうと。
でも、悪い人ではなさそうだった。
小説や書物の読みすぎかもしれないが、前に読んだ本の中で、盗賊とお姫様の恋物語が描かれていた。
それに自己投影なんて、柄ではないけれど、それでも、心躍る自分が居た。
しかし、次の瞬間に突風を感じた。
「あ……」
驚いて目を閉じると、灯りとして持っていた蝋燭の火が消えた。
目の前の少年も驚いているような表情をしたかと思うと、その瞬間、霞が晴れるかのように、少年はゆっくりと消えていく。
そして、一回だけ瞬きをすると、少年はもう溶けてなくなった。
少年が居た場所まで、手を伸ばす。
だが、何もなく、自分の目が可笑しくなったのだろうかと、一瞬だけ疑った。
改めて蝋燭の火を魔法で着けると、あたりを見回すが、何もなかった。
「夢……なのかな」
そう呟いて、私は書斎を後にすると、お手洗いを済ませ、自室に戻った。
そして、眠った。
来週には嫁ぎ先に行かなければならず、自分を奮い立たせるも、すぐ弱気になってしまう自分がいる。
弱い気持ちが見せた、幻だったのかもしれないとも思った。
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俺は、何者かに手を引かれていた。
これは、おそらくエミリーであると、すぐに分かった。
透明化する魔法が掛けられていて、自分自身すら、体がどこにあるのか分からなかった。
それでも、地面までの距離感と、今まで鍛え続けた特訓の成果か、地に足を着けて走れていた。
「暫し待ってて」
そう呟きが聞こえ、執務室という場所の扉が勝手に開き、十秒もしない内に再度、扉が開いて閉められた。
右手に暖かさが戻ってきて、再び手を引かれていた感覚があった。
来た時と同じルートで、俺は脱出の手順に入っていた。
そして、痕跡が消されていくのを、呆然としながら見つめていた。
いつの間にか、姿は見えるようになっていた。
「行くよ」
そして、外に脱出した。
来た時よりも早く、そして確実に。
飛び出した姿が、闇に溶けて色が無くなる。
空気になったかのような錯覚と、ものすごいスピードで、視界だけが過ぎ去っていく。
気付くと、出発前の地点に連れられていた。
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「レイ、何でああなったの?……別に、失敗を責めている訳じゃない」
「すみません、外に誰かが居るのに気付かず、書斎に入る所を見られてしまいました」
「良い、だが、姿を見られて数十秒も、呆然としたのは何故なの?」
そこで初めて、私はレイに攻めるような視線を向けた。
「今回は、悲鳴を上げられなかったから良い。だが、口を押さえ、素早く無力化し、素早く脱出する。何故出来なかったの?戦闘訓練を受けてない一般人相手なら、気絶させるのも簡単だったはず」
緊張か、それとも気の緩みか。
「……、とりあえず、今回は良い。初任務だし、緊張もしたと思うわ。任務参加の判断が少し早かった私のせいでもある」
「……ありがとうございます」
「こういう任務は少ない。とりわけ、私達は暗殺の仕事が多い。今回の標的は、それほど重要度が高い訳でもないし、奪取した物は全て元に戻して、何も盗まれなかったという体にしてある」
少し落ち込み気味で、うな垂れるレイ。
しかし悔しがるように拳を握るのが分かった。
「レイには次がある。悔しいと思うなら、それは伸びる証拠だと思う。…………次は、殺害任務を任せるから、楽しみにしてて」
私の口から、思わず本音が出てしまった。
レイも本質的には、私と同じ思想の人種だと思えるが、まだ片鱗が見えていない。
あの日、配属初日に語った内容は、強がりだったのだろうかと、一瞬だけ頭を過ぎる。
戦闘技術や協調性という部分で、秀でる部分はあるが、まだ羞恥心や倫理観を捨てきれていない。
それも、プロとして自覚が出てくれば、きっと直るだろうとは思った。
「顔は隠していたな?なら、問題ない。次は、ここの当主を暗殺するかもしれない。そしたら任せる。同じ場所で、汚名を雪げるのであれば、それは幸運なことだと思うから」
私は、他に報告はある?と聞くが、レイはゆっくり、首を振った。
そして、強い眼差しを向けてきた。
「もし仮に、顔を見られていたら、次来た時に始末しなさい。見逃すのであれば、いつか復讐で刺される事を覚悟しなさい」
「はい」
「私達が表向き裁かれる事はない。そして、存在していない事になっている。でも、甘い覚悟で挑み続ければ、いつか死体袋の中に入ることになる。他国の任務で捕まれば、自決しなければ人の扱いは受けないし、機密を漏らせば、私みたいな暗殺者が、命を狙いにやってくる」
強い眼差しでレイを見る。
「いつか私の手を、煩わせることが無いようにね」
それだけ言って、今日は解散して、帰るようにレイを促す。
気が重いが、上司に失敗を報告しなければならない。
初の黒星を飾ってしまったが、私は人を育てるのには、向かないのかもしれないと、少し自信を失った。
人には得手、不得手がある。
それでも、今回はレイを後継に推した上司の意図は、私の技術が継承される事を望んだ結果だと考えている。
魔法使いは基本的に、特筆すべき技術は一子相伝や、道場を開くなどして継承していく。
少し古いが、基本以外の応用部は、あまり口外すべきではないという、風潮がある。
今回上司に『気が向いたら、君の技術を教えてくれないか?』と言われていて、私としては教えること自体は構わなかったから『気が向いたら伝えます』と答えた。
そして、見事に『気が向いた』のだから、あの上司は人を使うのが上手いと思った。
だが教える気が有るのと、教えることが上手いのは、また隔絶した違いがある。
「はぁ……」
ため息をつきながら、私は今日見た情報と、その裏取りの為に、明日から徹夜続きになることを憂鬱に思った。
潜入するのは、何もこの場所だけではない。
後始末としては、全情報を集め終わるのに、3日の深夜労働を必要とした。