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欠ける  作者: みてくら
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最終話

 翌日はひどい雨だった。別の日にしようかとも提案したが、沙希が「雨でもいい」というので、そのようにした。

 沙希は外出の準備に手間をかけた。

 こちらの準備が終わり、沙希の部屋をノックすると「待ってて」と返ってきた。それから十分ほどして、ようやく部屋に入った。沙希は半袖を着てジーンズを履いた姿で、寝巻きの散乱したベッドの上に、足を伸ばした状態で腰掛けていた。足の指先で、丸められた布を持ち上げていた。

 沙希は足を縦に小さく揺らしながら、「履かせて」といった。どうやら、靴下であるらしかった。

 受け取ってみると、五本指ソックスですらない、ごく普通の靴下だった。沙希にとってそういう靴下を履くことがどういう意味を持つか、考えるまでもなかった。


「その格好は?」

「外出用の服。もうずっと着てなかったけどね」

「靴下は?」

「履いちゃダメなの?」


 沙希は最近見せなくなった、あの厭らしい嘲笑を浮かべた。嫌で堪らなかったはずの表情を受けて、逃げ出したいと感じることはなかった。この瞬間に、蔑まれているという気分に陥らずに済んだのだ。

 沙希がどう思っているのかを確認する術などありはしないにも関わらず、俺は沙希の心に侮蔑の念がないと知っていた。それもまた、相手の心を一方的に決め付ける行いだった。他者を突き放すために浮かぶ微笑にさえ、俺は惹かれているのかもしれない。

 その人間のあらゆる行動に対して肯定的であるのならば、その時点で間違いなく好意を抱いている。もはや、揺らぎようのない事実だった。


 どう答えるべきは少し悩んだが、俺は返事をせず、沙希の前に片膝をついて、ゆっくりと靴下を履かせてやった。これによって沙希は自由を奪われ、俺は沙希の自由に対して責任を負う義務が生じる。恐ろしいと感じる反面、誇らしかった。

 恭しく両足に靴下を履かせてから立ち上がると、沙希は呆れたように首を振って笑った。


「机の上に手帳が置いてあるよ」


 障害者手帳だった。その手帳があれば、美術館が入館無料になるのだという。「お得でしょう」と沙希はいった。腕を失う代わりに得るものとしては、些か安すぎる気がした。ただ、沙希の無邪気に笑うさまは、純粋に喜ばしいという心持ちにさせてくれた。

 我ながら浅ましいものだと自嘲したくなったが、不思議と自己嫌悪はなかった。

 それから、散乱した衣服の上に置かれた、先にフックの付いた三〇センチほどの棒を拾うように沙希はいった。


「これは?」

「服を脱いだり着たりするのに使うの」


 沙希の履いているジーンズは、しっかりボタンが留められ、ファスナーも上げられていた。きっと、靴下も自分で履けたのだろう。それでも、敢えて任されたという事実が誇らしかった。沙希のバッグにフックやタオルなどを詰め込んで、それを肩からかけさせてやると、いよいよ準備が整った。


 布団の上に散乱した衣服を洗濯かごに投げ込んでから家を出た。叔母は「気をつけてね」といい、沙希は「行ってきます」と返した。紛れもなく、親子のやりとりだった。沙希はぎこちない微笑みを浮かべていた。それは、良いことなのだろう。


 玄関を出て傘を差すと、沙希は当然のようにその隣へとやってきた。

 寒空から降りしきる雨は、肩から熱を奪い去っていった。けれど、もう片方の側には確かな暖かさがあった。沙希を近く感じていたが、それを口に出すことは不謹慎であるような気がしてやめた。

 そんな考えを知ってか知らずか、交差点に差し掛かると、沙希は「腕が当たらないから、相合傘もしやすいね」といいながら、まるで猫がそうするように、俺の肩に体重を預けてみせた。俺は何も答えなかった。言うべき言葉が見つからないのではなく、何も言う必要はないと思った。

