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16.金曜日午前9時
昨夜の翔子との通話で、彼女と梶谷の無事が確認できた。そして知りたい情報も、もくろみどおり得ることができた。
黒神藤吾と、多摩蔵元毒殺事件の関係だ。
黒神グループが発見したというNS酵母。おそらくそれが、多摩毒殺事件の発端となったものだ。
もちろん、それは長山の想像でしかない。
証拠があるわけでも、関係者からそのような告白があったわけでもない。
しかし、それが真相なのだ。
NS酵母のために、毒殺はおこった。黒神藤吾自身が直接、指示をしたのかまではわからない。だが当時、日本経済の表も裏も牛耳っていた大富豪の思惑に、公安が振り回されていたことは疑いようがない。
実行犯は、容疑者としてあがっていた元従業員の男。
そして、その人物は、公安の人間だ。
先輩刑事・諸住の印象は、正しかったのだ。
「ここからが……」
長山は、愚痴のようにつぶやいてしまった。
問題は、それをどうやって証明していくかだ。
死亡した容疑者からは、自白を得られない。当然、公安が認めるわけもない。
希望的観測としては、死亡した容疑者が親しい人間に罪を告白していれば、そこから突破できるかもしれない。
いや……。
その容疑者の名前は、青柳誠三という。
身内はいないはずだが、本当に公安だとしたら、身元自体がデタラメである可能性もある。が、たとえ家族がいたとしても、任務を口外してはいないだろう。そのことによって、家族の命も狙われてしまうかもしれないからだ。
わずかな可能性として、青柳が口封じのために抹殺されたのだとしたら、それを予見して真相をどこかに隠しているかもしれない。
「それもない……」
青柳誠三が死亡したのは、時効の二年前。二五年以上も経過している。もし残していたとしても、いまになってみつけられるはずがない。
あとは、当時の顛末を知っている人間に自白してもらうしか……。
公安のなかで、そういう人間はいるだろうか?
現役ではありえない。当時十代なら、まだギリギリ定年前かもしれないが、その年齢で裏工作に参加しているとは考えづらい。
現役でなかったとしたら。
億の金で、転ぶかもしれない……。
いや、長山はすぐに打ち消した。公安としても、その危険は承知しているはずだ。すでになしかしらの手を打っている。ヘタをすると、容疑者としてあがった青柳以外にも消された人間がいるのかもしれない。
では、この事件の真相をつきとめる方法は、もう残っていないのだろうか?
「……いや」
黒神藤吾が関わっていた事件を、たまたま久我が選んだとは思えない。
むしろ、わざと選んだ。
だとすれば、必ず突破口がある。
もしなかったのだとしても、強引にでもあの男がつくりだしているはずだ。
もしくは、これからつくりだそうとしているのか……。
「それが狙撃事件か……」
翔子の言うとおり、三件の事件は、すべてその線でつながっているのかもしれない……。
いろいろな思考が混在するなか、長山は財団本部の自分の席で、いつくるかわからない電話を待っていた。
黒神藤吾。
久我猛。
この二人は、はたしてどのような間柄なのだろう?
報道されているように、遺産相続の関係だけなのだろうか……。
黒神グループからの取り引きを断られたことで、久我の両親が経営する工場は多額の借金を背負った。
両親と妹が心中してしまった直接的な原因は、足立区行方不明事件につながった詐欺に引っかかったからだ。だが、そのおおもとをだどれば、黒神藤吾にいきつく……。
「復讐?」
長山は、ふと考えた。
これは、久我による復讐ではないかと。
黒神藤吾への?
しかし、すでに黒神藤吾はいない。だからこそ、自身が莫大な遺産を相続できたのだ。
いまさら恨みを晴らそうとするだろうか?
「……」
さらに、不吉な想像が脳内をかけめぐった。
あの久我という男が、復讐相手である人間をむざむざ逃すだろうか……。
遺産をうけとるまでは、ただの貧乏な若者であったことはわかっている。だがそれでも、久我は何年もかけて詐欺集団を罠にかけていた。両親を騙し、杉村遥の父親を殺害した詐欺の主犯は、いまでは拘置所にいる。裁判が終われば、刑務所での長期刑がまっているだろう。
では、黒神藤吾には?
なんの復讐もせず、彼はつらい日々を過ごしていたのだろうか?
