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6.火曜日午後6時
午前中はいろいろあったが、それ以降は何事もなく、長山はずっと自分の席に座っているだけだった。夕方までそれが続いた。
今日の仕事は、このまま終わりか……そう思いはじめたところで、机上の電話が音をたてた。
「もしもし?」
『まだやってるのか……なんでわかってくれないんだ』
嘆くような声だった。
「あなたは事件について、なにかを知っているんですか?」
返答はない。しかし、これまでのようにすぐに切られるわけではなかった。
「一度、会っていただけませんか?」
『……』
「あなたのお名前は? 本名でなくてもかまいません」
『鈴木……』
咄嗟に出した偽名だろう。
「もちろん、あなたが犯罪に関係していたとしても、話を聞くだけで逮捕することはありません」
『おれは、犯罪者じゃない……』
この事件──毒殺事件の犯人ではないだろう。年齢が合わない。が、長山の言った意味はちがう。
べつの事件で、なにかしらの犯罪に手を染めている可能性があると推理したのだ。
「では、話を聞かせてもらえませんか?」
『それはない……』
あきらかに迷っている。
「どうしてですか? 事件のことを知らなくても問題ありません」
『会ってどうするというんだ……』
「なんでもいいです。話をしましょう」
とにかく会うことが重要だと考えていた。
「日付と時間は、あなたの都合に合わせます」
『……夜遅くでもいいか?』
「もちろんです」
今夜の十時に、新宿駅で待ち合わせることになった。後日の約束だった場合、気が変わる可能性があるので、むこうから今夜を指定してくれたのはありがたかった。
電話を終えると、周囲を見回した。オペレーターは自分たちの仕事に集中しているようだし、ほかの部外者はいない。が、盗聴器が現在でも仕掛けられたままならば、公安にはいまの電話の内容も筒抜けだ。
まずはじめにクリアにしておかなければならないことは、いまの電話の『鈴木』が、公安と関係しているのかどうか……。
姿を消した遠山がいまの男の電話に応対したからといって、公安関係者だと決めつけるわけにはいかない。
それに声の様子からは、ちがう印象をうける。
ただし、完璧に演技していることも考慮しなければならない。とはいえ、いくら公安とはいえ、会いさえすれば正体は見抜けるだろう。長年の刑事の経験をなめてもらっては困る。
次のポイントは、公安でないとして、公安部は『鈴木』のことを知っているのか。
知っていて泳がせているのか、知らないからこそ、こうやって財団本部を監視しているのか……。
長山は立ち上がった。いま考えていても、時間の無駄だ。そのことに気がついた。
公安事案の段階で、一般的な予想は役に立たない。
「……そうか」
そして、あることに思い至った。
時刻を確認した。もう数分で六時になろうとしている。
実際に会えることになって気が動転してしまった。さすがに約束の時間が今夜なのは早すぎる。普通なら、早くても明日になるだろう。
もう一つ懸念しておかなければならないことがあった。
『鈴木』が、公安の存在に気づいているかもしかもしれないということだ。だからこそ、すぐ会うことにした。むこうの準備が整うまえに……。
「……」
最後の推理に、一番信憑性を感じた。であるならば、長山の行動は決まった。約束の時間に関係なく、とにかく早く待ち合わせ場所まで行くことだ。
「長山さん?」
もうなもなくで交代の時間であるとはいえ、本来なら応援を本庁から呼んで出掛けるべきだが、いまはだれにも行動を悟られたくない。が、さすがにだれにも伝えないわけにはいかないから、杉村遥に視線を合わせて、呼び出した。
廊下のすみに移動した。ここなら、盗聴器の心配はないだろう。
「自分はこれから、出てきます」
小声で話しかけた。
「は、はい……」
頭の良い女性だから、それだけで察してくれるだろう。
長山は財団本部を出ると、急いで新宿駅をめざした。タクシーを拾ったのだが、すぐに渋滞につかまったので、電車に切り替えた。
三十分ほどで新宿駅のホームに到着した。
正確な待ち合わせ場所は、山手線の14番線ホームだ。外回り──渋谷方面に向かう電車が停まる。13番線となる中央線・総武線と同じホームでもあった。
時刻は、六時四十分になるところだった。帰宅ラッシュがはじまっている時間帯だ。人の数は多い。『鈴木』の人相はわからないから、勘でさがすしかない。むこうもこちらのことをさがしているはずだ。
中央線がホームに入ってきた。扉が開き、多くの人が降りて、多くの人が乗り込んだ。
そのとき、何者かに手を引かれた。
混雑する列車内に向かっている。長山は事態を悟ると、抵抗することなく電車に入り込んだ。
ドアが閉まる。
「あなたが、鈴木さんですか?」
一人の男性と向かい合っていた。手を引いたのは、この人物だ。
年齢は四十代。電話の声の印象と同じぐらいだ。
「……」
