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船降る星のストラグル  作者: あたりけんぽ
第一部 来し方より訪れし者たち
7/63

漂着:むじゅーりょくじゃなくなった

 脱出装置の搭乗口は、無重力ブロックにしかない。

 事故発生直後、誰かがそう口にしたのをイナミは覚えていた。


 遠心重力ブロックからの移動は安全な道中ではなかった。変異体はまだうようよと船内を徘徊している。


 幸いなのは、知能がそれほど高くないということだ。動く物が目につけば襲うといった程度で、挙句の果てには同士討ちまでしている。もっとも、再生能力が上回って、互いに滅ぼし合うのは不可能だが。


『液体金属』は無線通信機能を有している。同期中の船内管理コンピューターに要請して、船室のドアを開閉させる。

 鞭のように腕を長く伸ばした個体が、音に反応して飛び込んでいった。


 その隙にイナミは通路の角を飛び出し、ブロック間を行き来するためのエレベーターに乗り込む。


 ドアが閉まると、自然と息を吐き出してしまった。一休みだ。


 室内パネルにはエレベーターが遠心重力ブロック内を降りる図が表示されていた。ある位置まで行ったところで待機し、回転のタイミングに合わせて無重力ブロック側のシャフトに横移りする。


 後頭部から生えるケーブルがゆったりと浮き上がった。

 外骨格のブーツは床に吸着できるので、イナミは重力下と同様に動ける。

 クオノはというと、初めて体験する感覚だったらしい。


「……からだ、ふわふわする」

「無重力だ」

「むじゅーりょく?」


 どう言ったらいいものか、イナミもよくは知らなかった。少しだけ考えて、こう説明する。


「身体を押さえる力がない状態、だな」


 すると、クオノは外套代わりのシーツから両手を伸ばし、自分の頭に乗せるのだった。

 イナミはやはりどんな表情を浮かべていいのか分からずに、ただ微笑んだ。フェイスマスクには表れないので、全く伝わらないだろうが。


 エレベーターが静かに停まり、すっとドアが開く。

 脱出装置の搭乗口前も、遠心重力ブロックと変わらず――いや、あれよりもずっと血の臭いが濃い。


 イナミは陰から顔を出し、通路の様子を確かめる。


「…………」


 そこにあった光景をクオノに見せないよう、彼女の小さな頭を抱え込む。


「あ。むじゅーりょくじゃなくなった」


 これは重力ではなくただの人力だ、と訂正できる心の余裕はなかった。

 無数の死体が浮遊していたからだ。


 変異体の侵攻が進むにつれて、恐慌に陥った人々が脱出できないかと詰めかけたのだろう。

 だが、非情なシステムは搭乗口のロックを解除しなかった。

 そこを変異体に襲われたらしい。


 中には軍人も混ざっている。力なく開かれた指に、電磁誘導式ライフルの引き金がまだ引っかかっていた。

 死体を掻き分けて進むイナミは、もはや恐怖を感じなかった。正常な精神状態ではなくなっているのだ。


 搭乗口のドアを探し当て、横にあるはずのパネルへと手を這わせる。

 案の定、入力は受けつけられず、開閉機構はうんともすんともいわない。


 そもそも、イナミは実験体だ。平時なら自室のドアさえ開けられない。

 今はカザネの進言を経て、上級船員の承認のもと、『ゲスト』としてアクセス権限を与えられているに過ぎなかった。


 ――どうすればいい。


 カザネは『クオノがいれば』と言った。

 この子供に何ができるのか。イナミは半信半疑で、クオノに示すようにドアを軽く叩いてみせた。


「ここを開けられるか?」


 クオノはゆっくりと首を傾げる。まるで『ドアとは開くものだ』ということさえ知らない様子だった。


 やはり、無理なようだ。自分で突破しなければならない。

 とはいえイナミも大概で、ドアが電力で動いていると知っている程度である。


 ――パネルを叩き割り、中から配線を引き抜く。そこに生体電流を放出しておかしくさせてやれば、誤作動を起こすかもしれない。


 よし、とクオノを抱え直したときだった。


 突然、パネルディスプレイが明るくなり、灯っていた赤色のランプが緑色に変わった。

 それまで何人たりとも通さなかったドアがすんなりとスライドする。今まで失念していた使命を思い出したかのように。


 クオノがすっと指を差す。


「あいた」


 イナミは呆然とクオノの顔を見つめる。


 ――何をやったんだ。


「おねがいしただけ」


 ――()()()()


