プロローグ サクラ散るとき
「雅司さま……ですよね?」
夕日に橙色に染まった庭に少女の声が響いた。
声は庭の片隅の木の下にうずくまる人影にかけられたものだった。
人影は声に応えるようにゆっくりに立ち上がる。四方を山に囲まれた集落の夕闇の足は早い。先程まで鮮やかな色をしていた夕日は紫色を足早に通りすぎ既に宵闇色に変じていた。全身が灰色一色に塗りつぶされ、誰と判別することは難しかったが背格好から男であることはかろうじて判別できる。
男は無言のままだった。
「雅司さまですよね?」
少女は一抹の不安を感じながらもそこに居るべき人の名をもう一度呼んだ。
「そうです。雅司です。櫻さん」
聞き覚えのある声に櫻は安堵したように胸を手に当てほっとため息をついた。そして、車椅子を雅司の方へ動かそうとした。しかし、車輪は小石に阻まれ、少しも前に進まない。雅司は慌てて櫻の背後に回り、取手を握るとぐるりと車椅子を回転させた。
「あんなところで何をされていたのですか?」と問う櫻に雅司は黙ったまま車椅子を母屋へと進めていった。キィキィと軋む車椅子の車輪の音だけが微かに庭に響いていた。
雅司の手に櫻の小さく柔らかな手が重ねられた。思わず視線を落とすと櫻と目があった。
雅司を見上げる櫻の瞳は少し潤み、唇はなにかを我慢するように真一文字に引き結ばれていた。
歩みを止めると雅司は少し戸惑った。
二人の間に無言の時が流れる。ほんの一瞬の時間。しかし二人にとって無限に近い時が刻まれる。そして、困ったように雅司は顔を空に向けた。
「いや、大したことではありません。本当に大したことではないのです。
ただ、ほんの少しお別れすることになりそうなのです」
その言葉を聞いた櫻の瞳から涙が溢れだした。涙はとどめなく溢れ、頬を伝い地面にぽとぽとと落ちる。
櫻の吐息のような微かな嗚咽を聞きながら、雅司は見上げた顔を下ろすことができなかった。むせび泣く櫻の姿を見ることなど雅司にはできないことだった。けれども、見上げたままの雅司の頬に、盛りを過ぎたサクラの花が櫻の涙のかわりに容赦なく降り注いだ。
2022/04/30 初稿