プロローグ
「この家から出て行け」
地面に崩れたままの俺に向かって、祖父はそう吐き捨てた。
笑ってしまいそうなほどに残酷だけれど、不思議と俺の気はそう悪いものではなかった。この家から出られるのであれば、それに越したことはない。
そのはずなのに、涙が止まらないのはどうしてだろう。分かりきったその理由を思い出すことすら、今の俺には遠くて、俺は涙を流しながら、今までのことを走馬灯のように思い出していた。
*
「立たぬか」
これは六歳の頃の記憶だ。
父親と母親を戦争で亡くした俺は、ずっと祖父に育てられてきた。
母国アネリアの当代大将軍にして、歴代最強とも謳われるその人の教育は、それはそれは厳しいものだった。
常に生傷が絶えないのは当たり前、時には骨を折られることもあった。むしろ、骨が折れた時の方が、多少は指導が楽になってマシだったってのは、笑い話になるか?
俺に魔力が殆どないと知った後からは、更に指導の厳しさは増し、毎日がボロボロだった。
今思えば、どこかしらに駆け込んで助けてほしいでも言えば良かったと思うが、当時は自分が置かれてる環境が酷いものだと思うことすらなかった。無知であることは不幸、ってのは実にその通りだね。
最も、どこかに駆け込んだところで、最強の大将軍様に逆らえるはずもないんだろうがな。
*
「これで、どうでしょう」
自分に初めて劣等感という感情が生まれたのは、その一年後だった。
妹が六歳になり、祖父の指導を受け始めた。出来るだけ、妹を守ろうと思っていた俺だが、そんな心意気は無駄だった。
妹は初日の時点で、完璧に祖父の要求に応えたからだ。一年指導されて尚、届かない俺が情けなくなったのは、言うまでもない。
断言する、妹は天才だ。それも、稀代の天才だ。俺と比べてどうこうではなく。
初日に祖父の要求に応えられるなど、祖父自身も思っていなかったらしく、祖父も瞠目していたほどだ。
その後も妹は日に日に水準が上がる、祖父の指導に応え続け、最後には祖父自身も妹の指導を投げ出した。きっと、自分が指導せずとも、勝手に伸びると思ったのだろう。
一方、俺は7歳が終わる頃にようやく、祖父の指導に慣れ始め、曲がりなりにもこなせるようになり始めたところだった。
笑えないほどの差だろう?祖父もそう思っていたようで、8歳になる頃に俺はミクト、という他国の学園に強制的に入学させられた。
普通、長子を他国に送るなんて、殆ど縁切りみたいなもんだ。ある意味では、この時点で俺は追放されていたのかもしれないな。
*
「またな、ブロンズ。高等部でもよろしくな」
卒業式、別れの時。とある友人から差し出された手を、俺はがっしりと握った。
ミクトで暮らした7年間は、俺の人生で最も楽しい時間だった。
多くの友人に恵まれ、教師たちからも覚えは悪くなく、年によっては主席の座をいただくこともあった。
特に剣術は、視察に来た士官からも高い評価を頂き、伝説とも呼ばれる剣豪に師事を仰ぐ機会をいただけた。
本当に名残惜しく思ったものだが、七年ぶりの帰国に際し一つの目標が出来た。
今の妹がどこまで高みにいるのかは知らないが、剣技の一点に関してだけでも良いから、彼女を超えたい。そんな、目標だ。
もし、彼女を超えることが出来たならば、少しくらいは祖父も、俺を認めてくれるかもしれない。
そんな、淡い期待を持ちながら、俺は帰国した。
*
「…来週にでも、模擬戦を行う」
久々に見た祖父は、すっかり老けきっていた。
筋骨隆々だった肉体はやせ細っており、鋭かった眼光はむしろどこか自信のなさが見え、身にまとっていた覇気は見る影もなかった。将軍の地位から引いたとは聞いていたが、ここまでとは。
不思議に思った俺だが、そもそも良好な関係とは言えない祖父に、事情を聞くことは出来なかった。
「あ、兄さん。お帰りなさい」
祖父の話を聞いていると、妹がそんな風に俺に声を掛けてきた。
妹は俺がいる学園に何度か足を運んでくれていたから、それほど久しぶりではないが、少しだけ雰囲気が変わったような気がした。
…その時、祖父がビクついたように見えたのは、気の所為ではなかったのだろう。
今だからこそ分かるが、確実に祖父は、妹を恐れていた。
何が理由だったのかは知らない。知ろうとも思わない。だが、推測はできた。
*
「ありがとうございました」
ぺこり、と頭を下げる妹。の、声だけが俺の耳に入った。
だが、それよりも聞こえるのが、凄まじいほどのざわめきの声だった。
俺と妹の模擬戦に、祖父は多くの来賓客を招いていた。何が目的だったのかは知らない。が、それはそれはバラエティに富んだ、数多くの来賓客を招いていた。
アネリアの軍の重鎮から俺が通っていたミクトの学園の教師、マギエの魔法学校まで。
「あの、少女は、何だ?」
そんな来賓客が、皆同様に口にした言葉が、それだ。
俺は、妹に傷一つ、どころか一切触れられずに負けた。
俺の攻撃をするりと抜けて、俺の体を崩し、首元に模造の剣を突きつけた。
それだけ、言葉にすれば単純だが、あれほど綺麗に出来る人間を俺は知らない。あれ程の速度で、動く人間を俺は知らない。
いつの間にか、妹は人智を超えた化け物になっていたのだ。
そんな奴と自分を比べること自体が間違っていたのだ。
俺は絶望で、立ち上がることは出来なかった。
*
そして、今に至る。
ひとまず俺は、部屋に戻って、必要なものだけ持ち出そうとしていた。
どうするか、当てもない。絶望的な気分で、俺は部屋の扉を開けた。
「やあ、遅かったね」
部屋に入ると、謎の男が、俺のベッドに腰掛けていた。
即座に俺は腰の剣を抜いた。あくまで模造ではあるが、無手よりはマシだ。
一体、こいつは何者だ?どうやって俺の部屋に、どうやって警備の厚いこの家に入り込んだ?