 信号が変わるまでの僅かな時間が、いやに心地よかった。人々の往来を打ち消すように叩きつける雨音が、時の流れを永久のものと錯覚させた。

 瞼を閉じて、次に開いたとき、信号は青になっていた。再び人の流れが行き交った。

 名残惜しさを感じて、一歩を踏み出すのが遅れた。沙希もまた、佇んでいた。俺が歩き出すのを待っているのかもしれなかった。人の流れに押し出されるようにして、交差点を渡った。駅に辿り着くまで、言葉はなかったが、温もりがあった。


 電車は空いていた。端の席に沙希が座り、その隣に俺が座った。周囲の人々は、そのほとんどがスマートフォンに目を向けたままだった。沙希が、或いは、俺が考えているよりも、人は人に対して無関心なのだ。

 沙希といるとき、俺はスマートフォンを見る気にはならなかった。しかし、自分から会話を切り出すこともなく、流れていく景色をただ眺めていた。ふと、再び肩に重さを感じた。

 目を閉じて、穏やかな表情をしているが、沙希は決して眠っているわけでないのだろう。目的の駅まで、俺も同じようにした。先ほど霧散した永遠を、取り戻したかった。

 眠りに落ちることもできず、いずれ終わるときを思い続けているうちに、電車は目的地へと着いていた。


 沙希が行くと希望したのは上野美術館だった。悪天候のせいもあり、上野公園に人影は疎らだった。

 雨に打たれて地に落ちた花びらを踏みしめながら、人通りのない大路を歩いた。青空であれば尚のこと栄えるであろう桜であったが、沙希はそれでも感心した風な声を上げて辺りを見回していた。雨雲に覆われた寒々しい日でなければ、穏やかに桜を眺める余裕など沙希にはないのかもしれない。

 人いきれの最中であればあるほど、沙希は他者からの目に対して敏感になる。実際にそういった目があるかどうかは別として、周囲への警戒心のようなものが染み付いてしまっているのだ。

 美術館が近づくにつれ、沙希の歩みが幾らか速まった。逸る心を隠そうともしていないらしかった。ほんの少し前を歩く沙希が振り返り、「絵に興味ある?」と聞いてきたので、「いいや」と答えた。沙希は悪戯っぽく笑ってから「私も」といって駆け出した。雨は未だに降りしきっていた。沙希を追って駆け出すと、足元の水溜りが大きく撥ねて、靴の中にまで冷たさが染み込んだ。雨に濡れながら桜並木の間を行く沙希の姿は儚く、そのままどこかへ消えてしまいそうな気がした。

 沙希は片足を軸にしながら、くるりと器用に一回転してみせた。一瞬の間ではあるが、沙希は確かに俺の目を見ると、一目散に美術館へと再び駆け出した。今度は振り返ることもなかった。俺から目を切った瞬間、沙希はきっと誰よりも自由だった。

 気付けば、俺は足を止めていた。そのまま沙希に追いつくことは容易かったが、しなかった。彼女に触れたいと思いながらも、そうすることで彼女の自由を奪い去ってしまうことが嫌だった。触れることで壊れてしまうのならば、いっそどこかへ消えてしまえばいいと感じた。

 怖かったのだろう。そのとき、俺は沙希をどうしたいのか、まるでわからなかった。


 沙希の姿が見えなくなってから、俺は緩慢な足取りで美術館へと向かった。沙希は美術館の正面玄関で俺を待っていた。前髪から滴る雨粒が鬱陶しかったようで、水を払う犬のように、しきりに首を振っていた。

 沙希のバッグからタオルを取り出して、頭を拭いてやった。その間中、沙希は両足で靴同士を擦り合わせるようにしていた。靴の中に入り込んだ水に、不快感を覚えているようだった。


