漂着:勢い余って世界を滅ぼすなんて
いつの間に接近されたのだろう。
イナミが振り返ると、奇妙な人型軟体生物が立っていた。
全身は白いエナメル質の肌に覆われ、腕がゴムチューブのように揺れている。
赤い目はカメラレンズのように無機質だ。
口はだらしなく開いている。歯も舌もないので、唾液が糸を引いて垂れていた。
それが一体だけではなく、同じ姿形をした者が、続々と瓦礫の陰から現れた。
イナミは本能的に危険を察知し、頭部外骨格を纏ったまま話しかける。
「なんだ、お前たちは。人間……ではなさそうだが」
軟体生物たちは互いに視線を交わすことなく同時に、口から『せらせら』と甲高い笑い声を洩らした。
その音の周波数には一定の規則性があることに、イナミはすぐ気づく。
「音響通信だと?」
軟体生物はまたもや一斉に笑い声を止め――イナミへと飛びかかってきた。
敵と認識。バッグをその場に落とし、身構える。
クレーターを背にしているので正面の一体を迎え撃つしかない。放電で麻痺させ、その隙に包囲を突破しよう、と作戦をまとめた。
だが、こちらが触れるよりも先に、顔面を鷲掴みにされる。距離はまだあったが、軟体生物が腕を伸ばしたのだ。
イナミは引っこ抜かれるように振り回され、背中から地面に勢いよく叩きつけられた。
痩せ細った外見からは想像できない膂力である。
倒れたところに、他の軟体生物たちが押し寄せてきた。ヘビのような腕が手足に巻きついてきて、あっという間に身動き取れなくなってしまう。
強引に立たされたイナミは、この窮地を脱するため、全身から生体電流を放った。
密着していた軟体生物の白い肌が黒く焼け爛れていく――
が、一気に殲滅することはできなかった。次から次へと新手に巻きつかれてしまい、イナミの生体エネルギーが先に尽きた。非常糧食による補給分が台無しだ。
「くっ……」
多勢に無勢。しかも、軟体生物はイナミに匹敵する身体能力を有している。
こんなのが地上にいるなんて――
再び、激しい眩暈に襲われ、イナミは頭を振った。
幻覚まで現れ始めたようだ。こちらの足掻く様を観察していた個体の姿が、見覚えのあるものに変わっていく。
白い表皮に陰影が浮かび上がり、人の顔や毛髪、身体が形成されていく。
女性的な膨らみの上に、全身を覆う分厚い衣服が浮かび上がった。――気密服だ。
いや、いくらなんでも、おかしい。
イナミは懸命に目を凝らした。
幻覚などではない。現実に、軟体生物が変化している。
最後に色がついたとき、イナミの目の前には、黒髪の女性が立っていた。
「か、カザネ……!?」
死んだはずのカザネ・ミカナギ。
彼女は生前には見たことのない薄ら笑いを浮かべた。
「久しぶりね、イナミ」
声まで同じだ。
呆然としているイナミに、軟体生物たちが『せらせら』と笑う。
「まだ分からないの? あなたたちが亜空間から抜け出せたのなら、〈ザトウ号〉も抜け出せて不思議はないでしょう?」
〈ザトウ号〉の存在とその末路を知っている。
ということは、イナミに纏わりついている軟体生物たちは――
「まさか、実験体か!?」
正解だったようだ。奇妙なことに安定状態に見える変異体は、不快そうな表情を浮かべた。
「実験体なのはあなたも同じでしょうに」
やはり、イナミたちは確かに一度、亜空間に呑み込まれたのだ。
そもそも『閉じられた亜空間からは脱出できない』という言説は証明されていない。
それを皮肉にも、イナミたちが『脱出できる』と実証してしまった。
エネルギー波は、亜空間内にトンネルを作り出し、想定されていない座標に出口を作り出してしまったのである。
数多の犠牲を出して封印された変異体が、地上に降り立っている。
その事実に打ちのめされながらも、イナミは険しい声で問い質した。
「なぜカザネの姿をしている」
変異体はなんてことないという態度で話す。
「船員たちの身体を使って自己複製を繰り返すうちに、気づいたのよ。脳に刻まれた記憶や人格をデータとして抽出できる、とね。その意味が分かるかしら?」
イナミが黙っていると、変異体はあからさまに溜息をついた。
「記憶や人格を集積すれば、膨大な情報ネットワークになる。遺伝子貯蔵庫ならぬ精神貯蔵庫といったところね。模倣だって可能よ。今、こうして話しているように」
「要するに、『寄せ集め』を作ったのか」
「『思念体』、と呼んでほしいものね」
目の前の変異体は、その思念体とやらに保存されているカザネの人格を、再現しているに過ぎないらしい。
