漂着:私たちがしてきたこと
二十五世紀は、『亜空間航行』の技術が発達し、人や物の運搬コストが一気に削減された時代だった。
同時かつ同一座標への浮上事故を避けるための、『亜空間ポート』の建設計画が持ち上がり、近隣惑星ですでに進んでいた以上の大規模開発が実現しようとしていたのだ。
しかし、ある問題が、全ての計画をストップさせた。
まっさらな大地に眠る資源は、一体、どこの国の物なのか。
何世紀も以前に締結された〈宇宙条約〉は、とっくに形骸化していた。
月面資源の採掘を巡り、大国が主導して境界を定めたのだ。
初めは占拠という形で。
次に牽制という形で。
以来、境界線付近でも、国際会議のテーブル上でも、小競り合いが絶えることはなかった。
ましてや、人の住める未開拓惑星となれば――
来る〈大気圏外戦争〉に備え、各国の軍事予算は年々膨らみつつあった。
そんな時代に、イナミは生を受けたのだった。
〇
月の公転軌道外を航行する生体実験施設船〈ザトウ号〉。
この施設はヒトクローン培養装置を持ち、人体改造実験を主としている。
国際条約で禁止された研究だが、科学者たちは、宇宙進出時代において人間の肉体に限界が来ている、そのために新たな肉体を作る必要がある、と考えていた。
資金を提供していたのは軍だった。
人造兵士量産計画、そして超人生産計画の一環として、研究は極秘裏に進められたのだ。
表向き、〈ザトウ号〉は民間物資輸送船として航行していた。
だから、そう、この船の末路は『貨物運搬中の事故』として報道されたに違いない。
そのとき、イナミは数少ない真実の証言者となりつつあった。
耳障りな警報は三十分ほど経ったところで打ち切られた。
船員八百名前後のうち、『自殺』の瞬間を迎えられた者は何十人といただろうか。
船内は遠心重力機構のおかげで、宇宙空間でも床に足をつけていられる。
そして、通路には何人もの死体が転がっていた。
気密性の高いフィットスーツとヘルメット――緊急時マニュアルに定められたNBC防護服を装備している。
NBCとは、放射能と生物、それから化学物質の略だ。
その防護服も、彼らが生み出した生物兵器と奪われた銃火器の前には、なんら防御性を発揮しなかった。
脱出機構は全てロックされている。
逃げ場のない密室で彼らができたことは、泣き喚きながら逃げ惑うか、覚悟を決めて祈りを捧げるか。
どちらにしても、多国籍の船員同士が平等だったのと同じように、死は誰にでも平等に訪れた。
手足を吹き飛ばされた者がいれば、内臓をぶち撒けている者もいる。
地獄絵図の中で、イナミは未だ奔走していた。
敵を殲滅すれば、〈ザトウ号〉の『自殺』は避けられるかもしれない。せめて、まだ生き残っている十数人を救えるかもしれない。
この状況を引っくり返すような手があれば――
そんなものはない。不可能だ。おしまいなのだ。
そうと分かっていて、それでも刻まれた命令に従うまま、イナミは『その時』まで戦い続けることを強いられていた。
救助対象の『最優先』と上級船員が死に、優先順位がようやく『彼女』まで回ってきた。
体力的にも精神的にも疲弊しきっている。
イナミが歩みを進めると、血の川にびちゃりと波紋が広がった。脚に付着していた乾いて黒ずんでいた体液に、新しいものが上塗りされる。
音に敏感な敵がこちらに振り向いた。
虐殺者は、犠牲者と同じ気密服を着込んだ船員だ。
だが、その個体は、背中からもう一対の腕を生やしていた。
腕は皮を剥いだように赤々と濡れている。
寄生した自己組成型ナノマシンが、船員の肉体を材料に新たな部位を構築したのである。
電磁誘導式ライフルの銃把と引き金をヒトの手で握り、怪物の手で重い銃身を支えている。
それを二挺、左右の腕それぞれに携えていた。
ライフルに恐れず、イナミがもう一歩近づく。
青白いパルス光を放つ、黒い外骨格に覆われた異形。
その姿に戸惑った変異体が、びくりと腕の血管と筋肉を蠢かせた。ヘルメットの中から呻き声が洩れる。
視線を感じたイナミは壁に拳を叩きつけた。甲高い音が通路の奥まで響き渡る。
「そんな目で俺を見るな! 俺はお前の敵だッ!」
剥き出しの敵意に反応し、変異体はライフルの照準をこちらに合わせる。
電磁誘導式ライフルの発射音は、火薬式と違って恐ろしく静かだ。
撃たれた、と思った次の瞬間には首から上が粉砕されていることだろう。