 イナミは心の中で尋ね返してから、妙な違和感を覚えた。

 何に対してかに気づき、思わず発声器官のある喉元に手を運びかけてしまう。


 自分は口に出してはいない。なのに、クオノは答えた。なぜ。


 あどけない外見に騙されてはいけない。

 研究員がクオノの力に頼ろうとしていたのなら、イナミがそうであるように、現状において成果を上げている実験体には違いないのだ。


 とにかく、第一関門は突破した。詮索は後だ。

 イナミは中に足を踏み入れる。清潔な床に靴底の血が粘りつくのを感じた。


 ――皮肉だな。〈ザトウ号〉の脱出装置に辿り着いた、最初の船員というワケだ。


 搭乗口にはいくつもの気密扉が並び、それぞれの前にコンソールが置かれている。入室者の存在を感知して電源が入り、タッチパネルに何かを表示した。


『脱出ポッド射出手順』


 ポッドとは装置の呼称か。

 この手順に従って準備をすればいいのだろう。パネルに手を置くと、目の前の気密扉がごとんと音を立てて左右に開いた。


 その先は接続路、そして船外へとポッドを射出するためのシャフト、という構造だ。


 ポッドもハッチを開いた状態で待機している。

 狭いコクピット内に、シートとコンソール。左右の壁には糧食や酸素吸引マスクなどが収納されていると先ほどの説明にはあった。


 発進方法は実に単純だ。


 その一、シートに身体を固定。

 その二、外または中のコンソールで発進ボタンを押し、電磁誘導でシャフトから射出。

 その三、救援信号は自動で発信される。後は快適な漂流生活を。


 とりあえず、クオノをシートに座らせる。

 子供用のクッション調整機能があるとのことだったので、シート下部のスイッチを押してみたところ、小さな身体が深く沈み込んだ。

 自分でも外せるように、ベルト装着を見せながら行う。


「わかった」


 と、クオノが頷いたので、イナミは立ち上がって一息ついた。


「こいつにナビはついているのか?」

《はい。ご質問を承ります、イナミ》


 スピーカーから男性の電子音声が響いた。

 よかった。中途半端な知識であれこれと言うより、ナビに任せたほうが安心――


 違和感再び。


 ――聞き間違いでなければ、こいつは今、俺の名前を呼ばなかったか?