「なるほど――だが、質問の答えではない」
「答えているわ」
イナミは自由の利かない手を軋むほど強く握り締めた。
「カザネの身体に手を出したんだな?」
「少し誤解しているようね。彼女は私たちの一部となって生き続けているのよ」
そう言って、変異体は微笑んだ。カザネそっくりに。
「死後経過で記憶はかなり欠落していたけれど、あなたのことを知るには十分だった。それにクオノのこともね。なかなか興味深い能力だわ」
全身から血の気が引く。
思念体というネットワークを形成した変異体が、高度なハッキング能力を持つクオノを支配しようとしている。
大惨事が起きるのは確実だ。
「……〈ザトウ号〉の船員はほとんど死んだはずだ」
「残りも片づけたわ」
「だったら! これ以上、何をしようって言うんだ!」
イナミは拘束を振り解こうとしたが、より強い力で押さえつけられた。
変異体は微笑を絶やさず、聞き分けのない子供を諭すように話す。
「新しい世界を作るの」
「……世界?」
「ええ。肉体は思念体の決断を実行するための器であればいい。……あなたもそこの残骸は見たわね?」
市街地を壊滅させた大型船のことだ。
イナミの無言は肯定として相手に伝わった。
「ヒト同士で滅ぼし合った結果よ」
「戦争か? そんな話、聞いたことがない」
「私たちが生まれた時代には、ね」
変異体は空を仰いで、息を吐いた。
「あなた、二百年もの間、亜空間に閉じ込められていたのよ」
「何を言っている。通過は一瞬だった」
「当然でしょう、亜空間とはそういうものだから」
イナミとてそれは知っている。亜空間内に時間という概念はない。だから、通常空間に戻っても一瞬としか感じないのだと。
だとしたら、不可解な点が、ひとつある。
「お前は本当に変異体なのか? 俺が遭遇したヤツらとは違いすぎる。それに、船員たちの脳情報を集めたと言っていたが、そんな時間はなかったはずだ」
変異体は冷ややかに笑った。
「あの不完全な潜航は、私たちを異なる座標に浮上させただけではない。異なる時間と異なる座標に浮上させたのよ」
亜空間航行は、三次元空間を移動する技術ではない。
座標と時間。
その片方が滅茶苦茶だとしたら、もう片方も――
変異体はクレーターに顔を向けた。かつての凶暴な生物兵器だった頃とは正反対に、知性を宿した目で底に眠る残骸を眺める。
「戦争末期、私たちは地上に降り注ぐ人工物の雨を見届けたわ」
雨。
地上の至るところに、質量という破壊力を持つ物体が衝突したというのか。この市街地のような光景が広がっているというのか。
「ヒトは愚かね。自分とは違う者を排除しようとし、勢い余って世界を滅ぼすなんて」
「お前たちが〈ザトウ号〉でやったことも、同じじゃないか!」
「失敗作の烙印を押されたから、優れていることを証明しただけよ。今なら、彼らだって私たちを認めざるを得ないでしょうね」
「見境なしに人を殺戮するのが、優秀であるはずがない!」
「命令されれば、殺戮してもいいと言うの?」
イナミは反論に詰まってしまった。『それが兵器の務めだ』と、なぜか言えなかった。
変異体が笑みを歪なものに変化させる。
「大体、『殺戮』というのも短絡的な発想ね。私たちは人類を解放しているのよ」
「……何言って――」
「全ての意志が思念体に統一されれば、こんな過ちを二度と犯すことはない。後には永遠の安寧が待っている」
「それが、お前たちの『新しい世界』か」
「ええ。同じ実験体のよしみよ。あなたも私たちと生きましょう。ね?」
ヒビに染み入る甘美な響きに、イナミは脳髄を引きずり出されるような寒気に襲われた。
カザネは死の間際に『あなたには生き延びてほしいの』と言い残した。
変異体は同じ声で『私たちと生きましょう』と囁く。
自らの命を犠牲にしてでも希望を託すために行動した彼女が、変異体に同化したことでヒトは愚かと見限るのだろうか。信じていた研究を、間違いだったと認めたのだろうか。
――いいや、俺は騙されない。
目の前に立つ者は、カザネの姿をしているが、所詮は全くの別物だ。紡ぐ言葉も、思念体とやらに歪められたものでしかない。
それは死者の冒涜だ。
「お前たちは――カザネを殺したんだ。そのことをなかったことにするつもりか」
今度は変異体が首を傾げる番だった。やはり理解できていないのだ。
「俺はお前たちを認めない。同じ実験体だって? 一緒にするな。お前たちは俺の敵だ」
変異体が表情をすっと消し、イナミに迫ってくる。
「……それで、クオノはどこ? 別々に脱出したところは見たけれど」
