2 幼馴染
帰りのHRが終わるや否や、園村は大きな欠伸をかいた。
一目散に教室を飛び出して行く者や、数人で固まって雑談を始める者など、皆思い思いの放課後を始める中、バレー部の練習がある橘は「お先ー」と早々に教室を後にした。園村は「うっす」と言いながら片手をあげ、瀬戸はその後ろ姿を尻目に見ながら「ああ」と小さな声で答えた。
今日は早く終わるだろうか、それとも長期戦になるだろうか。こめかみの辺りに広がるズキズキとした痛みを感じながら、目前に迫るその時に備え園村は両手をズボンのポケットに突っ込んでだらしなく椅子に背を預けた。
ひと通り帰りの支度を終えて鞄に手をかけた瀬戸は、むすっとした顔で机を凝視する園村を見て肩を落とした。
「まだ続いてるのか?」
「まあな。約束しちまったし」
口を尖らせた園村を見おろして、うーんと口の中で唸る。
「夏休みの練習も来てなかったみたいだけど……部活辞めるのか?」
園村は、肩をすくめてその答えを持ち合わせていないことを示した。
「来ないのには何かちゃんとした理由あるんだよな?」
「それはそうだろ。理由も無くサボったりしないだろうからな」
驚いた様子で瀬戸が目を見開く。
「なんだ聞いてないのか?」
「別に。話したくなったら自分で話すだろ?俺から聞き出すことじゃないよ」
そうか、と言いながら神妙に何度か頷くと、
「いや、てっきり京にだけは話しているのかと思ったんだ。部員も何があったんだって心配してる。なんせ急に来なくなったから……」
部活と勉強に関しては饒舌になりがちな瀬戸を、片手を挙げて制した。
「まあ、よく分かんないけど、陸上自体は好きなはずだよ。小学校の頃からやってるしな。考えられるとしたら、部員とか顧問と合わないんだろ」
その部員の一人である瀬戸は居心地が悪そうに頭を掻いて、「それが……」と言いながら腕を組んだ。
「みんな全く心当たりがないらしい。まあ誰かが嘘ついてる可能性は無きにしも非ずだが、表面上は皆、また部活に来てくれるのを待ってる」
責任感の強い瀬戸らしい言い草に、園村はふと笑みをこぼした。
「伝えとくよ。お前も早く行けよ」
一つ頷くと、瀬戸は颯爽と体を翻し教室を後にした。
長い時は日が暮れるまで待たされた。短い時は5分程度で現れた。何のことだか分からないが「タイミングが鍵」なのだそうだ。
机を離れ、窓際から外を眺めると、サッカー部の部員たちがグラウンドの片隅でストレッチをしているのが見える。その後はウォーミングアップの走り込みをして、数人のグループに分かれてパスの練習をし、最終的には試合形式の練習に移行するはずだ。毎日のように眺めているのでもう覚えてしまった。
今日はパス練くらいで帰れるといいな――そう思っていると、前の扉から小さな影がしゅっと滑り込んできた。廊下から、瀬戸が去っていくのを確認してから来たのだろか。
「早くっ!」
「は?」
「早くしてってば!」
前から近づいてきた影は園村の横に着くなり袖を引っ張り、足踏みをしながら急かした。ショートカットが良く似合う、少し日に焼けた小柄な女の子――幼馴染の広野佳世だ。
「時間ないの。早くして」
「お前な、人を待たせといてそれはないだろ」
「ごめんって。でもほんと早くして」
「しょうがねえな」と言いながら、園村は自分の席にある鞄をひょいと持ち上げて肩にかけると、小さな幼馴染を見下ろした。
「今日はどっちだ?」
「裏門」
「りょーかい」
園村が先頭に立ち、広野がその後ろにぴたりとくっついて、二人は裏門へ向かった。広野は廊下の窓から外を何度も伺い、「危険」がないことを確認する。下駄箱から靴を取りすばやく履き替え、昇降口を出ると、ぎらぎらと照りつける太陽の光にもひるむことなく、大きく見開いた目で辺りを警戒しながら裏門へ急いだ。
少しでもタイミングがずれたら、すぐに隠れなければ――広野は身を構えた。今でこそ親友である園村が一緒に居るから心強いものの、やはり不安は消えない。小さな体を更に小さく丸めて俊敏に移動した。
鞄を胸の前で抱きかかえ急いで門を抜けると、一目散に一つ目の交差点まで走った。後ろの園村を振り返り「早く」と頬を膨らませると、不機嫌そうな顔が余計に眉間のしわを濃くした。