「……」
もし、復讐していたとすれば……。
長山は立ち上がった。
あることを、どうしても確認しておかなければならない。
黒神藤吾の死因だ。
警察は動いていないから、すくなくとも表向きは事件性がない。つまりそれは、警察にその関連資料はないということでもある。
もし黒神藤吾の死に、きな臭いものがあったのだとしたら、マスコミに噂が流れているかもしれない。
いや、ダメだ。
翔子や梶谷に話を聞くのは簡単だが、そうすれば彼女から久我に伝わってしまうかもしれない……。
ちがう。そんなことを心配しているのではない……。
本当は、竹宮翔子にこの考えを知ってほしくないのだ。彼女は、久我に特別な感情をもっている。恋愛感情ではない。そういうものではなく、もっと大きなもの……。
それは、たんに長山の思い過ごしかもしれない。久我が、彼女のことを妹と重ね合わせていると知っているから、彼女のほうでも、そういう感情が芽生えていると錯覚しているだけかもしれない……。
錯覚であったとしても、天真爛漫で無垢な彼女に、久我の黒い部分を見せたくはなかった。
翔子や梶谷に頼れないのであれば、自分で調べるしかない。そういう噂や都市伝説のたぐいは、インターネットを駆使するのが簡単だろう。しかし長山は──もっといえば、長山の年代は、デジタルには弱いものだ。
助っ人を頼みたいところだが、調べることがことだけに、同じ警官というのも気が引ける。
ふと、眼の合った人物がいた。
「杉村さん」
「はい?」
能力的にも、信用度でも、これ以上の人選はないだろう。
「お願いしたいことがあります」
「は、はあ……」
彼女を人けのないところまで誘導した。
「できれば、これから時間をつくってもらいたいんです。ですが、私のほうから代表や中西さんに伝えたくはない……」
「わたしのほうから、抜け出す許可をもらってほしいということですね?」
さすがに、察しがはやい。
「お願いできますか?」
彼女にとっては、職場を放棄するという意味になる。
杉村遥が、携帯を取り出した。
「もしもし、中西さんですか? 申し訳ありませんけど、ちょっと具合が悪いので、早退させていただけないでしょうか? はい、はい……お気遣いありがとうございます」
そう言って、通話を終えた。
「これでいいですか?」
「ありがとうございます」
長山は、彼女を外へ連れ出した。とはいえ、どこが適切だろうか。警視庁本部に帰れば個人用のパソコンはあるが、部外者を入れるとなると、許可をとる手続きが面倒だ。それに、このことは警察にも秘密にしておきたい。
とりあえず、いつもの公園に足を運んでいた。まずは、説明をしておくべきだろう。
「協力してもらいたいことは──」
頭の良い女性なので、あえて包み隠さず伝えた。
財団に雇用されているのだから、久我と黒神藤吾にまつわる話は知っているだろう。
「黒神藤吾という人の死について……調べたいんですね?」
「そうです」
「その方は……代表の」
長山は、うなずいた。
「病死ではないと考えているのですか?」
彼女はそう言ったが、おおやけに死因はあきらかになっていないはずだ。しかし高齢だったので、みなが勝手にそう思い込んでいるのだ。
いや、長山のほうが思い込みかもしれない。だからそれを調べたいのだ。
「……わかりました」
その考えを熱心に伝えると、遥は理解してくれた。
「ただ、内容が内容なので、財団のなかは避けたい」
「そうですね……警察も避けたほうがいいんですよね?」
さすが、そのことも考慮してくれている。それができるのなら、そもそも同僚の警察官に手伝ってもらえばいいことだ。
「わたしの部屋は、どうですか?」
少し戸惑ってしまう申し出だったが、それに甘えることにした。ほかの場所を用意するのも手間と時間がかかるし、長山の自宅はここから遠くて、しかも家にパソコンはない。携帯でも同様のことができるのは承知しているが、あまり効率的ではないだろう。
「いいんですか?」
「はい。散らかっていますけど」
彼女のような女性のそのセリフは、あてにはならない。本当は、いつでもきれいに整頓されているはずだ。
そのまま、遥の部屋に向かった。
彼女の荷物は財団本部に置きっぱなしということになるが、いまはもどってもらいたくはないので、長山としてもありがたかった。
遥の住所を、長山は知っていた。実際にたずねることはなかったが、前回の事件で遥が関係しているとわかった段階で把握していたのだ。
タクシーを呼んで、わざと回り道をした。公安が関与してくるかもしれないので、念には念を入れたのだ。本来なら十分もかからない道のりを、三十分ぐらいかけた。
遥が住んでいるのは、だいぶ築年数の経った建物だった。名称こそ『マンション』とついているが、十人中九人はアパートだと思うだろう。
