彼とあたしと、呂后
「今日は『リョコウ』の話をしようか」
「旅行?」
んん?旅行にでも行くの?まじ?やったー!温泉がいいな!!いやいやそれとも高知に行く??うーん仙台?いやいや京都もいいな。戦国武将かはたまた新撰組か。究極の二択・・・!!
あたしは持っていた本を隣に置いて、自分でも分かるくらいきらきらと目を輝かせて彼にふり返った。すると彼はくすくすと笑ってあたしの鼻をつまんだ。ふぐ、やめれ。
「違う違う、お風呂の呂に皇后の后で呂后」
旅行の話もいいんだけどね、今日はこっち、と彼は目に見えて分かるくらいテンションの下がったあたしの頭を撫でた。
「漢の国を打ち立てた高祖の奥さんだよ」
「へぇ。すごい人なんだね」
それってつまり、王様の奥さんってことでしょ?位の高い女性の話かぁ。
あたしが素直に関心していると、彼は、
「うん、とっても、『すごい』人」
と何やら含みのある顔で笑った。なんかそのスゴイってのに裏があるんだろうな・・・、絶対。あぁ、嫌だ。聞きたくない。きっと碌でもない話に違いない。
けれど彼はあたしがそこから立ち去ることを許してはくれない。放りだした本をもう一度手にして立ち上がろうとしたあたしの手をがっしりと捕まえて、話しだす。
「呂后はね、元の名を呂雉といって、父は名士でね、そのお父さんはつねづね、娘を貴人のもとへ輿入れさせると言っていたんだ」
ん?結構普通の話?親ばかなお父さんをもつ娘さんがお父さんのおかげでお妃さんになれたって話だね、うん。わぉ、玉の輿!やったね。
あたしは安心して座りなおし、彼の話に耳を傾ける。彼の脚の中はすっかりあたしの定位置。後ろから聞こえる彼の声はとっても穏やかで優しい音色。けれどまるで脳や心臓を掴まれたかのようなそんな感情にさせるほど甘く蕩けそうな声色をしている。彼の話を聞くのが嫌なのは、彼が残虐な話を好んであたしにするというのもあるけれど、その声を聞いていると立ちくらみになったかのようにくらくらとして、あたしがあたしでないような気がしてくるからだ。けれど、それでも彼の声から逃げられないあたしは立派に中毒者なのかもしれない。
あたしがふわふわとしたのを見ながら彼は話を続けた。
「娘を高貴な人に嫁がせたいと思っていたけれど、実際は下級役人の劉邦のもとに強引に嫁がせたんだ」
あれま、どうして?良いところに嫁げると思ってた呂后さんはがっかりしただろうね。ううーん、でもこれは政略結婚?好きな人と結婚できないっていうのはこの時代では普通なのかな。だったら少しでも良いところに嫁ぎたいよね。
「呂雉はその貧しさにがっかり。経済力もなければ、すでに妻子がいた。彼女はその妻と畑にでて鍬をふるという生活」
うへぇ、せっかく嫁いだのに、貧乏でしかも愛人。さらに本妻と一緒に畑仕事って・・・残酷にもほどがあるでしょ、劉邦さんよ。ていうか呂后さんもだけど本妻も可哀想・・・。愛人が一緒に住むって当たり前の時代だったの?
悶々とした考えを無視するように彼の話に集中することにした。だってこれ以上考えたって分かんないし。
「それでもね、父の目は正しかったことが証明されたんだ。3年後、劉邦は蜂起して秦を倒し、漢の皇帝にのぼりつめ、高祖となった。呂雉は2年間捕虜になったんだけど、その後皇后の座に就き、呂后となり策謀家としての一面をみせたんだよ」
うっわー、呂后さん超たくましいな。捕虜になっても劉邦さんを信じ続けて、その結果皇后になったんだよね。すごいなぁー。ていうか本妻はどうしたんだろ。
「そんな彼女の前に高祖の寵愛を一身に集めていた戚姫というライバルが現れるんだ。戚姫は自分の子供を皇太子にするように皇帝を口説いた。糟糠の妻やその子供を身捨てるという話は少なくないから、呂后は歯ぎしりする」
「そうこう?の妻ってなに」
「貧しいときから苦労をともにしてきた妻のことだね」
分かりやすく言うとあれか、売れないお笑い芸人の妻もしくは彼女か。一番貧しい時を共に過ごしているからどうたらこうたら。え?違う?
それにしても劉邦さん、愛人つくりすぎでしょ。呂后さん一人に愛を捧げればいいのに。
「ただ、呂后は指をくわえて黙っている女ではなかった。劉邦が死に、息子が即位すると、呂后は一気に権力を振りかざしはじめる。そして今までの恨みをはらすかのように残忍な性格が頭をもたげる」
あはは、・・・・・なんかいやな予感?
そんなあたしの考えを見透かしたかのように彼はふふ、と笑った。
あぁ、この笑い方、碌な笑い方じゃないんだよ。この笑いをしたときは・・・・。ご想像の通り?
「戚姫を牢獄に押し込め、髪を切り、首枷をはめ、趙王となっていた如意(戚姫の息子)を毒殺」
うぎゃー!よくある話だけど、愛人の子供殺すとか良くある話だけど!超恐い!!もうそれだけで恐すぎるんですけど・・・!!
