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欠ける  作者: みてくら
1/5

一話

 初めに彼女と出会ったとき、気持ちが悪い、と思った。ある筈のないものが欠けているという事実は、痛いほどに本能的な嫌悪感を促す。どう取り繕ったところで、心の底から湧き上がる感情を抑えることはできなかった。

 ただ、それを表に出さぬように作り上げた薄ら笑いを、彼女は嘲るような微笑を浮かべながら眺めていた。心根を見透かされた気分になって顰め面を浮かべると、彼女の母親は少しだけ目を細めた。彼女の姿に対して、俺が表情を歪めたと思ったのだろう。


「よろしく」


 にやにやと、心の底から面白がるように女はいった。女は一歩進み出て、俺の前に立つと、小さく肩を揺らした。だらりと垂れた長袖が、宙を叩くように淡くひらめいた。

 彼女の母親は、その様子を横目で見やると、小さく溜息を吐いてリビングへと戻っていった。

 俺がどうしていいのかわからずに、何のつもりかと聞くと、女は握手をするのだといった。

 彼女の行動は侮辱か、或いは挑発の意味を込めたものだと感じた。だからこそ、俺は右手でその袖を握った。彼女の挑戦を受けてやろうと考えたのだ。

 あまりに幼稚だと馬鹿にされても仕方のないほど、軽率な行動だった。

 俺は未だに子供から脱却できていなかったし、彼女は欠陥を抱えていた。その間に正しさを求めるなど、あまりに無意味であった。


「力強い握手をありがとう。いい手だね、大事にしなよ」


 成立してはいなかったが、確かに握手を交わした。けれど、それは決して友好の証としてでなく、互いに武器を持っていないことを示すために行われるような、極めて原始的な握手だった。僅かな安らぎを得るための儀礼。不信感を抱いていることを双方に知らしめるためのものだ。

 女は少しの間だけ手元に目を落としていたが、しばらくすると俺の手を振り払うように翻って、そのまま階段を上っていった。

 こちらが危うさを感じるほどに軽い足取りをしていた。

 女には両腕がなかった。


 大学二年度も終わりを迎えた、春休みの出来事だった。通っている大学は三年次からキャンパスが変わるので、そこから近くに住んでいる親戚の家に二年間だけ厄介になるという話だった。

 当初は一人暮らしのためのアパートを探していたが、母親が親戚に相談したところ、下宿先として自宅を提供しても良いとの申し出があった。母親の妹であり、俺からみれば、叔母に当たる人物の家だった。

 俺が下宿先を探しているという話を聞いたとき、叔母に俺を受け入れるつもりは毛頭なかったらしい。障害を抱えた娘の生活を落ち着いた状態に保ちたかったからだ。

 しかし、その話を聞いた娘は、俺を迎え入れることを希望した。何を思ってそんな提案をしたのかは知らないが、敵意にも似た嘲りを向けた女こそ、俺を招き入れた存在なのだ。


 靴を脱いでリビングへ向かう途中、目に入る全ての部屋はドアが引き戸に改修されており、戸の下側には小さな窪みが開いていた。足で開けることを想定して、改修したのかもしれない。

 リビングに入ると、叔母がコーヒーを用意していた。ロータイプのテーブルの上に置かれた二人分のカップは、初めから娘はリビングに来ないと知っていたようだった。促されるまま、テーブルを挟んで叔母の正面に座った。

 室内は二月の寒さを忘れさせるほどに暖かかった。床においた鞄の上にコートをかけて顔を上げると、叔母はじっと俺の顔を見つめた。表情こそ違えど、その眼は先ほどの彼女と似ていると思った。

 母親と大して変わらない年齢の人だが、随分と老けて見えた。叔母の目を見ると、いやに皺が目立っている。疲れ切っていることを隠そうともしていない様子だった。


「こんな時期からでごめんなさいね。友達と遊んだりしたかったでしょうけど、あの子ができるだけ早く来てほしいって言うから……」

「いえ。住まわせてもらえるだけで、ありがたいですから」


 叔母とは年に何度か会うが、その娘と会ったことはなかった。お盆や元旦に親戚で集まるときも、娘が顔を出したことは一度もない。そのため、叔父母も娘のことを心配してか、ほんの少しだけ顔を覗かせて、そそくさと帰ってしまうことが多い。

 正味なところ、俺には学校の始まる四月よりも大幅に前倒しされて、二月に呼び出される理由が全くわからなかった。

 どこか居心地の悪そうな叔母は、その表情を隠すようにテーブルの上に置かれたコーヒーを一口に飲み干した。


「それで、えっと……響谷さんの娘さんは僕に何の用が?」

「さぁ」

「さぁって……」


 叔母は空になったカップを眺めながら、小さく「わからない」といって首を振った。軽い物言いであったが、それ故に深く追求しようとも思えなかった。おそらく、叔母にとっては「わからない」ことは当然なのだ。もはや、そこに疑問を呈することもない。理解することを諦めている。

 しかし、内装を娘に合わせて改修している以上、そこに愛がないというわけでもないのだろう。事実、叔母は娘の意見を聞いて、俺を受け入れると決めたのだ。


「あの子の考えてることなんて、私にはわからないわ」


 俺が何も言わずにいると、叔母は言い訳でもする風に繰り返した。娘の介護に疲れているというよりも、あまりに娘を理解できないことが辛い様子だった。


「あまり、仲がよろしくないんですか?」

「いえ。食事も一緒にするし、会話だって普通にするんだけどね。ただ、それだけ。義務感でそうしてるみたいに……でも、そういうものなのかしらね。子供なんて」


 親が子供を理解できないという場合、多くは子供の側にも責任がある。子供は年頃を迎える時期になると、半端に成熟した自尊心のために、親からの理解を拒む。得てして、そういった状況で入った亀裂は尾を引く病になるのだ。それは別段珍しいことでもなければ、子が本心から親を嫌っているわけでもない。

