息子が喘息発作で救急室に行き、私がそこで縫合したのに、夫は愛人の妊婦健診に付き添っていた
スーパーのレジに並んでいた時、五歳の湊が突然、いちご柄の子ども用歯ブラシを一本手に取った。背伸びをして、レジ台の上に置く。
「湊、歯ブラシならもうあるでしょ?」
何気なくそう言うと、湊は歯ブラシを胸に抱えた。
「これ、ぼくのじゃないよ。妹にあげるの」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「妹って?」
湊は、隣でカートを押していた夫の拓真を見上げた。
「いるよ。パパが、妹が歩けるようになったら一緒に遊びに行こうって言ってたもん」
買い物袋を開いていた手が止まった。
「いつ、そんな話したの?」
「ママがお仕事で遅かった日」
湊は少し考えてから続けた。
「パパと莉奈さんのおうちに行ったの」
「莉奈さん?」
「うん。おなか、すごく大きかったよ。赤ちゃんいるんだって」
拓真の顔から表情が消えた。
「湊、適当なこと言うな」
湊は慌てて首を振った。
「嘘じゃないよ。莉奈さん、赤ちゃんが生まれても――」
「湊!」
鋭い声に、子どもの手がびくりと震えた。
いちご柄の歯ブラシが床へ落ちる。
私はしゃがんで拾い、棚には戻さず、そのまま買い物かごへ入れた。
拓真がこちらを見る。
「子どもの勘違いだ。真に受けるなよ」
「そう」
会計の直前、同じいちご柄の歯ブラシをもう一本取った。
拓真に差し出す。
「来週も莉奈さんの妊婦健診に付き添うんでしょ。ついでに渡しておいて」
1
拓真は受け取ろうとしなかった。
いちご柄の歯ブラシに目を落とした途端、触れたら火傷でもするように視線を逸らした。
私は構わず、そのまま買い物袋へ入れた。
「澪、こんなところでやる話か?」
「別に。妊婦健診にまで付き添ってるんだから、毎回手ぶらじゃ悪いと思っただけ」
拓真の表情が目に見えて険しくなった。
さっき怒鳴られた湊は、怯えたように私の後ろへ隠れている。
店を出る頃には、雨が降り始めていた。
拓真が先に駐車場へ向かい、私も湊の手を引いてあとを追った。
トランクが開いた瞬間、ピンク色のベビー用品の袋が目に入った。
隙間から、いちごの刺繍が入った小さな靴下が覗いている。
「パパ、これも妹の?」
湊が恐る恐る聞いた。
「今日はどうしたんだよ。もうその話はやめろって言っただろ」
湊はすぐに口を両手で覆った。
五歳の子どもが、父親の顔色を見て口を閉ざすことを覚え始めている。
それが何よりつらかった。
帰りの車でも、拓真は何度もスマートフォンを見ていた。
湊はいちご柄の歯ブラシを抱えたまま、父親の横顔を窺っている。
やがて、小さな声で言った。
「パパ、もう妹のこと言わないから」
拓真は返事をしなかった。
再びスマートフォンが震える。
メッセージを確認した彼の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
その笑顔を見た瞬間、気づいてしまった。
私にも湊にも、もう長いことそんな顔を見せていなかった。
夜九時を過ぎた頃、拓真の電話が鳴った。
彼はベランダへ出ると、声を潜めた。
「泣くなよ。今から行く」
少し間があった。
「湊が勝手にしゃべっただけだ。澪も、まだ何も分かってないと思う」
さらに何か言われたらしい。
「今は余計なこと考えずに休んで」
キッチンの入口に立っていた私に気づき、拓真の声が止まった。
「会社で急用が入った。ちょっと出てくる」
「分かった」
玄関のドアが閉まって間もなく、湊が裸足で寝室から走ってきた。
「ママ、パパ、また妹のところに行ったの?」
しゃがんでスリッパを履かせる。
「床、冷たいよ」
すると湊が突然、首にしがみついてきた。
「ママ」
「どうしたの?」
「ぼく、悪い子なの?」
胸が詰まる。
「なんで?」
「だからパパ、ぼくのこと嫌いになったの?」
すぐに違うと言いたかった。
けれど、喉の奥が塞がったように声が出なかった。
代わりに、いつもより強く抱きしめた。
「湊はママの大事な子だよ」
寝る前になっても、湊はいちご柄の歯ブラシを枕元へ置いていた。
「妹が来るまで、ぼくが持っててあげる」
泣き腫らした目を見つめながら、硬いプラスチックの包装を握りしめた。
しばらくして、母の佳代へ電話をかけた。
「澪?」
懐かしい声を聞いた途端、目の奥が熱くなった。
「お母さん」
「どうしたの?」
「湊を連れて、しばらく汐見に帰ってもいい?」
2
翌朝早く、拓真が帰ってきた。
服から甘い香りがした。
私が使っているものではない。
ダイニングで牛乳を飲んでいた湊は、父親を見つけると一瞬で顔を輝かせた。
「パパ!」
拓真は手にしていた紙袋をテーブルへ置いた。
「これ、湊に」
喜んで箱を開ける。
中に入っていたのは、ピンク色の城を作るブロックだった。
パッケージには、小さな女の子の写真が大きく印刷されている。
「……間違えた」
拓真が眉を寄せる。
すると湊は、すぐに箱を抱え込んだ。
「大丈夫。ぼく、これでも遊べるよ」
聞き分けが良ければ良いほど、胸が痛んだ。
