黒豆入り抹茶ロールの愛
いつか、どこかで紡いだ物語。
そのご。
愛は求められることから始まる、という人と、愛は与えられることから始まる、という人がいる。
僕はどちらも正しいし、どちらも違うと思う。
「おやおや、また長くなりそうだね」
たとえば、愛は与えられることから始まる、という意見に絞ってみようか。
赤ちゃんは親に愛を与えられることで成長する。そしてその親もまた、親の親によって愛を与えられてきた。
では、もっと、ずっと以前に遡るとどうなるだろう。人間がまだ猿の祖先と同じだった時代、あるいはもっと昔の、微生物だった時代。生命の始まりの存在は、いったい誰に愛を与えられたんだろう。
神、と答える人がいるかもしれない。ではその神は誰に愛を与えられたんだろう。
そもそも、愛というものは、いつ、どうやって生まれたんだろう。
答えはきっと誰にもわからない。
「こっち一区切り着いたから、そろそろ君が持ってきてくれたケーキ食べよ。紅茶入れてくる」
僕はこう考えている。
最初は愛情なんてなくて、祖先たちは機械的にただセックスをして子孫を残して、という生活を繰り返していた。ある時、赤ちゃんは強い大人に保護してもらうために、可愛らしい笑顔をつくって、大人の気を引くことを覚えた。ついでに、自分勝手な大人に言うことを聞かせるために、うるさく泣くことも覚えた。そこに愛情はまだない。大人も、なんとなく子どもの笑顔が気になるし、あまり泣かれて周囲の動物に感付かれると危険だから、とりあえず赤ちゃんに構う。ここにもまだ愛情はない。
「あっ、零しちゃった。また入れ直さなきゃ……ん、まあ、絵の具まみれの状態で食べるのもアレかな……ちょっと手と顔洗って、着替えてくる」
しかし大人は、いろんな構い方をして、赤ちゃんがいろんな反応を返してくるのを見るうちに、どうすれば赤ちゃんが気持ちよさそうにするのか、泣き止むのか、その要領がわかってくる。いわば、複雑な道具の扱い方を覚えてくるようなものだ。赤ちゃんの方も、やっぱりいい扱いをされると気持ちよくなって、自分勝手だった大人を見直していく。
「えっと……あ、ごめん、もうちょっと待ってて」
そうこうしているうちに、両者に何らかの感情が芽生えてくる。ほら、使い慣れた道具とか、便利な機械って、思い入れがあるだろう。あれと似たようなものだ。最初は赤ちゃんに対して不器用で機械的だったけれど、だんだんと慣れていって、そう、愛情といえるものが形を成していくんだ。そして赤ちゃんも、その愛情の心地よさを知り、それを積極的に求めていくようになる。それが今の、誰もが持っていると錯覚されている、無償の愛、フォーエバー・ラブってやつの正体なんだ。
「お待たせ。紅茶持ってきたから、ケーキ食べよ。うん、半分こ。いつも油臭い部屋だけど、ごめんね。え、それがいいって……君もやっぱ変わってるね。あ、抹茶ロールだ。ケーキと言えばこれだよね。ところでフォーエバー・ラブは永遠の愛じゃなかったっけ」
つまり、愛は求められることからも、与えられることからも始まるんだ。
どちらが先かなんて意味のないことなんだ。
「この黒豆入り抹茶ロール、やっぱりいつ食べても美味しいね。黒豆がいい感じ。君も食べたら」
だけど、やっぱり完全というのはない。
中には、途中で愛情の形成に失敗したり、愛情でないものを愛情と勘違いしたグループもいる。その間違った状態が代々受け継がれている家系もたくさんある。今話題の児童虐待だってそうだ。子どもを虐待した親は、その多くが自分も虐待を受けた過去を持っている。そしてその親を虐待した親も、同じようにそのまた親に虐待されていた……ややこしいけど。愛の鞭だとかしつけだとか綺麗な言葉を使って、ちゃんとした愛情を与えられない自分をごまかし続けてきたわけだ。もちろん、虐待の全てがそういう仕組みだってわけじゃないんだけれど……。
「早く食べないと、紅茶が冷めちゃうよ。抹茶ロールも油の匂いが染み付いちゃうかもしれないし。え、いや、私が食べたいとか、そう思ってるわけじゃないよ。あ、お母さんの分はいらないよ。お父さんはともかく、あの人どうせ外でおいしいものいっぱい食べてるから」
そう、愛の話とはあまり関係ないかもしれないけれど、お母さんといえば、メラニー・クラインが面白いことを言っていたんだ。
