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5.火曜日午前11時
「ここですか?」
「たぶんな」
翔子は梶谷とともに、芝公園に近い高級マンションの立ち並ぶエリアを訪れた。
芸能ゴシップなどのお下劣な記事が得意の『週刊ポイント』において、梶谷は一番の社会派で、編集長よりも頼りになる存在だ。前回の『足立区会社員行方不明事件』でも力を貸してくれた。そのおかげで、無事に解決することができたのだ。
そこは、周囲のマンション群とは異質な雰囲気をかもしだしていた。
この地域には高層マンションはなく、高くても八階までしかないようだ。問題の建物も、五階建ての低層マンションということになるだろう。
だがおそらく、もうだれもここには住んでいない。朽ち果てようとしている廃墟のようだった。いや、それ以外のなにものでもない。
「事件があって、その後、こうなったのかもしれんな」
港区会社経営者変死事件──その現場だ。
住人がいなくなり、廃墟となった。建て直す財源もなかったのか、だからといって買い手もつかなかった──そんなところだろう。気づけば周囲には新しいマンションが立ち並び、ここだけ時間から取り残されてしまったのだ。
事件が2010年。十数年という短期間でこうなってしまうのだろうか──翔子は単純にそう思った。
「入ってみるか?」
翔子はうなずいた。
入り口には立入禁止と記されているが、どれほどの効力があるものなのか……。
たとえ侵入したとしても、建物の所有者が警察に通報するとは考えづらい。むしろ、なかに入って怪我をしても、こちらに責任はありません──そういう意味のものだと推察できる。
これまでに多くの侵入者がいたようだ。壁には落書きがされ、ガラスが散乱し、部屋の扉だったものは床に倒れていた。
「現場は、五階だ」
エレベーターは当然のこと作動していないから、階段をつかうことになる。
思いのほかしっかりとしていたが、それでも廃墟の階段をのぼるというのは、気持ちのいいものではない。崩れでもしたら、命にかかわる。
「ここのはずだ」
事件のおこった部屋の前に立った。
ドアを開けて、なかに入った。
五階のここまでは侵入する者はいないのか、なかは思いのほか乱れてはいなかった。
事件のあった片鱗は、しかしどこにもなかった。あたりまえか。家具などはなく、当時のまま残っているわけではない。どこに遺体があったのかも、いまではわからない。
「どんな事件だったんですか?」
「この部屋で、仁科智文という会社経営者の遺体が発見された。死後二週間が経っていたそうだ」
「死因は?」
「わかっていないみたいだ」
「それぐらい腐敗していたということですか?」
二週間あまりで、死因が特定できないことはあるのだろうか?
「どうだろうな……そこらへんについても、よくわかってないんだ」
「どうしてですか?」
「そもそも、殺人事件だと断定されているわけでもない」
ますます謎が深まった。
「この事件の捜査は、なにかと横やりがはいったそうだ」
「どういうことですか?」
「刑事部が主導したわけじゃないみたいなんだ」
「じゃあ、どこが……」
そのとき、翔子の頭のなかに、あるワードが浮かび上がった。
「公安……ですか?」
「そうだ」
「そんなことあるんですか?」
「普通はないな。ハムが事件の捜査をすることはない。以前、宗教団体が関係していると思われた銃襲撃事件のときに、公安が陣頭指揮をとったこともあるが……」
「警視総監が撃たれたやつですよね?」
「ああ」
それは二五年ほど前のことだから、翔子は生まれているといっても、当然そのころの記憶はない。重要事件だから、知識として得ているだけだ。
「たしか、そのことが迷宮入りした理由でもあるんですよね?」
「刑事捜査は素人だからな」
「……どういうことだと思いますか?」
「この事件のことか?」
「総監狙撃のときは、世間を騒がせた宗教団体のテロとの関連から公安が出てきたんですよね? じゃあ、十年前のこれは?」
「さあな。まあ、そのことがわかれば、事件の核心につながるかもしれんな」
「……似てると思うんですよね」
「似てる? なににだ?」
「足立区会社員行方不明事件です」
「前回のあれか」
「はい。殺人だと断定されていないところとか……」
「それだけだろ? 前回のは、公安は関係なかった」
梶谷の言うとおりなのだが、翔子の心には確信にも似たものがあった。
「久我さんが……」
言いかけて、翔子はためらった。
「ん? 久我がどうした?」
「あ、いえ……なんとなく、また久我さんが関与しているような……」
「考えすぎじゃないか? まあ、それについては、おれにも責任があるか」
「え?」
「まえに言ったことを気にしてるんだろ?」
梶谷は以前、久我を評してこう言ったことがある。
久我という男は、犯罪者に近い──。
翔子はそれを聞いたとき、複雑な気持ちになったことを覚えている。足立区会社員行方不明事件に久我が関与していると疑っていたことも、それが原因の一つだ。
大胆で隙がなく、目的のためには手段を選ばない。だがそれとは対照的に、人間的な優しさをどこかに感じる。だから、いっしょにいると安心できるのだ。
疑ってはいたが、信じたい気持ちのほうが強かった。
「長山さんに、ヘンなことを言われたんですよ」
「刑事の?」
「はい。わたししか、久我さんを説得できないって。そんなはずないのに」
「……」
ジッと梶谷に顔を見られた。
「な、なんですか?」
「案外、本当なのかもしれないぞ」
「え?」
「よくよく考えてみれば、うちのような三流誌だけに独占取材が許されてるのが、おかしいんだ」
「うちが、話題になるまえから取材を申し込んでいたからですよ」
「最初は、そうだったかもしれん。だが、いまや久我猛とCC財団は、世間の注目のまとだ。普通なら、もっと権威のあるメディアにまかせるだろう」
梶谷がなにを言わんとしているのか、よくわからない。
「久我猛は、おまえに気があるのかもしれない」
「まさか……」
「おまえのことを女として見ているのかもな」
想定外すぎることを言われた。
「長山という刑事は、そのことを知っていたから、おまえにそう伝えたのかもしれない」
「そんなバカなぁ」
さすがに翔子は、真に受けなかった。
「これまでに、思い当たることはないか?」
「あるわけないじゃないですかー」
久我が自分を見る瞳は、どんな感じだったろう?