拓真はコーヒーを飲みながら、何事もなかったように言った。
「今夜、母さんが来るから。いつまでも不機嫌な顔するなよ」
「私、そんな顔してた?」
「昨日のことだよ」
カップを置く。
「湊が勘違いしただけなのに、いつまでも嫌味言う必要ないだろ」
湊が慌てて口を挟んだ。
「パパ、ぼく勘違いしてないよ」
拓真はカップを強くテーブルへ置いた。
「湊。これ以上言ったら、本当に怒るぞ」
驚いた湊の手が牛乳のグラスにぶつかった。
白い液体が服へこぼれる。
湊はすぐに俯いた。
「ごめんなさい」
泣かれるより、その一言の方がつらかった。
夜になると、義母の和子が夕食を食べに来た。
拓真は何かを取り繕うように、湊の皿へ次々と料理を取り分けた。
最後には、エビまで一尾のせた。
湊は箸を動かさなかった。
甲殻類にも強いアレルギーがあるからだ。
三歳の時、誤ってエビを一口食べただけで呼吸が苦しくなり、夜中に救急外来へ駆け込んだことがある。
あの時は拓真が湊を抱えて走った。
途中で靴が片方脱げても、立ち止まらなかった。
それを、今の彼は忘れていた。
「湊、エビは食べられないよ」
私が皿から取り除くと、義母が場を取り繕うように笑った。
「拓真だって仕事で忙しいんだから、全部覚えてるのは無理よ。澪さんが気をつけてあげればいいじゃない」
何も答えなかった。
湊のアレルギーも、不安も、私さえ黙っていれば「大したことじゃない」で済まされるらしい。
食後、片づけをしていると、義母が入ってきた。
「澪さん」
「はい」
「拓真だって仕事でいろんな人と付き合いがあるんだから……何でも白黒つけようとしなくてもいいんじゃない?」
水を止め、振り返った。
「何か知ってるんですか?」
和子は目を逸らした。
「私は何も知らないわ」
「そうですか」
「ただ、湊くんはまだ小さいでしょう?」
一度ためらってから続ける。
「夫婦が揉めたら、一番傷つくのは子どもよ」
「じゃあ、私が知らないふりをしていれば、家庭はうまくいってることになるんですね」
和子は答えなかった。
リビングでは、湊がピンク色のブロックを抱えて拓真のところへ行っていた。
「パパ、一緒にお城作ろう」
拓真はスマートフォンから顔も上げなかった。
「ママにやってもらえ」
湊はしばらくその場に立っていた。
やがて一人でカーペットに座った。
その夜。
拓真のスマートフォンの振動で目を覚ました湊が、私の布団へ潜り込んできた。
「ママ」
「ん?」
「妹が生まれたら、もうパパと一緒に寝ちゃだめなの?」
腕の中へ引き寄せた途端、涙が湊のパジャマへ落ちた。
湊は慌てて私の頬を拭う。
「ママ、泣かないで」
「ごめんね」
「ぼく、パパを妹にあげてもいいから」
一度、息を飲む。
「ママだけは、ぼくをいらないって言わないで」
そこで初めて、本当の意味で分かった。
拓真が傷つけているのは、もう私だけではない。
五歳の子どもに、自分まで捨てられるかもしれないと思わせていた。
3
金曜日は、月白ひかりこども園の親子運動会だった。
朝、拓真がスーツに着替えて出かけようとすると、湊が案内の紙を持って玄関まで追いかけた。
「パパ、今日来る?」
ネクタイを直しながら、拓真は答えた。
「今日は仕事なんだ」
「でも、この前来るって言ったよ」
「今度な」
振り返りもしなかった。
運動会には親子リレーがあった。
最後の区間だけ、保護者と子どもが一緒に走る。
競技が始まってからも、湊は何度も入口を見ていた。
友達が父親や母親を見つけて嬉しそうに駆け寄るたび、小さな指がぎゅっと握られていく。
順番が近づくと、先生が声をかけてくれた。
「湊くんのお母さん、腰は大丈夫ですか? 最後は抱っこじゃなくて、手をつないで走っても大丈夫ですよ」
私が返事をするより先に、湊が首を振った。
「先生、ママ、腰が痛いから」
昨夜、私がこっそりリレーの練習をしていたことを、湊は知っていた。
「大丈夫」
手を差し出す。
「ママ、一緒に走るよ」
最後まで走り切る頃には、腰が痺れるように痛かった。
それでも湊は喜ぶどころか、私の首にしがみついて泣き出した。
「もう走らなくていい」
「湊?」
「勝たなくていいから」
周囲から拍手が上がった。
私も笑った。
けれど、悔しさは消えなかった。
ほかの子は当たり前のように父親を待てるのに、どうして湊だけが五歳で母親の体まで気遣わなければならないのだろう。
運動会が終わっても、湊はなかなか帰ろうとしなかった。
「パパ、遅れてるだけかも」
片づけを終えた先生が、
「湊くん、そろそろ門を閉めるね」
と声をかけるまで待ち続けた。
それでようやく、肩を落として帰路についた。
夕方、拓真から着信があった。
出ても返事がない。
代わりに、女性の不安そうな声が聞こえた。
どうやら誤って発信したらしい。
『拓真、さっき赤ちゃんがすごく動いたの。ちょっと怖い』
続いて聞こえた拓真の声は、ひどく優しかった。
『大丈夫。俺がいるから』
湊が顔を上げた。
「ママ、パパ?」
私は通話を切った。
「違うよ」
ほどなく、拓真からメッセージが届いた。
【今夜は帰れない。会社で用事がある】
【分かった】