オペレーターとして雇われている女性たちはみな高学歴で、そうとはかぎらないが実家の資産も多い印象が強い。ただし遥の生い立ちを知っているいまとなっては、無駄なところにお金は使わないだろうことは理解できる。
「どうぞ」
室内は、想像どおりきれいだった。アパートの外観から対比すると、それが一層際立っている。
本来なら机の上に置かれていたノートパソコンを、テーブルに移動して画面を開いた。
「とにかく、検索してみますね」
長山にとっては不得意な分野だから、遥にまかせるほかない。
「黒神藤吾という人の死亡についてですよね?」
「はい」
一分ほどが経過した。
「……とくにかわったものはないですね。死亡したことで、久我代表に多額の遺産が入った……そのような話ばかりです。広く知れ渡っている内容ばかりのようです」
「もう少し調べてもらえませんか?」
「わかりました」
十分ほどが経過した。
「どうですか?」
「とくには……。もう少しやってみます」
三十分が経過した。
「だいぶ深くまで検索してますけど……もう少し」
一時間。
「これ、どうですか?」
彼女が示した文面を読み込もうとしたが、とてもではないが裸眼では見えない。老眼鏡をかけて、確認した。
黒神藤吾は、黒い噂が絶えない。これまでに多くの人間を不幸にし、肥え太ってきた──そのようなことが書いてある。
しかし、大富豪にそういう「いわく」はつきものだ。
「……長山さん」
遥のつぶやきには、驚きがふくまれていた。
「これ」
またべつの情報をみつけたようだ。
──黒神藤吾は、毒殺された。
「こんな話は、はじめて聞きます」
彼女の発言に、長山もうなずいた。
問題は、どこまで信憑性のある噂なのか。
どうやら大手掲示板のスレッドらしく、陰謀論がテーマになっているようだ。雑多な話が、脈絡なく続いている。ほとんどのものが、たんなる都市伝説や、あきらかにデマとわかる話ばかりだった。
遥が画面をスクロールさせていく。
「金持ち殺したの、パラコートだろ」
彼女が、ある書き込みを読み上げた。
パラコート。
これは、なんの符号だ?
多摩毒殺事件と同じ……。
「長山さん?」
考え込んでしまったからか、遥に呼びかけられた。
「その発言者は、ほかになにか書いていますか?」
ハンドルネームは「名無し」となっている。見たところ、ほとんどの書き込みが、同様の名前だ。これでは、だれがだれの発言だかわからないのではないか。
「IDを見れば、特定できます」
なるほど。ハンドルネームのあとに、それが記されている。こういうことをしたことのない長山にとっては、謎が解けた。
「ありました。これです」
「港区の社長が、薬品なくしたって──」
長山は、読み上げながら、呆然とした自分を意識した。
「これらの書き込みされた日付とか、わかりますか?」
「それも、ここに書いてあります」
本当だった。「名無し」やIDと同じ個所に投稿された日付と時間も記されていた。
「これが、三年前。パラコートのほうも三年前……ですね」
「毒殺を疑ったのは?」
「あ、これも三年前ですね」
同じ時期に書き込まれたものだ。それ自体は、さして不思議なことではない。最初に書き込んだ人物に呼応するかたちで、べつの人間が発言しただけだ。
しかし、どこかに作為的なものを感じる。
三年前というと、黒神藤吾が亡くなってから時間が経っているはずだ。すでに久我へ遺産を相続(遺贈)していた……。
まだ財団を設立するまえだが、準備ははじめていただろう。そんなときに、こんな噂話が出るだろうか?
もしかしたら、久我がCC財団をつくろうとしているという記事を見て、思い出したように書き込んだものかもしれない。遺産を受け継いだ直後から、マスコミは久我を取材している。
しかし、翔子の出版社が独占密着を許されるまで、あまり積極的に応じているわけではないので、当初はうさん臭い話題しかあがってこなかった。
それこそ、本当は黒神藤吾の隠し子だとか、じつは遺産をもらうのは国会議員のだれかとか……。
「どうしましか? まだ調べますか?」
「……」
唐突すぎる。やはり、この話題が出るには旬が過ぎているはずだ。
しかも、港区の社長が薬品をなくした──これは『港区会社経営者変死事件』に関係していることだ。
なにかの布石?
「長山さん?」
「……ありがとうございました」
「もういいんですか?」
「はい」
「なにかわかったようですね」
「いいえ……まったくわかりません」
長山は、素直に答えた。
「ですが……わからなくていいのかもしれない」
「は、はあ……」
遥は、困った顔になった。それもそうだ。ここまで調べさせておいて、その結論なのだから。
「深みにはまるなってことですよ」
ますます遥は、困惑したようだった。




