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彼とあたしと、鉄の処女  作者: 瑞雨
彼とあたしと、ささいな日常
16/24

彼とあたしと、ゆびきり




「ねぇ、約束してほしいの」



辞書のように厚い本のちょうど真ん中あたりに目を通す彼にあたしは言葉を発した。左から右に読み進められるそれはあたしの知っている文法ではなくてちっとも分からない。日本語でも英語でも中国語でも韓国語でもない。ドイツ語で書かれた文字を彼はすらすらと読んでしまう。もっとも日本語で書かれていたとしてもあたしにはまったくもって理解できていないだろうけど。彼の頭の中はあたしの理解の範疇をとっくの昔に超えてしまってる。


そしてそんな彼はあたしの問いかけに笑みを浮かべながら首を傾げた。



「どうしたの、急に」



読む手を休めて律儀にあたしに向き直る彼にあたしは真剣なまなざしで言葉を吐きだした。



「あのね、あたし、ダーリンがあたしを愛しているからこそ、ダーリン自身の手によってあたしを殺してしまいたいという気持ちを分かっているわ。分かっているけれど本当に殺されてしまうのは嫌なの。だってそうでしょ?殺されるのを喜んで受け止めるなんてそんな酔狂な人がこの世にいると思う?」



そう言ってあたしは、あぁダメだ、とため息を吐きたくなった。



だって喜んで殺されようとする酔狂な人物が目の前にいるのだから。




けれどそれを言ったらおしまいなので、その言葉はため息と一緒に咽喉の奥に飲み込む。そしてもう一度真剣な表情で続きを発した。



「前にも言ったけれど、ダーリンのために死ぬのならいいけれど、ダーリンのせいで死ぬのは嫌だわ」



思いのほか平坦に出てくる声に自分自身で驚いた。別に彼に怒っているとか彼を貶めるとかそんな思惑はないけれど、それでも口をついて出てくる声の冷たさに舌うちをしたくなる。



顔を歪めたあたしを彼がどう思ったのかは分からない。彼に向けた言葉通り、彼自身に対してあたしが心底嫌悪していると思っているかもしれない。けれどきっと彼はあたしが自分の発した声が想像以上に冷たくなってしまったことに自己嫌悪しているときっと気づいている。そういうことにはとても敏い彼だから、他人なら言葉通りに受け取ってしまうだろうあたしの台詞を彼はちゃんとあたしの気持ちまで敏感に悟ってくれる。



ほら、だって彼はこんなにも優しい笑顔であたしを見つめる。




・・・え?彼があたしを虐めるのが好きなのと同時にあたしに冷たい言葉と冷たい態度で責められるのが好きな生粋のド変態だから嬉しそうに笑ってるんだ、って?



いやいやいや、ここは彼が優しいからってことにしとこうよ。うん。それで円満に終わるじゃん。だってそうじゃないと彼の笑みが本当に・・。それはもう悦を含んでるってことにどう反応したらいいか分からないよ・・・はは・・・。



「僕は君になら喜んでこの肉体を捧げるよ?」



・・・あぁ、もうなんでこういう発言しちゃうかな。




本当はあたしが考えてる通りの人なのに、こんな変態発言をあえてしてくるからあたしもそういう風に態度で表わさなければいけない。だいたい生粋の日本人なのに互いをダーリン、ハニーなんて呼び合ってる時点で頭どうにかしてんじゃないのって自分に問いかけたくなる。羞恥心?なにそれ、おいしいの?なんて言わなきゃいけないじゃない。



なんだか頭の痛くなるような自分の思考に思いっきり鈍器でガツンと殴りたくなるけれど、あいにく自分を痛めつけて悦ぶようなドM精神は持ち合わせていないし、彼の言葉にとりあって自分を追い詰めるような気力を今つかうわけにもいかないので、とりあえず彼の痛々しい台詞は放置プレイの方向で。



あたしは気を取り直して、言葉を選びながらゆっくりと息を吐いた。



「ダーリンになら何をされてもいいけれど、ダーリンの手によって死んでしまうのは嫌。あたしはダーリンのためならダーリンの好きな鉄の処女の話だって聞くし、拷問の話だって聞く。ほんの少しくらいなら痛みだって我慢する。だけどそれ以上は嫌」


「だから約束してほしいって?」


「そう、あたしが本当に嫌がることはしないって。鉄の処女が例え手元にあったとしてもそこにあたしを入れたりしない、って」



ゆびきり、して。



そう言って小指をさしだすと、彼は甘い甘い瞳を弓のように細め、ぷっくりと膨らんだ綺麗な唇を三日月のように形作った。そしてあたしの小指をその細く白い小指で絡め、まるで口付けをするかのように顔を近づけた。