それだけ返した。
その夜、湊が微熱を出した。
頬を赤くして布団の中でぼんやりしながら、私に頼んだ。
「ママ、パパには言わないで」
「どうして?」
「また面倒くさいって思われるから」
胸の奥が痛んだ。
深夜、拓真が会社の資料を取りに戻ってきた。
ベッドのそばに座る私を見るなり、眉を寄せた。
「今度は何?」
「湊が熱出してる」
拓真は額に手を当てた。
「そんなに高くないじゃん」
シャツの襟元に、薄い口紅の跡が見えた。
私の視線に気づいた拓真は、すぐに上着を合わせる。
「いちいち変な想像するなよ」
資料だけ持って出ていった。
ドアが閉まる音を聞いて、湊が目を開けた。
「パパ、行っちゃった?」
頷く。
涙がこめかみを伝って枕へ落ちた。
「ぼく、もうパパの邪魔しないから」
熱い手を握ったまま、朝までベッドのそばにいた。
夜が明けてから、母へ短いメッセージを送った。
【お母さん。やっぱり、汐見に帰ろうと思う】
離婚までは、まだ決めきれていなかった。
それでも少なくとも拓真の会社からは離れようと、その頃には少しずつ仕事の引き継ぎを始めていた。
4
この結婚を本当に終わらせようと決めたのは、その三日後だった。
大雨の午後、こども園から電話が入った。
「湊くんのお母さん、湊くんが強いアレルギー症状を起こしました。すでにエピペンを使用して、救急車も呼んでいます」
息が止まりそうになった。
「今、どこですか?」
「月白こども医療センターへ搬送します。直接病院へ向かってください」
「分かりました」
湊には重度のナッツアレルギーと喘息もある。
園には医師の指示書を提出し、緊急時の対応も決めてあった。
その日の午後、アレルギー対応用のおやつと通常のおやつが、配送時に取り違えられていたらしい。
本人はほとんど口にしていなかった。
それでもナッツを含む生地に触れ、その手で口元と目をこすった直後から、咳と喘鳴が出た。
先生たちはすぐに異変に気づき、決められた手順で処置してくれた。
病院へ向かいながら、拓真へ電話をかけた。
一度目は出なかった。
二度目は切られた。
三度目でようやくつながった。
最初に聞こえたのは莉奈の声だった。
『拓真、また赤ちゃん蹴った』
拓真が小さく笑う。
数秒後、ようやくこちらへ向けられた声は、明らかに苛立っていた。
『何?』
「湊が重いアレルギー発作を起こして、救急搬送された」
拓真が黙る。
「今すぐ月白こども医療センターに来て」
『今は無理だ』
「呼吸が苦しくなったの。救急車で運ばれてるんだよ」
『もう病院にいるなら、医者が診てくれるだろ』
耳を疑った。
『澪が行けばいい』
「拓真」
『何かあるたびに俺を今すぐ呼び戻そうとするの、やめてくれないか』
スマートフォンを握る指が震えた。
「湊はあなたの息子だよ」
『分かってる。だから澪も少し落ち着けよ』
そこで切られた。
大雨の影響で、月白市内では電車の遅延が相次いでいた。
会社を飛び出して配車アプリを開いても、近くに空車はない。
タクシー乗り場には長い列ができていた。
待っていられなかった。
パンプスのまま大通りへ向かって走った。
水の溜まった階段で足を滑らせた。
路肩へ激しく転び、膝を石の角に打ちつける。
目の前が真っ白になった。
スマートフォンの画面も割れ、バッグの中身が雨の路面へ散らばった。
それでも、傷を見る余裕はなかった。
どうにか一台のタクシーを止めた。
運転手は血だらけの脚を見て驚いた。
「先に病院で診てもらった方がいいんじゃ……」
「月白こども医療センターまでお願いします」
「でも、その脚――」
「息子が搬送されています。お願いします」
運転手はそれ以上何も言わず、車を出した。
病院へ着いた時、湊はすでに救急処置を終え、経過観察のためのベッドへ移されていた。
顔色はまだ悪い。
唇にも血の気が戻りきっていなかった。
私を見つけた瞬間、湊の目から涙がこぼれた。
「ママ」
ベッドへ駆け寄る。
「大丈夫?」
「ぼく、勝手に食べてないよ」
一緒に来ていた先生も、目を赤くして何度も頭を下げた。
「本当に申し訳ありません。アレルギー対応用と通常のおやつが取り違えられていました」
「先生たちがすぐ対応してくださったんですよね」
「はい。園と業者の双方で、すでに確認を始めています」
湊が私の服を弱い力でつかんだ。
「ママ」
「うん?」
「パパには言わなくていいよ」
「どうして?」
「ぼく、ちゃんとしてたから」
一度息をつく。
「邪魔してないから」
胸を強く殴られたようだった。
「湊は何も悪くない」
手を握る。
「邪魔なんかじゃないよ」
看護師が、私の膝からまだ血が流れていることに気づいた。
処置室へ連れていかれる。
傷を洗浄して縫っている間も、隣のベッドにいる湊から目を離せなかった。
手の甲には点滴が入っている。
睫毛はまだ涙で濡れていた。
スマートフォンが光った。
拓真からだった。
【怒るなよ。あとで帰る】
【莉奈の体調がよくないから、今は一人にできない】
しばらく二つのメッセージを眺めていた。
やがて笑いがこぼれた。
そのまま涙も落ちた。
