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海月

 雪が死んだのは、冷え込みが厳しさを増す霜月の初めであった。

 関又左衛門と雪は、互いに互いを支え合うようにして生きてきた夫婦である。しかしふたりの間に子はなく、両家ともに親類縁者との付き合いを絶って久しい。

 つまり又左衛門にとっては、天下に係累が失せた事になる。 



 関又左衛門は、俊英の誉れも高き男であった。

 幼くして母と死に別れ、以後男手一つで育てられた子供であったが、彼はその境遇を踏み台とするように精進を重ねて頭角を現した。剣に秀で、また学問に励んで政道に詳しく、いずれ七坂藩を支える柱石となるであろう目されていた。

 その評判は、(くぬぎ)の家との婚儀が決まって(いや)増した。

 関の父は藩の要職にあったが、同じく重任を務める椚の当主、つまり雪の父と意気投合し、互いの子同士を(めあわ)せる運びとなったのだ。

 藩の大身同士の縁談とあって、大殿自らが音頭を取って若いい二人の門出を祝い、両人の将来は明るく照らし出されるか如くと見えた。

 又左衛門が、それまでに雪と顔を合わせたのは数える程の事である。だが共に暮らせば二人は、たちまち恋慕し合う仲となった。年ふたつを経た頃には雪が懐妊をし、又左衛門は驚くほどの幸福の中にいた。

 だがその幸せの全ては、ただ一夜にして砕け散る。



 その夜は椚の義父母が、身重の雪を見舞いって関の家へとやって来ていた。

 椚の家は雪の弟が継ぐ手筈になっていたが、流石にまだ年若く、妻はない。両家にとって雪の腹の子が初孫であり、こうした(おとな)いは酒宴を伴って、これまでにも幾度か行われていた。

 喜びに相好を崩して酒を過ごした義父母を、いつものように又左衛門が送ろうとした時だった。


「今宵は冷える。わしが送ろう。お前は嫁御どのを大事にしておけ」


 告げて、酔眼の父が提灯に火を入れた。

 言いだしたら聞かぬ父の性分を、又左衛門はよく弁えている。息子の嫁にいい顔をしたい見栄もまた知悉している。二言三言の他愛ないやり取りの後、又左衛門は父を送り出し戸を閉めて──それが今生(こんじょう)の別れとなった。

 父と椚の義父母は、その途上暴漢に襲われ、呆気なく命を奪われたのである。

 同道の下人までもを皆殺しにする手酷い有様は複数名による凶行であり、下手人はすぐに挙がるだろうと思われた。

 しかし、そうはならなかった。

 天に消えたか地に潜ったか。兇賊どもは雲隠れを決め込んで、とうとう何の手がかりも掴ませなかったのである。

 そして、後にはひとつの名だけが残った。


 丘崎左内。

 若殿に奢侈を教え込み取り入ったこの算盤侍が、企みを持って全ての糸を引いた主犯であると囁かれ始めたのだ。

 関と椚は、いわば大殿の一派である。大殿の信厚き股肱ではあったが、同時に次代を自らの裁量で取り仕切ろうという若殿の側の者たちにとっては目の上の瘤でしかない。

 この両家を除き大殿の翼を削ぐのが、かの一件の裏に潜む目論見であったという。

 確かに下手人たちの襲撃と逃散、その過程の随所にこの男の影は見受けられた。だが若殿の庇い立てを厚く受けた左内を、役目とはいえ徹底して調べられる者はなかった。

 故に確証は皆無となり、公には、それは根も葉もないものとして扱われた。

 しかし続く大殿の隠居と若殿の家督相続という政局の急変は、世人に真相を直感させるものであった。



 (しょう)温厚な又左衛門であるが、関に秘剣あり、とは藩内に聞こえた話だった。

 古くより家伝するその剣の名を骨無しという。

 名こそ広く周知されるものの、その実態を見た者は誰もない。

「その名の通り、骨無きが如くに人を断つ剛剣である」などと訳知り顔に語る者もいたが、関の縁者に尋ねても、皆ただ首を振るばかりで答えない。

 その沈黙が故に、余人には漏らせぬ秘伝であるのだろうと憶測され、改めて敬されもした。

 であればこそ、この没義道(もぎどう)に対して関の秘剣が鞘走り、是非を糺すであろうと誰もが信じた。

 

 だが世間の期待に反して、又左衛門は何の振る舞いも為さなかった。

 両家の喪主として葬儀を恙無く終えた後も、彼は沈黙を守り続けた。

「時を待っているのだ」という者もいたが、やがてその声も立ち消えて、代わりに悪罵がばかりが大きくなった。


「仇討ちの気骨ひとつすらない、海月の如き骨無しよ」


 腑抜け腰抜けではなく殊更に当てつけて、斯様に又左衛門は謗られる身となった。

 それでも。

 自らを蔑視され、また先祖伝来の術理を揶揄され、それでも又左衛門は黙って下を向いて耐えた。

 全て雪の為である。

 たった一晩で家族を失い前途を絶たれた又左衛門にとって、妻は手のひらに残された最後の幸福の欠片だった。


 けれど思いに反するように、雪は気を病んで伏せった。

 己の懐妊が父母と義父の命を散らすとば口となった。その事実が彼女を打ちのめしたのである。

 心に連れて身もまた弱り、腹の子は流れた。

 元より線の細かった彼女だが、流産から後は更に痩せ衰えた。命の気配すら薄く、強く日の光を受ければ向こうが透き通りそうな有様であった。

 夜半に跳ね起き、幾度となく握り締めた刀を手放させたのは、その(かそけ)き妻の姿に他ならない。


 又左衛門とて確信している。

 事は若殿の一派から、それも十中八九、丘崎左内から出たに間違いはないと。

 その猛りのままに華々しく討ち入れば、人は喝采した事だろう。

 だが家中でそのような諍いを起こせば、どうあろうと又左衛門の命はなく、それは即ち妻の生涯を閉ざす事を意味していた。できるわけがなかった。


 その、雪が死んだ。

 朝餉(あさげ)の膳を持ち部屋を(おとな)うと、まるで眠るように冷たくなっていた。

 不思議と悲しみは薄かった。冷えた頬を手のひらに包んでも、少しも涙は出なかった。

 ただ思った。

 もう何もなくなってしまった。

 余計なものも、必要なものも。自分には、何ひとつなくなった。


 喪を終え妻の骨を菩提寺に納めたその時、又左衛門は音を聞いた。

 それは己を縛り続けた枷が、外れた音であるようだった。

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