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23.土曜日午後2時
なにかがおかしい……。
久我のことだけではない。長山の表情も、なにかを予感している。不吉なものだ。
場内の方々に、長山は視線をはしらせていた。警戒しているのだ。
どういうことだ?
翔子もつられて、会見場を見回した。記者席にいると、後方を見ることはほとんどない。
Nが眼に入った。いまでは楢崎という名前なのを知っている。
(長山さんも、Nを見てる?)
不吉な予感は、彼が原因なのだろうか?
長山は、わずかに腰を浮かしているようだ。なにかあったとき、すぐ動き出せるように?
やはり彼は、なにかの思惑があって久我に近づいたのか?
復讐?
いや、近づいたのは久我のほうだ。それに、彼の父親──楢崎謙信は、多くの人を殺害している。狙撃事件で疑われたが、その罪では裁かれていない。その逆はあっても、ほかのだれかに復讐する理由がない。
(あれ?)
翔子は、その横に立っている人物に眼をとめた。
記者ではなさそうだ。財団の関係者でもない。しかし、どこかで見たことがあるような……。
たしかに知っている。
どこで見た?
どこで会った?
どうやら長山が見ているのも、N=楢崎ではなく、その人物だ。
年齢は四十歳ぐらいだろうか。もう少し、いっているかもしれない……。
「あ……」
思い出した。これまでに、二度会っている。
公安調査庁の人間だ。おもに話をした三十代のほうではなく、もう一人のほうだ。初めて訪れたとき、奥の部屋にいた。
その人物が、懐に右手を入れた。
なにかを取り出していた。
「!」
眼を見張った。
拳銃。
長山が立ち上がっていた。
銃口のさきには、中西がいた。
大変なことになる!
だが、そこで気がついた。
最初、警備員の楢崎に、襲撃者が近づいていたのかと思っていた。
ちがったのだ。楢崎のほうが、襲撃者に忍び寄っていたのだ。
ス、と楢崎の腕がのびると、拳銃をつかむ右手をからめとっていた。
バンッ!、天井に向かって発砲があった。
悲鳴が方々であがった。
襲撃者が反撃した。公安調査庁の格闘能力は知らないが、それなりの訓練はしているようだ。
鋭い蹴りが、楢崎に飛んだ。
腕を放してしまった。
銃口が、楢崎に向く。
しかしすぐに、左手の甲で横から銃身を叩いた。
バン!
銃弾は横に逸れた。
襲撃者は、踵を返して逃走をはじめた。
銃を持っている相手に、だれも抵抗はできない。そのまま会場から出ていった。
翔子は、狙われていた中西のことを見た。
まったく動じていなかった。最初からわかっていたかのように……。
次いで、久我の顔に視線を合わせた。
「知ってたんだ……」
翔子は、思ったことを口に出していた。だが騒然となっているために、だれかの耳に届くことはなかった。
長山はどうしているだろう……。
すでに会場内にはいなかった。犯人を追っていったのだ。
翔子も会見場を出た。
「鈴木さん!」
通路のさきで、長山の声がした。
犯人と長山が向かい合っていた。長山も知っている人物のようだ。
「あなたの目的は!?」
犯人は答えない。しかし、すぐに走り去るようなことはなかった。
「中西さんを? いや、ちがう……標的は、わからなかった」
長山は、なにを言っているのだろう?
「だから、裏で暗躍していた……」
一連の事件の関係者?
だが、直接ということはないはずだ。襲撃者の年齢は四十代ぐらい。楢崎と同じように、関係者の子供である可能性が高い。
「黒神藤吾の復讐ですか?」
本当は久我の仕業だが、会見で中西が毒を仕込んだことを知ったから?
「……ちがいますね」
長山は、すぐに自身の言葉を否定していた。
「その逆だ。黒神藤吾へ復讐をしたかった。しかし、すでに黒神はこの世にいない。復讐相手を奪った人間が許せなかった……ちがいますか?」
大胆な推理だった。
「K文書には、書かれていました」
銃口を向けながら、襲撃犯は言った。
「今日、あなた方が発表した内容がね。黒神藤吾の死因以外は」
「あなたの本当の名前は、青柳ですか? それとも仁科?」
「さすがですね……」
青柳? 仁科?
仁科は、仁科智文?
では、青柳は?
「青柳ですよ……毒殺事件で容疑者になった青柳誠三の息子です」
そういえば、疑われた元従業員の男がいて、時効の成立する何年かまえに死亡していたはずだ。
「黒神藤吾と公安によって、私の父親は殺された」
翔子は、いてもたってもいられなくなった。
「中西さんを殺しても、あなたの復讐は果たせない!」
声を張り上げていた。
「小鳥ですか……」
襲撃犯は、翔子を見て言った。
「小鳥?」
意味はわからないが、どうやらこの犯人は、翔子のことを以前から──あのアパートで会うまえから知っていたようだ。
「私の父親は、ゴミのように殺された……」
「だから、公安への復讐をしているわけですか」
長山が言った。
「公安部の人間を殺害したのは、あなたですね?」
「そうですよ」
襲撃犯は、あっさりと認めた。
すると、遠山の同僚を殺したのは、公安自身ではなく、この男……。
しかしそのまえに、一つ確かめなければならない。
「あなたは、公安調査庁の人ですよね?」
「調査庁? いや、この『鈴木さん』は、警備企画課です」
長山が異議をとなえた。
警備企画課というと、たしか警察庁警備局の部署だったはずだ。
調査庁というのは、嘘?