そして今、発射機構の音がかすかに聞こえた。
ライフル弾が顔面に直撃する。
衝撃を受けて頭を仰け反らせた。
それだけだ。
続く連射で思わずたたらを踏む。
しかし、それだけなのだ。
相手が化け物なら、自分もまた化け物であることには違いない。
イナミは下がる足を踏ん張り、銃撃に構わず突っ込んだ。
視界の周りでは火花が散り、背後には砕けた銃弾の破片が血に沈んでいく。
一息に敵へ駆け寄ったイナミは、二挺のライフルの間に身体を滑り込ませ、ヘルメットに固く握りしめた拳を突き入れた。
頭部を守る有機ガラスにひびが入る――直前、赤黒く変色した男の顔を見てしまう。
ナノマシンに寄生された船員は友人だった。
拳が顔面にめり込み、小さな器の中身を容赦なく叩き潰す。
ヘルメット内に赤い液体がどっと溢れた。
その生温かさが指先から脳へと伝達され、イナミは身体を強張らせる。
――どうして俺は彼を殺しているのだろう。
考えるな。彼はもう死んだ後だ。これはただの肉の塊なのだ。
だからといって、躊躇なく破壊できるものだろうか。自分も狂気に侵されつつあるのではないか。
実験体を処分してきた船員は、どのように割り切っていたのだろう。
今、イナミが考えていることと同じだろうか。
『俺たちはすべきことをしているだけ』
何も考えなくていい。ただ、実行すればいい。
――それが本当に正しいのか?
変異体の再生が始まり、肉が拳に絡みついてきた。
イナミは一瞬の迷いを振り切り、生体エネルギーから変換した電気を放出。ヘルメット内部でスパークが迸り、有機ガラスが輝く。
変異体は四本腕を引きつらせ、二挺のライフルを手から落とした。川は浅く、ごとん、と底に当たる重い音がした。
腕を引き抜くと、肉の焦げる臭いがヘルメットに開いた穴から漂った。
感電死した変異体は後ろ向きに倒れ、自らが作り上げた死者の列に加わる。
この通路の殲滅はこれで完了だ。
イナミは死体を跨いで先に進もうとした。
が、血の中に沈んでいた変異体の腕に躓いてしまう。バランスを崩し、壁に倒れて肩を強く打ちつけた。パルス光の明滅が乱れる。
「……っ」
生体エネルギーを電気に変換して放出するのは、まともな攻撃方法ではない。
敵を殺すたびに衰弱し、手足が重くなる。
精神も摩耗して、死者たちが身体にしがみついているのではないか、という妄想が芽生えつつあった。
「しっかり、しろ……」
まだ倒れるわけにはいかないのだ。
壁に手をつきながらも、ようやく辿り着いた先に、その船室はあった。
ナンバープレートを確かめる。イナミの司令塔になっている〈ザトウ号〉のコンピューターによれば、『実験体九一〇号』の船室として登録されていた。
中から、生存者一名のシグナルが検知されている。
女性研究員カザネ・ミカナギのものだ。
ドアにはロックがかけられていた。ライフルの弾痕がある。彼女はここへ駆け込んだ後、ぎりぎりのところで籠城に成功したようだ。
――それにしても、なぜ、こんなところに?
イナミは身体に付着した血液を放電で焼いた。
その拍子に眩暈を起こし、ドアに深く寄りかかる。
「……カザネ、俺だ! 開けてくれ!」
その呼びかけに反応はなかった。
――どうした、敵は俺がやっつけたぞ。
精神の摩耗から、気が短くなっていたイナミはドアを叩こうとして――
ロックが解除された。イナミを検知したドアが自動でスライドする。
安堵の吐息をつき、隙間へ身体を滑り込ませた。
「カザネ、無事――か?」
爪先が、こん、と硬い何かを蹴り飛ばした。
部屋の隅に転がっていったのは、取り外されたヘルメットだ。
だが、イナミは自分が物を蹴ったことに気づかなかった。
壁に背を預けて座り込む彼女が、真っ先に視界に飛び込んだのである。
肩にかかる黒髪、黒縁眼鏡、二十代後半にしては童顔の、聡明な女性。
カザネ・ミカナギは穏やかな微笑で、凍りついているイナミを迎えた。
ベッドカプセルから引きずり出したシーツで脇腹を押さえながら。
純白の布地は、おびただしい鮮血で赤く染まっていた。
「イ……ナミ……」
「カザネ!」
イナミは駆け寄りたい衝動を堪え、カザネの傍らに寄り添う銀髪の幼児を見た。
傷を押さえる手伝いをしているつもりなのか、カザネが着けている気密服のグローブに、小さな手を乗せている。
実験体九一〇号だ。
計測用マイクロチップを搭載したスーツを着ているので、間違いない。
