15
15.木曜日午後?時
こんなことがあったような……。
つい最近……。
ぼんやりと考えていた。
ここは、どこ?
いまは、いつ?
「うー!」
耳障りな音が聞こえる。
「うー! うー!」
明るい場所にいる……。
そういえば、車に乗っていたような……。
なにかが見える。
天井?
ぼやけた視界が、はっきりとしてきた。
そうだ……わたしは、なにかをされた。
さっきは頭を殴られたけど……いまはちがう。
「薬を……」
なにかの液体を噴霧された。たぶん、クロロホルムのような催眠効果があるものを……。
「うー! うー!」
耳障りな音源を求めて、翔子は首を動かした。そこでようやく、身体の自由が奪われていることを理解した。
後ろ手に縛られて、足も同様に拘束されている。翔子は「く」の字になって床に転がっていた。
首の自由はなんとか残っていたから、雑音のしているほうを向いた。
「梶谷さん……」
同じように拘束されているが、寝転んでいるのではなく、体育座りをしているのは、まちがいなく梶谷だった。
翔子とはちがって猿轡をされているから、言葉はちゃんとしゃべれないようだ。柱のようなポールにくくりつけられているので、そこから動くこともできない。
「無事だったんですね……」
「うー」
翔子は、身体を起こそうと努力した。しかし、うまく動てくれない。まだ薬品の効力が消えていないのだ。
同じ日に何度もやられるなんて、わたしはなんて愚かなんだ──翔子は、頭のなかで反省を繰り返す。
少しでも冷静になろうと心を落ち着けて、この状況を分析した。
場所は、さっき襲われたトクマリースの一室……だと思う。だとしたら、もどってきたのだ。梶谷がいるということは、やはり監禁現場はここだった。
梶谷に目立つような外傷はなかった。拷問のようなものはうけていない。それでも許せることではないが……。
そのとき、扉が開いた。
入ってきた男は、二人。
そのうちの一人は、知っている。護衛の男だ。久我がつけてくれたといのは、真っ赤な嘘だろう。
もう一人は、見たこともない。
「ちょっと遊びすぎた」
その男が声を出した。
「本当だ。わざとここのヒントをあげるなんて、バカなことをしたな、高畑さん」
偽護衛が、それに応じる。
ここのヒント、というのは、あの送ってきた画像のことだろう。
「どこまでわかってるか、確かめる必要があるだろう? 西尾さん」
「リスクをおかしてまでとは……」
嘆くように、偽護衛はかぶりを大きく振った。
高畑、西尾……その名前には、おぼえがある。
「あ、あなたたちは……公安なんですよね?」
勇気をもって、翔子は問いかけた。
「それはどうかな」
謎かけのように、偽護衛が応じた。
「われわれの素性なんて、重要なことじゃない」
「久我さんに雇われたなんて、大嘘ですね」
「なにが嘘かなんて、受け取る人間によるだろう?」
こんな本題をぼかすような物言いが、彼らの種族特性なのだろう。
「西尾……西尾浩司、トクマリゾートの代表者ですよね?」
偽護衛に言った。
「それから、高畑……わたしに脅迫メールを送ってきた人」
もう一人の男にも。
高畑総合研究所という組織名をつかっていたが。
「まあ、なんというか……それとは別人だ」
偽護衛は否定した。
「とぼけるんですか!?」
「そうじゃない……わかりやすく言えば、コードネームのようものだ」
「え?」
「作戦につくときは、だいたい西尾と高畑なんだよ」
よくわからないが、むかしから公安は西尾浩司という人物名で活動をしていたらしい。
「わたしたちを……どうするつもりなんですか!?」
さらに勇気のいる質問だった。
「こんなことになるとは思わなかった。もっと簡単にいくはずだったんだ」
偽護衛は、淡々と発言していた。
「でもね、まさかあの事件をだしてくるなんて」
あの事件?