「足も拭こうか?」

「いいよ。今日は使わない予定だし」


 沙希は足元を見やりながらいった。それっきり足元に目を向けることはなく、俺の目を見つめた。次の行動を促しているようだった。「入ろうか」というと、沙希は頷いた。

 受け付けに沙希の障害者手帳を見せると、二人分の入館料が免除された。受付を担当した若い男は、できるだけ顔を沙希に向けないように気を遣いつつも、その好奇を隠しきれぬ様子で、目線だけを小さくそちらへやっていた。沙希は居心地の悪そうな様子だった。


 客足は少なかった。沙希は絵に関する薀蓄を披露するようなこともなく、淡々とした足取りで進んだ。ただ絵を視界に収めるだけで、それに対して何かを考えているわけではない。そういう風に見えた。そもそも、沙希は芸術というものに興味を持っていないのだろうとさえ思った。

 徐々に足取りは速くなっていった。もはや、目に収めることも放棄して、ただ出口を目指しているようだった。人目を憚らず、小さく跳ねるように通路を駆けていく沙希は、随分と楽しげに見えた。絵を見ているわけでもなく、ただそこにいるだけで満足だとでもいう風だった。時折、こちらを振り向く以外、沙希は何も見ようとしなかった。

 そうして出口まで辿り着くと、はにかみながら「動物園に行こう」といった。頬は薄っすらと赤く染まっていた。


「美術館はもういいの?」

「言ったでしょう。絵に興味はないって」


 嘲るように苦笑で返すと、沙希は取り繕うように喚いた。その頬が更に色づくさまが、異様におかしかった。沙希はわざとらしく怒った振りをして、一人で歩き出すと、出口の手前で立ち止まってこちらを振り返った。

 後を追うようにして美術館を出ると、沙希は何を言うでもなく寄り添い、俺が傘を開くのを待った。


「滑って死んだりしない?」

「そのために君がいるんだから、しっかり見ててね」


 沙希が「雨の方がいい」といったのは、初めから動物園に行くつもりだったからなのかもしれない。傘を差すと、いかにも不機嫌そうな顔で沙希が横に立った。頬は未だに朱に染まったままだった。


 雨の影響を受けない美術館とは違って、雨の動物園は異様なほどに人足が少なかった。遠足で訪れているらしい子供の集団を幾つか見受ける以外に、歩いている人間は殆どいない。

 ちょうど、入場してすぐのところに居合わせた子供の集団が、沙希を指差して騒ぎ立てた。子供にとって、それは感情を口に出したに過ぎず、道行く人間の中にも同様の考えを抱いている者はいるし、なにより、自分も同じことを考えていた。責め立てる資格など、ありはしない。

 沙希はひどく悲しそうな顔をした。未成熟な子供の言葉に意味はないと知りながらも、無垢から生じる言葉であるが故に、ひどく傷つくのだ。

 一刻も早く、その場から離れたかった。子供を窘めるために教員の張り上げる声すらも、沙希を追い詰めるだけだった。

 背を押すと、沙希はそれに従って歩き始めた。足取りは重かった。ただ当てもなく、視界に入る子供たちを避けるように歩いていくと、小さなカフェを見つけた。


 少し早いが、昼食にしようと言うと、沙希はぎこちなく頷いた。

 雨の日ということもあって誰一人として付近にはいなかったが、できるだけ人目につきにくいテラス席の隅を選んだ。そのおかげか、沙希は少し落ち着いた様子だった。

 沙希を残したまま注文をしに行こうとすると、沙希は短い袖を小さく振った。

 そうして、ホットドッグとフライドポテトを持って席に戻ると、沙希は椅子にかけたまま不忍池を眺め、ぱたぱたと足を揺らしていた。やはり、どこにでもいる、他愛のない女のようだった。どこか虚しい反面、嬉しいと感じている自分がいた。手を伸ばせば届く存在なのだと、安堵の情が浮かんだ。

 初めに抱いていた好奇は、消え失せていた。もはや沙希は未知の存在でなく、一人の女として世界に存在していると認識するたびに、あの自己嫌悪が訪れる。

 沙希に対する感情が、醜く後ろめたいものである気がしてならなかった。


 不忍池をぼうっと見ていた沙希は、こちらを見て、「食べさせて」といった。俺が食事を口に運ぶと、沙希は照れくさそうに小さく笑った。そうやって二人で食事をしながら、訥々と会話をしていると、そういった自己嫌悪は、より肥大化していった。沙希の弱々しい笑顔が、そうさせているのかもしれなかった。