「もちろん、いいよ?」



砂糖をたっぷり混ぜたチョコレートと純度100%の蜂蜜と、キャラメルソースを混ぜたかのような甘い響きを含んだ声で彼は囁いた。



「でも、君にその覚悟がある?」



ふわりと香る彼のにおいは男の匂いなんてまったくしない。まるで砂糖菓子のようにほわほわとした、けれど女の子とは違う媚薬のような甘さ。そんなむせぶような香りでほんの一瞬、ぷつりと時がとまったかのような気がした。



掠れた声で


『覚悟?』


と問い返せば、彼は深い深い闇に捕らわれそうな瞳を光らせてわらった。





「指きりをする覚悟」





そう言いながら彼はあたしと結んだ小指をそっと離して口に含んだ。ぬめりとした舌があたしの指を絡めとり、まるで愛撫をするかのようにくちゅりと音を立てて舐める。言いようのない感覚とわざと立てられる厭らしい音にあたしのお腹がぞわぞわと騒ぐ。ぐらぐらと頭の揺れるあたしを見て彼はくすりと笑い、指を己の口から引き出した。唾液に濡れた小指が空気にさらされて冷たい。急激に終えた行為に戸惑いと惜しさを感じながら、あたしの腹部に手をまわす彼の体に頭を預けた。




あぁ、始まる。

彼の舞台が。




「指切りってね、遊女が起源なんだけど、」



まるで小さな幼子を寝かすために枕元で小さく囁く物語を話すかのように言葉を紡ぎながら、彼は『彼の世界』を語り始める。




「むかーしむかし、ある遊女がいました。遊女にはそれはそれは愛しい愛しい情夫がいました。遊女は情夫に愛を囁きますが、情夫はそれを信じることができません。なぜなら遊女は男に一夜の愛とひと時の夢を与えるもの。その体は幾人もの男たちによって組みしだかれているのです。情夫は思いました。きっと遊女を抱く男みなにそう囁いているのだろうと。遊女は考えました。どうしたらこの男に己の本気を分かってもらえるのだろうか」



色鮮やかな着物は胸元から肌蹴、金や銀で彩られた帯はその締め付けが嘘のように足元でゆらゆらと踊る。首筋までしっかりと塗られた白粉と、体に染み込ませた薫物が息がつまるほど鼻をくすぐり、酒に酔ったかのような感覚を与える。濃厚に重ねられた紅は唇をぼってりと厚く魅せ、目元に引かれた色は挑発的な視線を男に送る。甘い息を吐き、甘い言葉で男を惑わす妖艶な女。



そんな女があたしの頭を占める。彼の物語の中には遊女の外観など一切含まれてはいないのに、彼の言葉が、彼の声が、彼の空気が、あたしの中に遊女を描き出す。



それはとてもとても、美しく、艶麗で、男を簡単に操ってしまう恐ろしい女。



くすりと笑う遊女の口元があたしの脳裏に描かれていく。ぞわりとするほど鮮やかで色欲の強い美女があたしをどこか恐ろしいところに連れて行ってしまいそうな、そんな幻覚に陥る。考えるだけでも震えてしまいそうなほどの恐怖と・・・欲情。



彼はあたしの冷たくなった指先とほんのりと火照った頬を見つめ、妖しい瞳であたしを見つめる。



「愛した男に己の本気を分かってもらいたい遊女は、すばらしい思いつきをしました」



さて、なんだと思う?



そう言って彼はあたしの切りそろえられた小さな爪ののった指を撫でた。その瞬間あたしの小指ははちきれそうなほど熱を帯びる。彼の手はあたしの小指を真綿に包むかのように優しく丁寧に持っているのにも関わらず、あたしは彼の質問の答えを考えることもできないほどの痛みを感じた。


ぎりぎりと締め付けられるような感覚を隠すこともできず、痛みに歪ませた顔を彼はそっと撫で、愛おしいとでも言うかのようにくすくすと笑った。



「そうだこれをあの方に差し上げよう。そう言って遊女は熱く熱く焼けた鉄で己の小指を切り落としました」



まるであたしの小指も切り落とされたかのような感覚に陥った。じんじんと熱く燃える小指はしっかりとあたしの掌の先についているのに、まるで自分の小指が今この瞬間ぽとりと落ちた、そんな錯覚。小指をなくしたあたしはなぜかとても誇らしく、小指のなくなった手がとても愛おしかった。痛みはない。あるのは熱と愛。