「あれで、上がビビっちまった」
きっと、警視総監狙撃のことだ。公安にとっては、触れられたくない恥部のはず。
「捜査に失敗したぐらい、なによ! それよりも、わたしたちを殺したら、もっと大問題になるんじゃないですか?」
挑戦的に翔子は声をあげた。どうせ始末されると覚悟したら、恐怖はなくなった。
「失敗? ふーん、マスコミは単純でいいねぇ」
バカにするような口調が癪にさわった。
「事件を迷宮入りにしたじゃない!」
「気の強いお嬢さんだ。それに免じて、一つ教えてあげよう」
偽護衛──西尾だけではなく、もう一人──高畑のほうも笑みを浮かべていた。人に屈辱をあたえるときの笑顔だった。
「われわれに失敗はない。まあ、おれたちが当時の捜査にかかわってるわけじゃないのだがな」
男たちの見た目は、どう見ても三十代。狙撃事件のときは、警察官ですらなかっただろう。
「失敗じゃない? 犯人を捕まえられなかったのに?」
どこか侮蔑な感情がまじってしまったことを翔子は自覚した。
「だから、失敗じゃないんだよ」
どういうことだ?
わざと失敗した?
「まさか……」
「ようやくわかったか」
迷宮入りにしてしまったのではなく、わざと犯人をわからなくした……。
「ど、どうしてそんなことを……」
「そこまでは、わからないよ。なんせ、上の世代の話なんだから。まあ、噂ぐらいは耳にしているがね」
翔子は言葉を挟まずに、眼光だけでさきをうながした。
「宗教がらみだそうだよ」
「宗教?」
犯行を疑われていた宗教団体のことだろうか?
だが、かつてテロ事件をおこした教団を、公安が守ろうとするだろうか?
公安が守るということは、イコール、国家が守ろうとすることだ。どうも、しっくりこない。
「その当時、もう一つ世間を騒がせた教団があるんだよ。記者なら、話ぐらい聞いたことがあるだろう? 教祖が韓国人の」
ウー、ウー、と梶谷のうめきが大きくなった。
「そっちの先輩は、よく知ってるようだぞ」
西尾がそう言うと、高畑が梶谷に近づいて口の猿轡をとった。
「梶谷さん……」
「おまえも、名前ぐらい聞いたことがあるだろう?」
梶谷は、ある宗教団体の名称を口にした。
「そ、それなら聞いたことがあります。壺とか数珠とか、高価なものを売りつけてたんですよね?」
高額なお布施で破産し、離散した家庭もあったという。
「そうだ。いまでは名称を変更しているようだが」
「じゃ、じゃあ……狙撃事件の犯人は、その団体なんですか?」
西尾が、せせら笑った。
「それはない。その団体は、あのテロ教団とはちがう。まあ、詐欺集団だとは思うがね」
では事件と、どう関りがあるというのだ。
「じつはね、色のついた議員がいるんだよ」
「その宗教団体と?」
「そうだな……信者と呼べるようなレベルまで染まっているやつもいる」
翔子には、やはりしっくりこなかった。
政治と宗教の問題は、日本では皆無だと思っていた。一部の政党と宗教団体が密接な関係をもっていることは有名だが、その政党だけが特別で、ほかはそれこそ政教分離が徹底されているものだと……。
「人数を聞いたら、腰を抜かすぞ」
「何人いるの?」
「そんな単位じゃない。百人は優に超えている」
ショッキングな内容だった。
「まあ、信者レベルは、ほんの数人だ。だが、選挙のボランティアでその教団は深く政治家たちに浸透している。当時だけの話じゃない。現在でも連綿と教団との関係は続いているのさ」
まだ翔子の頭は混乱したままだったが、西尾は独りよがりに話し続ける。
「だから、当時おこった以上のカルトバッシングは困るんだよ。テロ教団をつついて、詐欺教団まで叩かれたくはなかったんだ」
「そ、そんなことのために……捜査をしなかったというの!?」
怒りしかわかない。
「そんなこと? なによりも国益が優先なんだ。われわれ──諸先輩方にとっては、国の安定がなによりもの責務なのだ」
「ご高説、たいへんありがたいが、おまえらのやったことは、真犯人を野放しにしただけだ」
梶谷が、辛辣に吠えた。
「なんとでも言ってくれ。だが、ここまで話したんだから、わかるよな?」
西尾の眼が、不気味に細められた。
どうやって逃げようか、瞬時に頭を回転させる。だが足を縛られているので、かなり厳しい。
