第一章 レノの実力
警察にとって聞き込みと言う作業とも言える仕事は最も大切な仕事であり、警察の情報収集の約80%がそれに注がれているといっても過言ではない。しかし、現にその聞き込みを行っているのは警察の5%にも満たないというのはどの組織にもよくある話である。レノが得意としているのは、どちらかと言えばそういった“足”を使った捜査方法である。昔の刑事ドラマではそういった刑事の姿を描く作品が多かったが、この頃は頭を使ったりパズルを解いたりしながら犯人を暴きだしていくというような作品が多数登場してきた。そのおかげで、警察のこういった“足”を使った捜査の事について知ってはいても、実際目にするとああ、本当にやっていたんだと改めてうなずきを返されることが多い。
「最近、あの研究所で変わった事はありませんか?」
と、切り口は大体こんな感じ。それから、住民の反応を見ながら第二の質問をしたり、切りあげたりという風にしたりする。
そもそも“権力争いの末の・・・”という事になっているのにまだ事件なのかというところである。要は、犯人は分かっているが、まだ逮捕されていない、という状況にあるのだ。そのため、情報収集が一番の解決への糸口だとして、こうして聞き込みを行っている。
この事件の警察が研究所職員などから得た証言をもとに作成した筋書きと言うのはこういうものである。
事件の容疑者は中川哲夫、56歳。次期研究所所長とも噂されていた彼は、いつもと変わらない日常を自らの研究室で過ごしていた。彼の専門は爆発物と衝撃による様々なものへの影響という危険を伴う研究であった。そのため、そんな研究をすすんでやろうとする者は現れず、堂々とその地位を保っていた。しかし、ある時彼にも転機が訪れた。転機といえばよい方に転がった時にさす事が多いのだが、彼の場合は違っていた。滝川透、33歳がこの研究所に国の命令と言いながら赴任してきた。専門は爆発物全般。滝川にはその気はなかったと思われるが、中川は自分の地位の喪失を恐れ、滝川を殺害、及び逃走したのである。
「最近、あの研究所で変わった事はありませんか?」
今日にして何度目だろう、この質問は。そんな事を思いながらも、レノは苦ではなかった。むしろ楽しんでいた。有力な情報がないという状況にもかかわらず、近所にある研究所が爆発物を扱う研究をしているからといっても、住民たちはその事について何も関心がないかの如くである。
「わたし、あまりあの研究所の事知りません。」
というのが大概の答えである。レノはそのおかしくも奇妙な研究所の存在と周りの住民に対してある意味畏敬の念を持っていた。
昼過ぎになると休憩のため、小さなカフェに入った。ホットコーヒーとサラダセットを注文し、新聞を開いた。事件の記事が盛りだくさんである。マスコミの能力も最近は衰えを知らない。伝達ミスや表記による誤りなどが多少はあってもいいと思うのだが、それさえ見つけるのは困難である。きっちりした体制と情報の循環がうまくいっている証拠である。比べて警察はそうはいかない。一朝一夕で事件は解決するわけでもないし、毎日解決しなければならない事件ばかり増えてくる。かといって国がそれに十分な援助を出してくれるかと言えばそうでもない。まさに、八方ふさがりの現状なのである。それでも、刑事たちは目の前の事件、担当する事件くらいは解決するつもりで働いているのである。
ホットコーヒーはイギリスに居た頃毎日飲んでいた。父母はどちらかと言うと紅茶を好み、コーヒーを飲むのは家庭ではレノくらいであった。そのため専用のコーヒー豆を入れるちょっと上等な入れ物が一時期レノにとっての大切な宝物だったという事もある。
コーヒーが運ばれてくると、ミルクと砂糖を一つずつ入れ、小さいスプーンでよく混ぜる。カップのふちでこんこんと滴を落とすとスプーンは下の受け皿のもとへおく。絶え間なくわき出る湯気を呼気で吹き飛ばし、ゆっくりと口に運ぶ。この時に鼻に入ってくる香りが何とも言えないほど好きなのである。しかし、その匂いを嗅ぐという過程を遮る声があった。
「こんにちは。こちら、よろしいですか?」
何事にも邪魔はつきものなのだと思いながらカップを置き、ゆっくりとその人物の顔を見る。どこかで見た事のある人物である。
「おや、僕の顔をお忘れですか?」
レノは頭の中で、記憶を一気に蘇らせようとする。なかなか出てこない。確実に知っている人物であり、あちらも自分の事を知っているようである。記憶とは本当に曖昧なものだとつくづく感じた。
「どうぞ。」
そうやって手を差し伸べ、あいている席を指した。
「ありがとうございます。」
彼は席に腰をかけ、かばんを下に置くと、かけている眼鏡を眼鏡ふきで拭き始めた。
「お久しぶりです。杉下さん。」
やっと出てきた彼の名にほっと一息を入れる。もちろん、心の中で。
「覚えてくれていたのですね、まあ、なにせあまり顔を合わせる間柄ではありませんし、それに、君と一緒の事件を扱ったのも一回きりですからね。」
杉下警部。これと言って見た目に関して言えば特徴はない、が、特徴というか特異とも言えるのは彼の性格の方である。一言でいえば隙がない。つまり油断ならぬ人物であることは確かなのである。それは犯罪者にとっても、警察にとっても言えることである。しかし、なかなか彼の名は知られてはいない。なぜなら警察自体が彼の活躍をあまりいいものだとは考えておらず、その事実は完全に捻じ曲げられてマスコミに伝わっているからである。それでも杉下警部は何も言わず、自分に与えられた任務を着々とこなしている。
「杉下さん、何かお調べですか?」
レノはミルクと砂糖のちょうどよい香りを改めて鼻に注ぎながら杉下警部の鼻の下あたりに目線を向けた。この辺を見ると、人としゃべる時緊張しないと聞いた事がある。
「ええ、警察ですから。」
彼の場合、警察という権力を使って捜査している。警察は組織であり、組織による犯罪捜査が基本中の基本なのに、彼はそれをしない。噂によると、天の上の存在からその許可を受けているとかなんとか。実際のところ、あまりかかわらない方が賢明である。
「では、俺はこの辺で失礼します。聞き込みがありますので。」
そう言ってサラダをかき込み、カフェを出た。勘定を払う時、後ろから杉下の視線を痛いほど感じた。“あまり関わりたくないオーラ”を出している事を自覚しているからなのだろうか。しかし、杉下はレノが席を立つと、窓の外をじっと見ていた。
カフェから出るとこれまでの捜査を再開する。
「最近、あの研究所で変わった事はありませんか。」
相変わらず有力な情報は警察の方には提供されない。それどころか、時間だけが過ぎていく。レノはそれでも聞き込みを続けた。もうそろそろ、犯人捕まってもいいんじゃないかな、なんて淡い期待も出てくる。辺りはもう暗い。