八年間の結婚生活も、会社を立ち上げたばかりの苦しい時期を一緒に乗り越えたことも、あれほど待ち望んで授かった湊のことも。
今の拓真にとっては、「怒るなよ」の一言で済むものになっていた。
湊の状態が安定した頃、ベッドの横へ戻った。
点滴の入っていない方の手を握る。
「湊」
「ん?」
「ママと一緒に行こう」
湊は何も聞かなかった。
午前三時。
弁護士事務所の相談フォームから、離婚についての予約を入れた。
続いて母へ電話をかける。
事情を説明する前に、母は言った。
「澪」
「うん」
「湊を連れて帰っておいで」
翌朝。
目を覚ました湊の第一声は謝罪だった。
「ママ、ぼくのせいでまた疲れた?」
首を振る。
湊は病室のドアを見た。
「パパ、来た?」
小さな手を握る。
「パパは来てないよ」
湊は一度瞬きをしただけだった。
もう泣かなかった。
退院後、弁護士と相談しながら引っ越しの準備を始めた。
月白市朝凪町のマンションは、結婚前に私が購入した私名義の物件だった。
私と湊の衣類、書類、写真、玩具を箱に詰める。
拓真の私物は別にまとめ、搬送業者を通して会社へ届けることにした。
管理会社へ鍵を返し、売却の仲介も依頼した。
子ども部屋の壁には、家族三人で撮った写真が残っていた。
写真の拓真は、生後一か月の湊を抱きながら、世界で一番幸せそうに笑っている。
湊が背伸びをして額縁を外した。
「ママ、これも持っていく?」
しばらく若い頃の自分を眺めた。
それから写真を裏返し、机へ置いた。
「置いていこう」
湊はそれ以上聞かなかった。
最後に、小さなリュックを背負った湊が、枕の下からいちご柄の歯ブラシを取り出した。
まだ一度も開封していない。
惜しむのかと思った。
けれど湊はゴミ箱まで歩き、静かに手を離した。
「ママ」
「ん?」
「もう妹、いらない」
しゃがんで抱きしめた。
「うん」
背中を撫でる。
「もういいよ」
5
夕方六時頃、拓真は朝凪町のマンションへ戻った。
いつもの暗証番号を入力する。
ドアは開かなかった。
もう一度。
それでも開かない。
「……何だよ」
何度試しても同じだった。
仕方なくインターホンを押す。
出てきたのは澪ではなかった。
作業着姿の男だった。
「どなたをお探しですか?」
拓真は男の肩越しに玄関の中を見た。
澪の靴がない。
湊の小さな自転車もない。
いつも棚に置いてあった家族写真まで消えていた。
「澪は?」
「オーナーの篠宮さんですか?」
「そうです」
「本日、管理会社に引き渡し済みです。こちらは売却前のハウスクリーニングで入っています」
「売却?」
「はい」
拓真が何か言う前に、扉は閉まった。
すぐに澪へ電話をかけた。
出ない。
もう一度かける。
それでも出ない。
湊のキッズケータイにもかけた。
電源が切れていた。
廊下に立ったまま、拓真は動けなくなった。
澪は怒って実家へ帰っただけではない。
家まで手放して、本当にいなくなったのだ。
会社へ戻ると、澪が使っていた席はほとんど片づいていた。
残っていたのは、一つのマグカップだけだった。
湊が三歳の母の日に、こども園で作ったもの。
不格好な三人の絵。
その下に、
【ママ、いつもありがとう】
と書かれている。
拓真はしばらく、そのマグカップを手にしたまま立っていた。
スマートフォンが鳴る。
莉奈だった。
『拓真、どこにいるの?』
「会社」
『先生に、今夜は誰か一緒にいた方がいいって言われたの』
これまでなら、その一言で向かっていた。
怖いと言われれば迎えに行った。
食事にも付き合った。
病院にも何度も送った。
自分の子かもしれない子どもを妊娠している。
だから放っておけない。
ずっと、そう言い聞かせてきた。
けれど、その時浮かんだのは湊の顔だった。
大雨の中、澪からかかってきた電話。
『湊はあなたの息子だよ』
あの声が耳に残っていた。
「莉奈」
電話の向こうで、少し間が空いた。
『どうしたの? 急にそんな呼び方して』
「昨日、湊が死にかけた」
『えっ?』
「アレルギーで救急搬送された」
『どうして? 澪さん、湊くんがアレルギー持ちなのにちゃんと――』
「園で事故があった」
拓真は遮った。
「救急搬送されたって聞いたのに、俺は行かなかった」
莉奈が黙る。
「息が苦しいって聞いても、澪に『すぐ戻れって言うな』って言った」
長い沈黙。
やがて莉奈が泣き始めた。
『拓真、私を責めてるの?』
「そういう話じゃない」
『昨日は本当に怖かったの。赤ちゃんがずっと動いてて……』
以前なら、そこで謝っていたはずだ。
けれど何も言えなかった。
「また連絡する」
『拓真?』
そのまま通話を切った。
その後、人事部の責任者を呼んだ。
「社長、篠宮課長から本日、正式に退職届が提出されています」
拓真が顔を上げる。
「今日?」
「はい」
人事担当者は書類を確認した。
「有給休暇がかなり残っていますので、引き継ぎの一部はリモートで対応し、そのまま有給消化に入る予定です。退職日は一か月後です」
「待ってくれ」
「はい?」
「俺は聞いてない」
人事担当者が一瞬戸惑った。
「ですが、管理職変更に伴う引き継ぎ確認書には、すでに社長の署名があります」
一枚の書類を机へ置く。