「シナリオは、こうだ」
梶谷の背後から、高畑がロープを首に巻き付けた。
「別れ話のもつれから、女が男を絞殺。そして、自らも首を吊ってこの世を去る」
「や、やめなさい!」
「逆でもいいんだぞ。女の力で首を絞めるのは、リアリティに欠けるからな」
西尾の提案を待たずに、高畑がロープに力をこめる。
「ぐ、ぐうう!」
「やめて! やめて!」
とにかく叫んだ。
そのときだった。
ドン、という強い衝撃をともなって、西尾が吹き飛ばされていた。どうやら背後から、何者かがタックルをくらわせたようだ。
梶谷の首を絞めていた高畑も、驚きの声をあげる。
「なんだ!?」
その人物は、これまで見たこともないほどに怖い顔をして立っていた。
「久我さん!」
「ほう……代表のおでましか」
手を放して、高畑が身構えた。
「クソッ! 油断した……」
西尾も起き上がっていた。
公安二人によって、久我が前後を挟まれている。
「よくここがわかったな」
「……」
「だが一人で来たところで、おまえも死ぬだけだ。シナリオはこうだ。三角関係のもつれで、この記者と代表が殺し合った。そして、そのもみあいに巻き込まれて、女も死亡──こんなところだろう」
「滑稽なシナリオだ」
冷然と、久我が言った。
「そんなものだろう? 物語の結末なんて」
「私の武器は、莫大な財力だ」
「なるほど。われわれを買収しようというのか? おもしろいアイディアだが、その話にのれば、こっちの身が危なくなる」
「そんな意味ではない。金を持っている人間が、こんなところに、のこのこ一人でやって来るわけがないだろう?」
二人が、周囲を警戒した。
しかし、久我のほかに助っ人の姿はない。
「あのロートル刑事か? いや、それはない。あの刑事が警視庁に向かったことは報告をうけている」
「どうして、この場所がわかったと思う?」
「それは、われわれがヒントあたえたからだ」
「だが一度、この場所を離れようとしただろう? 車で出たが、しばらくしてもどってきた」
「……」
公安の二人が、おたがいを見合って久我の言葉を分析していた。
たしかに久我の言うとおりだ。また同じ場所にもどるとは、普通は考えないのではないだろうか?
いや、そんなことよりも……この場所を出たことを、どうして久我が知っているのだ?
「あの刑事ではない……それとも、秘書の男か?」
中西のことを言っている。
「ちがうな……秘書は、財団本部に残っているはずだ」
どうやら、こちら側の情報は筒抜けのようだ。
「はったりだな?」
高畑が、そう口にした直後、ふいに倒れた。
「え?」
あまりのことに、翔子は唖然とした。なにがおこったのかわからない。
「な、なんだ!?」
西尾にも理解がおよんでいない。
黒い影がよぎった。
西尾の背後に忍び寄っていたその影は、物音一つたてることなく、彼を羽交い絞めにしていた。
「だれだ!?」
首を向けようとするが、身体を密着されているので、顔を確認することはできそうになかった。
翔子の眼は、その人物の顔をとらえている。
長山でも中西でもない。
知らない顔だ。
いや……どこかで会ったことがある。
「あなたは……」
どうにか思い出そうと頭を回転させるが、まだ本調子にはもどっていないのか、答えまでたどりつけない。
久我が手足の拘束を解いてくれた。
「ありがとうございます!」
次いで、翔子が梶谷を自由にした。
「怪我はないですか?」
「おまえのほうこそ」
「わたしは大丈夫です」
そう応えておいてから、影のように現れた男性に眼をもどした。
よく見れば、制服のようなものを着ている。それで思い出した。
「あなたは……タクシーの?」
運転手としてここまで翔子を運び、そのまま監視していた。だから、またもどってきたことを久我は知ることができたのだ。
しかし……それだけではないような気がする。
「ほかにもどこかで……」
運転手に化けた男性は、無表情にたたずんでいる。愛想のかけらもなく、むしろ冷淡で敵意すらもっているのではないかと思えるほどだ。
その冷たい眼光に覚えがあった。
「……警備員?」
そうだ。事件発表会見の翌日、翔子のことを疑っていた警備員だ。
「あなたが?」
タクシー運転手に扮している男は、あくまでも無言だった。
