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12.木曜日午前9時
長山は自宅にはもどらずに、御徒町にあるカプセルホテルに泊まった。台東区の警察署に勤務していたころに、何回か利用したことがあった。
朝になると、警視庁に向かった。
捜査一課のオフィスに顔を出すと、桐野が在庁していた。一課のエースで、単独行動も多いから、こうして警視庁内で会うことはめずらしい。
「長山さん?」
長山は無言で、桐野を人けのない場所へ誘導した。
桐野も、すぐに意図を理解してくれた。公安がからんでいる以上、どこに眼と耳があるかわからない。
「ここなら、いいでしょう」
滅多に人が通らない廊下の曲がり角だった。監視カメラもここにはない。
「例の件は、調べてくれましたか?」
催促するようで気が引けたが、翔子の同僚である梶谷が行方不明になったとしたら、悠長なことはいっていられない。
「ええ。ですが……裏があるような警察官だとは思えません。公安部に在籍したこともないし、親しい人間にもいない」
それを聞くかぎり、川辺はシロだ。が、公安は、それすら超えてくるかもしれない。常識で量ってはいけない。
「弱みはありませんか?」
「それなんですが……」
桐野は一瞬、言いよどんだ。
「彼の母親が、難病にかかっているそうです。詳しい病名までは、まだ調べていませんが……」
その口調からは、桐野自身もそこをつけこまれた可能性を感じているようだ。
「なにか、おかしな動きがあったんですか?」
「そこまではわかりません。ただ、同期の人間には治療費にかなりの額がかかるとボヤいていたと」
「金の問題ですか……」
微妙なところだ。たとえば過去に不正をおこなっていたとして、それをネタに協力を強制されるようなことはあるだろう。
が、金に困っている相手にポンと大金をあたえるようなことは、さすがに考えづらい。公安とて、所詮は公務員だ。そこまでの予算はないだろう。
「機密費のようなものを出してまで、隠蔽したいことがあるのかどうか……」
桐野も同じ疑問に行き着いている。
「もしくは……金のなる木が関係しているとか」
長山は、なにげなくそう口にした。
時間が経つにつれ、それが重要なことであると実感していった。
「たとえば?」
「政治家、財界人……まあ、そういうのは権力者と相場がきまっているでしょう」
公安を動かすのだから、政治家とみてまちがいないのかもしれない。経済人では、官僚を動かすことはできない。
財力のある政治家。与党の大物……。
「どうしました?」
考えがまとまらない。それを桐野に見透かされた。
「いえ……奇妙だな、と」
「なにが奇妙なんですか?」
「そういう権力者では、イメージがわきません」
「よくある構図ではないですか?」
現実世界では、それほど多いというわけではない。逆にフィクションではありふれている。桐野がどちらを連想して口にしたものかわからないが、政治家が公安を暗躍させて私利私欲にはしっているということじたいを否定するわけではない。
「今回のなにに一番敏感になっているのか不明ですが、毒殺事件にしろ、変死事件にしろ、既存の権力者が血眼になって妨害するようには思えないんです」
ここでいう「既存」とは、それこそドラマにで出てくるような典型的な権力者のことだ。
「長山さんがそう考えるのなら、それが正解かもしれませんね」
桐野に言われて、急に恥ずかしくなった。自分はそれほど優秀な警察官ではない。それこそ最前線で活躍する桐野ほうが、何倍も優秀だ。
「なにか思い当たっていることがありますよね?」
そのとおりだった。頭に、ふと浮かんできた人物がいた。
「私のすぐ近くに、途方もない財力と権力を受け継いだ人間がいます」
「まさか……」
「そのまさかです」
久我猛。
「財団の代表ですよね? その人物自らが、公安のスポンサーになってるということですか?」
「そこまではわかりません……」
「もしそうだとしたら、財団と公安はグルということになる」
たしかに、破綻している想像だ。
だが、久我はこの件に必ず噛んでいる……そういう予感があった。
「……でも案外、真相なんてもっと単純なものかもしれない」
桐野が言った。
「ええ。そうかもしれません」
礼を言って、長山は警視庁をあとにした。特命捜査対策室に寄ることもしなかった。
「……」
財団へ向かいながら、長山は翔子のことを考えていた。
今回の件でも、彼女は久我の関与を疑っている。前回の懸念も、じつはまちがいではない。彼女はまだそのことに気がついていないようだが、『足立区会社員行方不明事件』で久我は犯罪行為をおこなっている。埋められていた杉村遥の父親の遺体を、べつの場所に移動している。
はたして、今回の事件にもなにかしらの関与があるのだろうか?
