九月の迷宮
取り壊す校舎だから、多少のことは構わん。
担任がそう言ったのが、そもそもの間違いだったと思う。
「多少って、どこまでですか」
「お前らの常識の範囲でだ」
昭和五十六年九月。北高校三年三組に、そんなものを基準にさせてはいけなかった。
俺たちの学校には運動会がなかった。街の真ん中に押し込まれたような敷地で、全校生徒が走り回るには無理があった。その分なのか、文化祭になると、普段は何を考えているのか分からない連中まで急に忙しくなった。
俺たちが借りたのは、取り壊しの決まった木造校舎の教室だった。
床には机を引きずった傷が無数にあり、窓際の柱は日に焼け、黒板の下には何年分とも知れない白い粉が詰まっていた。ここを地下迷宮にする、と誰かが言った。
「お化け屋敷か」
「違う。石の廊下をずっと行くと、奥に祭壇がある」
「祭壇で何するんだ」
「まだ決まっとらん」
肝心なところが決まっていなかったが、廊下を作る方には、すぐに手がついた。
器用な奴が胴縁を並べ、薄いベニヤを打ちつけた。教室の中にもう一つ壁が立つと、それだけで妙に面白かった。窓から黒板まで見通せていた場所が、曲がり角の向こうを見えなくする。俺は材料を運ぶ係だったが、板を一枚運ぶごとに、知っている教室が少しずつ知らない場所になっていった。
窓際では、彼女が紙を張っていた。
目立つ格好をするわけでも、大声で笑うわけでもない。男子同士の話に彼女の名前が出ると、たいてい誰かが「ああ、あの子、きれいよな」と言う。それ以上のことを知っている奴は少なかった。
彼女のそばにはラジカセがあり、松任谷由実の歌が流れていた。紙を押さえ、皺を延ばし、端を折り込む。細い指は休まず動いていた。
俺が彼女を見るのには、ほかの男子にはない理由があった。
台風の翌日の昼休みだった。
誰かの家の瓦が飛び、誰かの家は断水していた。家の中で傘を差して朝まで椅子に座っていたという奴までいて、被害の大きさを競うような話になっていた。
その中で、彼女が言った。
「FM、夜中も電波を落とさんかったんよ」
俺は、FM放送にも毎日の終わりがあることを、そのとき初めてちゃんと意識した。
「ずっと音楽が流れてて。雨戸がかたかた鳴るのを聞きながら、朝まで聴いとった」
「寝られんかったん?」
「うん。でも、いい夜だった」
それだけだった。
けれど俺には、雨戸の内側で一人、ラジオを聴いている彼女が見えた気がした。
夜十二時までに寝ることを、健全な高校生の当然の務めだと思っていた俺である。夜中の三時からラジオを聴く奴がいると知っただけでも驚いていたのに、彼女は台風の夜を、いい夜だったと言った。
学校では見せない顔が、その言葉に少しだけ混じっている気がした。
その何日か後、俺と友人は、彼女が商店街の手前で脇道へ入るのを見た。
「あっち、何かあったか」
友人が言い、俺たちはつい足を向けた。
駐車場だった。
赤い車が止まっていた。彼女は迷わず近づき、ドアを開けた。
迎えの車だと思った。
運転席だった。
制服のスカートを片手で押さえて乗り込み、ドアを閉める。少し間があって、ぶふぉ、と、見た目よりずっと乱暴な音でエンジンがかかった。
「おお、すげえ。コスモAPだ」
友人は車を見ていた。
俺は、運転席の彼女を見ていた。
赤いボディーの奥で、彼女が何かを確かめるように左を向き、ハンドルを回した。車はゆっくりと向きを変え、俺たちの前を通り過ぎた。
気づかれたのかどうかも分からない。俺たちは声もかけず、路地の端に立っていた。
免許を取ること自体は、うちの学校では禁止されていなかった。ただし車で学校に乗りつけてよいわけではない。だから、あの駐車場なのだろう。
理屈は分かった。
制服の彼女と赤いコスモが、なぜあんなに似合ったのかは分からなかった。
迷宮作りが一線を越えたのは、ペンキ屋の息子がコンプレッサーを持ってきた日だった。
軽トラックが校舎の横まで入ってきた。荷台を入口につけたいらしいのだが、斜めに下がっては止まり、前に出ては、また同じ角度で下がる。
「もっと右。違う、ハンドルじゃなくて尻が右」
「右って言ったやろうが!」
誘導する側も怪しかった。
窓からそれを見ていた彼女が、刷毛を置いた。
「私が寄せようか」
あまり普通の声だったので、最初は誰も返事をしなかった。
