プラネタリウム
部屋の隅に埃が溜まりかけたゴミで溢れかえった部屋。男が投げた空のビール缶が床に打ち付けられ、また悲鳴を上げた。
「そろそろショーの開始時間だろうかな。どうだ、気分は?」
男は自分の背後でボロボロの安楽椅子で揺れる男に問いかけた。
「最悪だよ、全く。追放は免れない。所謂『自殺』だぞ、これは」
ぼんやりと虚を目に宿していた彼は、椅子を揺らしながらもう一方の男の背中を、眉をひそめて眺めた。青白く輝くディスプレイを前に、その視線を受ける男は、ただ黙々とキーを打ち続けていた。
「もうじき最終調整も終わる。長かったなぁ。本当に」
「あぁ、違いない。こんなテロ紛いの事をする為に、三十年以上も懸けるなんて気が狂っているとしか言いようがない」
椅子の男は肩をすくめて首を振り、ディスプレイ前の男はもう一本ビールを開けた。
コンピューターウイルス。男達が長すぎる時間を費やしてきたのは『全世界』を相手取る最強のウイルスの作成だった。火薬と起爆剤、二種類のウイルスが組み合わさることで、それらは爆発的な影響を及ぼす。安楽椅子に揺れる男は、このうちの火薬を作り、世界中に拡散した男。ディスプレイ前の男が、起爆剤を担当し、今まさに、火を点けようとする男であった。
「たった『一夜』のために……な」
「たった『一夜』のために、俺達は全部失う。仕事も居場所も、下手すれば命もな」
椅子の男は自嘲的に笑う。キーを打つ手はいつの間にか止まり、ビール缶を片手に、二人は向かい合っていた。
「良いじゃねぇか。お前幾つだ?」
「二百二十三だ。てめぇは?」
「二百十五。もう十分酸いも甘いも味わったさ。最近は味がしなくなってきたぐらいさ」
少しだけ皺が浮き始めた顔をくしゃりと崩し、ビールをがぶりと喉に流し込んだ。椅子の男はやれやれという顔をしながら、彼自身も酒瓶の蓋を飛ばした。
「そうだな。もう、味もしねぇ」
「だろう。もういいじゃねぇか」
「気乗りはしないな。それでも」
「なら止めとくか?」
空になったビール缶を放り投げ、ディスプレイに向かいなおす。椅子の男は腰をさすりながら立ち上がった。
「訊くなよ、そんなこと」
疲れ切ったように呟く男の顔には、それでも微かな笑みが浮かんでいた。苦笑に見えて、そうでないもの。確かに二人は共犯で、そして掛け替えのない悪友だった。
「酒と肴の用意がまだだ。そう気を急くんじゃねえよ」
男は一人キッチンに消えた。一人きりになった部屋の中で、キーボード―が放つけたたましいほどの鼓動だけは決して止まなかった。
男達が暗躍する隠れ家の外では、照り付ける太陽の元、深く澄んだ青空の元、小さな子供たちが無邪気に駆けまわっていた。
男達が暗躍する隠れ家の外では、沈むことのない太陽の元、永遠で絶対の青空の元、機械に生み出された情報達が新しいデータの獲得に勤しんでいた。
国境も、言語の壁も、この世界には存在しなかった。脳が直接見る世界、肉体という媒介を飛ばし、永遠と平穏が全てを支配した電脳世界。脳と脳はデータで出来た世界を知覚し、その中で変わらずに生き、恋をし、時には結ばれた。
夜が来ないことを除けば、その世界はフィクションと呼べる代物ではなかった。人の活動限界が失せたことで、夜の必要はなくなった。就寝は娯楽となり、それを幸福に行うための施設もプログラミングされた。人々は永遠を享受し、ただ自由に生きた。
その世界では多くの人が生を謳歌した。人口は少しずつ増えていった。それは外部だけでなく、内部からもであった。プログラムにより、規則性とランダム性を備えた疑似的な奇跡が起こり、そして何人もの、母体である脳を持たないAIである子供が生まれた。純粋に電脳世界の中で生まれ、そこで育ち、恐らく、そこで消えゆくであろう情報体。人間にとっては異質であるはずの彼らは、人のように育った。箱庭の如き世界の中で。
彼らは現実を生きる人間からすれば、非常に貴重な研究サンプルだった。夜を知らぬこと以外、まるで人のように物を学ぶAIは、はたして生命と呼べるのか。答えは未だに出ていなかった。それでも……
「夜空も知らずに、星も見ることなく大人になるなんて、なんだか悲し過ぎるじゃねぇか」
どちらからともなく、彼らは言い出した。
「星を見て、夢を抱いてくれればいい。感動する、度肝を抜かれる、そんなことでも構わない。ただ、何か一つでも感じることがあるならば、それでいい」
『ただ、もう一度、星空が見たい』
『ただ、ただ一度でも良い、星空を見て欲しい』
二人の天才プログラマが、電脳世界の中で反乱を企てたのは、ただ、こんなにも単純な理由だった。
「先に屋上行ってるぞ」
酒瓶と団子を盆にのせた男がキッチンから階段を静かに上っていった。