翔子のそういう勘は、あなどれないものがある。
「長山さん!」
コールセンターに入ってすぐ、川辺に声をかけられた。
「どうした?」
「電話があったばかりです」
「内容は?」
「それが……」
「どうした?」
川辺は言うことをためらっていた。
「全部です……」
「ん?」
「全部の事件についてです」
「どういうことだ?」
「とにかく、証言者の話をしますね」
ここにかかってきた電話は録音できないから、証言を聞いた人間の記憶に頼るしかない。
「毒殺事件も、変死事件も、銃撃事件も、根っこは同じだと……」
発言した川辺も混乱しているようだった。
「性別は?」
「男です。年齢は、若くはありませんでした」
楢崎謙信の名前を出した例の女性なのかと思ったが、ちがったようだ。
くしくも、翔子の予感と合致している。
「名乗ったか?」
「いいえ……」
「信憑性は?」
「……わかりません」
だが驚いているところをみると、まったくのデタラメとも思えないなにかがあったのだろう。
「ほかに、なにかを言ってたか?」
「あなたは責任者ではないな……と」
「それで?」
「正直に答えました。そうしたら、またかけると言って切られました」
この場合の責任者は久我のことではなく、自分のことだろうと長山は考えた。
「おまえは、どう思った?」
「え?」
「もう一度、よく考えてみろ。信じられそうか?」
「それは……」
信じられない、と言いたかったようだが、声は途中で霧散していた。
川辺にかけた疑いは、このさい置いておこう。いち警察官として、この男は電話の証言にデマではないなにかを感じとったのだ。彼のこれまでの経歴は、けっして華々しい刑事人生というわけではなかった。
むしろ目立たない、どこにでもいる警察官だ。それでも、警官としての勘をあなどるべきではない。
「ほかに気になったことはないか?」
「気になったこと……ですか?」
川辺は、思い出すように視線を天井へ向けた。
「あ」
なにかに思い当たった声だ。
「なんだ?」
「い、いえ……」
言うのをためらっている。
「はっきりしろ!」
叱咤するように長山は言った。
「……どこかで聞いたことがあるような声でした」
「どこで聞いた?」
「そ、それは……」
本当に思い出せないのか、それとも思い出すと不都合なことがあるからとぼけようとしているのか……。
「よく思い出すんだ。それが事件解決の糸口になるかもしれん」
自分たちはその役目にないことを無視して、長山はそう言った。
「……じ、じつは……」
「言いづらいのなら、場所を変えようか?」
人目のあるここではなく、だれもいない部屋にでも行ったほうがいいだろう。
廊下に出た。川辺は素直に従っていた。しかし、本部内には盗聴の心配があることを思い出して、外へ出ることにした。
いつもの公園に足を運んだ。午前も午後も、この公園には人がいない。長山とオペレーターの杉村遥しか利用していないのではないかと思えてしまう。
「ここならいいだろ?」
「……」
「言いづらいか? 公安に情報を流したな?」
「そ、そんなことは!」
「心当たりはあるだろう? 母親のことは知っている。それを餌にされたな?」
「……」
川辺はうなずいた。
「接触があったんだな?」
また首が縦に動いた。
「……で、でも、なにもしてません」
「そのことはいい」
長山は、電話の声について追求した。
「だれの声なんだ?」
「そのときの声に似ています……」
「公安ということだな?」
「……はい」
「名前は? いや、顔は見たのか?」
名前を名乗ったとしても、どうせ偽名だ。
「会ったわけじゃないんです。電話でしか話してません」
「……」
長山の胸中に、腑に落ちないものが広がった。
電話とはいえ接触した相手に、べつの人間をよそおって再び連絡をするだろうか。今日は少し遅刻しているから、本来なら長山が出たかもしれない電話だ。しかし、川辺の声を聞いた時点で切ればすむことだ。
どういう意図がある?
本当に公安だとすると、真実の情報提供ではないはずだ。撹乱だろうか?
いや、すでに公安がちょっかいを出していることをこちらは知っている。そして、そのことを公安も把握しているはずだ。撹乱にはならない。
「……」
「長山さん?」
無言になってしまったから、責めていると思ったのだろう。川辺は不安げな声を出した。
ある考えがよぎった。
「まさか……」
真実。
撹乱ではない。それが真相なのかもしれない。長山ではなく、川辺だから電話をかけた。
だとすると……電話の人物に心当たりがある。
「どうしたんですか?」
「いや……わかった。おまえのことを信じる。これからも協力を頼む」
「もちろんです。それが職務ですから」
川辺はもどっていった。長山は、一分ほど遅れて公園を出た。
こちらから、その人物にコンタクトをとる方法はない。むこうからの接触を待つしかない。
そのときには今度こそ、本人から真相を聞くことができるだろう。