彼女は外へ出ると、運転席を代わってもらった。背もたれに手を添え、後ろを向く。軽トラックは一度前へ出て、それから、さっきまでの騒ぎが嘘のように入口へ下がってきた。
「ここでいい?」
荷台と入口の間は、人が荷物を持って渡るのに、ちょうどよいところに収まっていた。
「お前、車運転できるんか」
「免許あるもん」
彼女は降りてきて、当然の説明をした。
俺だけは知っていた、と言いたくなったが、知った経緯を説明できないので黙っていた。
コンプレッサーを下ろすとき、俺は必要以上に力を出した。
機械が使えると分かった途端、美術部の女子が本気になった。
それまでは部活の合間に様子を見に来る程度だったのが、いつの間にか教室に居続けるようになり、壁の灰色に注文をつけ始めた。
「そんな一色の石、ないよ」
「石なんか大体灰色やろ」
「大体で塗るけん、そうなるんよ」
俺たちが塗った壁は、彼女たちの手で、もう一度塗り直された。
継ぎ目の影が深くなり、石の縁に明るい色が乗った。ひび割れが走り、下の方には湿ったような染みができた。平たい壁にしか見えなかったものが、夕方には、手をつけば冷たそうな石積みになっていた。
俺は確かめるように触ってみた。
「まだ乾いとらんよ」
彼女に言われ、指を離した。指先が灰色になった。
「本物みたいやったけん」
「本物の石でも、わざわざ触る?」
少し笑った。
俺は返事を考えたが、思いつかなかった。
彼女は俺の手に、ぼろ布を渡してくれた。
昼休みには、相変わらず放送部の番組が流れた。
ギターの音が始まると、壁を支えていた奴が膝で調子を取った。誰の曲か尋ねても、知っている奴と知らない奴で返事が食い違った。少なくとも歌謡曲ではなかった。
入学式でダンシング・クイーンが流れた学校だから、今さら驚くことでもなかった。放送部は屋上に大きなFMアンテナを立て、俺たちの知らない曲を次々に仕入れていた。
窓の外では、バイクの話をする連中が集まっていた。四月にはタコメーターも知らなかった奴が、今では人のバイクの性能をもっともらしく解説している。
その横を、アニメの雑誌を抱えた女子が通る。何を描いているのかと尋ねた男子が、見せられた紙を黙って返したこともあった。女子は俺たちより、ずっと遠くまで行っているらしかった。
同じ教室で一年近く過ごしても、知らないことばかりだった。
祭壇の奥に、三つ首の天馬が現れた。
「馬やろ、これ」
「羽があるけん天馬」
「首、三つあるぞ」
「見れば分かる」
作った女子は説明を面倒がった。
首の芯や紙張りの途中を見ていたはずなのに、色がつくと別のものだった。三つの頭は少しずつ向きを変え、羽は狭い教室に収まり切らないほど大きく見えた。美しいのに、近くにいると落ち着かなかった。
窓を塞いで明かりを落とすと、俺たちはしばらく黙った。
暗い回廊の先に祭壇があり、その向こうで、三つの顔がこちらを見ていた。
「これ、夢に出るぞ」
誰かが言った。
作った本人が、「私もそう思う」と答えた。
前日の夕方、俺と彼女は回廊の角に残った塗りむらを直していた。
ラジカセの電池が弱ってきたのか、音が少しくぐもっていた。外では金槌が鳴り、どこかの教室から笑い声が聞こえた。
「いつも、こんな遅くまで起きとるん?」
台風の夜のことを尋ねたつもりだったが、ずいぶん間の抜けた質問になった。
「こんなって、まだ六時やん」
「いや、夜。ラジオとか」
「聴きたいのがあれば」
「俺、十二時には寝る」
「へえ。ちゃんとしとるね」
褒められた気がしなかった。
彼女は壁から一歩離れて、塗ったところを眺めた。
「もう少し、ここ暗くしようか」
俺も隣に立った。
薄暗い石の廊下の向こうで、誰かが天馬の羽を直していた。足元には新聞紙、バケツ、刷毛。俺たちが作ったものなのに、もう少しここに居たいと思った。
「壊すの、惜しいな」
俺が言うと、彼女は壁を見たまま頷いた。
「ねえ。せっかくできたのにね」
そのとき初めて、文化祭の次の日のことを考えた。
当日は、入口の当番を代わってもらえないほど人が来た。
中から悲鳴がすると、並んでいる人が嬉しそうに身を乗り出した。お化け役は一人もいないのに、出てきた女子が友達の腕を叩きながら笑っていた。
「あの馬、何なん」
