ー壱ー「細やかな異変」
気づいたのは、単なる偶然だった。
「………あれ?」
古典の授業中、何気なく教科書のページを捲っていた時の事、
僕はあるページに目を留めた。
其のページは真っ白だった。
何も書いていない。隣のページには、俳句の一文と其の説明の羅列。
恐らくこのページにも同じ様な事が書いてあったのだろう。
印刷ミス、落丁なのだろうと決めつけて、僕は授業に集中した。
※ ※
「せ、先生」
「ん?…あー…あぁお前か。どうした?」
昼休み、僕は印刷ミスの件についていうために職員室を訪ねた。
寝たふりをしていない昼休みは久し振りだ。
僕の教室の古典を担当している其の先生は初見の生徒が何故自分を尋ねたのかと不思議そうだったが、僕は構わず質問を投げかけた。
「あの…こ、此のページ…なん…ですけど…」
「何だこのページは?落丁か?」
「かも、し…しれません…」
「なら仕様がないな。其のページ、印刷してくるから少し待ってろ」
先生は、机の上に無造作に置かれた〈教師用〉と書いてある教科書を手に取り、ページを開きながら職員室端に鎮座するコピー機に向かっていった。
が、途中動きを止めたと思ったら印刷もせずに戻ってきた。
「…すまん。此の教科書にも同様の場所で落丁があった」
「つ、つまり?」
「白紙だ。まぁ…此の辺りを取り扱うのは当分先だから、其れまでには解決しておく。安心しろ」
用の済んだ僕は先生にお礼を言って、職員室を後にした。
職員室の扉を閉める際、「おかしいな…。四月の点検で問題ないと確認した筈なんだが…」とぼやく先生の声が、僕の耳に届いた。
※ ※
何てことの無い白紙のページ。此れが何故だか引っ掛かりを覚え悶々と考えているうちに、僕は家に帰っていた。
退屈・苦痛な時間は長くなるようで、其れこそが僕の日常であったけれど、今日は他に何も入り込む隙間がないくらいに時間が短く感じた。
だからといって、魚の骨が喉に引っ掛かり続けた生活をしたいとも思わないけど。
リビングにはソファに座ってテレビを見る母さんがいた。
ただいま、と声を掛ける。おかえり、感情の乗らない言葉がテレビに向けて飛んでいった。
四人掛けのダイニングテーブルに目を移す。
シチューにパン、サラダと飲み物が一人分。今日の夕食だ。
僕は椅子に座り床に鞄を置いて、黙って其れ等を腹に詰め込んだ。
歳を重ねて、どれくらいか大きくなった僕に母さんは関心を示さなくなった。ネグレクトではない。
母さんにとって僕は父さんとの間にできただけのものであり、法があるから母親という仕事をして、既に一人で生きていけるから関心がなくなっただけの事。
ご飯がある。それは僕が職業/母親における子供とまだ認識されてる証拠で、テーブルにご飯があると分かっただけでまだ母さんにとっての他人になっていないと安堵する。
しかし、そろそろ料理の一つや二つは作れる様になっておくべきだろうか。
母さんが見ているのは、どうやらニュース番組らしい。
男のアナウンサーが固い口調で本日・連日のニュースを伝えている。
パンを食べながら横目にニュースを見た。興味の出ないニュースだけが流れていく。
ふーん…と何も思わなかった。けれど、次のニュースに変わって、僕は食事の手を止めた。
食べかけのパンを皿に置き、足元の鞄から一冊の教科書を取り出す。パラパラと捲った先に目的のページがあった。
僕は其のページとテレビ画面の映像を見比べる。
テレビに映るのは、一冊の古い書物。茶色く古びた紙に汚れは残っているけれど、何も書かれていない白いページ。
『××資料館にて保管されていた一部蔵書にて、筆で書かれていた文字が消えているとの情報が勤務する職員の方から報告されました。文字が消えたとされる書物は有名歌人の俳句が書かれており、途中白紙が混ざっていない事は確認していたそうです。書物に触られた形跡、及び破られた、切り取られたは無く、まるで元々無かったかの様に文字は綺麗に消えています。此の資料館の職員は「鉛筆で書かれた文字なら消しゴムで消す事が出来る。しかし、墨汁で書かれた文字を消す道具は聞いた事が無い」と困惑を露わにしました。同様の現象は各地でも報告されており、筆で書かれた文字のほか、印刷物のインク文字や石碑に掘られた文字の消失も確認されています。各所団体は此の現象の原因の調べを進める中、消えた文章の関連性について、消えた文字のある書物を研究していたが大学教授及び古典学者は口を揃えて「研究をしていた事は覚えている。しかし、其処に何が書いてあったのかを思い出そうにも頭の中から抹消されたかの様に思い出せない」とコメントし、調査は難航しています。テレビ局では、未だ報告されていない事例があるとして同現象の被害報告を集めています。』
教科書の白紙ページ。どうやら此れは、単なる印刷ミスではない様だった。
※ ※
夜、とはいえまだ八時程だったけれど、風呂も入って歯も磨けばもう何時寝ようが問題はなかった。
僕はベットの上に寝っ転がり、今日ずっと考え続けた事を振り返る。
僕の教科書も先生の教科書も一ページ分綺麗に消えていた。ニュースの通りなら、他の人の教科書も同じく真っ白になっているのだろう。
大多数の持つ本から、古い書物から、書いた訳ではない石碑から文字を消す。
そんな事が可能なのだろうか。
「こんなの…普通じゃない」
そう、普通じゃない。
むしろみんなが其処に文字があったと暗示をかけられていて、今日其の暗示が解かれたとでも誰でもいいから言ってくれれば、僕は簡単に信じるのに。
「(だからって、僕には関係ないじゃないか)」
反対側へ寝返る。
僕が此の事を考え続けたって、世界に何かが起こる、わけがない。
僕はただ教科書の異変を見つけた、其の他大勢の一人。
数日、もしかしたら明日には警察やら学者やらが解決して全てが元に戻っているのだろう。
ありえない話だが、何処かに主人公のような人がいて、人知れず此の状況を解決しようとしているかもしれない。
けど其れは僕では決してない。
今日一日を無駄にしただろうか。思ったが、首を振る。
毎日が退屈なのだから、時間が短く感じるぐらいに考える暇つぶしにはよかった。
明日からこんなどうでもいい事を考えて過ごすのも良さそうだ。
つまらないだろう明日を思い浮かべながら、僕はゆっくり目を閉じた。
誤字脱字、文章的におかしい部分はないでしょうか?