彼とあたしと、はじまりの物語
最終話です。
閨で戯れ交わした愛の物語は自らの手によって終わりを告げた。夢寐の語りのように囁いた言葉は胸をさき、腕をもぎ、腿を逆さに捻った。
美しすぎるが故に、その身を弄られた。
皮膚が裂き、骨が軋み、甘い声は枯れ、髪は抜け落ちた。
闇を走り抜ける睦言は、耳を滑り、こう語る。
それは運命――――――
死に際まで美しかった。
例え額が割れ、脳が飛び散り、目が抉れ、四肢のすべてが有らぬ方向に屈曲し、臓器のほとんどが握り潰されていようも、ソレは美しいままであった。
―――いや、もしかしたら生あるときよりも美しさは増していたかもしれない。
華やかさなどまるでない。
だが、飛び散る血潮が紅のように艶やかに光り、苦行のようなその形相は微笑みを浮かべた聖母マリアのように穏やかだった。憎悪などまるでない。歓びだけが全てを支配している。
戯曲のない円舞は、脚を止めることを赦さず、狂ったかのように踏み続けるステップはどんな舞踏会よりも軽やかだった。骨がキシキシと鳴る音や臓物のぐしゃりと潰れる音、ぴちゃぴちゃと血が跳ねる音や皮膚が裂ける音、それらの艶美な重層はまるでオペラのように情熱的だった。
震える。
手が、脚が、唇が、
―――――――――心が。
歓喜に満ちた傲慢が、心を揺さぶり、羽を広げた天使のように愛を紡ぐ。
赤い血を浴びた自身の躰はまるで真っ赤なドレスを纏ったかのように蠱惑的で、彼の頬にキスを施した後の血を含んだ唇は、口紅の比ではない程に艶麗だった。
真っ赤に染まった舌先で舐めると、それは甘露のようにジワリと口内を侵した。
彼の胸にそっと手をあてると爪先は真っ赤に染まり、どんなマニキュアよりも輝きを放ち、あたしを恍惚とさせる。
血の含んだ足先は真っ赤なエナメルのハイヒールのようで、彼の腹部に体重をかけヒールのない真っ赤な素足を埋め込みたい衝動に駆られた。
あぁ、これこそあたしの、そして彼の求めていた色。
美しく妖艶に輝く緋。
彼はよくあたしには赤が似合うと、赤いマニキュアや赤いヒール、赤いワンピースをあたしにくれたけれど、ここまであたしを美しく魅せてくれた赤があっただろうか。
彼こそ、彼こそがあたしを美しく妖艶にしてくれる赤を持っていた。
あぁ、だから彼は笑っていた。
艶やかな皮膚が破けようと、白く美しい骨が飛び出ようと、爪が剥がれようと、彼は彼の血を纏いどんどんと美しくなるあたしを見て悦んでいた。
これこそ史上最高なる美しき拷問。
あぁ、悦びが躰を這い上がり、真っ赤な血はあたしを残酷なまでに籠絡させる。
彼は最後の最後まであたしを虜にして離さなかった。そして彼自身もあたしの虜となり、あたしの手を自らの血に染め上げた。
淫蕩な世界に溺れたあたし達は、
これ以上とないくらい美しき赤の世界に魅了された――――――。
「という夢を見たの」
あたしは彼の脚の間に入れた体を縮こませた。そして顔を上げて背後に座る彼のすべやかな顎を見上げた。彼はあたしが見やすいように顔を下げてくれる。
「僕はハニーの手によって殺されて、歓喜の声をあげるの?」
ふふ、と彼はとても楽しげに笑った。あたしはあたしを包み込む彼の白い指をツーっとなぞりながら彼と同じように笑った。
「そう、嬉しくて嬉しくて堪らないって声で喘ぐの」
まるで快楽に溺れたかのような煌々とした表情と声があたしの脳に焼きつく。
「あたし、こういうスプラッタとかホラーってすごく嫌いなのに、なんでかこの夢が恐いと思わなかったんだよね。それどころか、綺麗とまで思っちゃったんだから、自分が恐いな」
「・・・・へぇ?」
「あ~あ、なんかマニキュア欲しくなっちゃった。真っ赤なやつ」
伸びた分だけ赤くない爪を眺めていると、彼はあたしの指を優しく掴んで中途半端に塗られているマニキュアを撫でた。
「今つけてるのはなくなっちゃったの?」
「うん。だからまた買ってくれる?」
「勿論。・・・あぁ、次はもっと赤いやつにしようか、ふふ」
そう言って彼はあたしの指を口に含み、カシリと甘噛みした。
このときあたしは、彼が何やら思惑を含めた笑みを浮かべていたことに気が付かなかった。ただ、あたしの話をいつも通り楽しそうに聞いていただけだと思っていた。だからまだ無知だったあたしは彼があたしの指を噛むのをうっとりと眺めていた。
でも、今なら分かる。このときの笑みは決して楽しげではなく『愉しげ』と表現されるものであったことを。
そしてあたしは彼にこの話をしたことを、後に後悔することになる。
だってまさかこの夢の話が彼の『拷問話』を引き起こす起爆剤になっていたなんて、そんなこと夢にも思ってはいなかったのだから。
「ふふ、」
だけど今はまだ、蜜月に溺れているだけでいい。
束の間の夢は甘い甘い、蜂蜜の声。
『ねぇ、鉄の処女って知ってる?』
それは遠くて近い未来の物語。