では、あのアパートにいたということは、どういうことになる?
もう一人も、公安調査庁ではなかった?
いや、さすがにそこまでは考えすぎだ。
ということは、調査庁の職員でもある?
まさか、公安がべつの公安に潜入していたなんて……。
だが、一つ合点のいったことがある。遠山が、どうしてあの夜にアパートを訪れたのか。
長山の動向を監視していたとしても、動きがはやすぎた。もしかしたら、この襲撃犯の指示があったのではないだろうか?
とはいえ、指示を出していた人間がいるアパートに逃げ込むはずはない。つまり遠山は、この人物の正体を知らなかった。
「あなたが、遠山さんたちを操っていたんですか?」
「公安は一枚岩だ。中央の指示があれば、駒はそれに従うのみ。命令はすべて電話ですませたから、彼女らは正規の任務だと信じていただろうね」
それだけの権力が、この男性にはあるということだろうか?
公安に対して復讐心のある人間が、そんなポストにつけるはずはない。
「K文書は、それほどのものだということですか……」
長山が、しみじみと口にした。
K文書がなにか翔子にはわからないが、それによってこの襲撃犯は力を得ているようだ。
「……任務に失敗したから、殺したんですか?」
「失敗したからではない。もしかしたら二人とも殺したと思っているのかもしれないが、一人は生きている」
「では、遠山さんは?」
「ただの被害妄想だ」
「……」
どこまでこの人物の言葉を信じるべきなのか……。
「なんで殺したんですか?」
「私の正体に気づいたからですよ。脅してきた」
それが西尾なのか、高畑なのか……。
「じゃあ、遠山さんは、安全なんですね?」
「それは私が決めることではない。彼女が危険だと思えば、危険な状態は続いていく。それに、私以外の何者かが抹殺を考えるかもしれない」
公安の本体が、排除しようとするかもしれないということか……。
翔子は、質問を変えた。
「すべて復讐のためなんですか? だとすると、あなたの独断ですよね? そんなことが可能なんですか?」
公安は、どこかのあやしげな秘密結社ではない。由緒正しい警察のいち組織だ。反対する人間もいたはずだ。
「K文書をつかって脅したんでしょう」
長山の言葉に、襲撃犯の眼が動いた。笑ったように思えた。
「つかい方しだいですよ」
その文書でそんなことができるのなら、どうしてこの人のような危険思想の持ち主を管理人にしたのだろう?
翔子の疑問が伝わったのか、彼は続けた。
「ほかの人間には、ただの記録です。私だからこそ、武器になった」
「もう復讐はできない。あなたは警察に追われる」
「そのまえに、公安が来るだろう」
その公安も警察なのだが、襲撃者──青柳は、長山にそう返した。
「ならば、ここから出なければいい」
ふいの言葉だった。
「久我さん……」
悠然と通路を歩いていた。
「ここには、だれも来ない」
最初、なんの意味なのかわからなかった。
「今日、この建物は封鎖している。職員、関係者、来る予定だった記者以外には、だれも入れない。もちろん、警察も入ってこない」
「……私は入れましたよ」
「あなたがここを訪れるのは、予定されていたということですよ」
久我は断言した。
つまり、青柳がここに来ることを知っていた。こうやって襲撃されることも計算していたのだ。
これが久我でなければ、信じることはできなかっただろう。
だが、この男なら……。
それに、あれほど会見場には人がいたのに、通路に出ているのは、いまここにいる四人だけしかない。あの警備員・楢崎が通行を止めているのだ。
「私は、おびき寄せられたということですか」
「あなたのことは知っていました」
「? どこで知ったのですか?」
「黒神藤吾への復讐を考えていたのは、あなた一人ではない」
実際に久我は、復讐を実行しようとした。
ではその過程で、青柳ともかち合っていたということだろうか?
「ぼくよりも、ずっとむかしから活動していたんでしょう」
発端となった多摩毒殺からは四十年経っている。容疑者とされていたこの男の父親が死亡したのは、時効の数年前──当時の時効は十五年だから、かりに事件から十三年後だとしても、二七年前。
年齢的にいって当時はまだ子供だっただろうから、復讐をはじめたのはそれよりもだいぶあとになってからだろう。
それでも、かなりの年数を復讐についやしているのではないだろうか。
「久我さんは、それをふまえたうえで……今回の事件を選んだんですか?」
自分が遠い傍観者のような感慨にふけりながら、翔子は問いかけた。
久我の首は、縦にも横にも動かなかった。
「そうですか……私は、あなたの手のひらで踊らされていたようだ」
答えを聞かずとも、青柳にはわかってしまったようだ。
「話をもどしましょうか」
久我の声は、背筋に冷静さを注入した。
「ぼくは、すべての事件を解決させたい」
「それで私に、どうしろと?」
「あなたには、ここにとどまって、証言をしてもらいたい」
久我の目論見が読めて、翔子は寒気をおぼえた。
「私に、懸賞金の証言をしろと?」
「そうです」
多摩毒殺、港区変死事件、警視総監狙撃、そのすべての解決?