あの巨体から情報を得たのだろう。
反射的に言い返そうとしてしまうが、ここで奇跡的に、かろうじて残っていた冷静さが機能した。
イナミはてっきり、変異体がすでにクオノを回収しているとばかり思い込んでいた。
だが、変異体はまだ回収できていない。
だから、こちらが何か知っていると考えて、襲いかかってきたのだ。
今頃は、脱出ポッドにも変異体の群れが押し寄せているところだろう。同型ポッドの位置を探り出すのに利用できるはずだ。
イナミが気づくと同時に、変異体もぼそりと呟いた。
「……そう。ヒトの生き残りが隠しているようね」
目の前の変異体がカザネの姿を崩し、元の軟体生物の姿に戻る。鞭のようにしならせた腕をイナミの首に巻きつかせた。
「あなたは拒否したけれど、別にどうでもいいのよ。一つになるのは決定事項だから」
言うや否や、変異体たちの腕がイナミを締め上げる。
「ぐ、う……!?」
もはや余力はなかった。
外骨格の節々が軋みを上げる。装甲が砕かれ、肉体が細切れになるのも時間の問題だ。さらには呼吸孔が塞がれて息ができない。
そんな状態にあっても、遠のく意識の中ではもがいているつもりだった。
似た感覚を知っている。
ほんの数時間前のことだ。
変異体と死闘を繰り広げた。
船から飛び出した。
もう一機のポッドを救おうとした。
どうにもならなかった。
ただ絶叫する以外には――
その感覚が蘇ったとき、指先が膜のようなものに『触れた』。
異常な熱が脳に発生する。途端、神経回路が溶接されたかのごとく、五感がでたらめに機能し出した。
目で音を視て、舌で光景を味わい、肌で味に触れ、鼻で触れる物を嗅ぎ、耳で匂いを聞く。
混線した五感が頭に渦巻く。その竜巻の目に、膨れ上がる未知の感覚があった。
イナミはそれに『触れた』のだった。
「――かはっ」
急に呼吸ができるようになって、思わず咳き込む。
気がつくと、変異体の拘束から脱していた。
それどころか、いつの間にか変異体たちの遥か後方に移動しているではないか。
変異体たちが力を緩めたわけではなさそうだ。『せらせら』と音響通信を交わしながら、イナミがどこに消えたのかを探している。
何が起きたのだろうか。
端的には、瞬間的に空間を移動したことになる。まるで亜空間を通ったように。
――亜空間を通ったように、だって?
とにかく難は逃れた。イナミはこの機に走り去ろうとする。
それなのに、左腕が何かに引っかかって動かない。
苛立ちながら視線を落としたイナミは、動揺から体表面のパルス光を激しく乱す。
なんの変哲もない鉄筋が外骨格を貫通していたのだ。
強引に腕を引き抜くと、血が噴き出した。鉄筋のある空間にイナミが移動したから、こうなったのだろうか。
『液体金属』による再生が終わるよりも先に、変異体がこちらに気づいて振り向いた。
と同時に――
がん、と鉄をハンマーで叩くような爆発音が廃都市に響く。
変異体の頭が吹き飛んだ。
奇襲を受け、群れは音のしたほうへと顔を向ける。
イナミは、瓦礫に隠れながらも顔を覗かせ、土煙の中から彼らの姿を見つけた。
薄汚れた重装甲スーツを着込んだ兵士が、背中から展開された補助腕で大型ライフルを構えている。
その横には、マシンガンを携行した十数人の兵士が並んでいた。
他と形状の異なるフルフェイスマスクの兵士が、右腕を掲げ、振り下ろす。
「ミダス体を始末しろ!」
大声で発せられた号令を受け、マシンガンが一斉に火を噴いた。
実験体たちは見る見る穴だらけとなり、地面へ崩れ落ちた。
それでもなお、ナノマシンのアメーバは互いに結合し、個体数を減らしながらも元の人型へ戻ろうとする。
そこへ槍のような武器を構えた兵士たちが突撃した。
細胞群に突き刺さった穂先から青い火花が激しく迸る。ディスチャージャーだ。
戦闘はあっという間に終わった。
まずは銃撃で動きを止め、放電でとどめを刺す。
その流れるような連携から、彼らが変異体との戦いに慣れた精鋭だと分かった。
――『ミダス体』、と呼んでいたようだが。
イナミは逡巡しながらも、外骨格を解除した。
変異体が、クオノは『ヒトの生き残りが隠している』と言っていたのを思い出したのである。
彼らに接触して情報を得るべきだろう。
呼吸を整えてから、瓦礫越しに大声を出した。
「撃たないでくれ! 俺は変異体じゃない!」
兵士たちから動揺の声が上がった。
イナミは両手を上げ、慎重に物陰から出る。
一見すると徒手空拳の青年にも、兵士たちは容赦なくディスチャージャーを向けた。
