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55話 ラーメン(1)

「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね」


「ありがとう」


 時雨はマグカップが乗ったトレイを持って戻ってきた。カップの中身は淹れたてのコーヒーだった。彼はキッチンに行っていたのか。寝起きでぼんやりしている俺のために目が覚める飲み物を用意してくれたのだ。


「ミルクと砂糖はどうする?」


「入れる。甘い方が好き」


「了解。はい、お好みでどうぞ」


 時雨はトレイをサイドテーブルの上に置く。コーヒーと一緒にちゃんとミルクと砂糖が入った器も乗っている。お言葉に甘えてどちらも多めに入れさせて貰った。俺にはブラックコーヒーの美味しさは分からないのだ。甘くまろやかに味を整えたコーヒー……冷めないうちに頂こう。


「なんか身体中に染み渡る感じがする。美味しい」


「染み渡るって……それ若者のいう台詞かな? でも気に入って貰えたようで良かった。透みたいに料理はできないけど、コーヒー淹れるのだけは得意なんだ」


 俺に続いて時雨も自分のコーヒーに口を付ける。彼はブラックのままで飲んでいた。ミルクと砂糖は俺のためだけに準備していたんだな。


「少しは落ちついた?」


「うん。コーヒーも飲んだし、目は完全に覚めたよ」


 この訳の分からない状況にもようやく冷静に対処できそうだ。半分ほど飲み進めたコーヒーをサイドテーブルの上に戻すと、俺は時雨にもう一度尋ねた。


「時雨さん。俺一日寝てたそうだけど、目を治して貰った後からの記憶が曖昧なんだ。何があったのか詳しく教えてくれる?」


「いいよ……と言っても、透が疲れて爆睡しちゃった以外に特に問題が起きたとかはないよ。その後は各々普通に解散した感じだから」


 小夜子と真昼は自宅へ、榛名先生や美作たちは仕事に戻ったそうだ。俺は治療が終わった瞬間、気絶するように眠りについてしまったらしい。記憶が曖昧なのは当然だ。時雨は寝てしまった俺を今まで世話してくれていたのだった。


「うわっ……やっぱり俺めちゃくちゃ迷惑かけてるじゃん。ごめんね、時雨さん」


「だからー、迷惑じゃないってば。それ以上謝ったら怒るよ」


「い、痛いっ!?」


 時雨は俺の頬を今度は両手でつねった。これ地味に痛い。時雨本人が迷惑だと感じていないのだから謝罪は不要らしい。そう言われてもな……何もしないのもモヤモヤしてしまう。


「分かった。じゃあ、ありがとうだ。これでどう?」


「うん、それならいいよ」


 良い人だけどちょっとめんどくさいな……時雨さん。しかも直ぐに手が出る。

 それにしても……いくら疲れていたからといって丸一日寝ていたなんてな。今までそんな風になったことは一度もない。慣れない土地で初めての経験ばかりだ。自分では気づかなかっただけで、体に相当負担がかかっていたのだろう。

 時計の針は12時を回っている。寝起きの怠さはまだ少し残っているけど体に異常はない。カップに残っていたコーヒーを全て飲み干すと、俺はベッドの上から降りた。高い天井に向かって腕を伸ばす。体の筋が引っ張られて気持ちがいい。


「もう起き上がって大丈夫?」


「うん」


「お腹は?」


「空いてる」


 なんせ丸一日何も食べていないのだ。意識すると余計に空腹感を覚えてしまう。先ほどまで大人しかった腹がそれを主張するように音を鳴らした。


「本当だ」


 俺の腹の音が聞こえたのだろう。時雨が思わずといった風に吹き出した。彼は確か27歳だったな。笑うと年齢よりいくらか幼く見える。時雨の素顔にはまだ慣れない。戸惑いも大きかったけど、マスクを被っていた時には分からなかった表情が窺えるのは良かったと思う。


「真澄が直ぐにこっちに向かえるよう待機してるから、もう少しだけ待っていて。あいつが来たら食事に行こう」


「真澄?」


「美作真澄。昨日透を迎えにいった男だよ。いかにも真面目ですよって感じの見た目した……」


「あー……美作さん。美作さんの下の名前、真澄っていうんだ」


 美作さん、学苑の人っていうより時雨の部下って感じなんだよね。時雨のことご主人様なんて呼んでたもんな。時雨は榛名先生と親しい間柄だけど学苑の講師ではない。それなのにやたら強い権限を持っている。彼の素顔も判明したことだ。いい加減『蓮杖時雨』が何者なのか教えて頂きたいところなのだが……


「透、お昼は何が食べたい? 好きなもの言っていいよ。さっき肉って呟いてたから焼肉とかにする? 焼肉なら良いお店知ってるんだ」


 時雨のお勧めとかとんでもない高級店に連れていかれそうで怖いな。焼肉は好きだけど……もっとこう庶民的でカジュアルな雰囲気で食事をしたい。ファミレスとかそういう場所だ。

 

「えーと……お肉もいいけど、俺ラーメンが食べたいな」


「ラーメン?」


「うん。ダメかな? 味噌ラーメンが好きなんだ」


 味噌ラーメン一杯程度なら高めのヤツでも値段はたかが知れてるだろう。肉よりはマシだと思って選んだけど……時雨はラーメン専門の高級店とかも知ってたりするんだろうか。


「ラーメンか……最近食べてないな。大丈夫、ダメじゃないよ。ただ、僕はあんまり詳しくないから、真澄に良さそうな店を探して貰おう」


 時雨はズボンのポケットから携帯電話を取り出す。もう少しだけ待っていてと言い残し、また寝室から出ていってしまう。電話の相手は美作さんだろうな。

 別にラーメンなんてその辺のチェーン店でも充分美味しいと思うのに……わざわざ美作さんにお店を探させることになってしまった。気を使ったつもりが逆に手間をかけさせることになったかもしれない。大人しく焼肉を食べると言っておけば良かったかな。


「ねぇ、透はラーメンも作れるの?」


 電話をしに行ったはずの時雨が戻ってきた。扉から半分ほど体を覗かせながら、そんな質問を俺に投げかける。


「ラーメンは……難しいかな。市販の袋麺を茹でてちょっとアレンジするくらいならするけど」


「ふーん……それでもいいから今度作って欲しいな」


 今から美味しいラーメンを食べに行く予定なのに、何で俺にそんな事を聞いたのだろうか。

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