裏門から駅までは、ほとんどの生徒が大通りを歩くので、二人は抜け道を選んだ。いつも、大体ここまで来れば安全だった。園村は、上履きと同様かかとに折り目がついたローファーをつっかけて、太陽の光で照り上がったアスファルトを擦るように歩く。二人並んで歩こうとしても、背の低い広野が自然と遅れを取った。前を行く背中を見つめながら、距離が開かないよう懸命についていく。
夕方とは言えまだ暑い。園村が背中に汗が伝う不快な感覚に顔をしかめていると、同じような顔をした広野が小さな声で呟いた。
「嫌いなんだよね」
「あ?」
「裏門。嫌いなの。駅から遠くなるし」
口を尖らせ、伏せた目元には長いまつげがしきりに動いている。
「そうか?遅刻したときはバレにくいし便利だぞ」
「京也らしいね、その意見。でも私は嫌。なんか後ろめたいことしてるみたいだし」
すうっと息を吸うと、片手を額にかざして雲一つない空を仰ぐ。
「別に何もしてないのに。裏門からこそこそ急いで抜け出すなんてみじめで嫌」
そう早口で言い切ると、また眉間にしわを寄せて足元を見つめた。
園村は黙り込んだ幼馴染から目を離すと、暑さが少しでも和らげばと思い、ワイシャツの襟を掴んでパタパタと風を送り込んでみた。が、ぬめりとしたシャツの感覚が腹にくっついただけで、不快感が増すばかりだった。
「正門から帰ることだってあるだろ?今日はたまたま裏門の日だっただけだ」
「でも、どっちから帰ろうと私の自由であるべきでしょ?……好きなときに好きな場所から帰りたいよ」
園村は頭を左右にゆるく振った後、黙ったままでは悪いので「そうだな」と付け加えた。
「ねえ、また2学期もこうやって一緒に帰ってくれるんだよね?」
「ああ」
「毎日?」
「1学期にそう約束したろ」
「うん……ありがと」
広野は眩しそうに目を細めて園村を見上げた。二人の視線がぶつかると、ばつが悪そうにさっと顔を背けた。
そして、頭をぶんぶんと左右に振ると、
「あー、やめやめ。話変えるね」と言って、髪を掻きあげながら振り向いた。
「今日さ、生活指導引っかかってたでしょ」
「ああ、おかしいよな。どうみても地毛だろ?」
園村は親指と人差し指で前髪をひと束目の前で引っ張った。見上げるように顔を覗き込んだ広野とまたしても目が合う。
「うーん。日に当たるとちょっとだけ明るいかもしれないけど、でもそんな茶髪って程じゃないよね。まあ、他の生徒と比べると少しだけ長めだし、ワックスとかでスタイリングもしてるから目立つのかもしれないけど……注意されるほどじゃないよ。やっぱあれだ、普段の生活態度が悪いからだよ」
「それ、瀬戸と橘にも言われたな」
「でもさ、ワルっぽく見えるからと言って悪いことしてるわけじゃないし、堂々としてればいいんじゃない?京也がいい奴だってのは私が一番良く知ってるもん」
広野はちろりと舌を出して笑った。
二人は、親同士が知り合いだったこともあり小さい頃から仲が良かった。近所の側溝にザリガニを釣りに行ったり、TVゲームに夢中になり一緒に一日中部屋に篭っていたこともある。彼女は女子の中ではダントツに走るのが速く、小・中学校と陸上部で色々な賞を取った。友達が多く人気者で、高校に入学して当たり前のように陸上部に入ってからも、今年は期待の新人が入ったと噂になるほどだった。
そんな彼女が突然「これから毎日一緒に帰って欲しい」と言い出したのは、梅雨入りした頃だった。園村は、以前から何かがおかしいとは思っていた。廊下でたまに見かけるといつも下を向いて一人でいて、声をかけるとびくりと肩を震わせてぎこちない笑顔を見せた。
新しい環境に馴染むのに時間がかかっているだけと思った。一緒に下校するようになってから、その時間だけは昔の広野に戻ったようによく喋ったし、愚痴や泣き言をこぼすこともあれど、園村といればいつもすぐ笑顔に戻ったからだ。
「へーへ、それはどーも」
おどけた調子で返すと、広野はあっと言って両手を胸の前でぱちんと合わせた。
「ねえ、新学期も始まったことだし、景気づけにあそこ行かない?」
園村は「おお」と言ってぱっと表情を明るくした。
「俺も思ってた。涼めそうだし、行ってみるか」
二人はタイミングよくホームに滑り込んだ電車に乗り込んだ。