 だからといって、子を責めるわけにもいかない全うな親は、自身のどこに問題があるのかと葛藤する。特殊な環境にあればこそ、叔母の抱える葛藤も一入なのかもしれない。


「僕もそんなものですよ」


 大して考えもせずに放った言葉であったが、思いの外に叔母には良い印象を与えたようで、その表情が微かに緩んだ。


「あの子はね、一人で大抵のことはできる。私たちに全然頼ったりしようとはしないのよ? それは喜ばしいことなんでしょうけど、親からすれば複雑よね」


 叔母は溜息を吐きながらそういった。叔母のそうした台詞は、重みこそ違えど俺の親が抱えている悩みと同じ類のものである気がして、それ以上何かを言おうとは思えなかった。

 子とはそういうものなのだから仕方がないと、口に出していえるほど無神経ではない。そもそも、叔母の家族と俺の家族では根本的に違うのだ。まるで問題の度合いの異なる俺が何かを言ったところで、それは叔母にとって重責にしか成りえない。


「あの子は階段を上がってすぐの部屋にいると思う。だから、話は直接聞いて」


 叔母は最後に「私がいない方が話しやすいだろうから」と肩を竦めながら付け加えると、席を立って台所へと歩いていった。話はこれで終わりらしかった。

 俺は温くなったコーヒーを一気に流し込んだ。叔母を一瞥すると、目が合ったので、小さくお辞儀をしてリビングを後にした。



 階段を上って、彼女がいるという部屋をノックすると、「どうぞ」という声が返ってきた。その部屋のドアは引き戸に改修されていないようで、一般的な開き戸のままだった。ドアノブに手をかけると、拒むように静電気が手のひらを走った。

 ドアを開けてみると、昼間だというのに部屋の中は薄暗かった。どうやら、カーテンを殆ど開けていないようだった。明らかに不健康な室内で、彼女は静かに佇んでいた。

 雑多ではあるが、簡素な部屋だった。家具という家具を最大限に廃した代わり、それ以外の小物を床に散らばせた風な印象を受けた。部屋の中央に置かれたイーゼルと一脚の椅子だけが、その空間に存在し続けることを許容されている全てなのだと思った。


「やあ」

「……どうも」


 彼女は立ち上がると窓際まで歩み寄り、器用に足でカーテンを開けてみせた。真冬並みの寒さであるのに、室内には暖房の一つもついていなかった。靴下さえ履いていない彼女は見ているだけで寒さを感じさせたが、それが手の代わりに足を用いるためであると、淀みない所作でカーテンを開ける姿を見て思い至った。我々が室内で手袋をしないように、彼女も室内で靴下を履かないのだろう。

 外界からの光を取り込んだ室内で、おぼろげだった彼女の姿がはっきりと視認できた。

 控えめに言って、美しい女性であると思う。気位の高そうな嘲笑さえも、彼女の美しさを際立たせる一つの要因だと感じさせる、いかにも大人らしい佇まいをしていた。

 それゆえに、不気味でもあった。その姿が、自分とは違う生物である気がしたのだ。

 そうして、胸の内を見透かしているような彼女の笑みによって、深い自己嫌悪にも似た情が湧き上がるのを感じた。


「ここは私のアトリエでね。まぁ、ただの空き部屋だけど」


 改めて床を見渡すと、散乱しているのは絵の具や色鉛筆だった。裸足で歩くには些か危険な気もするが、彼女は慣れた様子で歩き回っていた。

 彼女は俺の前まで来ると、「手伝いがほしい」といった。


「……絵の?」

「そう。いい加減、一人で描くのは面倒くさくて」

「親に頼めば?」

「母さんはダメ。……父さんも。気を遣っちゃうもの。それに、親を手足のように使うなんて面目立たないでしょ? 立っているものは親でも使えというけど、あの人たち、私の面倒を見るので立ちっ放しみたいなものだから」


 どこか他人行儀な物言いだった。気を遣うという言葉は、本来ならば、家族に対して出るものではないような気がする。おそらく、彼女にとってそれは耐え難いことなのだ。

 先ほどの叔母の様子から考えても、この一家が互いに気を遣い合いながら今日まで生きてきたであろうことは想像に難くなかった。

 俺がそうであるように、彼女の家族もまた、彼女に対する接し方を計れぬまま過ごしてきたのだろうと思った。


「いいでしょう、別に。少しくらいならバイト代も出すよ。私の口利きで住処を得られたんだから、恩を返さなきゃ」


 どこか気まずい雰囲気を誤魔化すように、彼女は言い訳がましくそういった。


「まぁ、大学が始まるまでなら」


 こちらでバイトを探すにしても、三年からの時間割を確定させてからの方が良いだろう。

 なにより、好奇心があった。無知な学生特有の、思い上がりとも変わらない浅慮によるものだった。家族でもない彼女に対して、何を気遣う必要もないと思ったのだ。

 もっとも、それは互いが同様に考えていたに違いない。

 俺からすれば叔父母ほどに気を遣う必要もない相手であって、彼女からすれば両親ほどに引け目を感じる必要もない。

 俺たちは、適度に他人だった。

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