「あ、紅茶おいしいかな。この前、絵の用事で出かけた時に変なお店見つけて、いい香りがしたから買ってみたんだ。よかったら葉っぱ半分あげる」
生まれたばかりの赤ちゃんにとって、お母さんというのはおっぱいでしかない。
おいしいミルクを与えてくれるいいおっぱいをたまたま持っていた物体でしかないんだ。
「私にとって君は、時々抹茶ロールを持ってきてくれて、昔からいろいろお世話もしてくれてる、同い年の便利な物体ってところかな」
だけど、ミルクだっていつも順調に出るわけじゃない。たまには出が悪いこともある。そういう時、赤ちゃんはそのおっぱいを悪いおっぱいと決め付け、自分に害をなす存在だと認識するんだ。そして悪いおっぱいを攻撃して、いいおっぱいを探そうとする。赤ちゃんはいいおっぱいと悪いおっぱいを持った物体が、実は同じ人物だということにしばらく気付かない。赤ちゃんは中学生も驚きの万能感を持っているからね。世界が明るく見えたり、暗く見えたりするのは、ひとえに自分が世界をそう見ているからだと思っている。自分の気分次第で世界を変えられるという意識すら持っているんだ。まあ、つまり、自分を神だと思い込んでるんだね。だから悪いおっぱいを退治することで、いいおっぱいが戻ってくると信じてるんだ。
「そういえば漫画とかでさ、よくおっぱいの大きいキャラクターがお色気担当とかで出てくるけど、あれってどこがいいのかな。何か気持ち悪いよ。おっぱいなんて大きかったら重くて不便なだけだと思うんだけど。男の人ってああいうのがいいのかな。え、うん、そう、そうだよね。やっぱり君もそう思うんだ。あれはないよね、うん」
ところが、やがて赤ちゃんはその万能感を打ち砕かれる。そりゃ、まあ、ミルクを飲まなきゃ死んでしまうし、そのおっぱいだって好きな時に飲めるわけじゃない。ミルクをくれといくら泣き叫んでもお母さんが来ないこともある。オムツだって替えてもらわなきゃいけないし、悪いことをしたら怒られる。それでだんだんと自分は一人じゃ何もできない、自分は神ではないという考えが出てくる。
「あ、そうそう、この前あっちの人にさ、小学生に間違えられちゃったよ。まあ、背低いし体重増えないし、顔も子どもみたいってよく言われるけど……うん、うちは若作りな家系だし仕方ないか。え、おっぱいは関係ないよ、たぶん。でもそれくらいに見られるってことは、電車とか映画館とか子ども料金で使えるってことだよね。そう考えるとお得だな」
やがて、お母さんという存在がいいおっぱいも悪いおっぱいも持っている同一人物で、自分の世話をしてくれる、自分よりも強い存在であると気付く。そして、そのお母さんの悪いおっぱいを攻撃していた自分に罪悪感を感じて落ち込んでしまう。それを乗り越えてやっと、お母さんへの愛情のもとみたいなのが徐々に芽生えていくんだ。
「え、ああ、うん。私もお母さんは嫌い。だって、お母さんは私じゃなくて、私の幻を見てるんだもん。うん、あのことは今でも許せないよ。偉そうな活動もしてさ。だいたい母性愛なんて、存在しないものをあると思い込む人ってどうかしてるよね。あんなの、偉い人が人々を都合よく動かすためにつくった概念だし、そんなのにしがみついてるなんて、嫌だ」
メラニー・クラインが説いたこのおっぱいの話は、批判も多いのだけれど、僕は結構好きだ。
人間に最初から愛情が存在するわけではない、って解釈もできるからだ。
「私はフロイトも好きだな。お父さんのほう。何か、人間臭いし。不器用なとことかも」
そうだ、フロイトで思い出した。
フロイトによると、同性愛や少年愛は、自己愛、つまりナルシシズムになるらしい。ほら、よく幼い女の子って、自分よりも幼い子の面倒を見たがるだろう。あれは、自分がお母さんの役割を演ずることで、面倒を見ている子に鏡のように自分を投影し、自分への愛情を間接的に補充しているということになるらしいんだ。
「ちょっとトイレ行ってくる。ん、違うよ、あれは昔のことだから、気にしないで。今はもう大丈夫。うん、おしっこ。あー、こういうあけすけなところが、子どもっぽいとか言われるんだろうなあ」
もしかしたらよくニュースで話題になる児童性愛も、同じようなメカニズムなのかもしれない。