確かに自分の署名だった。
そこで思い出した。
莉奈の体調が悪いと言われ、病院へ急いでいた夜。
澪が何枚かの書類を持ってオフィスへ入ってきた。
『最後にこれだけ確認して。すぐ終わるから』
『今忙しいの見れば分かるだろ』
『だから、これだけ』
拓真は中身もろくに見ずに署名した。
『こんなことで呼び止めるなよ』
そうまで言った。
書類の日付を見つめる。
澪はあの大雨の日より前から、少しずつ離れる準備を始めていた。
自分だけが、何も見ていなかった。
6
汐見へ戻った翌日、湊の熱は完全に下がった。
母が作った柔らかいお粥を半分ほど食べたところで、湊が顔を上げた。
「ママ、これからずっとばあばのおうちにいるの?」
「しばらくはね」
湊は頷いた。
けれど、少ししてまた聞いた。
「パパ、ぼくたちがどこにいるか分からなくて困ってないかな」
スプーンを持つ手が止まった。
「帰りたいって言ってるんじゃないよ」
慌てて付け足す。
「ちょっと気になっただけ」
膝の上へ抱き上げた。
「パパに会いたいって思ってもいいんだよ」
湊の目が赤くなった。
「ぼくがパパに会いたいって言ったら、ママ悲しい?」
「悲しい時はあるよ」
「やっぱり……」
「でも、湊がパパを好きだからじゃない」
「じゃあ、どうして?」
本当なら、まだ大人の顔色なんて読む必要のない年齢なのに。
その言葉は飲み込んだ。
「ママがもっと早く、湊を守ってあげればよかったと思ってるから」
すると湊は、小さな手で背中をとんとんと叩いた。
「ママ、守ってくれたよ」
思わず顔を見る。
「ぼく息できなくなった時、ママ来てくれたもん」
一度だけ間を置いた。
「パパは来なかったけど、ママは来た」
あまりにも静かな声だった。
拓真は、私たちが汐見へ戻ったことまでは知っていた。
以前、湊が体調を崩した時に何度か汐見総合医療センターへ連れていったことがある。
復診先として心当たりがあったらしい。
数日後の午後。
病院の廊下で待っていた拓真と鉢合わせた。
一晩も眠っていないような顔だった。
私たちを見つけると、表情が一瞬明るくなる。
「澪」
湊はすぐに私の手を強く握った。
拓真はその反応を見て動きを止めた。
やがて、持っていた袋から青い恐竜柄の歯ブラシを取り出した。
「湊。これ、買ってきた」
湊は受け取らなかった。
「ぼく、もう歯ブラシあるよ」
拓真の手が宙に残った。
その横を通り過ぎようとした。
「会計に行くから、通して」
「俺が払う」
「いらない」
拓真が唇を噛んだ。
「澪、ずっとそんな話し方するつもりか?」
「じゃあ何て言えばいいの?」
足を止めた。
「やっと自分に息子がいたことを思い出してくれてありがとう、って?」
拓真の顔色が変わった。
「昨日のことは悪かった」
「昨日?」
それだけ聞き返した。
湊の手を引いて歩き出す。
拓真が反射的に私の腕をつかんだ。
「ママに触らないで!」
湊が叫んだ。
拓真はすぐに手を離した。
湊は震えながら私の前に立った。
「ぼく、嘘ついてないよ」
拓真が動きを止める。
「湊……」
「本当に莉奈さんのおうち行ったもん」
声が震えている。
「妹が生まれたら、ぼくのベッド使うって」
「そんなこと――」
「パパ、妹の方が好きになるの?」
拓真の顔から血の気が引いた。
「違う」
「ママも、そのうちいなくなるって……」
「誰がそんなこと言った?」
湊はもう答えられなかった。
「ぼく、妹なんていらない」
涙が溢れる。
「でも、パパはもうぼくのこと好きじゃないんでしょ」
すぐに抱きしめた。
「湊、もういいよ」
そこへ母が迎えに来た。
拓真を見るなり、表情が冷たくなる。
「お義母さん」
「もうそう呼ばないで」
母は足を止めた。
「澪が膝を何針も縫う怪我をして、湊が救急搬送された時、あなたはどこにいたの?」
拓真は何も言えない。
「澪には帰る家があるの」
私の肩を抱く。
「あなたにしがみつかなきゃ生きていけない娘じゃない」
車へ乗る直前、湊が振り返った。
「パパ」
拓真が顔を上げる。
「ぼくのベッド、本当に妹にあげるの?」
「そんなことしない」
拓真はすぐに答えた。
湊はしばらく見つめた。
「でも」
一度俯く。
「もうパパの言うこと、信じられない」
車のドアが閉まった。
その日の拓真の顔を、私は長いこと忘れられなかった。
妻より先に、息子からの信用を失った顔だった。
7
その後も拓真は何度か汐見へ来た。
けれど父も母も、私たちの生活へ直接入り込ませようとはしなかった。
三度目には、凪丘こども園の近くで待っていた。
迎えに行った私と一緒に湊が出てくると、拓真はすぐにしゃがんだ。
「湊、パパと帰ろう」
湊はリュックの肩紐を握った。
「ここがぼくのおうちだよ」
「そうじゃなくて」
拓真は慌てて言い直した。
「ママと一緒に月白へ帰ろうってこと」
「あのおうち、もうないよ」
「また新しい家を用意する」
湊は真剣な顔で聞いた。
「そこにママもいる?」
「もちろん」
「莉奈さんと赤ちゃんは?」
拓真が一瞬黙った。
「いない」
湊は俯いた。
「パパ、嘘つく」
「今度は本当だ」
「でも前も、もう嘘つかないって言ったよ」