多摩毒殺については、すでに中西の証言を採用しているはずだ。ほかの二つについては、青柳の証言が役に立つのだろうか?
かりに中西の証言だけでは不十分だとしても、青柳の証言だって、それは同じだろう。結局は、実行犯ではないのだ。
「久我さん……」
翔子はつぶやいたが、次の言葉が出てこなかったのだ。
「鈴木さん──いえ、青柳さんの証言があったとしても、すべての事件を解決することはできませんよ」
長山が翔子の言いたいことを伝えてくれた。しかし、久我にそれがわからないはずはない。この制度を考案し、事件を選んだのは、この久我自身なのだ。
「証拠があればいいのでしょう?」
久我の言葉は、さらりとしたものだった。
「証拠?」
青柳の発言が証拠になるということだろうか?
たしかに、証言──自白が懸賞金制度の根幹だ。しかし繰り返しになるが、青柳が犯人というわけではない。公安部員を殺害したことは、懸賞金とは無関係だ。
「青柳さんにはあるはずだ」
証拠が?
「まさか……K文書のことですか?」
長山が、畏怖をこめるように言った。
さきほどから出てくる『K文書』というものが、すべての証拠になるということだろうか?
K文書のKは……
黒神藤吾か──。
これまでの流れを読み解けば、それしか考えられない。
「その文書には、これまでの犯罪行為が書かれているんですか?」
思わず言葉を投げていた。
久我と長山の視線が、青柳に集中した。翔子の瞳も、それに加わる。
「Kに関わることは、すべて記録されています。そして、Kに従属した、もう一つの『K』についても」
公安?
つまり黒神藤吾と、それにまつわる公安の犯罪行為が記録されている……。
「それを私が公開すると、お思いですか?」
「あなたの復讐には、もってこいでしょう?」
久我の言葉は、冗談のようだった。
「そんなことはすれば、私はおろか、あなたの身にも危険がおよびますよ」
「青柳さんにとっては、そのほうが都合がいいと思います」
「どういう意味ですか?」
「毒を仕込んだのは、中西さんではないということですよ」
「……では?」
そのときの久我の顔を見れば、青柳にも真相がわかったはずだ。
その証拠に、銃口が久我に向いた。
「そうですか……」
「いい案だと考え直してくれましたか? こちらのことを心配する必要はありません」
「私の命については?」
「あなたが、ご自分の命を惜しむようには思えないのですが」
たしかにそうだ。命が大切だと思うのなら、そもそも公安や黒神藤吾に対して復讐など考えないだろう。
「あなたが望むのなら、証言のかわりに財団が保護しますよ」
「そんなことはいい……」
腕がのびて、銃口が久我により近づいた。
「本当に、証言は……K文書の中身は潰されないのか?」
「潰されません」
久我は断言した。
「あ、あの……」
緊張感に耐えられず、翔子はこの会話に水を差した。
「そのK文書というのは、どこにあるんですか? そんな重要なことが書かれているのに、あなたが一人で管理しているんですか?」
「警備局にとって──全公安にとっては、秘中の秘です。関わる人間は少ないほうがいいんですよ」
「あながた持っているんですか?」
「それは、物理的に、という意味ですか?」
その返しをするということは、書類のようなものではなく、パソコン上のデータなのだろう。
「こういう事態になっても、まだアクセスできるんですか?」
ファイルのようなものと仮定して、翔子は話を進めた。
「できます」
翔子には信じられなかった。公安に対して謀反をおこしているのだ。そんな人間に、まだ権限をあたえつづけるだろうか?
「私が死ぬまでは有効です」
「新しく人選はされていないということですか?」
「それはどうでしょう。新たな係が任命されているかもしれません」
ならば、はやく抽出しなければならないのではないだろうか?
「そのファイルを見るためには、通常のパソコンでも可能なんですか?」
それでよければ、翔子はいつもノートパソコンを持ち歩いている。
「そうですね、パソコンは必要になるかもしれませんね」
「?」
どうにも、会話が噛み合っていないような……。
「ただ、時間はかかります」
「どれぐらいですか?」
「一週間……いえ、二週間はかかるかもしれない」
やはり、おかしな話だ。
「ファイルじゃないんですか?」
それとも、難解な暗号でプロテクトがかけられていて、それを解くのに膨大な時間がかかるとか?
「勘違いされているようだ。どこにあると思いますか?」
「コンピューターのなかじゃないんですか?」
「ちがいます」
そして青柳の左手人差し指が、自身の頭をさしていた。
「まさか……」
「そうです。私の頭のなかにあります」




