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彼は家に帰って、ふと気付いた。何か違和感がある。
今まで気付かなかっただけなのだろうか。
妻がコーヒーを飲んでいる。
自分も飲もうと思うがコーヒー豆のありかが分からない。
やかんののありかも分からない。
辛うじて自分のマグカップを見つける。
息子がやって来たが父親の顔を認めると踵を返して自室に戻って行った。
続いて娘がやって来る。
彼の存在など見えないかのように、自分の為のコーヒーを淹れると母親と笑いながら話し出す。
妻の顔を見ていると一つの物を思い浮かべる。
城、妻の自信に満ちた顔は城主のようだ。
彼の仕事は、家を出ると暫くは帰れない。
何もかも妻に任せたままで申し訳ないとは思っている。
その反面、外貨を稼いで来るのだから当たり前だとも思っていた。
然し、この違和感は何だ?
いつの間にか自分の存在が無くなっている。
私は誰だ?何をしているのだろう?そんな事を考えながら自室に戻る。
自室で一人きりで考えていると、ろくな事にならない。
何の為に生まれてきたのだろう。
行き着く先は存在の否定になりかねない。
そんなある日のこと。新しく変わった上司が彼の出勤表を見て言った。
「あのねー、仕事を休めとは言わないよ。でもね、休んでくれないと会社の責任を問われる事になりかねないからね。何処かで有給休暇とか取ってくれないかな」
以前の上司は、そういう事は言わなかった。だからガムシャラに働いた。自分の為でもあり会社の為でもあり。
「有難う。お陰で良い結果を得られたよ。有難う」
それだけで充分だった。
今の上司のように全て事務的に済ませられるよりは、一生懸命働いて「有難う」その一言だけで徹夜でもできた。
一生懸命働くことは悪い事なのか?そんな疑念が働いた時、彼は急に疲れを覚えた。
今まで頑張ってきた分の疲れが一気に襲ってきた、そんな感じだった。
それならそれで、たっぷり休んでやろうか。
そう思うと仕事そのものが手に付かなくなった。
休もう、1日や2日ではなく長期に渡って休んでやろう、出来れば1週間くらい、勿論できればだが。
然し、休暇届を提出するとあっさり受け取られた。
当然、それは困る、と言われると思っていたのだから、自分はこの会社の大切な歯車では無かったのか?そう思うと以前に増してやる気を失っていった。
そして家に帰ると、今までに感じなかった違和感。
これは何処へ行っても存在価値がないという事なのか?そう思うと一人になりたくなった。旅に出たくなった。
一人旅。
時間はたっぷりある。
彼が独身時代に使っていたアウトドアーの道具を持って来ている。
屋外にある小さな収納庫を探ってみる。
有った。
それぞれの道具が使い物になるかどうかを一つ一つ念入りに調べていく。
そのまま使えそうな物や、修理すれば使えそうな物や、有難いことに全く使い物にならないような物は無かった。
「行ってきます。いつ帰るか分からないけど、旅先からは連絡を入れるようにする。山籠りしているかもしれないから、連絡がなかったら山の中の何処かにいると思って欲しい」
最初に話した時には不審に思われた。何かの疑い?それとも身の危険を案じて?どちらにしても娘が説得してくれた。
「やりたいようにやらせてあげたら」
そんな会話を背中で聴きながら、私は単独登山に近いような道具を70リットルのリュックに詰めていた。