聞かれるたびに、俺は「天馬」と答えた。それ以上の説明は、作った奴にもできなかった。
担任は一人で入り、出てきてから、教室の外側を見上げた。
「お前ら、よう作ったなあ」
叱られることを少し心配していた俺たちは、その一言で急に誇らしくなった。
交代して体育館へ行くと、コカ・コーラのつなぎを着た連中が演奏していた。
腹に響く音がした。プロのPAを頼んでいるという話は聞いていたが、自分の胸まで鳴るとは思っていなかった。
何の曲か、さっぱり分からなかった。
隣の友人に尋ねても首を振る。舞台では、歌っている奴がマイクに覆いかぶさっていた。
「おーげば、おーげば!」
「ゲット・バックか!」
友人と同時に分かった。
分かってしまうと、どうしてここまで変えたのかがおかしくて、俺たちは笑った。演奏のうまい下手を言うより先に、あの格好で、あの音を出していることが面白かった。
教室へ戻ると、彼女が入口で人数を数えていた。
「どうやった?」
「ゲット・バックが、すごいことになっとった」
「どんな?」
俺が歌おうとすると、彼女は慌てて笑いながら手を振った。
「分かった、分かった。あとで聴きに行く」
終わりは、急に来た。
廊下の人が少なくなり、終了の放送が流れた。窓の覆いを一枚外すと、天馬はたちまち紙と絵の具に戻った。それでも三つの顔は、まだこちらを見ていた。
誰も、最初の一枚を剥がしたがらなかった。
「今日は道具だけ片づけようや」
誰かが言い、全員が賛成した。
バケツを洗い、余った木をまとめ、借り物を確かめる。彼女はラジカセのコードを巻いていた。
帰るときに振り返ると、教室の入口に、俺たちの書いた迷宮の看板が残っていた。
駅へ向かう途中、たこ焼き屋に寄った。
いつもの小さな店だった。先に入った連中が席を占めていたので、俺は立ったまま注文した。その後から二人来て、また三人来た。
「あれ、お前も来たん」
「何か、人がおるけん」
そうしているうちに、教室と同じ顔ぶれになった。
なぜ入れたのか、今でもよく分からない。椅子はとっくに足りず、誰かが立てば誰かが座り、入口では入る奴と出る奴が譲り合っていた。四十人近い人間が小さな店の中で場所を融通していた。
「おばちゃん、私タコ苦手。タコなしにして」
「こんなに大勢の男に囲まれて、私怖い」
「誰もお前囲っとらん」
「俺、粒あんの饅頭の方がいい」
「タコが足りんかったらイカでもいいよ」
おばちゃんは返事をする暇もなく、鉄板の上の丸いものをひっくり返していた。
その真ん前で、いつも中島みゆきの話をしている女子が言った。
「私は独りぼっちが好きなんよね」
「じゃあ何でここにおるんか」
店が揺れるほど笑った。
「この際、ビール出してよ」
「出さんよ」
それだけは、おばちゃんが即座に答えた。
彼女は壁際にいた。
俺はようやく受け取ったたこ焼きの舟を持って、そちらへ寄った。誰かの鞄をまたぎ、肩をよけると、彼女が少し横に詰めてくれた。
「熱いよ」
「分かっとる」
分かっていたが、一個目で口の中を焼いた。
彼女は笑い、自分のたこ焼きには、慎重に息を吹きかけていた。
「車、どこで練習したん」
軽トラックの一件があるので、これなら尋ねても不自然ではなかった。
「家。父が横に乗って」
「怖くなかった?」
「父が?」
「運転が」
「最初はね。父の方が怖がっとったかもしれん」
彼女はまた笑った。
聞きたいことはまだあった。赤い車のこと。台風の夜に流れていた曲のこと。明日からもあの駐車場へ帰るのかということ。
けれど、話しているうちに横から祭壇の話が入り、誰かが担任の真似を始め、俺たちはまた同じ方を向いて笑った。
彼女の肩が、ときどき俺の腕に触れた。
店を出る頃には、アーケードの灯りがついていた。
駅へ行く奴、バイクを取りに行く奴が、二人三人と別れていく。彼女はラジカセを持ち直し、あの脇道の手前で足を止めた。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
俺は今度は後をつけなかった。
友人と駅へ向かって歩いていると、商店街の外から、少し乱暴なエンジンの音が聞こえた。
振り返ったが、車は見えなかった。
「どうした?」
「いや」
俺は前を向いた。
指の爪には、洗っても落ちなかった灰色のペンキが残っていた。