拓真は何も返せなかった。
先生から湊を引き取り、そのまま帰ろうとした。
「澪、少し話そう」
「弁護士を通して」
「本当に離婚するつもりなのか?」
思わず笑いそうになった。
「仕事も辞めて、家も売りに出して、湊を連れて汐見まで来たのに」
拓真を見る。
「まだ喧嘩してるだけだと思ってた?」
「俺は同意しない」
「じゃあ家庭裁判所で話そう」
拓真の呼吸が止まる。
「そこまでする必要あるのか?」
「そこまでって何?」
「澪」
「莉奈さんの妊婦健診には何度も付き添ったよね」
拓真は黙った。
「でも、湊が救急搬送された時には来なかった」
「それは――」
「それでも、私が大げさにしてると思ってるの?」
何も言わなかった。
「私はもう、そういう拓真とは暮らせない」
その場を離れようとすると、背後から声がした。
「莉奈が嘘ついてた」
足を止めた。
振り返る。
「何のこと?」
「前に付き合ってた男」
拓真は一度目を伏せた。
「死んだって聞いてたんだ」
「それで?」
「でも、生きてた」
しばらく黙っている。
「妊娠する前後も、連絡を取ってたらしい」
ようやく顔を上げた。
「だから今は……あの子が本当に俺の子なのかも分からない」
驚きはしなかった。
ただ、あまりにも皮肉だった。
「俺は本当に、自分の子かもしれないと思ってた」
拓真は必死だった。
「莉奈には頼れる人がいないって聞いてたし」
「うん」
「何も要求しない。ただ少し助けてほしいって言われて……」
「だから?」
拓真が黙る。
「その子があなたの子だったら、湊を傷つけてもいいの?」
「違う」
「莉奈さんに騙されてたら、あなたが私に嘘をついたこともなくなる?」
「澪、そういう意味じゃ――」
「湊より彼女を優先したことも?」
拓真は何も言えなかった。
「私は、その赤ちゃんが誰の子だから離れるんじゃない」
一歩離れる。
「何度も選ぶ場面があった」
「……」
「そのたびに、あなたが私たちを選ばなかったから離れるの」
冷たい風が吹き、湊が肩をすくめた。
帽子を被せてやる。
背後から、拓真の震える声が聞こえた。
「澪。変わるから」
「もう遅いよ」
「八年も一緒にいたのに、本当に何も残ってないのか?」
もちろん、何も残っていないわけではない。
会社を始めたばかりの頃。
小さな部屋で、コンビニ弁当を半分ずつ食べた。
初めて湊を抱いた時。
拓真は緊張で両手を震わせていた。
好きだったのは、確かにあの人だ。
「私が好きだった拓真は」
一度息をついた。
「もういないよ」
8
半月ほどして、莉奈が凪丘こども園の近くで待っていた。
湊を送り届けた直後だった。
淡い色のワンピースを着ていて、お腹はもうかなり大きい。
「澪さん」
そのまま通り過ぎようとすると、莉奈が追いかけてきた。
「拓真が最近、私の電話に出てくれないんです」
「それは拓真に言ってください」
「もうすぐ赤ちゃんも生まれるのに」
唇を噛む。
「今になって放っておくなんて、ひどいと思いませんか?」
「私に聞かれても困ります」
「私、家庭を壊すつもりなんてなかったんです」
「そうですか」
莉奈の表情がわずかに強張った。
「拓真の方から優しくしてくれたんです」
「それで?」
「澪さんといると、息が詰まるって……」
最後まで聞いてから、答えた。
「拓真が私のことを何て言ってたかなんて、もうどうでもいいです」
莉奈が目を瞬く。
「それを聞いたからって、あなたがしたことが変わるわけじゃないので」
顔色が変わった。
横を通り抜けようとすると、腕をつかまれた。
「本当は怖いんでしょう?」
「何が?」
「私がこの子を産むのが」
つかまれた腕を見る。
「怖いのは、赤ちゃんが生まれても拓真が戻ってこないことじゃないですか?」
莉奈の顔から血の気が引いた。
そこへ黒い車が止まった。
拓真が降りてくる。
最後の一言は聞こえていたらしい。
莉奈は一瞬で泣き顔になった。
「拓真」
駆け寄る。
「私は澪さんに誤解されたくなくて話してただけなの」
拓真は何も言わない。
「でも、ずっと赤ちゃんはあなたの子じゃないって言われて……」
私は口を挟まなかった。
莉奈は急にお腹を押さえた。
「拓真、お腹痛い……」
以前なら、反射的に駆け寄っていた。
けれど今度はスマートフォンを取り出した。
「具合悪いなら救急車呼ぶ」
莉奈が固まった。
「拓真……」
「必要な医療費については、前に話した通り対応する」
「何それ」
「でも個人的な連絡はこれで終わりにする」
「じゃあ、私のこと何だと思ってたの?」
拓真は少し黙った。
「それ、俺が聞きたい」
「何?」
「本当に俺の子だと思ってたのか?」
莉奈の唇が震えた。
「……調べたの?」
「前の男は死んだって言ったよな」
周囲の空気が変わる。
「でも生きてた」
「拓真」
「妊娠する前後も連絡取ってた」
迎えに来た保護者たちが、少しずつこちらを気にし始めていた。
莉奈は突然、私を睨んだ。
「全部あなたのせい!」
そのまま突き飛ばそうとした。
拓真が手を伸ばしたが間に合わない。
道路脇の縁石に足を取られ、転倒した。
手のひらが地面で擦れる。
