中編
それからどれくらいの月日が経っただろう。いつしか娘は美しく成長した。
東北から出てきた田舎娘とはいえ、もともと根がしっかりとした娘子である。加えて、落ちぶれたとはいえ武士の家柄だ。読み書き、算盤、琴、三味線、歌や俳句は言うに及ばず、生花、茶道、囲碁、将棋、何でもそつなくこなし、めきめきと上達した。おかげで、買われるわ、買われるわ、引く手あまたの全盛を極め、とうとう太夫(花魁)にまで上り詰めた。
しかし、さすがは武士の娘である。江戸中にその名を知らぬ者無しと言われるほどの隆盛を極めようとも、決して不心得なまねはしなかった。士農工商、身分の違いにかかわらず、夜ごとに変わる来客一人一人に誠の心を持って接し、罪を作るまい、罪を作るまいと努めた。
ところが、なんと言っても天性の美しさと気品である。こちらの方から言い寄らなくても、お客の方から勝手に夢中になってしまうというわけで、花魁石名太夫の一喜一憂、一顰一笑に蔵屋敷を消し飛ばした者数知らずという有様であったと伝えられている。
とても悲しいことであるが、どれだけ勉強しようとも、どれだけ芸事を極めようとも、どれだけ懸命に働こうとも、花魁は狭い格子戸の外へは一生出られないというのが当時の世の定めである。それは石名とて同じであった、
彼女にとっては、格子の内側の世界がその目に見える世界の全てであった。それでも、旅客の話を聞きながら、遠いふるさとのこと、そこに生きる父の身の上を案じていたという。
そんな石名がどれぐらい生きたのかは記録に残っていない。しかし、彼女のふるさとへの健気な想いを忍ばせる、ある逸話が残っている。
石名は死の間際、ある願い事をした。それは、
「私はこれまで罪を作るまい、罪を作るまいと努めてまいりましたが、何の因果か結果的に多くの人を不幸にしてしまいました。せめてもの罪滅ぼしに、私の墓石を石橋にして幾千万の人々に踏んでもらいたいのです。」
というものであった。
当時の吉原の元締めである大黒屋金太夫と近江屋佐五兵衛は、この石名の願いを叶え、彼女が恋焦がれていた故郷の堀に石橋を架け、その地の寺に石名の罪障消滅を祈願し、巻数六百巻、字数にしておよそ四万文字にも及ぶ大般若経を納めた(このよう健気な娘子が天国に行けないなら、もとよりこの世に仏などいないだろう)。
この石橋は、すべて自然石でできた非常に立派なもので、地域の人に大変喜ばれ、いつしかこの橋は”かけずの橋”と呼ばれるようになった。当時の橋は大変粗末なもので、町の土木工事も十分でなかったため、夏場の大雨の度に橋が流されていたのである。この橋だけは、架け替えなくても済むということから”かけずの橋”と呼ばれたのであろう。
石名は死して石橋となり、念願だった故郷への帰郷を果たしたのである。