二話
彼女は沙希という名前だった。俺が「響谷さん」と呼ぶと、大仰に嫌そうな顔をして、名前で呼ぶように要求した。
「響谷さんのお宅は大変ね、って、そう言われ続けて嫌になっちゃった。そりゃあ、頭じゃ家族が一番大変だってのもわかるけどね。嫌なものは嫌なの」
それが彼女の言い分だった。けれど、嫌悪感をむき出しにしてそう言った次の瞬間には、再び嘲るような笑みを浮かべていた。まるで、意図的にそうした自分を作り上げている風でもあった。
ただ、その考えを口に出して追求できるほどに、俺は沙希という女を理解してはいなかった。それどころか、理解の対極にいるとさえ思った。
「君の部屋、どこかわかる?」
「いや、まだ聞いてない」
「そう。じゃあ行こっか。間違えて私の部屋に入られても困るからね」
沙希はレバー型のドアノブに腹部を押し当てるようにすると、僅かに体勢を低くしてドアを開けた。
「一階は引き戸だったのに、二階は違うんだ」
「昔は一階に私の部屋があったからね。おいで、君の部屋はこっち」
沙希はぴょんぴょんと飛び跳ねながら、部屋を出ていった。手がないばかりにそのように見えるだけなのかもしれないが、ひねた嘲笑を浮かべる姿に対して、いやに可愛らしい仕草だった。
後を追ってアトリエを出ると、階段側から見て突き当たりにある部屋の前に沙希が立っていた。
俺が出てきたのを確認すると、沙希は部屋のドアを開け、現時点では俺の部屋である筈の空間に侵入して我が物顔でベッドの上に腰掛けた。
「元は父さんの部屋だったから、一通りは揃ってるよ。テレビなんかは私の部屋に持ち出しちゃったけど。ちなみに、私の部屋は隣ね」
沙希の言う通りベッドやタンスなどの生活用品は揃っていた。生活必需品を除くと大半のものが室内から持ち出されているようで、部屋の広さの割には物寂しい印象を受けたが、安アパートを借りるよりもマシな環境であることは疑いようもない。
「いい部屋じゃないか」
「でしょう?」
そう言うと、沙希は一つ大きなあくびをして立ち上がった。
「少しくらいお話でもしようかと思ったけど、やっぱ無理。寝る」
俺の返事など聞くことなく、沙希はすたすたと部屋を出ていった。冷静に考えてみると、彼女と仲睦まじく会話を繰り広げている絵面も想像できないので、僥倖であったのかもしれない。
とはいえ、これからは嫌でも毎日顔を突き合わせなければならない以上、一概に喜ばしいといえるわけでもなかった。
それから、荷解きをしているうちに夕食の時間になった。夕食ができたと伝える叔母の声を聞いて部屋を出ると、ちょうど寝起きらしい沙希と鉢合わせた。寝ぼけ眼を擦るというわけにもいかないが、随分と不機嫌そうな表情だった。
「……おはよう」
「寝起きで夕飯なんて食える?」
「楽勝」
二人して階段を降りていくと、沙希は「顔を洗ってくる」といって洗面所に入っていった。腕もないのに、どうやって顔を洗うのだろうかと思わずにはいられなかった。失礼な行動だろうと知りつつ、俺は好奇心から開けっ放しにされた洗面所を見やった。
沙希は片足で器用に蛇口を捻り、念入りに足を洗うと、我々が手でそうするように足を用いて顔を洗った。そうして、洗面台の脇に置かれた手拭いで足を拭き、そのまま手拭いを掴んで裏側を顔に押し当てるようにした。
彼女にとってみれば日常的に行われる動作なのだろうが、まるで卓越した技術のようであった。
「何見てたの?」
「……いや、別に」
「ふぅん」
けれども、洗面所から出て来る彼女に対して、「手もないのに、どうやって顔を洗うのか観察していた」とは言えなかった。俺が何を考えて顔を洗うさまを見ていたのか、沙希も気付いてはいたのだろうが、何も言うことはなく、僅かに気まずい沈黙が流れた。
その間、沙希は黙って俺を見ていた。また、あの目だと思った。心の底を見透かし、蔑まれている気分がした。それは、俺の胸の内にある罪悪感によって生み出される錯覚なのかもしれないし、本当に沙希は俺を蔑んでいるのかもしれない。
どうにも、後者である気がしてならなかった。そういう風に考えてしまう自分にすら、嫌悪感が募った。
夕食の際も、沙希は慣れた様子で足を使って食事をした。俺はできるだけ意識をして、沙希から視線を外した。先ほどの気まずさもあったが、何より彼女と目を合わせることが怖かった。
幸い、夕食の最中は叔母がよく話しかけてくれたし、沙希がその会話に混ざることもなかった。家族であるのに、叔母と沙希の間にはやはり溝があるようだった。仕事で帰りが遅くなるらしい叔父が、もしこの場にいれば、更に複雑な様相を呈したのかもしれない。
俺が沙希を見ないように、叔母も食事の最中に沙希の方を見ようとはしなかった。おそらくは、沙希も同様に叔母を見はしなかったのだろう。