彼は悶えるあたしのじたばたと動かす手足を掴んでにっこりと笑う。目が『絶対に離さないよ?』って言ってるんですけど。力は全然入ってなくて、というか力だけで言ったら逃げられるんだけど、彼が耳元で囁く声とか優しく撫でる手の感触とか、首を掠めるさらりとした髪が背筋をぞわりと震えさせて、彼から逃げることができない。すっかり腰の抜けたあたしを愉しげに観察する彼の目は捕食者。力ではなく甘い言葉で誘惑する。決してその内容は心を躍らせるようなものではないのになぜか惹きつけられてやまない。まるで狼に食べられた赤ずきんのように。
彼はカプリとあたしの耳を噛んで、ふっと息を吹きかけた。お腹からゾワゾワとしたなんとも言いようのない不思議な感覚が沸き起こる。不快ではないけれど、とっても不快。矛盾しているけれど、そうしか言いようがない感覚。あたしがあたしでないような。
「戚姫に息子の死をしらせ、悲しみにくれる彼女に薬を飲ませ、声を出せなくすると、手足を切り落とし、両目を抉り取った。耳にはロウのようなものを流し込む」
彼はまるで愛を囁くかのようにあたしの耳に『お伽噺』を紡ぐ。寝る前に耳に入れる素敵な素敵な愛の物語。一文字一文字をかみしめるかのように大切に大切に言葉を作り出す彼は物語の中の王子様で、あたしは王子様の言葉を逃さないようにどんな宝石箱よりも頑丈な心の箱の中に閉じ込めるお姫様。例え歌うように流れた言葉が愛の言葉ではなく、残虐な言葉であっても彼の口から出るのならば、それは立派に愛の物語。
「四肢を失い、声を出せない戚姫を豚小屋を兼ねた厠に閉じ込めて、人彘と呼ばせ、糞尿の世話をさせていたんだ」
あぁ、彼の物語があたしの体を熱くして、その言葉の一つ一つがあたしの心を惑わせる。手足を失っても、声が出なくても、耳が聞こえなくても、彼はきっとあたしを愛してくれるだろう。
「ねぇ、ハニー」
彼の甘い声に酔いしれ、恍惚とした瞳で彼を見つめるあたしの頬に手を寄せ、彼は蜂蜜を混ぜたミルクのような甘い甘い声で語りかける。けれどその手はミルクのように温かくはなかった。
「僕は君が望むのなら、この髪も目も耳も声も手や足も、僕の体のすべてを君にあげる。君のためなら僕は髪を引き抜き、目をえぐり、耳を潰し、声を失い、手脚を切り落とすよ?」
さて、君はナニからしたい?
ナニからさせてくれる?
髪も目も耳も手足もすべてをくれるのならば、あたしは彼の全てが欲しい。けれど、あたしは髪も目も耳も手足も、そんなものはいらない。彼の一部だけを手にするなんてそんな虚しいことはしない。手に入れるのならば全てが欲しい。
そして全ていらない。
「自由を失った僕を君が愛情をこめて丹念に世話をしてくれるのなら僕はちっとも苦ではないよ」
あぁ、けれどただ一つだけ彼がくれると言うならば、声を。声をちょうだい。きっとその声はとっても素敵な『赤ずきん』を紡いでくれる。狼に捕食されたあたしの物語。だからその声だけはあたしのもの。誰にも聞こえないように、誰も聞かないように、その声を奪ってしまいたい。
「僕には何もいらないんだ。君さえいれば」
あたしもいらない。
あなたの声があれば。その髪も目も耳も手足もなくても構わない。
「あぁでも、君の恐怖に脅える顔が見えなくなることや、君が喘ぐ声を聞けなくなることも、君に愛を囁くことができなったり、君の唇に触れたり、脚に絡ませてその小さな体を閉じ込めることができなくなるのはとっても辛い。けれど、その分君が僕に触れてくれるのなら、僕は構わない。さぁ、ほら僕の首に枷をつけて、君に繋ぎとめてくれ」
彼は己の自由をあたしに与えてくれると言う。あたしの自由はあたしのものだけど、彼の自由はあたしのもの。彼が言うのはそんなこと。
けれどあたしは知っている。
彼の自由もあたしの自由も、決してあたしのものではなくて、彼のものであるということを。だけどそれを口にすることはない。
ただあたしは彼が望むままの言葉を口にして、彼が望むままの行動をとるだけ。あたしに自由と思わせて、その手綱を握るのは彼の冷たい手。
「ダーリンの自由を奪うのは簡単よ」
あたしは座る彼に向き、彼の脚をまたぐように膝立ちになった。
「ねぇ、目をつぶって?」
目を瞑った彼の耳を両手で塞ぎ、大腿を膝で挟み、静かに唇を重ねた。
自由を失った彼はあたしのモノ。
あぁ、でもだめね。
手だけは奪い損ねちゃった。
なにも使わないで全ての自由を奪うのって難しい。
彼のすべてを拘束する良い方法があればいいのに。
もちろん残虐な愛を紡ぐその声もね。
今回の教訓
『愛とは猟奇的で捕食的』
中国三大悪女の一人、呂后。呂后に加え、西太后、武則天(則天武后)、妲己の4人のうち3人を示します。これに毛沢東夫人の江青を加えて4大悪女とも称されます。