「あぁ、これであの人は私のもの」


そっと耳元で囁く彼の声が居もしない遊女の声と重なる。そしてあたしも遊女となる。




あぁ、これであたしもあの人のもの。




「遊女は情夫に小指を渡しました。それを受け取った男は激痛をこらえて己の一部をさしだした遊女の本気をその時はじめて知ったのです」



彼はにっこりと笑ってあたしの小指をぎゅっと握った。




「君は僕に小指を差し出す覚悟があるかい?」



ぞくりとするような笑みを顔にのせ、ぺろりとあたしの頬をなめた。声の出ないあたしは彼があたしの顔をなめるのをされるがまま。



「あぁ、もちろん。僕は君になら喜んで小指をあげるよ?小指どころか全ての指を切り落としてもいいし、手首や肩から刃を入れてもいい。君が望むなら心臓をあげてもいいんだ。僕の愛は君だけのもの」



ふふ、と笑ってあたしの心臓のある場所に口付けをする。ぞわぞわと這い上がる恐怖にあたしの心臓は早まるどころか逆に止まってしまうのではないかというくらいゆっくりと音を鳴らす。



「まぁ、遊女だってそれを手管としていろんな男に愛を囁いていたから、本当の指ではなくて、晒されている罪人の指を盗んできたり、贋物をつかってたみたいだけどね」



彼の少しおどけた言い方に、あたしはハッとなった。どこか遠くにでもいたかのような感覚がパチンとはじけた、そんな感じ。



どうして小指をあげることが本気を示すことになるのか、分からなくなった。確かに自分の体を切り落とすという行為はとても覚悟のいることで、自分の体を傷つけてまであなたを愛しているのだという証拠になるのかもしれない。けれど、小指をもらったところでどうしたらいいのだ。小指なんていらない。切り落とされた体はやがて腐り、干からび、何かも分からないモノになっているのではないか。それを受け取ったところでどうしたらいいのだ。自分の体の一部でさえ気味が悪いのに、他人の切り落とした体なんてもっと気味が悪く、恐ろしい。しかもそれが愛しい人のものならばまだしも、盗人だなんて・・・。そんな誰のかも分からないものを渡される身にもなってみろ、そう思ってた。



けれど、確かにさっきまでのあたしは遊女とひとつになってて、小指を切り落とした錯覚に陥った時、その行為にとても愛おしさを感じた。けれど目が覚めた今、あたしは遊女ではないし、小指を切り落とすことに意義も愛も感じない。




「小指なんて、いらない」



小指だなんて、そんな非衛生的なものよりも、もっと確かなものが欲しい。あたしは遊女ではないから、遊女よりも欲張りだから、小指なんかよりもっと良いモノがほしい。



一気に精神的疲労を感じたあたしは、息を吐き出すのも億劫で、そんなあたしを見て彼はふふ、と笑った。



「なぁに?それじゃぁ、かつて阿部定が愛した吉蔵のように性器を切り取って君にあげようか。それともイルゼ・コッホのように皮膚を剥ぐ?」



恍惚の表情を浮かべ彼はあたしの咽喉にかぶりついた。



「いらない。指も皮膚も、ソレも・・・なんにもいらない」



あたしが欲しいのは身体の一部じゃないくて、あたしに対する約束の言葉だけ。



「君と指切りするのはとっても簡単だよ?でもそれは君が僕に小指を差し出す覚悟があるなら、という話」



「どうして、」



彼はあたしの唇にそっと指をおいてその先の言葉を飲み込ませた。



「だって君から言いだしたんだから。自分の条件を相手に受容させるにはそれだけの覚悟を示さないと。まさか自分の条件だけ相手に呑ませるなんて、そんなことはしないよね?指切りを言いだしたのは君。だから君が僕に指を差し出さないと。あぁ、贋物なんていらないよ?君のでなくちゃ意味がないんだから」



くすくすと楽しげに笑う彼の姿に、まるで金縛りにあったかのような感覚に捕らわれる。さっきまではゆるやかに動いていた心臓が、どくどくと大きな音を鳴らし、痛いくらいに跳ね上がる。まるで滝を勢いよく流れる水のように、血液が血管という血管を落ちていく。手も足も頭も動かせない。けれど咽喉を流れる唾液がゴクリと音を立てて食道に流れた。痛いのは脳か心臓か。




「ねぇ、ハニー?」




ゆっくりとあたしを覆う彼から花のような甘く瑞々しいにおいが漂う。一瞬で官能な雰囲気にのみ込まれた部屋は、まるで遊郭のような暗く、明るい籠に変化する。まるで捕食者のようにあたしを捕える彼は愛しい旦那を逃さない遊女で、彼の腕に捕らわれたあたしは遊女に貪り喰われる憐れな夜光虫。



「ちゃーんと、約束してあげる」



そう言って彼は小指を差し出した。





「指切り、しようね?」





絡め取られた小さな約束は小さな灯りの下で消えた。




今回の教訓。

『ゆびきりは危険な約束と小さな秘め事』





事情により急ピッチで仕上げたので、最後ぐだぐだ・・・。

とりあえずアップしますが、また落ち着いたら編集します。

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