例の号令を出した兵士が、フェイスガードを展開する。頬が毛むくじゃらで、片目に義眼を移植した男だった。
「ミダス体どもの浅知恵かァ? 潜伏させようったってそうはいかねェぞ」
「違う! 俺は〈ザトウ号〉の船員だ! ポッドで不時着――」
と、そこまで言いかけて、ふと考えた。
自分の身体に埋め込まれているのは軍事技術だ。ここが変異体の言うとおり二百年後の世界であっても、機密は守るべきだろう。
もっといえば、彼らが味方かどうかは、まだ分からないのだ。
男が『船員』という言葉を聞いて、怪訝そうな表情を浮かべている。
イナミは慌てて言い直した。
「不時着したポッドを見て、ここまで来たんだ。あれはどうなったんだ?」
「ポッドだァ? あの漂着物が妙な信号を出していたせいで、ミダス体どもが集まってきやがったんだ。オレたちが来る前に持っていかれちまったよ」
なるほど、とイナミは内心で頷いた。
変異体は救難信号を受け取った。ならば同様に、クオノのポッドからも受け取ったに違いない。それでクオノが不時着したことを知ったのだ。
男は「で?」と顎をしゃくった。
「この陸のど真ん中で、船員たァどういう意味だ」
イナミはクレーターの残骸から閃いて、口から出任せを言った。
「俺たちは船の残骸に住んでいた。だから、『船員』だ」
「ああ」
「だが、あの変異体に全員殺されて――俺はここまで逃げ延びてきたんだ」
嘘は言っていない。
死体の山を実際に見てきた経験が、イナミの目に真実味を持たせた。
男は「ふむ」と唸ると、焼き尽くされた変異体の塵を見やる。
「もう一人いただろォよ。誰かが喰われてたのが見えたんだがなァ」
「気のせいだろう。俺一人しかいない」
「そいつはよかった」
男はにっと笑うと、部下からディスチャージャーを取り上げる。
「おめェの話は分かったよ」
「そうか、……助かった」
「だが、念のために確かめさせてくれや」
男は笑みを浮かべたまま、ディスチャージャーをイナミの腹に押し当てた。
強烈な電流を受け、イナミはその場に崩れ落ちる。放電はすぐに止んだが、手足の痙攣は治まらない。
男の悪びれない声が聞こえた。
「ミダス体なら正体を現すと思ったんだが……おめェは人間らしいな。はっはっは」
接触は間違いだったかもしれない。
その下卑た笑い声を耳にしながら、イナミは気を失った。
〇
はっと飛び起きた拍子に、寝台がぎしりと軋む。
手のひらで台の肌触りや形を確かめる――いや、これは寝台ではない。手術台だ。
真っ白な部屋で、手術台の他には何もない。
どこかの隔離室だろうか。
ふと、今まで見ていたのは夢だったのではないか、と期待を抱く。
当然そんなはずはなく、イナミは自分の恰好に「ああ」と呻いた。〈ザトウ号〉では使われていない、赤い検査衣を着せられていたのである。
床に足を下ろすと、ひやりと冷たい感触が背筋まで上ってくる。
部屋は走り回れるほど広く、ドーム型になっている。
天井にはスプリンクラーが見えた。ここが隔離室なら、閉じ込めた生物を処分するための薬品噴出機だろう。
監視窓はない。出入口も一目では分からないように隠されている。
カメラ、マイク、スピーカーはどこにあるのか――
イナミがうろうろと歩き回っていると、部屋の全方位から男の低い声が聞こえた。
《目覚めたかね》
「ここはどこ……だ?」
何気なく振り返った先に、大男のホログラムが投影されていた。
気密服とは全く異なる、ゆったりとした白い衣服で全身を覆い、さらには仮面で顔を隠している。その得体の知れなさに、イナミは戸惑った。
傍らにはもう一人、同じ恰好をした者が立っていた。こちらは小柄だ。
大男のほうが身体を揺すった。
《我が名はドゥーベ。〈アグリゲート〉を導く七賢人がひとり》
「アグリ……七……なんだ?」
イナミの問いを無視するように、小柄な白ずくめのほうが、女性の声を発する。
《私はベネトナシュ。あなたの身体は検査済み。だから、隔離措置を取っている》
イナミは拳を握り締める。何が『機密』だ。つくづく自分の間抜けぶりに腹が立った。
「……なぜ俺を殺さない」
答えたのはドゥーベのほうだった。
《汝の持つ技術には価値があると、我々は考えておる。〈アグリゲート〉の民が触れるには、まだ早すぎるものだがな》
「何を言って――」
《来訪者よ、取引だ》
男から持ちかけられた提案に、イナミは思わず目を見開く。
これが、事故発生から二十四時間以内に起きた出来事の全てだった。