強烈なナルシシズムへの願望が背景にあるのだろうか。ナルシシズムだって、ある程度は必要だ。自分への愛がなければ、人は生きていく上で自分を支えることができない。だからナルシシズムが欠乏していると、人はそれを無意識のうちに、どんな手を使ってでも満たそうとするんじゃないか……。
「ただいま。あ、君の抹茶ロールなくなってる。え、違うよ。狙ってないって」
同性愛で考えれば、攻めの人は同性の相手に自分を重ね、自分が親の役割をすることで、幼少期に十分に与えられなかった愛情を補充しているということになる。受けの人はまさに、攻められる自分を可愛がられる幼い頃の自分に置き換えて、快感を感じているんだ。もちろん、この説には反論もいろいろあるらしいんだけれど、僕はこれをとても面白い話だと思う。
「そういえば、愛って何なんだろ。私、愛っていうのが、いまいちよくわからないな。人を好きになるってのも、何だかいまいちな感じがする。だって、愛って言葉があまりにも広すぎるし、曖昧だし。え、君もそうなの。そっか、そうなんだ。私だけじゃなかったんだ。皆、愛ってのがわかって当然みたいな顔してるから、怖かった。君まで愛がどうのこうのとか言い出すし。え、愛が何なのかを確かめたかったって、それを私に訊かれたってわからないよ」
愛について長々と語ったけれど、僕たちは愛という言葉を、その中身をよく理解しないまま、あまりに軽々しく使い過ぎてはいないだろうか。
愛というのは、何かを慈しむことや、大切にすること、誰かを慕うこと、そして何かのために心が引きつけられてやまない状態を指す言葉だ。おまけに、全ての人間が持っているとされている。
しかし、セックスが愛と同義であるかのように扱われることもあれば、ガンジーやマザーテレサのような、自らを犠牲にしてまでも多くの人の幸福を願う尊さが愛と説かれることもある。可愛さ余って憎さ百倍、という言葉すら存在する。
憎しみが愛に含まれることもあるんだ。
「愛が憎しみに変わるのは一瞬だって言うよね。のめり込んでいたものほど、それを嫌いだと認めた後の拒絶感も大きいらしいし。まあ、わからないことはないけど、やっぱりややこしいね、愛って」
セックスをして子孫を残すことしかできなかったかつての生き物は今や、言葉を使い、道具を使い、科学に目覚め、愛という複雑で曖昧な概念を共有するまでに進化した。その末裔が僕たちだ。
でもその代償として、僕たちは第六感を失った上、愛なしではまともに生きられなくなってしまった。
愛される幸せを知ると同時に、愛を失った時の苦しみや恐怖感も知ったんだ。
そして今や、その愛という言葉の意味すら、曖昧になっている。
綺麗事にごまかされたものを、愛だと信じ込んでしまうこともある。
「本当の愛なんて、死んでからでないとわからないかもしれないよね。生きてる限り、人は永遠にひとりぼっちなんだし。ところで君は、いつまで私に会いに来るつもりなのかな。ん、とりあえず死ぬまでって……気の長い話だなあ」
そもそも、愛は何のために生まれてきたんだろう。
誰かと繋がって、より安全に、安心して生きるためだろうか。
いや、愛が破滅を呼ぶこともあるし、愛によって病的な心になってしまうこともあるから、違うだろうか。だとしたら、もっと高尚な目的のためだろうか。その高尚な目的がわからない。
そもそも、こういうことを考えることすら、無意味なのかもしれない。
でも僕たちは確かに、愛というものが何なのかを、心のどこかで知っているはずだ。
知っているけれど、わからないんだ。
「でも私、君のことは、この黒豆入り抹茶ロールと同じくらいには好きだよ。うん、愛してるよ。あ、ちょっと、好きとか愛してるって言われてどうして落ち込むの」
恋人でもないし、友達でもないし、相棒というよりは、道連れという感じ。
これがこの二人にとっての、ほどよい距離感なのかも。
でも、これからどうなるかはわからないよね。お互いに。
絵描きの彼女、家族にはあまり理解されない感じなのかな。
新しい物語のために、過去の小説を晒していこうのコーナー第五弾。
テーマは「愛」でした。恥ずかしい///
とある先生の授業がおもしろすぎて、こんな話になりました。
黒豆入り抹茶ロールは、おいしいお店があるんです。
お土産で持って行った親戚には「味が薄い」なんて言われたのだけれど。