『イナミ』はカザネたちが勝手につけた名前に過ぎない。

 実験体はシステム的には存在しない者なのである。今は同期して『ゲスト』と認めている者を、どうしてナビは『イナミ』と呼んだのか。


 イナミは数々の疑問を振り払おうと、軽く頭を横に振った。

 今、問題なのは、ちゃんと発進できるのか。それから、後のことだ。


「ずっと使われていなかったようだが、食糧や酸素は常備されているのか?」

《はい。二週間は当機の用意で生存可能です》


 二週間。それまでに救助されなければ、餓死か窒息死を迎えることになる。

 密室でただ死を待つような状況を想像すると、麻痺していた恐怖心が再び膨らみ始めた。


 問題はまだある。


 このポッドがどう見ても一人乗りの脱出装置ということだった。

 二人で乗り込めば、片方は小さな子供と考えても消耗量が大きくなる。逆に考えれば、小さな子供一人なら猶予が伸びるかもしれない――


 クオノが控えめに口を開く。


「これからそとでどんなじっけんをするの?」


 その言葉に、イナミは胸を締めつけられ、苦しげにかぶりを振った。


「実験じゃない。お前はこれから、俺と外で生きていくんだ」

「いきていくって、なに?」

「さあ。実験体同士、これからの生き方を考えなければな」

「じっけんたい、どうし?」

「俺もお前と同じなんだ。これの実験をしていた」


 と、胸を手のひらで叩いてみせる。

 クオノの眼差しが急に興味深げに輝いたような気がした。今まで以上に、イナミの一挙一動を観察している。


 ――やっぱり、一人で宇宙に放り出すのは不安だ。


 視線に負けたわけではないが、イナミは自分も乗り込むことを決断した。いざとなれば絶食すればいい。

 姿勢を固定するために掴まれる場所を探していると――


「だれかきた」


 イナミは弾かれたように振り返る。入室者はいない。

 依然として、クオノはここではないどこかを見ているようだった。


「誰だ?」


 自分でも驚くほど声が震えてしまった。

 来たのが船員なら、それと分かるはずだった。


 通路前のカメラを視界に呼び出してすぐ、大きな影が画面に映り込む。

 クオノは船内を徘徊する者の脅威を知らずに訊いてくる。


「あの人も、じっけんたい?」

「そのとおりだが、あれはもう人間じゃない……!」


 イナミはポッドに飛び乗り、コンソールパネルに表示された射出ボタンに手を伸ばした。


 同時に、がん! と凄まじい音が轟いた。


 ぎょっとして顔を上げると、閉ざされたドアがへこんでいる。変異体が叩いたのだ。

 しかし、どんな力で殴れば、この分厚い扉を歪ませることができるのか。


 がん! 殴打はさらに続いた。

 がん! 見る見るドアがひしゃげる。

 がん! 次の一撃でロックが破壊された。


 イナミは構わずボタンを押した。


《このポッドは一人用です。発進できません》

「クオノ! 俺も一緒に乗れるように、こいつをなんとかできないか?」


 間髪を置かず、


《着席を()()