男性は、まだ声を出していない。同一人物かどうかは、判断できなかった。もしかしたら、電話の人物との接触を嫌う公安の人間かもしれない。
中央線の快速なので、四ツ谷まで停まらない。男は無言だった。長山もそれにならった。
やがて四ツ谷駅に到着した。
男の眼が動いた。降りろ、と伝えたいようだ。
四ツ谷駅のホームで、電車内と同じように男と向かい合った。
新宿駅とくらべれば、だいぶ人の数は少ない。小声で話せば、周囲の人間に聞かれることはないだろう。
「鈴木さんですか?」
「はい……」
その返事だけでは、電話の男かどうかまでは断定できない。ただし、言葉づかいや声のトーンがちがっているようだ。やはり演技だったのだ。
「場所を変えますか?」
「いえ、ここのほうがいいでしょう」
これで確信した。この男性は、公安の影を感じ取っている。
「あなたの職業は?」
「……同業者ですよ」
予想の一つには考えていたことだが、驚きは大きかった。
「警察官ということですか?」
鈴木はうなずいた。
「あなたと、事件の関係は?」
「直接は、関係ありません……」
それはそうだろう。もし鈴木の年齢で関係があるとすれば、被害者遺族の子供、もしくは犯人の子供というケースしかない。
「あなたの部署は、公安ですか?」
「そうと言われればそうだし、ちがうとも言える……」
とても曖昧な返答だった。
「どういう意味ですか?」
「同業者とはいいましたが……厳密にはちがう」
警察官ではなく、警察職員ということだろうか?
その他、いろいろな想定を瞬時に思い描いた。
「あなたは、地方だ」
「まさか、サツチョウということですか?」
鈴木のヒントから、そう導き出した。
警察庁の職員。地方公務員として採用された警察官でも、警察庁へ出向となった時点で国家公務員の身分になるはずだ。
「公安課ですか?」
「企画課です」
警備局公安課ではなく、警備企画課ということのようだ。
「チヨダ?」
かつては警察庁の公安課に『チヨダ』と呼ばれる秘密組織が存在したという。なかば都市伝説のような話だが、現在は警備企画課に移管されたという噂があるのだ。
「いまは、その名前ではありません」
「ゼロに改名されたんでしたかね?」
「それも、むかしの話です。もっとちがう名前になってます。ですが……私はそこの所属ではありません。もっと小さい部署です……いえ、部署とも呼べないようなところですよ」
自嘲気味に、鈴木は語った。
「私は、ある文書を管理するだけの仕事です。たぶん、定年までそれだけしかやらない」
「文書?」
どうやら、その文書の中身に重要な意味があるようだ。
「ある人物にまつわるものです」
ある文書、ある人物……立場上、明確にできないのだろう。それとも、そういう癖がついているだけか。公安畑の人間に多い職業病だ。
「その人物にまつわる文書が、多摩蔵元毒殺事件と関係があるということですか?」
「そうです……ですが、もっと言えば、二つともです」
「二つ?」
港区会社経営者変死事件……。
「今回の二つが、その文書に関係しているというんですか?」
鈴木はうなずいた。
「あなたは、どうして事件の捜査をやめさせたいんですか?」
「やめさせたいわけではない……いえ、毒殺事件のほうはそうです。すでに時効になっているんですから」
「港区のほうは?」
「時効になっていないのなら、捜査を妨害するようなことはしません」
どこまでが本心なのか……。
「その文書には、どんなことが書かれているのですか?」
一番知りたいのは、犯人の名前が書かれているのかだ。
「それは口外できない……ですが、犯人はわからない」
すくなくても、犯人の名前は書いていないようだ。だが文書管理とはいえ、公安の人間をどこまで信じていいものか……。
こういうコンタクトをとってきたのだから、なにか不都合なことは記されているはずだ。問題は、なにについて不都合なのか……。
公安が守るものは、この国の秩序だ。
国家を揺るがす、なにかがある……。
「どうやら、公安部がうちに妨害をかけているようです。それについては?」
「私は、関係していない。たぶん、文書のことを知っている人間が動いているのでしょう」
「どれぐらいの人が、その文書について知っているのですか?」
「私にはわかりません。ただ、上の人間は常識のように知っているはずです」
鈴木はあくまでも文書の管理だけで、実働部隊とは関係がないようだ。
「……ですが、こんなことを伝えても、私の真意は伝わらないでしょう……」
声のトーンを落として、鈴木は言った。
「とにかく、あなたたちにとっては、真相を追求しないほうがいい……それだけは言えます」
「……」
「とくに、代表にはそのことを伝えてください!」
「久我さんに?」
列車がホームについた。新宿にもどる電車だ。
「最後に、ヒントをあげます。その文書の名は『K』という」
鈴木は、やって来た電車に乗り込んだ。
長山は去っていく姿を見送った。
『K文書』──それがなにを意味するものなのか……。
ホームにたたずむ長山のなかには、迷宮が眼の前にあらわれたような感覚だけが残っていた。