 子供の言葉など気にしていないという風に沙希が振舞っているのだとわかったが、そんなことを指摘する意味も見出せず、そうした一切を忘れてしまおうと、まるで益体もない話ばかりをした。

 どことなく憂いを帯びた表情をしていた沙希も、最後は吹っ切れたように、声を出して笑った。小さく、「ありがとう」といった。感謝される資格も、やはりないと思った。自身の中に渦巻く穢れを誤魔化すように、俺は何も答えず、手にしたホットドッグを沙希の前へと差し出した。

 沙希は最後の一口を、俺の指ごと口に含むと、テーブルの上に置かれた飲み物を僅かに一瞥した。飲むかと聞いてみたが、沙希は答えようともせず、口に含んだままの指を甘噛みした。もどかしい気分になって指を引き抜くと、沙希は未だに思案している様子だった。

 結局、沙希はほんの少しだけストローに口をつけたが、飲み物は全くといっていいほど減っていなかった。意図的に、水分の補給を避けているようだった。

 

「それじゃ、動物でも見ようか」


 食事を終えると、沙希はそう言って立ち上がった。園内をぶらついて動物を見るだけの当然ともいえる行為は、ほとんど外に出ることのない沙希にとって新鮮なものだった。人の目を避けるように、けれど、無邪気な子供のようにはしゃぎながら、沙希は園内を回った。心の底から、楽しんでいるらしかった。

 ただ、子供の集団に気付くと、沙希は苦々しい顔をして、小さなため息を吐いて、進路を変えた。

 そのたびに、脳裏の隅へと追いやっていた自己嫌悪が思い起こされた。

 子供の姿を捉えたくなかった。自分の愚かさがありありと浮き彫りになることが怖かったのだ。


 動物を見て、何が楽しいのかはわからなかった。しかし、動物を見てはしゃぐ沙希を見るのは心地よかった。恐怖と歓喜が混在していた。おそらく、それは沙希にとっても同じことだった。心の奥に抱えるものは違えど、その瞬間、確かに俺たちは逃亡者だった。

 ただ喜びを求めて彷徨い歩く。それは、逃避でしかない。

 雨は寒々しく、降り続けていた。片側に感じる温もりに安らぎを覚えるのは、逃避のための依存なのだろう。


「あった方がいい?」


 そんなことを考えているとき、沙希がいった。

 唐突に発せられた沙希の言葉が何を指しているのかわからなかったので、ただ「何が?」とだけ返した。沙希は僅かに逡巡して、木を登る猿を見ながら、短く「腕」といった。表情には何も浮かんでいなかった。

 どう返事をすべきか、わからなかった。或いは、正解などなかったのかもしれない。ただ逃げるように、「いいや」と答えた。

 短く「そっか」と言った沙希が、どういう表情をしているのか、確認できなかった。また、深い自己嫌悪が訪れた。沙希に近づきたいのか、逃れたいのか、まるで判別できなかった。

 傍にいたいと思うことが、途轍もなく理不尽な要求である気がした。

 きっと、沙希は俺のそういう感情まで理解している。


「腕があったら、組んであげられたのにね」


 理解した上で、沙希はそう冗談めかして、はにかむように笑ってみせた。一方で、どこか泣き出しそうな顔をしているようにも見えた。


「今の方が近くにいるし、相合傘もしやすいよ」


 俺がそう言うと、沙希は肩にしなだれかかってきた。交差点で望んだ永遠が、再びやってきた。瞼を閉じて、今度は開かなかった。

 しばらくの間をそうしていると、打ち付ける雨音に混じって人の声が微かに聞こえた。沙希は、「行こっか」といった。目を開けると、木の上でぼうっとしている猿がこちらをじっと見つめていた。動物の視線さえも、耐え難いものに思えて、二人で逃げるようにその場を後にした。