 イナミはようやく確信した。この精神感応(テレパシー)じみた高度なハッキング能力が、クオノの『力』なのだろう。

 脳機能拡張実験の話は聞いたことがあった。その過程で異能力を持った子供が生まれたということも。


 ポッドのハッチがゆっくりと閉じようとする。

 それよりも先に、ドアが破壊された。


 最後の一撃でスライドレールから外れたドアが、外のコンソールパネルに直撃。

 機器の破砕音に、さしものクオノも肩をびくりと跳ね上げた。


 侵入してきたのは、身体に船員の死体を絡みつかせた、巨躯(きょく)の持ち主だった。


 剥き出しの頭に毛はなく、ぬめっており、目は血走って赤く、唇は捲れて、歯を剥き出しにしている。

 活性化したナノマシンがオーバーヒートを起こしているのが、身体から立ち昇る煙で分かった。


 イナミと同じように、足を床に吸着させている。重い足音を立て、宙に舞う機械の部品を弾きながら、閉じかけの気密扉に手をかけた。

 恐るべき力だ。気密扉が見る見るこじ開けられていく。ついには部品がばきぼきとへし折れた。


 このままではポッドに到達されてしまう。

 そう判断したイナミは――ちらりとクオノを見て――ポッドから飛び出した。重力下と同じように動いたせいで体が流れる。接続路側面に手をつけてから、再び足を下ろした。


「先に行け! 俺は別のポッドで後を追う!」


 クオノの返事を待つ余裕はなかった。


 イナミは手の塞がっている変異体に体当たりをし、密着状態での放電を試みる。

 高圧電流が、変異体に絡みついた肉と合成繊維の鎧を焼く。


 が、本体までダメージは通らなかった。度重なる放電で生体エネルギーが枯渇し、激しい眩暈と吐き気が訪れたのだ。


 変異体が「ゴアァアァ!」と咆哮を上げた。どうした、おしまいか、とばかりに。


 棒立ちのイナミは、片手で顔を鷲掴みにされた。接続路から軽々と引きずり出され、力任せに背後へと放り投げられる。


 一瞬の浮遊感。

 直後、身体が貫かれたと思うほどの衝撃に襲われた。壁に激突したのだ。


 ライフル弾を通さない装甲も、衝撃の完全な吸収はできない。殺しきれなかった力は体内に浸透して内臓を損傷させる。

 装甲の継ぎ目から噴出した血液が、ばちばちと音を立てて泡立つ。『液体金属』の分子が高熱で爆ぜたのである。


 イナミは意識を失いかけた。

 しかし、耳は音を拾い続けていた。確かに、その声は届いたのだった。


「イナミ!」


 叫んだのは、クオノだ。

 初めて名前を呼んでくれた瞬間だった。


 イナミははっとして前を見る。歪んだ視界に、変異体の姿が映った。拳を振り下ろそうとしている。


 無重力では回避しようがない。

 そして直撃を受ければ、今度こそ意識を絶たれるだろう。


 無重力下で動く方法は――

 船外作業着はガス噴射機能を搭載しているというが、息を吐き出しての急制動は不可能だ。


 でなければ――そうだ。

 イナミの脳裡に、手足を広げて宙を舞っていた死体の姿がよぎる。


 咄嗟に外骨格を全解除。『液体金属』が渦巻く力を利用して身体をねじり、間一髪、殴打をかわす。

 伸び切った変異体の腕を蹴ったイナミは、壁に戻って外骨格を再形成。手すりを掴んで床に戻った。


 変異体が忌々しげにイナミを睨む。

 生体電流も使えない今、まともに戦える相手ではない。


 イナミ、と呼ぶ声が再び聞こえた気がした。

 幸いにもハッチはほとんど閉じ終わり、クオノの姿は見えなくなっていた。


「クオノ! 必ずそばにいるからな! 必ずだ!」


 声が届いたかは分からなかった。

 ハッチが完全に閉鎖された。

 シャフトの出口が開放。破損した気密扉が閉じないまま、船内の空気が一気に外へ流れ出す。


 上半身が引き寄せられる。シャフトに吸い込まれたら、まず助からない。ブーツの吸着をさらに強める。


 クオノを結局一人にさせてしまった後悔を抱き、ポッドの射出を見送る。

 青い火花を散らしながら、ポッドが加速。あっという間にクオノは〈ザトウ号〉から飛び立っていった。


 後は自分が脱出するだけだ。


《亜空間潜航まで百八十秒。室内に待機し、姿勢を固定してください》

「……くっ」


 他のコンソールパネルを叩き、気密扉を開けさせて用意させる。だが、この変異体をなんとかしなければ、またポッドから引きずりだされてしまう。


 考えている間にも、変異体は両腕を振り回して襲いかかってくる。

 その動きが、なぜか先ほどよりも緩慢に見えた。


 理由は単純明快、イナミと同じだ。


 変異体はエネルギーの消耗を度外視して、肉体の活性化を続けている。

 逃げ回れば自滅を誘えるかもしれないが――


 そのプランをイナミは即座に破棄する。

 逃れる自信がなかった上、どの程度の時間を要するかも分からない。


 なら、もっと簡単に行こうではないか。

 イナミは大振りのラリアットを掻い潜って通路に戻ると、兵士の手からライフルを奪って構える。


 初めての射撃だった。

 ストックを肩に当て、頬をつける。脇を締め、銃を水平に。

 後は精密に狙う必要などなかった。火力は自分の身体と船員の死体で思い知っている。そして、カザネ――掠めただけで重傷となる。


 引き金を引く。銃口からライフル弾が発射された。

 外装は電磁誘導の負荷で蒸発しつつ、残った弾頭が変異体の鎧を穿(うが)った。


 攻撃は今度こそ本体に届いた。突き抜けたライフル弾が壁に当たって跳ね返る。

 ナノマシンがすぐに再生を始めるが、それにもエネルギーを消耗しているはずだ。イナミは畳みかけるように連射する。


 変異体の再生は間に合わない。

