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2.月曜日午後3時
会見が終わるまえから電話が鳴りだしていたそうだ。
長山がその部屋──CC財団情報コールセンターに入ったときには、すべてのオペレーターが応対に追われていた。
長山は、自分の席についた。これまでに有用な情報はないようだ。
情報提供の電話のほとんどが、冷やかしだ。
ニュースで大きく報じられると、おもしろがってニセ情報や嘘の告白をしようという輩が一定数出てしまう。それは仕方のないことだ。
しかも今回は、一つが時効をむかえている。犯人をよそおって、もし真犯人ということにされても、罰をうけることはない。民事での裁判にもならないから、ノーリスクで五億が手に入る。
長山はまだなにもないのに、ため息をついてしまった。
多摩蔵元毒殺事件は、当時としては有名な事件であり、直接捜査を担当したことはないが、長年刑事をやっていれば、必ず一度は興味を惹かれる事件といえた。いや、その表現は不謹慎だろうか。
事件は1983年の春におこった。
百年以上の歴史をもつ、地元だけでなく日本中にファンの多い酒造メーカーだった。その従業員が全員、殺害された。毒の入った日本酒を飲まされたのだ。
時間帯は朝。
酒蔵は、多摩の郊外とはいえ、人の通りがない場所ではなかった。不審な人物を見たという証言もなく、また全員──九人同時に毒を飲ませるということも難しいと思われた。
ただ一人、主人の妻が死なずにすんだが、彼女はその日、同窓会で大阪にいたから、容疑者としてもはずれるし、重要な証言も引き出せなかった。
最重要容疑者としてあがったのは、元従業員の男だった。解雇されたことで社長とトラブルになっていたという。
が、時効をむかえたのでわかるとおり、結局、犯人とは断定できなかった。捜査にたずさわったことのある先輩刑事と話をしたことがあるのだが、その彼の心象では限りなく「クロ」だったという。しかし、直接の証拠が最後まで得られなかった。
いまとなっては、もう確認のしようがない。
その最重要容疑者は、すでに死亡している。
時効が成立する二年前のことだ。
思考の迷宮から解き放とうとするように、眼前の電話が音をたてた。
「……」
一瞬の間を置き、受話器を取った。
「もしもし? 私は、長山といいます」
『一度だけ言う』
静かな声だったが、明確な意志がこめられていた。
年齢は、四十代から五十代。男性。
『やめさせろ』
「なにをですか?」
どうやら、事件についての情報提供をしたいわけではないらしい。
『こんなことだ』
「こんなこと?」
『金なんか、かけるな』
「懸賞金のことですか?」
『やめさせろ』
「どちらの事件ですか?」
『やめないと、たいへんなことになる……』
「どうなるというのですか?」
しばらく、答えはなかった。
「もしもし?」
『……あんたらのだれかが死ぬことになる』
「それは、脅迫ですか?」
『そんなのは、どうでもいい……とにかくやめろ、いいな?』
そこで切れた。
「……」
懸賞金制度をやめろと脅迫する人間がいるとは想定外だった。これまでにも抗議の声があがっているのは知っていた。だが、それといまの電話では根本がちがっている。
抗議はあくまでも社会的道義にてらしての意見であり、あれほどの強い言葉を使っての主張にはならない。そういう考えの持ち主は、そもそもモラルが高く、ルールを守る人種に属している。
しかしいまの男性は、あからさまな恫喝という口調ではないにしろ、モラル意識の低い性向があるように判断できた。
だいたい、どちらの事件に対する警告だったのだろう。答えなかったということは、それすらも悟られたくないということだろうか。
「長山さん」
声かけてきたのは、杉村遥だった。前回であつかった事件の一つは、彼女の父親が被害者だった。
土に眠った父親を発見し、事件は解決した。犯人も逮捕され、懸賞金の二千万円を受け取る権利は、竹宮翔子が有することになった。だが翔子は受け取らずに、この杉村遥に譲ったという。
しかし、彼女も金を受け取らなかっただろう。長山には、そんな確信があった。
事件が解決したことで、彼女はオペレーターをやめるのではないかと考えていたが、それについては予想がはずれたようだ。
「いまの電話は、遠山さんが受けたのですが……」
遥に付き添われるように、うかない顔をした女性が立っていた。知らない女性だったが、ここにいるということは、新しく採用されたオペレーターなのだろう。
懸賞金の復活とともに増員したという話を中西から教えられていた。
「かなり怖いことを言われたようで……」