「竹宮さんにとっては、よけいなお世話になると思って黙っていました。護衛していると悟られないように、お願いはしましたが」
かわりに久我が言った。
久我は、本当に翔子のために警備を雇っていたのだ。最初に会ったときの疑った態度は、彼なりの演技だったということだろうか。
「これで、形勢逆転だな」
言ったのは、梶谷だった。
本当の護衛──真護衛に身体の自由を奪われている偽護衛・西尾は、あきらめたように力の抜けた表情をしていた。それだけ真護衛の実力が本物なのだ。
「この人たちは、どうするんですか?」
彼らが公安の人間ならば、警察官を拘束し、昏倒させたことになる。
「とりあえず、ここにいてもらいましょう」
久我がそう言うと、音もなく真護衛が動いた。
まるで、ぬいぐるみをあつかうように西尾の身体が一回転して、床に倒れた。背中を強く打ったのか、苦悶の息がもれている。
さらに真護衛の右腕が仰向けになった西尾のみぞおちあたりに触れた。さして力もこもっていないはずなのに、西尾が白目をむいて意識をなくした。
「彼らの仲間が来るかもしれない。はやく出ましょう」
久我の言葉は、あくまでも軽やかで、いままでが生死のかかった場面であったということを忘れさせる。
「おい、荷物があったぞ」
ほかの部屋を見回りにいった梶谷がもどってきた。ノートパソコンの入った翔子の肩掛けバッグを持っていた。携帯も入っていたから、取り返せてよかった。
バッグを受け取り、携帯をチェックした。長山からの着信記録があった。時刻は夜九時を過ぎていた。どうやら、かなりの時間、眠らされていたようだ。
建物から出て、真護衛のタクシーに四人で乗り込むと、翔子は長山に折り返した。
『大丈夫でしたか?』
出た瞬間、長山はそう言った。ということは、ピンチにおちいっていたことを知っていたようだ。
翔子は、となりに座っている久我に顔を向けた。久我は、顔を横に振る。久我が伝えたわけではないようだ。
「わたしは大丈夫です。梶谷さんも、無事に保護しました」
保護という言葉に気分を害したのか、助手席にいた梶谷が身を乗り出すように振り返っていた。
『そうですか……よかった』
「心配おかけしました」
『いま近くに、久我さんはいますか?』
「はい、すぐとなりにいますけど」
『そうですか……』
声のトーンが変わった。どうやら、いなかったほうがよかったようだ。
「私のことは気にしないでください」
久我が言った。まだエンジンもかけられていないので、久我にも会話が聞こえているのだ。
『マスコミの方たちが、どの程度の情報をおもちかわからないのですが』
長山が語りだした。
『黒神藤吾のおこしたグループ企業のなかで、酒の酵母が関係している研究をいていたところを知りませんか?』
翔子の耳には初めてのことばかりで、内容を理解するのに数秒かかった。
「酵母ですか?」
「どうしたんだ?」
梶谷が興味深げに、また身を乗り出してきた。
「黒神藤吾のグループ企業で、酒の酵母に関係しているところはあるかって……」
そう口にしても、翔子にはピンときていなかった。
「それ、NS酵母のことじゃないか?」
「なんですか?」
「がん細胞の活性をおさえる夢のような酵母だってよ。一時期、話題になった。それを実用できれば、ノーベル賞もとれるだろうって話だ」
「聞こえましたか?」
翔子は、長山に言った。
『その酵母を黒神藤吾の会社が発見したんですか?』
長山の言葉を、そのまま梶谷に伝えた。
「そういうことになってますね……ですが、いろいろと、きな臭い話が出回った」
「どんなことですか?」
「どっかの研究者から奪ったものだとか、発見のために人体実験をしたとか……あくまで都市伝説のようなものですが」
「ですって」
『わかりました……ありがとうございます』
「いまのでいいんですか?」
『はい。参考になりました』
そこで、通話を終えた。
「久我さん?」
ふと久我の顔に眼がいったら、なぜだか彼は笑っていた。
「どうしたんですか?」
「いえ、なんでもありませんよ」
口許の笑みは消えなかったが、瞳は真剣なものに変わっていた。
彼がこういう顔をするときは、大きな事件が動き出すときだということを、翔子はこれまでに学習している。