「それじゃ、ショーの始まりだ」
ディスプレイの前で、エンターキーが誇らしげに役目を終えた。この男も立ち上がり、屋上へ向かった。
その僅か数分後、データで築かれた世界に、闇が訪れた。
「本部へ、報告します。こちらA市、大規模な停電が発生しました。至急、原因の究明と復旧をお願いします」
「本部へ報告。こちらT市、大規模な停電が発生、至急、原因究明と解決を求めます!」
「馬鹿な……。こんなことが」
現実の世界で、電脳世界の様子をディスプレイ越しに見ていた壮年の男は、脂汗をにじませながら、目の前で起きる激変に恐々としていた。
まず、主要な都市全体が停電を起こした。そこから伝播するように、周辺の都市、村、全てが停電の脅威にさらされていった。恐ろしい速さ、街の灯りは消えてゆく。だが、これで終わりでは無かった。
「な……。何が起きた! 『ブラックアウト』など洒落にならんぞ!」
ディスプレイが闇に包まれた。電脳世界の空色を形成していた明かりが、一斉に機能しなくなったのだ。
「ですが長官、干渉を受けているのは、照明関係のみだと思われます! 内部の記憶データに損失は見受けられません!」
若い職員の声が響く。一番恐れていたことは起きていない。それでも、全てが闇に包まれた画面に、焦りを感じない者はいなかった。
「おうおうおう。上手い事落ちたみたいじゃねぇか」
「あぁ。だが、まだだ」
「あぁ。来るな」
「来る」
「「 百年ぶりに、星が出るぞ!! 」」
闇色に染まった空のテクスチャが、部分的に乖離をはじめる。下から眺めれば、爪先に隠れるほど小さく、色とりどりな点。それが、初めて訪れた夜を祝うように、視界一杯に浮かび上がる。
「本部へ……報告。あれは……あれは、一体? もしかして、あれは」
この世界に、星というプログラムは存在しない。だからこそ、空を破壊するプログラムだけでは足りない。だからこそ、闇夜を演出するプログラムが必要だった。
光を奪うプログラムで空を闇に染め上げる、そして、満を持して二つ目のプログラムでその闇を剥がす。そうして破壊された数々の点は、夜空を飾る星となって浮かび上がる。
それはまさしく奇跡だった。
「本部へ。星だ、星が見えます! 夜が来た、星だ! 空、夜空一杯に、星が輝いています!!」
夜空に浮かぶ星の煌めき。夢を描くには充分だったろうか。
「酒の肴には最上じゃないか。な、相棒」
「あぁ。久しぶりに旨い酒だ」
二人の犯罪者は最後の酒を酌み交わす。そこに浮かんでいたのは、焦りでも、恐怖でもなく、達成感からくる最上の笑いだった。
「これで月が出れば完璧なんだがな」
「贅沢を言うな、全く。が、それには同感だ。良く目を開いておくと良い」
男は指をパチンと鳴らす。少し遅れて、空に途方もなく大きな白影が現れた。
「大成功だろう」
「当たり前だ。人生で一番の星空になる」
「そう。きっと、俺達にとって。そんで、あいつらにとっても……な」
「そうだと良いな。そうであれば、人生を懸けた意味がある」
管理室は、この盛大なサプライズに沸き立っていた。長官らしき男は頭に手を当てて、ひどく痛そうに呻いていた。誰が、何のために、意味不明すぎる規格外の犯罪に、どうして良いかも分からなかった。
「長官、管理室へメールが!」
「止めてくれ、俺にも説明なんて……」
「違います! 犯人からです」
「なんだと」
『夜空の星に願いを込めて。どんな命にも夢と希望の溢れんばかりとなることを。二人の魔法使いより』
「……少し、風に当たってくる」
「長官?」
二人の魔法使いから届いたメールが映された端末を片手に、長官は施設の屋上に上がった。
季節は冬。雪が積もって白くなった世界。空には、満点の星空が広がっていた。
「いつぶりだろうかな。星なんぞ眺めたのは……」
彼は端末から目を離し、しばし何光年先に思いを馳せた。
「これに、全てを懸ける価値があるというのか?」
夜空は、偽物よりも色を欠き、それでいて尚、一人の心を無限に惹きつけんばかりには美しかった。
翌日。全てが片付いた。欠けた空は完璧に修復され、世界は光を取り戻してしまった。
「てっきり極刑だと思っていたんだがなあ」
「何の真似だ、これは?」
「まぁ、これを見ろ」
長官は、機械の体を得た二人に、おびただしい数のメールを見せた。そこには、電脳世界へ移った住民からの、そして、電脳世界で生まれた住民からの感謝の言葉が綴られていた。
「星空を作ってくれ、あの世界に」
「もう一度、奇跡を起こしてくれないか」
「――――――」
「ところでお前、星に何か願ったか?」
「そりゃ……、死にたかねぇと願を懸けたに決まってるだろうが」
「ったく。まぁ、俺も変わらん」
夜は再び訪れる。星も復た昇る。