黙々と食べ進め、俺や叔母よりも早く食事を終えた。夕食の間で、彼女が発したのは「いただきます」と「ごちそうさま」の二言だけだった。
沙希が一足早く自室に戻ったあと、叔母は少し誇らしげに「あの子、凄いでしょう」といった。
「あの子はなんて?」
「絵を描くのを手伝えって言ってました」
「へえ、貴方にね。私たちには全然そんな話しないのに……まぁ、貴方さえ良ければ手伝ってあげて。多分、あの子も喜ぶと思う」
「……喜びますかね」
到底、そんな気はしなかった。ほんの小さな興味によって引き受けてしまったが、これから沙希の行動に対して、どういう反応をするべきなのかわからなかった。
俺は沙希に対して引け目のようなものを感じていた。
「どうでしょう。でも、貴方を呼んだのはあの子みたいなものだし、気にかけてくれると嬉しいわ」
俺のように短絡な思考しか持たない男が、好奇心のみで関わったところで、彼女を傷つけるだけではないだろうか。それか、傷つくのはこちらの心だ。自らの愚かな思考に対して、惨めな自尊心が知らぬ間に傷ついていく。あまりに身勝手な子供の思想だった。
食事を終えて、風呂に入り、午前二時頃に俺は眠りに就いた。春休みに入って毎日が休日というので、いやに生活リズムが乱れたせいだった。
慣れない枕のせいか、これからの生活について思いを馳せたがためか、ベッドに入ってから暫くは寝付けなかった。真っ暗闇の中で目を閉じ、睡魔が心を飲み込む瞬間まで、俺は沙希という女について考えていた。
深夜に肩を揺すられて目を覚ました。初め、何が起きているのかまるで理解できず、寝起きの頭は心霊現象であると認識した。ベッドの上に立つ沙希が、俺の肩を足で揺すっていた。
「絵、描くから手伝って」
沙希だった。何をとち狂ったのか、夜間に侵入してきてそういった。廊下の灯りが漏れ入るだけの室内では、沙希が急かすように袖を振っている。不安定な足場で、そういう仕草をしている様子は不安を駆り立てた。
「今、何時かわかってる?」
スマートフォンで時刻を確認するとちょうど五時を迎えたところだった。当然ながら、こんな時間に起きることなど滅多にありはしない。
外から聞こえてくる鳩の鳴き声は確かに朝のものだが、だからといって目覚めようという気分になるわけもない。
俺の考えなど知る由もない沙希は、無遠慮にベッドに上がり込み、膝を揺らした。
どれだけ抗議しようとも、決して沙希は引かなかった。「描きたいときに描かないと、一生進まない」といいながら、子供のように駄々を捏ね続けた。
半ば強引にアトリエに連れて行かれると、沙希は急に真剣味を帯びた表情を浮かべて絵画に向かった。
彼女は咥えた筆を繊細に動かしながら満足がいくまで描き続けると、筆を吐き捨てるように地面に放り投げ、新しい筆を要求した。色を混ぜるよう五月蝿いほど細やかな指示を出し、汗を拭わせ、あまつさえリップクリームを塗るように要求されることもあった。寒々しい室内で俺の手がかじかむ一方で、沙希は流麗に筆を動かし続けた。
そんな調子で、沙希は気の向くままに絵画を描き続けた。描きたいと思えば部屋までやって来て、特にやることもない俺は律儀に呼び出しに応じた。沙希の描く絵にも興味があった。
俺が響谷家に訪れた日に描き始めた絵は、一週間後には形になっていた。沙希は風景画を描いた。素人目に見ても、極めて上手い絵であろうことはわかったが、どこの景色を描いているのかは全くわからなかった。
俺が「何を描いているのか」と聞けば、沙希は「どこか」と答えた。この世のどこにもない、空想上の景色を描いているらしかった。
「何を描くかじゃなくて、誰が描くかだよ」
沙希の絵は上手かった。けれど、それだけだった。
彼女以外の五体満足の人間が同じものを描いたとして、いかほどの評価を受けるだろうか。彼女が大きく頭を揺らしながら絵を描くさまを見ながら、そんなことを思った。
一緒にいる時間はそう短くなかったが、相変わらず俺と沙希に相互理解はなかった。
沙希にとって、俺は極めて勝手の悪い腕でしかなかったのかもしれない。長く一緒にいればいるほど、思うように動かない腕に、やきもきとしている様子だった。それは、他の家族と一緒にいるときは見せない表情だった。
アトリエ内で見せる表情は、不思議と特別なものであるように感じられた。
家族と同じ空間にいるとき、常に沙希は余裕ぶった笑みを浮かべている。飽くまで余裕ぶった笑みを浮かべているだけで、本当に余裕を感じているわけではないのだろうと思った。
出会って一週間。やはり俺たちは他人のまま、歩み寄る気配などどこにもなかった。




