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14.木曜日午後7時
夜まで、なんの動きもなかった。
交代の時間は過ぎていたが、長山は、じっと自分の席に座り、静観していた。思慮にふけっていたわけでもない。考えすぎは、この件にかぎりマイナスにしかならない。
事件の裏にいる人間たちは、考えすぎることを狙っている。そうすることで深みにはめようとしているのだ。
待たせていた川辺に引継ぎをしたところで、携帯が鳴りだした。
「もしもし?」
コールセンターを出てから、応答した。番号は非通知だった。しかし、もうそろそろあの人物から連絡があるころだろうと考えていたから、ためらうことなく応答した。
「鈴木さんですね?」
『ええ』
警察庁警備局の警備企画課に所属しているという男だ。K文書というものを管理しているという。
「こうして連絡をしてきたということは、重要なことを教えてくれるということなんですか?」
携帯番号は教えていない。本当に鈴木が公安なのだとしたら、広い意味では同僚になるわけだから、番号を調べることは簡単だろう。が、わざわざかけてきたのなら、どうでもいい話をするわけがない。
『捜査は進んでいますか?』
「いえ」
『私のあつかうK文書については、どのような推理をおもちですか?』
「……Kの意味についてですよね?」
いまの長山のなかには、ある人物の名前が浮かんでいた。
公安にスポンサーがついているのだとしたら、久我猛という説が有力だ。ただし、久我の「K」ではない。久我が大富豪になってから、まだそれほど年数は経っていないからだ。わざわざ一つの部署をつくってまで文書として記録するほどではない。
その久我に、財力と権力を譲った男──。
黒神藤吾。
『どうやらあなたの頭のなかには、その人物が浮かんでいるようだ』
「どうでしょう……」
否定も肯定もしなかった。まだ鈴木の思惑がわかっていない。
『事態がね……急を要するようだ』
「……」
なにを語ろうというのか、黙って次の言葉を待った。
『暴走ですよ。まずい方向に進んでいる』
「なにが暴走しているんですか?」
『あなたになら、わかると思います』
「……これは、警告ですか?」
『ちがいます。あなたたちの小鳥が、あやうい空をさまよっている』
「小鳥?」
あなたたちの小鳥──そこから連想するものとは……。
鳥は飛ぶものだ。
飛ぶ小鳥。
翔子。
「小鳥は、どれほど危険なんですか?」
『いえ、そちらのほうは、心配はいりません』
鈴木の声は、落ち着いて答えた。
「あやういのに?」
『あやうい場所でも、籠のなかなら安全ですよ』
「?」
『しかし、今後のことは保障できません。できれば早急に事態を変えていただきたい』
「私にどうしろと?」
『あなたの進む方向は、まちがっていないでしょう。ですから、歩む速度をあげてください』
「……」
『いいですね?』
「その行き着く先には、なにが待っているんですか?」
だが、答えはなかった。
携帯をしまうと、長山は最上階をめざそうとした。
エレベーター前で、中西に会った。
「代表は、いますか?」
「いえ。いまは、はずしています」
「そうですか……」
「なにかありましたか?」
「あの、久我さんはどこへ?」
思うことがあって、深く質問した。
「私も、把握してないんですよ」
久我にかぎって、そんなことがあるだろうか?
すくなくとも、この中西には目的地を告げるはずだ。
「本当に、知らないんですか?」
「はい」
嘘を言っているようではない。それに、中西が嘘をついてまで久我の行き先を隠そうとするとも考えづらい。
こう言ってはなんだが、たとえ久我にうしろめたいことがあっても、久我はそれを隠さない。そして、中西も久我のそういうところをわきまえている。
つまり久我は、中西になにも言わずに出ていった。そんなことをするのは、なぜか?
あの久我でも余裕がない状況に直面したからだ。
「わかりました」
長山は、おとなしく中西のもとを離れた。
久我がどこにいるのかまではわからないが、長山の懸念が一つ消えたことにかわりはない。
自分のいまやるべきことを果たす……それが、鈴木の忠告に応えることになる。
K文書が黒神藤吾についてのものなら、一つの仮定をたてられる。一連の事件に公安が介入してくる理由にもなる……。
巨大な財力で日本を操っていた大富豪。
公安がマークしていても……逆に、公安がつかわれていたとしても不思議ではない。
では、黒神藤吾がどのようにからんでいるのか……。
「犯人」
自身のつぶやきに、長山は驚愕した。
そんなことがあるだろうか?
