悔恨剣骨無し
丘崎左内は煩型の締まり屋として知られている。
主たる当代七坂藩主はすっかりと放恣に溺れ、彼を妨げるものは今やない。権勢並びなく斯様に公然と藩政を壟断する男であるが、しかし未だ家の細々とした金の出入りにまで口を出すのだという。
一見は質素倹約を重んじ喫緊事に備える出来た心延えのようだが、違う。この男の本質はそうではない。
彼にあるのはただ、損を厭い利を好む性根ばかりである。
左内は金銭のみならず、世のあらゆる事柄において損をするのを、損をした心持ちとなるのを好まないのだ。
加えてその卑しい心は、既得のもののみに発揮されるのではなかった。
権力、美女、宝物、金銀。
およそ己が持たず他人の手にあるものまで全てが、彼の「損」の対象となった。或いは妬心の全てが、損という感覚で賄われていたのやもしれぬ。
こうした獰猛とも言える物欲の持ち主であったが、だからといってそれは物扱いの上手であるを意味しない。
一度手に入れてしまえば固執したのが嘘のように興味を失い、格別に用いるでも愛でるでもなく死蔵するのが左内の常だった。
その一例が金銭である。
蔵には唸るほどに眠っているのに、それでも吝く管理に目を光らせる。
貯めてどう活かそうというのではない。使い道をまるで持たぬでありながら、一旦自分の懐に納めたものが出ていくのがどうにも厭われてならない。そういう性分の顕れであった。
左内のこの気質に、特に謂れがあるではない。ただ生来のものであったと述するより他にない。
だが激情にも似たこの心のあり方こそが、彼を今の地位に押し上げた事だけは間違いのない事実である。
誰もが二の足を踏むような汚れた真似を平然とこなす左内は、蛇蝎の如く嫌われつつも、同時にその毒を恐れられる存在であったのだ。
その左内が、苦虫を噛み潰したような顔で夜と寒さとに覆われた城下を歩いていた。
所は揚屋色街の只中である。藩の要職が足を入れるべきとは思えぬ土地柄だが、藩主自らが政放り出した昨今たれば、誰に憚る事もない。
後ろに付き従う十数名の郎党どもには既にしていささかならぬ酒が入り、呑気に陽気に楽しげである。しかし左内の心は浮き立つどころではなかった。
それというのも彼は今、ひどい損を被っている最中であったからだ。
先日、関又左衛門が致仕をした。
妻であった椚の娘が死に、仏門に入ると申し出たのだそうだ。
要らぬ節介この上ない事に、それを左内に注進に及ぶ者どもがいた。
「出家などおよそ言い訳でありましょう。御身を狙う心積もりに相違ありませぬ。努努、ご油断めさるな」
親切ごかして言う彼らの顔には、必ず一抹の喜色があった。平素は左内に阿諛追従する分際でありながら、左内が殺意に晒され困り果てるのを見るのが楽しくて楽しくて仕方ないのだ。
しかもその数が少なからぬ。
これは権威の失意である。とんだ損だと左内は思う。
しかし左内の身が清廉潔白であるかといえば、関に意趣を持たれる道理がまるでないかといえば、無論そうではない。
世人の噂は正鵠を射ている。
又左衛門の父と雪の父母を害す手引きをしたのは、丘崎左内その人であった。
関も椚も左内にとって、権力という商いものを巡る商売敵に他ならなかった。左内があって然るべき場所に陣取って譲らず、損ばかりをもたらす怨敵であった。
左内の観点からすれば、斯様な振る舞いは誅戮されて致し方のない罪悪である。
よってかの一件は、いつかいつかと付け狙って研いだ牙がついに隙を見つけて食い込んだという、ただだけの事に過ぎぬ。かの横死は両家の愚か者どもの咎に降った正当な罰である。
己が扱う権力が本来誰のものであるか。それを理解できぬ程に愚かであるから、命を落とすなどという大損を被る破目になったのだ。
その点において、関の一子は賢明だったと左内は思う。
親が死のうと家禄を削られようと文句一つ言わず、ただ面を伏せて身を慎んでいた。こちらへ歯向かうようであればきつい逆捩じを食らわせてやるつもりであっただけに、その態度は巧みな肩透かしめいてすら感じられた。
一角の剣士であったというから、その勘働きがさせた身の処し方であったやもしれぬ。
その後も執拗に又左衛門の様子を探らせていた左内であるが、やがて真正に気骨を失った能無しであると結論をして、それきり打ち捨てて忘れていた。
だがとうに墓に埋めたはずの、その屍が這い出てきたとあれば話は別だ。
最早左内の一派は藩の中枢を牛耳って久しい。
関の家など今更利用の仕様もなく、ただ面倒なばかりである。そのような値打ちのないものの対処に係うのは、大損以外の何物でもない。傷が深くなる前に、手早く対処をすべきであろう。
しかし今回のこの場合、以前のような闇討ちでの始末は悪手であると左内は断じている。
面の皮こそ厚けれど、彼は己の周りの雰囲気に敏感な男であった。藩内に、自らを疎む空気が蔓延しつつある事は知悉している。
故に後暗い行為を以て又左衛門を処理すれば、それは即ち第二、第三の関又左衛門を生む種になるとの予感があった。
で、あれば。
又左衛門の狙いが我が首であるというのならば、いっそ狙わせてしまえばよい。そうして狼藉者として返り討ちに討ち取って、この左内の力が磐石たるを知らしめるのだ。
斯様な算盤勘定で形を成したのが、連日に及ぶ色街での大名行列だった。
