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プロローグ
あのとき、おたがいが嘘をついていた。
まだ貧乏暮らしでボロアパートに住んでいたとき、はじめて中西と出会った。
黒神藤吾の遺産の話をされた。黒神藤吾の名前を聞いても、猛は知らないふりをした。はじめて聞く名だと。
しかし、本当は知っていた。
黒神藤吾のことを──。
そして中西も、猛が嘘を言っていることに気づいていた。あえて、そのまま受け流したのだ。
おたがいが、黒神藤吾のことで嘘をついている。
それでも、二人の信頼関係が崩れることはない……永遠ではないかもしれないが。
1.月曜日午後2時
負傷により長期入院していた久我猛の復帰会見が、まもなくおこなわれようとしていた。
CC財団本部一階にある会見室は、すでに大勢の報道陣で席が埋められていた。竹宮翔子も、そのなかの一人だった。
密着取材をただ一社認められている。特別あつかいはまだ続いていて、最前列の特等席を用意してもらった。
週刊ポイントのくせに──そういう陰口も知っている。正直、二流誌……いや、三流週刊誌であるにもかかわらず優遇されているから、どうしても妬みの対象になってしまう。ひどいものでは、色仕掛けで密着をとったという誹謗も耳にしたことがあった。
いまこうして座っていても、優越感を抱く半面、居心地の悪さに身が縮こまりそうだった。
「お!」
場内がどよめいた。
が、まだ主役の登場ではなかった。
あらわれた二人は、すでに財団の取材をおこなっている者には、おなじみの人物だった。
警視庁特命捜査対策室の長山と、広報の楠本だ。長山はいかにもベテラン刑事という風貌で、翔子にとっても重要な人物だ。
一方、楠本はまだ若く、こういう会見のときにしかみかけることはないので、会話の経験もない。
少しの間を置き、ようやく久我が登場した。重傷で入院してから、おおやけの場にこうして姿をみせたのは、はじめてになる。翔子は個人的にお見舞いに行ったので、元気なのは知っていた。しかし世間的には死亡説も流れたほどだから、復帰まではまだかなりの時間が必要だろうと噂されていた。
フラッシュの嵐が、数十秒続いた。
「みなさん、このたびはたいへん心配をおかけしました」
第一声のあと、深々と頭をさげた。
そういう仕草一つ一つも、さまになっている。久我を権力者と考えてよいのか翔子にはわからなかったが、大金持ちなのはたしかなことだ。
その種の人間が頭をさげたとて、どこかに傲慢さが滲み出てしまうものだが、彼からは優雅さすら感じるほどだ。それでいて、高貴なものも失われていない。久我の生い立ちを知らなければ、本物のセレブだと信じてしまうだろう。
「では、あらためまして、会見をひらかせてもらいます」
久我が着席した。
なにを話すのだろうかと、報道陣の緊張感が増したような気がした。
「前回は、四件の未解決事件が解決にいたったわけですが──」
さらなるどよめきがおこった。
こうして大々的に会見をひらいたのだから予想はできたことだが、本当にあれを続けるのかは懐疑的な見方が大半だった。
懸賞金。
これまでの公的懸賞金制度とはちがい、上限金額を撤廃し、しかも犯人自らも受け取ることができる。
それで四件の未解決事件を終結させた。
ただし、それがもとで彼は負傷。一部のマスコミからも、金で犯人の自白を買うのか、と批判も多い。警察との軋轢も強くなってしまった。
翔子自身も調査に同行して実感したことは、金の力の強大さと、それに狂わされた人々の虚しさだった。
あれを、まだ続けようというのか……。
戸惑いもあり、しかし不謹慎だが、喜びのような感情もどこかにあった。
「今回は、この場において二つの未解決事件に懸賞金をかけることを発表させてもらいます」
それに対して、少ないのではと感想をもったのは、自分だけではないだろう──翔子は、思った。
前回が四件。初めてだったというこもあるのだろうが、もし継続するとしたら、第二弾はもっと多くの事件をあつかうのではないか、というのが率直な予想だった。
彼の資金が底をつきたわけではないはずだ。
湯水のように金を使っていることは知っていたが、そうであったとしても無くなることのないほどの天文学的な資金力があるのだ。
「まず一つ目の事件は──」
頭のなかが整理されていないままに、概要を語り出した。
「1983年におきました『多摩蔵元毒殺事件』」
「え?」
翔子は声に出してしまった。
1983年ということは、時効が撤廃されるまえの事件になる。ということは……。
「あ、あの!」
久我の発言の途中だったが、翔子は大声をあげた。
「どうしましたか? 週刊ポイントの竹宮翔子さん」
誌名と翔子の名前が出たことで、いつものように編集部では小躍りがはじまっているだろう。
「1983年ということは、すでに時効が成立してるんじゃないですか!?」
「そのとおりです」
あっさり認められたことで、次の言葉がみつからなかった。
