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消し忘れた黒板の前で  作者: 松風 雪
第一章 晩夏の憂い
4/4

4 こころ

 黒板の横にかかった時計は午後2時を指している。

 

 この時間帯に特有な心地よい眠気が湯気のように教室に漂い、ほとんどの生徒が形だけ黒板を見つめ心ここにあらずといった様子である。

 橘は机の上の教科書を見下ろすふりをしながら、机と膝の間の影に隠したスマートフォンを覗き込んだ。

 見慣れた緑のロゴが、受信メッセージ3件と告げている――朝からずっとやりとりしている女の子たちが、こちらから送信をして5分と待たず返信をよこす。

 橘は本体の横に着いた小さな突起を静かに押して、携帯の画面を暗くした。すぐに既読を着けてしまうと、なぜ返信が来ないのかと探られるので面倒だからだ。

 

 毎日送られてくるメッセージの中に、内容のあるものなど一つもなかった。どうして女の子は文字を通して世間話をしたがるのだろうか。橘はいつも不思議に思った。本音を言えば、メールやチャットなどうっとおしくて仕方がないのだが、何かしら理由をつけて連絡をしてきては自分の興味を引こうと必死になる女の子達の存在が可愛くて、ついちょっかいを出してしまう。ついでに言えば、NOと言うのが苦手な性格でもあった。

 

 夏休み開始と同時に付き合い始めた今の彼女とは、向こうからの告白で交際が始まった。見覚えのない顔だったが、「入学式で見かけてからずっと好きでした」と顔を真っ赤にしてうつむくしぐさがいじらしくて、二つ返事でOKしてしまった。

 

 そして、それはいつものパターンだった。

 

 「一目惚れです」とか「憧れでした」とかいう文句に弱いため、顔と名前が一致しないような子でも付き合ってしまう。そして、回転も速かった。自分から告白したことは一度もないのに元カノの人数だけが増えていった。

 付き合い始めは彼女と過ごす時間が楽しくてこれがずっと続けばいいと思っているのに、大体3ヶ月ほど経つと自分でも驚くほど急に冷めてしまう。中学の頃からずっとそうだった。今の彼女とも、今月でちょうど3ヶ月。すでに飽き始めていて、いつ別れ話を切り出そうかタイミングをはかる毎日を送っていた。

 

 手の中の携帯がチカチカと光り出し、また新たな受信を告げた。ズボンの太ももで画面の汚れを拭き取りながら、画面に出た名前の持ち主が誰だったか必死に思い出そうとする――も、いま受けている数あるアプローチの中から、その顔を正しく頭に浮かべることは不可能だった。

 

 メールの返信をざっと済ませたところで、橘は教科書を朗読する先生の声に耳を傾けた。

 夏目漱石だ。いつもは現代文など露程も興味がないのだが、「こころ」は橘のお気に入りだった。先生がお嬢さんとKに対する感情の渦に葛藤する姿がとても人間臭く、罪悪感がどす黒い影となって先生の心を狂わす様子はぞっとするほどよく描かれていると思うのだが、橘はこの作品の登場人物の誰に対してもちっとも感情移入できなかった。

 先生が親友とも呼べるKを裏切ったことが気に食わない。また、Kの自殺に詫びたいと思う気持ちがあるのなら、男らしく添い遂げれば良いのにと思った。Kは欲を押さえつけようと精進することにこだわり過ぎて、溢れ出るお嬢さんへの想いに対処できなくて溺れた。欲望に素直に生きる橘には到底理解できない。お嬢さんに到っては、さぞかしかわいらしい女性なのだろうという妄想だけは掻き立てられたけれど、所詮はそれだけで、周りを取り巻く環境に無知すぎるのが良くないと思った。

 しかし、それぞれの気持ちを理解できないという事実が、なぜが自分の胸の奥をざわざわと落ち着かない気持ちにさせた。お前などには分かるまいと見下されているような、もしくはお前にはこれが解けるかと挑戦状を突きつけられたような気分になり、そして空しくも、自分には理解できないことがもやもやと心を乱す。「こころ」を読むと決まって覚えるその不安や緊張感に似た不快感が、橘はなぜか好きだった。

 

 友情と恋愛のどちらを取るか、自分ならどうかと考えてみる。

 今まで付き合ってきた彼女たちや、今アプローチを受けている女の子達の顔と、前の席に座る園村と瀬戸の後ろ姿を見比べてみた――が、答えは火を見るよりも明らかだった。

 この子じゃなければ駄目だと思ったことなど一度もない。そんなことを言ったら元カノたちに怒られそうだが、事実だった。可愛い子なんてたくさんいるのだから代替なんていくらでも利きそうなものだ。

 仮に園村や瀬戸と同じ女の子を好きになったとしたら、何も考えずにどうぞどうぞと譲ってしまうだろう。それほどまでに橘は独占欲というものとは無縁だった。

 NOというのが苦手な橘が、可愛い女の子達からの告白を断ることがあるとすれば主な理由は一つだった。友達やクラスメートの誰かがその子のことを好きと言っていたから。どんなに可愛くて人気のある女の子でも、その事実があれば全くと言っていいほど魅力を感じなくなった。

 

 改めて考えてみると誰かを「好き」になったことなど一度もないように思えた。女の子という存在は自分にとって欠かせないものでありながらも、いざ「彼女」とかしこまった型になると、そこは特定の誰かでないといけないなどというこだわりはなかった。好きなタイプはと聞かれても首をかしげてしまう。

 それは橘にとって数少ない悩みの一つだった。先生が親友を欺いてまでお嬢さんを手に入れたいと思わせるに至った衝動とはなんだろうか。Kを己の命を絶つほどまでに追い詰めた艱苦たる恋心とは、一体どういうものなのだろうか。

 

 手の中でスマートフォンがまたチカチカと光り出した。


 絵文字ばかりが目に付くメッセージに目を通しながら、この内の何人が「こころ」を理解できるのだろうかとふと思った。そして、念仏のように感情無く朗読する中年の男性教師を見上げて、この人は一体いくつ恋愛をして、「こころ」を生徒の前で朗読するのにふさわしい人間となったのだろうと思った。

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