ちょうど園から出てきた湊が、泣きながら駆け寄った。
「ママ!」
「大丈夫」
抱きしめる。
湊は莉奈を振り返った。
「なんでいつもママに嫌なことするの!」
拓真が近づいた。
「澪、手から血出てる。病院行こう」
湊が私の腰へしがみついた。
「いらない!」
「湊」
「ママが怪我した時、パパいつもいなかったもん」
拓真がその場で止まる。
「今もいらない」
騒ぎを撮影した動画は、ほどなく篠宮ソリューションズの関係者にも知られることになった。
後になって、莉奈の契約や経費処理について社内調査が始まったと聞いた。
彼女は業務委託のプロジェクトアドバイザーとして会社と契約していた。
調べてみると、タクシー代や飲食費の一部だけでなく、明らかに業務とは無関係な私的支出まで会社経費として処理されていたらしい。
取引先からも説明を求められ、臨時の取締役会まで開かれた。
拓真は私的支出分の返金と、社内規定に沿った処分を受け入れたと聞いた。
昔から、人からどう見られるかをひどく気にする人だった。
今度は、その評判に自分が追われることになった。
弁護士には、手元にあった拓真との通話履歴や湊の診療記録を渡した。
会社の経費については、社内調査に任せた。
資料を確認した弁護士は、簡潔に言った。
「今の湊くんの状態なら、無理にお父さんと会わせる話にはならないと思います」
「はい」
「親権や今後の親子交流については、湊くんの様子を見ながら進めましょう」
「お願いします」
事務所を出ると、湊が突然聞いた。
「ママ」
「何?」
「ぼく、パパのおうちに住まなきゃだめ?」
しゃがんで目線を合わせる。
「湊はどうしたい?」
少し考える。
「ぼく、パパ嫌いじゃないよ」
「うん」
「でも、ちょっと怖い」
抱きしめた。
「うん」
「ママといたい」
「分かった」
9
離婚の話し合いは、家庭裁判所の調停に移った。
拓真は財産分与ではほとんど争わなかった。
養育費も提示された内容を受け入れた。
その上で、湊の教育費は別に用意したいと申し出た。
最後まで時間がかかったのは、これから父子がどう会っていくかという問題だった。
調停委員に希望を聞かれた拓真は、長い間黙っていた。
「湊に会いたいです」
一度、手元へ目を落とす。
「最初は短い時間でも構いません」
当時の湊には、まだ父親と二人きりで過ごすことは難しかった。
心理士からも、無理に交流を進めれば不安が強くなる可能性があると言われていた。
最終的に、湊の親権者は私とすることでまとまった。
拓真との親子交流は、当面、支援団体を通して行う。
会うかどうかも、時間をどこまで延ばすかも、湊の状態を見ながら決めていく。
拓真は異議を唱えなかった。
「分かりました」
調停を終えた日。
家庭裁判所の外で、拓真が湊を呼び止めた。
「湊」
以前買った、青い恐竜柄の歯ブラシを持っていた。
ただし、今度は無理に渡そうとはしなかった。
「今日は欲しくなかったら、持って帰る」
湊が歯ブラシを見る。
「いつか欲しくなったら、その時に言って」
湊はしばらく見つめた。
「ぼく、今は歯ブラシあるよ」
「うん。分かってる」
拓真の目が赤くなった。
湊は少し考えた。
「パパ」
「ん?」
「もう嘘つかないでね」
「うん」
「ママにも」
「うん」
返事は、とても小さかった。
湊はそれ以上何も言わなかった。
離婚後、私と湊は汐見で新しい生活を始めた。
転職先は勤務時間が安定していて、ほとんど毎日こども園へ迎えに行ける。
父はベランダに小さな工作台を作った。
母は湊に何本もの子ども用歯ブラシを買った。
恐竜、車、戦隊ヒーロー。
いちご柄だけはなかった。
少しずつ、湊はよく笑う子に戻っていった。
夜中に夢を見て、「パパ」と寝言を言うこともまだある。
そんな時は、ただ抱きしめた。
「ママもいるし、じいじとばあばもいるよ」
髪を撫でる。
「みんないるからね」
最初の数か月、拓真が申し込んだ親子交流を、湊はすべて断った。
支援員も急かさなかった。
拓真も押しかけてくることはなかった。
手紙や小さな贈り物がある時は、支援団体を通して届けられた。
ある雪の日。
交流の予定で支援団体の施設まで来たものの、湊は直前になって言った。
「やっぱり会いたくない」
「分かった」
二階の窓から見ると、拓真が傘を差して外で待っている。
「ママ」
「何?」
「パパ、寒くない?」
「寒いと思う」
湊はしばらく迷った。
「じゃあ、支援員さんに、今日はもう帰っていいって言ってもらって」
「うん」
少しして、支援員が一通の手紙を持って戻ってきた。
【湊へ。今日は会いたくないなら、それで大丈夫。】
【雪だから、暖かくして帰ってね。】
湊は読み終えると、手紙を絵本の間へ挟んだ。
「返事する?」
首を振る。
「今度にする」
「分かった」
今は、それでよかった。
それから少しずつ、親子交流が始まった。
最初は十五分。
拓真は少し離れた席に座り、湊には触れなかった。
二回目は三十分。
三回目には、支援員の見守る中、近くの公園を一緒に歩いた。
数か月後。
湊が自分から聞いた。
「パパが前に買った恐竜の歯ブラシ、まだあるかな」