引き連れる郎党には剣の達者を選び抜いてある。酔った体も誘いの隙の内であった。
どうせ没落した関の家に、頼れる縁も人を雇う金もないはずである。
ならば独りこの虎口に飛び込んで斬り死ぬか、またしても諦めて言葉通りに仏門に入るか、そのどちらかの道しかあるまい。
──何れにせよ、この左内の損とはならぬ。
そう思って口を歪めた左内の足が、ふと止まった。
とある店の軒先に、一人の男が影のように佇んでいるのを認めたからである。
「……関か」
「ご無沙汰しております、丘崎殿」
交わされた言の葉で、郎党たちも関の存在に気づいた。さっと空気に緊張が漲る。周囲の酔いどれどもが剣呑な気配を察して、往来には円形の、小さな空間が生まれた。
殺気を孕んで佩刀に手を伸ばす郎党ばらに、「よい」と左内は声をかける。
その目は、関が大小を帯びていないのを見て取っていた。しかも予想に違わず、他に手勢も連れぬ単身である。十数対一で何ほどの事ができようかと、左内の気が大きくなったのは無理なからぬところであろう。
加えて左内は、これは怯懦と見られかねないとも計算している。丸腰の男を押し包んで斬り殺すは、気味が悪いからと小虫を必要以上の力で叩き潰す婦女の行いと遜色がない。
衆目の集まる往来で己の怯えを晒す。それはとんでもない損だと左内の算盤が囁いていた。己が権威の減衰に繋がる無様であり、到底看過できる結果ではなかった。
「何用だ。私で城勤めを辞したうつけに、殊更呼び止められる覚えはないが」
故に続けた言葉もまた、又左衛門へ向けられてはいない。周囲にこそ聞かせる為のものだった。
対して又左衛門はゆったりと頭を掻いた。それから諂うように、照れ隠してのように笑う。
「実は」
言いかけ、懊悩めいて眉を寄せて言葉を切った。
その呼吸の巧さが故であろう。
誰もが次の言を聞き逃すまいと耳を澄ました。すうと吸い込まれるような静寂が落ちる。彼方からの男女の戯れ声だけが、虚しく響いて地を這った。
「実は──」
声を落として、又左衛門は同じ言葉を繰り返す。
深く息継ぎをして再び口を開きかけた関の瞳が、わずかに見開かれた。ふっと視線が横合いへ流れる。
何の気もないような仕草だったが、しかし、驚くべきか。左内もその郎党も、あろう事か取り巻いた見物人たちも、揃って一瞬、そちらを見た。
ただ又左衛門だけが、又左衛門のみが、左内を見ていた。
衆目の逸れた間隙を縫って、その体がふわりと動く。誰の注意も警戒も呼び起こさない、至極自然な速度だった。駆け出すではなく、けれど歩くとは言い難い歩みの軽妙さで、忽ちに距離を詰める。
又左衛門が眼前まで肉薄したところで、左内はようやく己に迫る影を察した。
その口が大きく開く。
どういう言葉を発そうとしたのかは、終ぞわからない。
徒手空拳と思われた又左衛門の手のひらに、いつしか懐剣が握られていた。
稲妻のように閃いたその刃は左内の喉笛を水平に断ち、そこにぱっくりと二つ目の口を作った。直後迸った鮮血を、又左衛門は真横へ飛んで避けている。
骨無しは、甲冑を着込んでの組討術、懐剣術を元来とする。
鎧兜の隙間を縫って、如何に巧みに太い血の道を断つか。如何に手早く敵を殺すか。そればかりを目的として積み重ねられた人体破壊の工夫こそを本体とする知識であった。
──骨の在り処を知るが故、骨無きが如く肉を断つ。
剣名の所以はそこにある。
時代が下り鎧が廃れると、この知には別の念が凝らされ始めた。
どのように意識を逸らし、どのように距離を詰め、どのように殺すかへの着目である。そうして骨無しは、冷静にして冷酷、酷薄非情なる理智の集大成となった。
如何なる剣かと問われて、答えぬも道理。
見る者が見ればこれは紛う事なき暗殺の技であり、到底表沙汰にできる術理ではなかった。ただ曖昧にしておくしか方策のない代物である。
又左衛門はこれを、自ら使おうと習い覚えたわけではない。攻め手を学ぶは防ぎに通じると説かれ、心得のひとつとして受け継いでいたに過ぎない。
だが、一体どのような因果の巡りか。とうとうそれが役立った。
気をそそる会話の呼吸も、一瞬の空白を生む目線の詐術も、意識の間隙を縫う歩法も、得物の隠匿も。
のみならず舞台の誂え──己を嘲らせ油断を誘い、その裏で左内の性根を知悉して今日この日へ至らせるまでもを含めて。
あの夜より又左衛門のこれまでは、全てこの骨無しの秘術であったのだ。
どさり、と。
糸が切れたように、左内の体がくずおれた。あちこちから甲高く悲鳴が上がった。
左内の郎党が我に返ったのは、事ここに至ってからである。
「関又左衛門! 貴様、何の意趣だ!?」
白々しい怒声に、しかし又左衛門ははたと当惑する。
さて、何と答えたものか。一体何を晴らさんと、己はこの仕業を為したのか。父の敵か義父母の仇か。はたまた妻と己の無念か。
ひと刹那のうちに、様々な理屈が胸を去来した。
だが、
「我が子の──」
やがて口をついたのはそのいずれでもなく、自身にすら思いがけぬ言葉だった。
「生まれ得なかった、我が子の恨みにございます」
じくじくと胸の内で膿み続けてきた疼きが、ごろりと正しい位置に落ち着いた。今も燻るその傷の名を、悔恨という。
郎党たちが一斉に刀を抜き放った。白刃の林が、店明かりを反射して煌く。
ただ懐剣ひと振りを手に、又左衛門は静かに笑った。