「あー構えなくてもいいよ。観戦者の一人だ」
男はそんな風に言ったが、こんな奴見たことがない。
構えを解かずに警戒を続ける、つもりだったのに、次の瞬間、俺の警戒は緩んだ。
「君の妹さん、強かったね。あんなのと戦ったら自信なくしちゃうよな」
何故なら、不審な男が口にした言葉が、心にぐさりと刺さるように感じたから。
「君の妹、超えたくない?」
「…超えたい、けど超えられる訳がないだろ」
俺は構えを解いて、そんな風に、自分の心境を吐露した。
「大丈夫、超えられるさ」
近づいてくる男に警戒することもなく、俺は受け入れる。
おかしいはずなのに、警戒出来ない。するりと、俺の懐に入ってきたそれは、俺の目を閉じさせた。
「ほら、目を閉じて。これを口にしてご覧。それだけで、君は強くなれる」
言われるがままに、口に入れられたものを飲み込む。肉?のような何か。こくんと飲み込むと、なぜだかとても眠くなった。
「そうだ、名乗っていなかった。僕はダンタリオン、短い間だけどよろしく頼むよ」
だん、たりおん?ダメだ、眠気が。
*
「兄さん、少しよろしいですか?」
誰もいない部屋をノックする、妹。いくら待っても帰ってこない返事に不安を覚えたたのか、彼女は扉を開けた。
「あら、兄さん?」
誰もいなくなった部屋に入った彼女は、そんな呆けた声を上げた。
*
…ああ、いつの間にか眠ってしまったのか。
なんで眠ったんだっけ。そうだ、ダンタリオンとかいう奴に肉みたいなものを口にさせられて。
それにしても床が硬いな、石畳みたいな。床ででも眠ってしまったのだろうか。
「は?」
目を開くと、見覚えのない景色が、目前に広がっていた。
古い遺跡のような、周囲は石ばかりで、俺が住んでいた家とは大違いだ。
なんだこれ。どうなってるんだ?
いくら周囲を見渡しても、ダンタリオンはいない。なんだよこれ。心臓の鼓動が、早くなる。
「おい、おいおいおいおい!」
空に飛竜が飛んでいた。山間部か、神領でもないと見ない魔獣だぞ。
一体、俺はどこにいるっていうんだ?
「グルル?」
その内の一匹と、目が合った。合ってしまった。
そいつは直ぐに、俺目掛けて飛び込んできた。
「く、クソ!」
俺は直ぐ様、剣を抜く。抜いた剣が、模造ではない剣であったことにも驚いたが、何よりも驚いたのはその剣が、雷を纏っていたことだ。
魔導具の類か?俺は疑問を覚えながらも、近づいてくる飛竜に向けて剣を振った。
その時、不思議なことが起こった、振った剣は、雷の刃となり飛竜に向かって奔ったのだ。
「なんだ、こりゃ」
奔った、雷の刃は、そのまま飛竜を真っ二つに裂いてしまった。
信じがたい光景に、笑いがこみ上げてくる。
なんだよこれ。
正直、パンク寸前だ。ここはどこで、俺は今どうなっている?
「は?は?」
困惑していた俺に、更に理解できないような出来事が起こった。
触手のような何かが俺に絡まり、俺を空に浮かせたのだ。
何が起こっているかもわからない俺の目の前に、小さな女の子が現れた。
「その力、どこで手に入れた?」
長い、長い金髪の彼女は、脅すように俺に聞いた。
そんなことは俺が聞きたい、と言いたくはあったが、言えるような雰囲気でもなく、答えに逡巡していると、あることに気づいた。
俺を浮かせている触手のような何かは、彼女の髪の毛だということだ。どうなってんだと言いたいが、理解外のことばかり起きている中では、理屈が分かるだけマシか。
「答えろ」
急かすように、髪の毛の力が強まる。
俺は答えるために、口を開いた。