前編
仙都物語 第一夜 石名坂
仙台駅から南東方向へおよそ2km、地下鉄南北線河原町駅北1番出口から北へ向かって少々歩いたところに石名坂という地名がある。今から400年ほど前(江戸時代初期)には、この辺りは広瀬川に面した大きな入り江になっており、大小様々な舟の出入りで賑わっていたという。舟はここから広瀬川を下り、名取川へ出て、名取市及び岩沼市に跨がる貞山運河を経由し、阿武隈川を通って、遥か遠く江戸まで往復していたらしい。近くの舟丁、材木町という地名もこれに由来するものである。
さて、ここにある日、流罪に処せられた一組の父娘が流れ着いた。その男はとても精錬、潔白な人物で、なんでも元々他藩の偉いお侍さんであったのだが、その生真面目な性格が災いし、藩主にものを申した咎で流罪に処せられたとのことであった。いつの時代も、誠の想いで行った進言が、かえって上司の疳に障って裏目をもたらすことは多い。
このお侍には一人の娘子がいた。妻は娘を生んですぐ先立ち、父ひとり娘ひとりの寂しい生活であった。しかしその分、父は妻の忘れ形見である娘へ一生懸命に愛情を注いだ。娘もそんな父の言うことを良く聞き、家事や身の回りのことはもちろん、様々な芸事、習い事を修めた。父はそんな娘の成長をたいそう喜んだそうである。
そんな仲の良い親子であったが、俸禄を召し上げられ、他藩へ流された後は、家も、土地も、財産も、すべてを失い、途端に生きていくのがやっとの有様になってしまった。流れ着いた先の石名の村人たちは、そんな親子を不憫に思い(もともと罪人とは思えない立派な人柄の親子である)いろいろと手助けをしたのだが、なにぶん、自らも食うに困るありさまの時代である。満足な施しはできなかった。
いよいよこれまでかという時になり、さて如何したものかと思案しているところ、娘が静かに(しかし毅然とした口調で)口を開いた。
「お父様、かくなる上は致し方ありません。私はここから舟で江戸に下り、吉原へ参ります。幾ばくかのお金にもなるでしょう。それでお父様はどうか後生を大事に生きてください。お互い生きている限り、またいつかお会いできることもありましょう。今日まで大切に育ててくださって誠にありがとうございました。」
三つ指をつき、深々と頭を下げる健気な娘の姿を見て、父は何も言うことができず、ただただ涙を流すばかりであった(当時、このような場合において生きる定めは決まっていたのである)。
娘は江戸の吉原へ行き、芸奴になり、世話になった土地の名を取って石名と称した。