「おまえに心当たりがないのなら、ちがうのかもしれんが……」
話がヘンな方向にそれてしまったので、二人は廃マンションを出た。
外から建物をあたらめて眺めた。
「気になるか?」
「やっぱり、ここだけ残ってるの……おかしくないですか?」
となりのマンションはまだ新しく、築三年といったところだ。それなら、この廃マンションもいっしょに開発すれば、もっと大きくできたはずだ。事故物件だからと不動産会社が躊躇するだろうか?
「なら、この建物と土地がどうなってるのか、調べてやろうか?」
「お願いします」
梶谷とは現場で別れて、翔子は一人で財団本部に向かった。
「ん?」
翔子は、振り返った。視線のようなものを感じたのだ。
「……気のせいか」
とくに自分を見ているような人はいなかった。
財団本部に到着したのは、午後二時を過ぎていた。しかし、すぐに外へ出た。長山と杉村遥がよくいる小さな公園に足を運んだ。
確かめたいことがある。
翔子は公園のなかほどに立って、後ろを振り向いた。
本部ビルの陰から、こちらをうかがっている人物がいた。眼が合うと、その人物はあわてたように姿を隠した。
「やっぱり、わたしのことつけてましたね?」
大きめの声で、翔子は呼びかけた。
気のせいではなかったのだ。たしかに追跡者はいた……。
「隠れてないで、出てきてください!」
観念したのか、見知らぬ男性が園内に入ってきた。
年齢は三十歳ぐらいだろうか。
「どうして、わたしのことをつけてるんですか?」
警戒しながら、翔子は問いかけた。
考えらるのは、公安……。
しかし、素人に尾行を見抜かれるような間抜けが公安部にいるだろうか?
「あなたは、だれですか?」
「いや……困ったな」
男性は表情でも、困ったな、をあらわしていた。
「はっきり答えてください!」
翔子は、厳しい口調で問いただした。
「……私は、警備会社のものですよ」
「警備会社?」
「あなたの護衛を依頼されたんです」
「護衛? だれにですか?」
「それは……」
男性は、財団本部に眼をやった。
それでわかった。
「久我さんですか?」
「それは言わない約束なので……」
男性は言葉を濁したが、認めているようなものだった。
「わたしだけですか?」
「どういう意味ですか?」
「ですから、護衛するように言われたのは、わたしだけですか?」
財団には、オペレーターをふくめれば、たくさんの女性が勤務している。
「私への依頼は、あなただけです。うちは大手ではないので、一度に何人もお引き受けすることはできません」
では、自分だけということだろう。
久我の財力なら、大手の警備会社を貸し切ってでも、全員に護衛をつけることもできる。
「それで私は……どうすれば」
「そんなこと、わたしに言われても……」
「いやあ、こういった、隠れて護衛するような依頼は初めてでして……普通でいいのなら、しっかりお守りするんですが」
どうぞ勝手にしてください──そのような視線を送った。
意味は通じたようだ。
「ありがとうございます。できるだけ視界には入らないようにしますから。あ、久我代表には、あなたにバレたこと、内緒にしといてください」
警備の男性はそう言うと、ビルの陰に姿を消した。
気を取り直して、翔子は財団本部のなかに入った。廊下で久我と、ばったり会った。
「久我さん……」
「どうしました?」
思わず、まじまじと久我の顔をみつめてしまった。
「あの……」
「なにか?」
実際に顔を見たら、いろいろと複雑な感情が入り乱れてしまった。
梶谷の言葉が、脳裏をよぎる。
久我は、翔子のことを女性として見ている………。
そんなはずはないと思っていても、意識してしまう自分がいる。
「久我さんは……わたしのことを……」
なにを言おうとしているのだ!
翔子は自制した。
久我さんは、わたしのことが好きなんですか?
まるで中学生の色恋沙汰のような会話ではないか。翔子は、自身の顔が赤らんでいるのがわかった。
「え?」
「い、いえ……なんでもありません!」
翔子は、逃げるように久我の前から走り去っていた。