その場合、黒神藤吾が自分でおこなったわけではないだろう。
何者かに命令して、邪魔な人間を消した……。
ありうる。その想像に、震えた。
どういうことになる?
一連のことは、黒神藤吾にとって邪魔な人間を排除したということなのだ。その一連とは、多摩の毒殺であり、会社経営者変死事件であり──。
もしかしたら……警視総監狙撃も?
翔子の推理が当たっているのかもしれない……。
いや、さすがにそれは飛躍しすぎている。が、最初の出発点になるであろう多摩の毒殺は、充分にありえる。そして、その後の二件についても、関係性がどこかにあるはずだ。
ならば、黒神藤吾と各事件の関係を洗いなおすべきだ。
長山は、警視庁本部へ急いだ。資料をそろえるなら、そのほうがいい。ただし、公訴時効をむかえている毒殺事件と狙撃事件の資料については、廃棄されているおそれもある。まだデジタル化されるまえでもあるし、とくに毒殺事件から四十年も経っている。
事前に特命捜査対策室で資料をつくったのだが、簡単な概要しか書かれていなかった。被害者や最重要容疑者、毒が農薬のパラコートということ以外には、被害者にごく近い名前、酒蔵と関係の深い人物のことしかわかっていない。
当時のことを知っている捜査員は、だれもいない。事件発生の数年後に警察官になった長山ですら、もう定年間近なのだ。
本部の自分の席につくと、携帯を取り出した。ほかの同僚の姿はない。時刻は九時に近かった。
「もしもし……私は、警視庁特命捜査対策室の長山というものです。諸住さんのお宅でよろしいでしょうか?」
かしこまって通話相手に話しかけた。
諸住とは、若手時代にお世話になった大先輩だった。むこうが定年退職してからは、連絡をとったことはない。まだ携帯電話が普及するまえだから、固定番号しか知らなかった。
『はい、諸住ですが……』
女性の声だった。
『お義父さまですか?』
「はい」
『少々、お待ちください』
長山は、安堵のため息を吐き出した。まだ健在だったようだ。定年になったころから逆算すれば、諸住の年齢は九十歳に近い。
『もしもし?』
しわがれた声にかわった。
「自分は──」
あらためて名前と肩書を伝えた。
『長山君……申し訳ない。覚えておらんよ』
それはそうだろう。直属の部下だったわけではない。だが、何度か捜査でいっしょになった。そのときに、大切な教えをうけたのだ。
むこうにしたら、だれにでも言っていたことなのだろう。しかし長山にとっては、心の師のような存在だった。
『それに……特命なんとかなんてあったかなぁ?』
特命捜査対策室ができたのは、諸住がやめてからだいぶ経ってからのことだ。知らなくても不思議ではない。
「諸住さんは、多摩の毒殺事件を担当されたことがありましたよね?」
『酒蔵のやつか?』
「そうです」
まだ事態をつかめていない諸住をそのままに、長山は話を進めた。
認知症の心配もあったが、それについてはいまのとこ大丈夫なようだ。
『たしかに、捜査本部いたよ。ずっとじゃないと思うが……』
「捜査の過程で、黒神藤吾という名前を聞いた記憶はありませんか?」
『そんな名前の人物はいたかなぁ?』
「では、中西という名前は?」
『う~ん、申し訳ない』
こちらが一方的に電話をしているというのに、逆に申し訳ない気持ちにさせてしまって、心の底から謝罪したかった。
しかし、最後に念を押してみた。
「そうですか……そのほかに、いまだから言えるようなことはありませんか? 捜査で、なにか腑に落ちなったことはありませんか? どんな些細なことでもいいです」
『そうだなぁ……どんな名前なのか忘れちまったが、容疑者がいたよなあ』
「元従業員の男ですよね?」
『そうそう。そいつの取り調べに立ち会ったんだけど……ありゃ、堅気じゃねえな』
堅気ではない……それはつまり、
「マル暴だったということですか?」
『いやいや、そういうんじゃないんだよ……』
諸住は、表現に困っているようだった。
『とにかく、眼つきがちがったんだよ』
とても抽象的な物言いだった。
「殺人者の眼をしていたということですか?」
『ちがうんだよ……』
長山も的確な言葉で誘導することができない。
『そういえば、どうなったんだっけ、そのマル被は』
「すでに亡くなっています」
『そうだったか……』
認知症でないにしろ、高齢者の記憶には限界がある。ここで切り上げたほうがよさそうだった。
長山は厚く礼をのべてから、通話を終えた。
「……」
堅気ではない。
眼つきがちがう。
しかし、暴力団や犯人の眼をしていたということでもない……。
ほかに、どういうことが考えられる?