「われわれCC財団の理念は未解決事件の決着になりますが、それは公訴時効の成立とは、なんら関係がありません」
翔子の瞳は、長山の苦い顔をとらえていた。
「で、ですが……時効になっているとういことは、公的懸賞金制度としてはどうなんでしょうか?」
あくまでもこの制度は、既存の懸賞金制度をもとにしている。犯人の検挙につながらないのなら、懸賞金をかける意味はない。
ただし公的といっても、お金は国からではなく、CC財団から捻出される。いわば、久我の財産だ。いまの言動は、そういう曖昧な部分をはっきりさせるべき内容につながる。
「たしかに、その懸念は仕方のないことでしょう。では私からではなく、警察としての見解をお聞きしましょう。長山さん、お願いします」
緩慢な動作で、長山がマイクを手にした。
「ええー、いまの件についてですが……警察としては、問題ないと考えています」
それは、警察組織の決定として言わされているのか、それとも長山の個人的な意見とも一致しているものなのか……。
「たとえ時効が成立しているとしても、その解決で救わる遺族がいるのでしたら、警察としても協力していく所存であります」
「犯人が名乗り出ても、その犯人は逮捕されることはないのですよね?」
翔子の質問相手が、長山に移った。
「はい。逮捕はできません。ですが、なんの調べもしないということでもありません。過去にも時効になってから犯人が出頭してきたケースはありますが、聴取をし、最低限の裏付け捜査はしています。今回、犯人が名乗り出た場合は、通常の事件と同レベルの捜査をおこないます」
それは建前で、一般の警察官が捜査にあたるのではないだろう。前回のように長山を中心とした少数が動くことになるのだ。翔子には、それがわかった。自身も、半分はそっち側の人間だからだ。
「逮捕がないのなら、犯人が自ら名乗り出る率が高いと思われますが、懸賞金の額がどれほど──」
その発言は、久我の笑顔で制されてしまった。
「それは、これから発表させていただきます」
金額発表は、世間が注目する大切なイベントだ。センセーショナルに伝えたからこそ、前回、この制度が周知されたのだ。
それは久我のタイミングで──主役の明確な言葉で宣言されなければならない。
翔子は、出しゃばりすぎたことを反省した。
「ですが、そのまえに、もう一つの事件を発表させてもらいます」
久我の独壇場にもどった。
「2010年に発生した『港区会社経営者変死事件』」
翔子は、首をかしげた。事件名だけでは、どんな事件だったのか思い出せない。自分が若いからだと考慮してみたが、周囲の報道陣も同じような反応だった。
「では、金額を発表させてもらいます」
結局、その事件の概要は説明されなかった。翔子をはじめ、ほかの記者からも質問はできなかった。みな、自身の無知を悟られたくないのだ。
「蔵元毒殺人は、五億」
いっせいにフラッシュがたかれた。
それがやむと、落胆に近い空気が会場を支配した。
これまでの最高金額が二十億だったから、どうしてもそれと対比してしまう。しかし、すでに時効をむかえている事件なので、それでも犯人自らが名乗り出るくるだろう。死刑が濃厚な事件ですら名乗り出たのだから。
「港区の事件の金額は、十億です」
やはり、発表とともにフラッシュの嵐が。
それがやむのを待ってから、久我はあらためて続けた。
「それでは、懸賞金の受け取りについて、ここでもう一度、整理させてもらいます」
ここに集まった人間は、みなこのルールをよく把握している。だが、報道を眼にしているなかには、まったく知らない人々も多いだろう。そのための配慮なのだ。
「懸賞金は、基本的にだれでも受け取れます。ただし本来のルールでは、警察関係者、犯人、もしくは共犯者、さらに情報を得るために犯罪行為におよんだ者は対象外になります。ですが、この制度においては、犯人・共犯者でも受け取れます」
それこそが、この制度を一躍有名にした肝となる。
「とくに時効の成立している毒殺事件のほうは、刑事罰を受けることはありません。そして前回でも適用されていた、遺族による民事裁判の訴えもありません」
多額の懸賞金をもらっても、訴えられて損害賠償に消えたら意味がない。それを防止すための制度だ。事前に財団が遺族から了承を得ている事件しか懸賞金の対象にはならないのだ。ただし、この事件は民事で訴えることのできる時効も過ぎているだろうが。
「犯人に大金がわたることに、不平不満があることはわかっています。ですが、それよりも未解決事件を解明することこそが、より重要だと考えています」
その言葉で、シン、と場内が静まった。前回のときにも同じような発言をしているが、久我のカリスマ性が聞く者の心をとらえてしまうのだ。
ある種の魔力だ。
またあのマネーゲームがはじまる……。
翔子は、新たなるスタートに胸を躍らせる自分と、金で信念と道徳心を捻じ曲げる姿を見たくないと思う自分がいることに気づいている。
金は、悪辣な者に流れるのだ。