 ライフルの銃身が過熱し、銃弾が底をつく。


 そのときにはもう、変異体はたゆたう無数のアメーバと化していた。

 ライフルを捨てたイナミは、その中を突っ切ってポッドに乗り込んだ。


 素早くベルトを取りつけ、機内コンソールの射出ボタンにタッチ。

 ハッチが閉じていく中で、ナビが能天気に注意喚起を促した。


《射出時には体に負荷がかかります。ご注意ください》

「いいから、早く出せ!」

《射出五秒前。……三、二、一――ゼロ》


 ふっと体が浮き、ベルトに押さえつけられる。シャフト内で加速を始めたのだ。


 ――クオノは耐えられただろうか。


 人を心配している間に、その負荷はあっさりと消えた。

 コンソール上にホログラムディスプレイが浮かび上がり、外の様子が映し出される。

 そこはすでに、果てまで真っ暗闇の宇宙だった。


〈ザトウ号〉が光を発しているからか、星の光も見えない。

 月と地球はすぐに見つかった。あの青い惑星のどこかに、カザネの故郷――日本がある。


 脱出を終え、イナミは大きく息を吐き出した。


 ――救助されたら、日本を目指そう。


 もちろん、クオノとともに、である。


 カメラを動かすと、クオノのポッドがそばにいた。先に減速して、漂流を開始している。

 乗り込むときには分からなかったが、その形状は卵型で、かなり小さく見える。これで通りかかった船が気づくものなのだろうか。


 そろそろ亜空間潜航の時間だ。

〈ザトウ号〉の船首から高密度エネルギー体が二発同時に発射され、前方で衝突。余波は周囲に広がることなく、逆に収束する。


 ブラックホールに似た球体状のゲートが開いたのだ。

 エネルギー波は亜空間内部を()()し、通り道(トンネル)を作り出すという。


 白銀の〈ザトウ号〉はそのトンネルへと進入していった。

 船首から消失していく光景は、まるで、物体が分子レベルで分解されているようだ。


 亜空間に時間という概念は存在しない。

 だから、三次元空間から客観的に見たとき、潜航移動する船舶は遠距離を一瞬で移動しているように見える。


 また、三次元空間の存在である人や機器も、トンネル内部の世界を認識できない。

 その性質から、出口を設定せずに沈んだ物体は、亜空間の中で永遠に『凍りつく』ことになるのである。


 イナミは、ベッドカプセルに寝かせたカザネを想う。

 遺体は腐敗することなく、あの棺の中でいつまでも眠り続けるのだろう。


 今、船尾も亜空間に呑み込まれた。

 悔しさに拳を握り締めながら、三次元空間に押し潰されていく球体を見届けていると――


《異常力場に捕捉されました。当機は流されています》


 と、ナビが耳障りな警告音を発した。


「……あ?」


 なんのことかと、ディスプレイを凝視する。


 ――流されている? どこへ?


 そうして数秒後、ポッドがゲートから離れるのではなく、()()()()()()ことに気づいた。


「なぜゲートに向かっているんだ!」

《異常力場は『引き波』と推測》

「なんだそれは」

《巨大質量が空間から消失する際、周囲の物体が消失地点に引き寄せられる現象です》

「つまり?」

《当機の推進能力では離脱不可能》


 それ以上、ナビは何も言わなかった。

 脱出するのが遅すぎたのだ。『離脱不可能』とは、このポッドも間もなく亜空間に呑み込まれることを意味している。


 助からない。

 イナミは言葉を失うほどの虚脱感と、喚き散らしたい衝動を同時に抱く。


 だが、絶望している場合ではない。

 加速をまだ失っていない自機が危機に陥っているということは――


 弾かれたようにカメラをゲートとは別の方向に向ける。


「う……」


 悪い予感は当たってしまった。

 先に減速したクオノのポッドが、さっきよりも近づいて見えた。それどころか、接近速度が徐々に上がっている。このままではこちらを追い越して亜空間に突入してしまう。


「向こうを押し返す手段はないのか!?」

《作業用アームがありますが、この状況では危険――》

「展開しろ!」


 ポッドの側面から二本のアームが伸びる。

 だが、クオノのポッドは間に合わずに衝突。アームの破片を撒き散らしながら、そのままイナミのすぐ横をすり抜けていった。

 こちらは姿勢制御不能に陥り、スピンを始める。


「ああ……ああ……!」


 ぎりぎりのところで保たれていた理性が、取ってつけた使命感が、最後の希望が、遠心分離していく。

 錯乱状態に陥ったイナミは無謀にも外に出ようとした。

 ベルトを外した瞬間、ハッチに叩きつけられる。手動開閉レバーを引くことはできたが、ロックが解除されない。


 ディスプレイに映っている外の光景は、まるでコマ送りの映像だ。

 クオノのポッドが果物のようにすり下ろされていく。


「まだだ、まだ救えるはずだ!」


 捕獲対象を見失ったと伝えるナビの報告は聞こえていなかった。

 イナミはあの巨大な変異体のようにハッチを突き破ろうと、拳を何度も叩きつける。


「誰も守れない! 殺すしか能がない! くそっ、くそっ! 何ができる! 俺には力があるんだろうが! そうじゃないのか、カザネ!」


 外骨格の悲鳴と、自分のものではないような喚き声が、機内に反響する。


 不意に、目の前からハッチが消えた。

 機体がゲートの境界面に接触したのだ。

 突き出した拳が視界に広がる暗闇へと沈んだ。肘から先が痛みもなく消え失せる。


 亜空間はあっという間にイナミを丸呑みにして――

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