その遠山という女性は、遥よりも若く、まだ二十代前半に見えた。
電話オペレーターといっても、通販会社のようなところとはちがう。採用基準には一般学歴はもとより、犯罪心理学や精神医学などの専門知識が必要になる。
眼の前の女性はどこか頼りなげな印象だが、高度なスキルをもつ才女にちがいない。
「なんて言われましたか?」
「……住所をさがしだして、おまえを殺すと」
「安心してください。電話の声だけで、住所をさがしだすなんてことはできません」
「いえ……電話の声は、わたしの容姿を言い当てました」
「え?」
「小柄で、髪が長い……」
たしかにこの遠山という女性は、小柄で長髪だ。
「ですが、それぐらいならだれでも言い当てることはできるでしょう? あてずっぽうです」
「いいえ……右眼の下にほくろがあるな、と言いました」
長山は、周囲に視線を走らせた。
電話に出たのが彼女だと知っているとすれば、この状況を見ていたことになる。
だが、そもそもこの部屋にいるのは、すべて身元がしっかりしている人間だちだ。それに現在ここにいる男性は、長山しかいない。
「どうしましたか?」
視察のつもりか、久我が中西を従えて姿をあらわした。
「それが……」
長山は、いまの話を報告した。
「そうですか」
驚いた様子がなかった。
「? 心当たりがあるんですか?」
久我は、ゆるやかな笑みをみせた。いつもなら、この表情にごまかされるところだが、この脅迫が信憑性のあるものなら、そうはいかない。
「久我さん!」
オペレーターの安全はCC財団の責任であるが、警察官として黙っていることはできない。
「心当たりがあります」
久我は言った。とても重要な発言のはずなのに、久我はなぜだか涼やかなままだった。
「どういうことですか?」
「たいへん言いにくいことなんですが、財団本部のいたるところに監視機器が仕掛けられているかもしれません」
「え?」
監視機器? 盗聴器やカメラが仕掛けられているということだろうか?
「……久我さんが仕掛けたのですか?」
防犯のために?
だが、そうだとすると「かもしれません」という言い方にはならないはずだ。
「いいえ」
当然のごとく、久我は否定した。
「だれが仕掛けたんですか?」
いや、そもそもそんなことが可能だろうか?
このビルの防犯は厳重というわけではないが、基本のラインはおさえている。前回、久我は犯人によって襲撃されているが、それは本部の外での話だ。
「どうも、この事件を突っついてほしくない方たちがいるようだ」
「どういうことですか? 犯人、ということですか?」
久我の言動は、おかしなことばかりだ。
「久我さん!」
すぐには答えてくれなかったので、長山は強く呼びかけた。
「そういう組織です」
「組織?」
最初、頭に思い浮かべたのは『犯罪組織』だ。暴力団やマフィアのような……。
しかし、それではつじつまが合わないような気がする。
「この事件というのは、どちらの事件ですか?」
「それは、重要な問題ではありません」
「ですがね、危険があるのなら、対処すべきでしょう?」
「対処はします。私のほうでね」
どうにも心地の悪い会話だった。
久我は、ここが監視されているというのに驚かない。脅迫するような電話が来ても動じていない。
とはいえ、この男が職員の安全をおろそかにするとは思えない……。
長山の出した結論は、こうだ。
久我は、脅しが脅しのまま終わることがわかっている。つまりは、そういう組織からの脅迫であり、監視であるということだ。
では、その組織とは?
「……まさか」
長山の脳裏に浮かんだのは、本来ならあってはいけないはずの想像だった。
警察組織。
それならば、この本部ビル内に監視機器を仕掛けられる理由にもなる。
長山は、言葉には出さなかった。久我の眼をみつめ、それで確かめた。
久我の瞳は、それを否定していなかった。
「長山さん? 久我さん?」
その不穏な空気を感じ取ったのか、杉村遥が戸惑いの声をあげた。
「……わかりました。ここは、久我さんにまかせましょう」
長山は、そう言うほかなかった。
警察官の人員を増やすということはできない。というより、その警察官から守らなければならないのだ。
久我と中西が部屋を出ていった。
「なにがあるんですか、長山さん?」
杉村遥と遠山という女性は業務にもどらず、心配げな表情を向けていた。
「安心してください。自分は警察官ですから、あなたたちに危険なことがおころうとしても、必ず阻止してみせます」
その言葉を聞くと、彼女たちは自身の席にもどっていった。
その日は午後八時まで詰めていたが、ほかに注目すべき電話はなかった。