 一通り回り終えると、午前に比べて園内には人が増えていた。多いとはいえない程度であったが、それでも人の目は確かに増えた。もはや、園内に安住の地などないように思えた。

 最後に、追い立てられるように行き着いたのは、夜行生物の室内展示をしているエリアだった。辺りは暗く、ちょうど誰もいなかった。奥まったところまで歩くと、沙希は動物でなく、こちらに向き直った。


 俺の眼前に歩み寄ると、沙希は倒れこむように体重を預けてきた。今日、何度目かになる行動だった。受け止めるように沙希を抱きしめると、女の香りがした。


「疲れたね」


 小さな呟きだった。胸元に顔を埋めながら、吐き出すようにいった。


「楽しくなかった?」

「楽しかったよ。でも、君はたまに辛そうな顔してた」


 何をどう取り繕ったところで、意味はない。それは紛れもない事実だった。自分に対する過剰なまでの嫌悪感は、心の内から払拭されることなく、常に付き纏っていた。今このときでさえ、沙希を女として認識している自分が卑しい存在であるように思えて仕方がなかった。


「私と一緒にいたら、明日からも同じくらい辛いよ。もうすぐ、大学も始まるでしょう。きっと、私なんかに構っていられなくなる」


 沙希はそうした感情までも見透かしたとでもいう風に、早口で捲くし立てた。彼女にとって、それは言い訳でしかなかった。誰に対するものでもなく、ただ自分に向けて、正当を言い聞かせるための言葉。心の中で、誰もが繰り返す防衛策だった。

 更に言葉を紡ごうとするのを遮って、胸元から沙希の肩を引き離すと、瞳は揺れていた。弱々しい女の姿があった。


「私、嫌われたくないって思ってる。でも、一緒にいたら君も嫌な思いをして、最後は私を嫌いになる」


 沙希は目を潤ませながら、嘲笑のようなものを向けた。誰の目に見ても明らかなほどにわざとらしく、弱さを露呈するだけだった。 

 だが、このまま終われば、家族に対してそうしていたように、俺に対しても、初めて会ったときのような悪意の篭った嘲笑を再び向けるのかもしれない。それは、恐ろしいことだった。

 負担をかけたくないからと、敢えて家族との接触を避けている沙希に対して、その心を知ってか知らずか父母は変わらぬ愛情を注いでいる。

 しかし、俺は沙希の家族ではない。無償の愛を注ぐことなど、できはしないのだ。穢れた劣情に嫌悪を示しながら、それでも見返りを求めなければ一切の行動に移ることもできない、矮小なだけの男だった。 


 気付けば、俺は沙希にくちづけをしていた。

 それも逃避であったのだろう。今すぐにでも、形のある見返りがほしかった。そうしなければ、自分の感情に自信を持つことができなかった。

 沙希は拒まなかった。唇を離すと、沙希はほんの少し目を見開いたが、何も言わなかった。ただ、唇に感じた熱は、並んで歩くときの温もりに比べて、物足りなかった。


 何も言わず、互いに目を合わせなかった。しばらくすると、沙希は一歩踏み出して背伸びをした。

 もう一度、くちづけを交わした。今度、沙希は頬を染めながら笑った。

 そうしなければ、安堵を得られないというので、互いに依存しようというのだ。あまりに愚かで、醜かった。自ら泥沼に踏み出すような行いであると知りながら、二人ともそうすることを選んだ。けれど、ほんの少しだけ心が軽くなる気がした。

 沙希によって生じる自己嫌悪から逃れるために、より沙希に近付きたかった。まるで矛盾していたが、愛とはそんなものなのだろうと思った。

 沙希が「帰ろう」といったので、「そうだね」と答えた。

 外に出て傘を差すと、再び隣に温もりを感じた。それから、二言三言話して、人の目を避けるように歩き出した。ただ二人だけが、世界から欠落していくような喜悦を覚えた。

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