「まさか……」
長山の想像は、黒神藤吾の容疑を疑ったときと同列の衝撃があった。
犯罪者の側でないのなら、その犯罪者を追いつめる側の人間ということだ。
一般の警察官であるはずがない。公安であることは、ほぼまちがいないだろう。蔵元に公安が潜入していた。
問題は、それがなんのためなのか?
黒神藤吾が関係していたとすれば、黒神にとって邪魔な人間が蔵元にいた?
どうもしっくりこない。世紀の大富豪が、そんなことで人を動かすというイメージがわかない。
しかし、よく考えれば、黒神藤吾は政治家ではない。あくまでも財界人だ。もっと庶民的な呼び方をすれば、商売人だ。
そういう人種にとって、最も大切なことは自身の利益だ。では、あの蔵元は、黒神グループにとっての商売敵だったのか?
たしかに、黒神酒造というメーカーは存在する。
「……」
さすがに、そんなことではないだろう。それで従業員を皆殺しにするのであれば、ほかにも同じような事件が相次いでいるはずだ。黒神グループのたずさわる業種は、多種多様だ。それこそ、ゆりかごから墓場まで、鉛筆からロケットまでと幅広い。
しかし、必ずなにかがある……。
それを調べることは、天文学的な労力を要することになるだろう。
その答えを知っている人物に心当たりがある。
久我だ。
彼ならば、まちがいなくそれを知っている。知っているからこそ、この事件を選んだ。
とはいえ、簡単には教えてくれないだろう。遠回しなやりとりで時間を浪費することになってしまう。それに、いまは所在不在だ。すぐにでも答えが欲しいこの状況では、もう一人にあたるしかない。
だが、それはヘタをすると実行犯──もしくは、それに近い人物になるかもしれない。
黒神藤吾が主導した犯人だとすれば、中西もおそらくクロだ。
「……」
迷っている場合ではない。鈴木の忠告どおり、公安が暴走しているとしたら、本当に死者が出るかもしれない。
長山は、中西の携帯を呼び出した。財団にもどっている時間がもったいない。
『長山さんですか? どうされましたか?』
そうは口にしているものの、すでに用件を知っているような印象をおぼえた。
「いま知りたいことは、一つだけです」
『どのようなことでしょう』
「黒神藤吾と、被害にあった酒蔵の関係です」
『関係ですか……』
「ムダな駆け引きはやめましょう」
『先代もお酒の販売を手掛けておりました』
「そんなことではありません。もっと深いなにかがあるはずだ」
『……私は、科学や医学のような分野には精通しておりません』
「?」
科学?
「どういう意味ですか?」
あきらかに、わざと口を滑らせたのだ。
「お願いします、教えてください!」
『お酒をつくるときの酵母に、なにかがあったとか……』
「本当は、詳しいことを知っていますよね?」
『酵母は身体に良いと聞いたことがあります』
あくまでも、よく知らないふりをするようだ。
『この程度のことしか、私は承知しておりません』
これ以上、話すことはない──という拒絶だ。
しかし、いまの言葉にすべてのヒントが込められている。
通話を終えてから、考え込んだ。
科学と医学。酵母の話。
それらが関係している。単純に考えれば、被害のあった蔵元の所有する酵母が、なにかの医学的な発見につながっている……。
それを裏付けるためには、なにが必要だろう。当然、長山にはそのような専門知識はない。かといって、ほかに頼れるような人間も知らない。
たとえば、オペレーターのだれかなら、その分野に精通している者が一人ぐらいいるかもしれない。杉村遥に相談してみようか……。
そんな考えをめぐらせていたら、もっと適任な人物に思い当たった。翔子だ。いや、彼女自身ではない。だが、記者のネットワークならそういう方面を取材したことがある人間に突き当たるかもしれない。
しかし、いま現在、その肝心の女性は、消息不明だ。鈴木の話が本当なら、もうまもなくでもどってくるだろうが……。