「どうだろうね」
次の交流日に、拓真は本当に持ってきた。
「ずっと取ってあった」
湊は「ありがとう」とは言わなかった。
ただ受け取り、自分のリュックへ入れた。
拓真も何も言わなかった。
湊はその歯ブラシを使わなかった。
包装も開けず、自分の机の引き出しへしまった。
10
数か月後の初秋。
凪丘こども園で、希望者参加の親子キャンプが行われた。
父母のどちらか一人でも、二人一緒でも参加できる行事だった。
申込書を前に、湊は長いこと迷っていた。
「パパにも来てほしい?」
俯いたまま、聞き返す。
「いいの?」
「湊の行事なんだから、湊が決めていいよ」
紙を握ったまま、しばらく考えた。
「一回だけ、やってみたい」
「うん」
「またパパが来なかったら、もう待たない」
拓真へ日程を送った。
ほとんど間を置かず返信が来た。
【必ず行く】
当日。
拓真は集合時刻より一時間も早く、青嶺キャンプフィールドに着いていた。
テントやマット、子ども用の救急用品まで揃えている。
食品表示も一つずつ確認してあった。
ナッツや甲殻類など、湊が避けなければならない食品は入っていない。
湊はその荷物をしばらく眺めた。
拓真がしゃがんで目線を合わせる。
「今回は全部確認した」
湊は何も言わず、小さなリュックを差し出した。
「じゃあ、これ持って」
受け取った拓真の目が、一瞬赤くなった。
その日は、ほとんど一日中湊のそばにいた。
走り疲れればタオルを渡す。
凧の紙を間違えて切ってしまっても、怒らない。
「大丈夫」
新しい紙を取り出す。
「もう一枚あるから、作り直そう」
湊が父親の顔を見上げた。
「怒らないの?」
「怒らないよ」
そこでようやく、湊が少し笑った。
夕方には、二人で作った不格好な恐竜の凧が空へ上がった。
「湊、ゆっくり! 転ぶぞ!」
後ろを走る拓真を眺めていると、母からメッセージが届いた。
【ちょっとは見直した?】
遠くでは、拓真が片膝をついて湊の靴紐を結び直している。
【父親としてはね】
それだけ返信した。
もう拓真を憎んではいなかった。
でも、憎んでいないことと、もう一度夫婦になることは全く別の話だった。
夜になると、湊は目も開けていられないほど眠そうになった。
拓真が自分の上着をかける。
「抱っこしてテントまで行こうか?」
湊は半分眠りながら頷いた。
テントの前まで来たところで、湊が少しだけ目を開けた。
「パパ」
「ん?」
「また、ぼくのこと置いていく?」
拓真の足が止まった。
長い沈黙のあと、静かに答えた。
「もう置いていかない」
湊は黙っている。
「前は、パパが間違ってた」
湊は小さく頷いた。
寝袋へ寝かせ、布団を整えたあと、拓真がテントから出てきた。
目元が濡れていた。
私はティッシュを一枚差し出した。
「ありがとう」
夜のキャンプ場は静かだった。
しばらくして、拓真がぽつりと言った。
「家族なんだから……最後は待っててくれるって思ってたんだろうな」
消えかけた焚き火を見つめている。
「澪と湊には、甘えてた」
私は何も言わなかった。
「そのくせ、莉奈には嫌われないようにって、ずっと気を遣ってた」
自嘲するように笑う。
「逆だったよな」
「……」
「大事にしなきゃいけなかったのは、そっちじゃなかった」
少しして、拓真は聞いた。
「俺たち」
一度言葉を止める。
「もう本当に無理かな」
焚き火へ目を向けたまま答えた。
「拓真」
「うん」
「私、今すごく穏やかに暮らしてる」
彼は目を閉じた。
「そっか」
立ち去ろうとした背中へ声をかけた。
「湊に会いたい時は、これからも先に連絡して」
拓真が振り返る。
「湊が会いたいって言うなら、私は止めないよ」
目が赤くなった。
「ありがとう」
翌年の春。
湊は小学生になった。
入学して一か月ほどした頃、生活科の授業で「自分の大切なもの」を一つ持ってきて紹介することになった。
その朝。
湊は机の引き出しから、青い恐竜柄の歯ブラシを取り出した。
まだ包装は開けていない。
「それ持っていくの?」
少し照れながら頷く。
「先生が、大事なものを一個持ってきてって」
「何て紹介するの?」
湊は包装を指で撫でた。
「ぼく、前はパパがちょっと怖かったって言う」
「うん」
「でも」
顔を上げる。
「パパが来なかったの、ぼくが悪い子だったからじゃなかったんだよね」
鼻の奥が熱くなった。
「うん」
湊は確かめるように、もう一度言った。
「ぼくが悪かったんじゃないんだよね」
強く抱きしめた。
「違うよ」
背中を撫でる。
「湊はずっと、何も悪くない」
校門の中へ走っていったあと、拓真からメッセージが届いた。
【湊、今日も大丈夫だった?】
ランドセルを背負って校舎へ向かう後ろ姿を撮り、送った。
しばらくして返信が来る。
【いい顔してるな】
さらに数分後。
【澪。ずっと湊のことを守ってくれて、ありがとう】
画面を見ても、もう胸は揺れなかった。
【母親だからね】
それだけ返した。
スマートフォンをバッグへしまう。
校舎の向こうから、始業を知らせるチャイムが聞こえた。
迎えの時間までは、まだ少しある。
私は校門に背を向け、仕事へ向かった。




