影もどきの長
「はい、到着」
アイゼンたちの家を出てから半刻ほど歩いた頃、彼女が言った。
成る程、確かに目前には、【大市】と呼ぶに相応しい賑わいがあった。見たところ、青果店に飲食店、宝飾品らしきものを売っている店もある。当たり前だが、露店だけではなく多くの建物も存在し、住居なども含まれているようだった。
「ぼうっとしてないで、行くよ」
「あ、ああ」
俺がそんな風に見ていると、急かすように彼女が言った。その言葉に従って、俺は先に行っていた彼女に追いつくために足早で向かう。
しかし、彼女とは道中殆ど会話を交わすことは出来なかったな。邪険に扱われるのは慣れてるから、別にいいんだけれど。
「ここだよ」
彼女が指差した古風な建物が、ここの顔役が住んでいるところらしい。
「うお」
中に入ると、床から天井まで山のように書物が押し込まれていて、人一人通る隙間もないようだった。
そんな手狭な空間を、彼女はするすると抜けていったので、俺も精一杯工夫しながらついていく。
「スキアー、いるか?」
「ああ、少し待っていてくれ」
階段の目の前で立ち止まり、呼ぶと直ぐに返事が帰ってきた。ちなみに、階段にも山ほど本が積まれていた。一番近くにあった本の表紙にだけ目を向けるが、古い文字なのか全く読めなかった。
「待たせたね、マリアレス。で、今日の用件は、と、聞くまでもなかったかな」
現れたそれは、影のような男だった。否、形容するまでもなく、影そのものだった。
全身が黒で塗りつぶされたそれからは、声音くらいしか読み取れない。表情は勿論、眼球も口腔も、肉体も、何も見えやしない。大凡、生命とは思えないそれは、持っていた紙を俺に差し出した。
「君、とりあえず、この紙に記入してくれ。その間に、仕事を探してこよう」
俺がその用紙を受け取ると、直ぐにまた影の男はどこかに消えた。
ひとまず、名前とか、経歴とかをその用紙に記入する。
「なあ、仕事って?」
「…【大市】に住む神たちは初めに、どれだけ仕事を任せられるかの試金石として、軽い魔獣の討伐を命じられる。精々死なないようにね」
「まあ、一人監視役と護衛を兼ねてベテランもついて来るから、早々死ぬことはないと思うけど」
俺が聞くと、マリアレスはその様に答えた。魔獣か、【神領】のモンスターってのはどんなものなんだろう。さっき見た飛竜、あれくらいなら俺一人でもなんとかなるが、噂に聞く【神領】の固有種だったら、はっきり言って勝算はない。
「もう書き終えたかな?」
色々と考えている内に、スキアーが戻ってきた。用紙を渡すと、ほう、と彼は感嘆の声を上げた。
「アドヴァルト、というと将軍家の子息かい。何度かその姓を聞いたことがあるよ」
彼の指摘は間違っていない。アドヴァルト家は、アネリア建国の祖の三家の内の一つであり、その当時から国を代表する武力として、将軍を担っていたと聞く。
そのことを知っている彼は長命なのだろうと推測出来る。物語通り、神という存在は長命なんだろうな。
「どうやらちゃんと戦える人材のようだし、君にはガルム・ドルムを討伐してもらうことにするよ。少しばかり難易度が高いかも知れないが、一目見て無理だと判断すれば撤退して構わない。その場合は、戦闘以外で役立てることをしてもらうがね」
用紙を見た彼は、矢継ぎ早にそう説明した。
ガルム・ドルムか、大型の狼だ。単独での討伐経験は生憎ないが、まああれくらいなら一人でも何とかなるだろう。
「で、護衛役なんだが」
そこで、スキアーは一拍置いて、マリアレスを指差した。
「マリアレス、君に任せる」
「…は?」
彼の指示を聞いたマリアレスが呆けた声を上げた。
*
ブロンズが消えた日、同じく彼の館から消える二人の姿があった。
「私は聞いてるんですよ、ねえ、何度も聞いてるじゃないですか、兄さんをどこにやったんですか」
「…何度問われても知らぬものは知らん」
ブロンズの妹、ルーデン・アドヴァルト。彼女は今、自らの祖父を椅子に縛り付け、尋問していた。否、何度も腹部を殴りつけたことによる、嘔吐の跡、右腕から剥がされた爪、最早これは拷問と呼ぶに相応しいものであった。
「何惚けているんですか?あなたが兄さんをこの家から追放したことくらい、私は承知の上なんですよ?」
「儂は、奴をこの家から除名しただけだ。そもそも、貴様が言うように、一瞬で奴の姿を消すことなど出来ると思うのか?」
そんなことが出来るのは、神か化物だけだ。
続けた祖父の言葉に合点がいったように、ルーデンはうなずいた。
「成る程、【神領】ですか。行ってみる価値はあるかもしれませんねえ」
「馬鹿な、【神領】だと?神が奴を狙ったとでも?理屈の上ではその可能性はあるかもしれんが、奴にそこまでの価値があると思うのか?」
「え、逆にないと思うんですか。兄さんは特別なんですから、狙われても不思議ではありませんが」
祖父の発した言葉を、嘲笑うかのようにルーデンは言う。
実際の所、祖父の言う通り、ブロンズ・アドヴァルトにその価値はない。ブロンズという個人を貶める意味ではなく、神がわざわざ【神領】からやってきて、たった一人の個人を狙うことなどあり得ないというのが、一般的な見解だろう。
故に、ルーデンの発想はおかしい。が、正答には至っている。
「さて、もう話すこともないんですが、最後に言っておきますね」
彼女はそう言って、祖父に剣を向けた。
「私は昔から、あなたのことが嫌いでした。兄さんを苛める、あなたのことが」
「知っておるわ、気狂いが」
祖父の恨み言を聞いた後、迷うことなくルーデンは祖父の首を刎ねた。
明日、彼女の名はアネリアの国中に広まり、翌日には大陸中に広まった。指名手配犯として、異例に高額な懸賞金を掛けられて。