九一〇号は感情が欠落した青い瞳で、じっと外骨格姿のイナミを見つめ返す。
そばにいる女性が死にかけているのだと分からなければ、きっとイナミのことも『そういう形をした者』と認識しているのだろう。
九一〇号がカザネに危害を加えたのではなさそうだ。
そう判断したイナミはカザネのそばに膝をつき、九一〇号に「感謝する」と短く言った。
きょとんと首を傾げる九一〇号の手と、全く力が入っていないカザネの手をどけて、そっとシーツを捲る。
「う……」
銃創だ。ライフル弾が掠めたのだろう。
それでも、脇腹は深く抉れていた。内臓も衝撃で損傷している。
致命傷だ。
というより、まだ意識を失っていないのが奇跡的だ。
ふと、カザネと顔が合った。眼鏡のレンズに血がこびりついている。
イナミは頭部外骨格を解除し、平静を装って言った。
「今すぐ医務室に連れていってやる」
カザネが「ふふっ」と息を洩らした。声は、ぞっとするほど、か細い。
「助からないことくらい……自分で分かるわ……」
「諦めるな! 手術すればまだ――」
呼びかけるイナミの頬に、彼女の手がそっと触れた。
その手が落ちる前に、イナミは両手で握り返した。グローブ越しでは、彼女に温もりが残っているのかも分からない。
――お前が間に合わなかったせいで彼女はこうなった。
――俺が駆けつけていたら、彼女はこうなっていなかったのか?
イナミはなんでもいいから何か言おうとして、ただ口を開くことしかできなかった。首を絞められているかのように息苦しかった。
カザネの目に、死への恐怖は窺えない。
「お願い……」
その言葉に、イナミは気を強く持たざるを得なかった。カザネは自分に何かを伝えようとして、懸命に意識を繋ぎ止めていたのだ。
身を乗り出して、彼女の口元に耳を持っていく。
「この子を……クオノを守ってあげて……」
「クオノ?」
カザネが言う『この子』とは、九一〇号のことだろう。
九一〇号――クオノは、カザネが管理している実験体ではない。
恐らくは別の研究チームがつけた名前だ。その研究員たちはすでに死んでいるのだろう。だから、カザネがここに来たのかもしれない。
別の、研究。
〈ザトウ号〉は様々な人体改造をクローンで試していた。
一体、クオノは何を試されたのだろうか。
訝しむのは後だ。カザネが続きをどうにか絞り出そうとしている。
「二人で……船から脱出して……」
「無理だ。脱出装置はどこもロックされている」
彼女もそのことは承知しているはずだった。
軍事研究の漏洩は絶対に阻止しなければならない。
〈ザトウ号〉が緊急時にこそ牢獄と化すのは、あらかじめ決まっていた措置だ。
もしも事態が収拾できない場合には、二次被害を防ぐため、誰の手にも触れられないようにする必要があった。
そのために現在、亜空間航行を利用した隠蔽――出口を設定せず、永遠に亜空間をさまよう『自殺』の準備が進められているのだ。
表情を曇らせていると、カザネが「大丈夫よ」と声をかける。
「クオノがいれば……システムはあなたたちだけでも……」
どういうことか、全く分からない。
いずれにしても、だ。
イナミはカザネに強い語調で言い聞かせようとした。
「俺はここに残る。脱出装置を動かせるなら、他の生存者も――」
「見捨てて」
思わずはっと顔を上げてしまうほど、冷酷なカザネの一言だった。
「時間がない……あなたには生き延びてほしいの、一七三号」
彼女の口から実験体ナンバーで呼ばれたのは、まだ『イナミ』という名を与えられていなかったときのことだった。
イナミの脳裡に、原初の記憶が想起される。
培養装置から出て『液体金属』の移植手術を受けた後。意識が目覚めたときに初めて見たものが、カザネの微笑だった。
『おはよう、一七三号。気分はどう?』
『……目覚めは良好です』
イナミは今、堪え切れずに吐き捨てた。
「最悪だ。俺だけ生き残って……こんな身体がなんの役に立つって言うんだ! 誰も守れなかった!」
「バカ言わないで」
子供を叱りつけるような調子の声に、イナミはびくりと肩を震わせた。
「あなたたちは、私たちの希望なの」
「……希望、だって?」
「ええ。あなたたちが、未来を切り拓く力になるって……」
言葉の途中で、掴んでいたカザネの手から急速に力が抜けていくのが分かった。
彼女は口を半開きにして、溜息をつく。笑おうとしているのかもしれない。
濁った瞳が虚空を見つめる。
「そう信じたい。私たちがしてきたことは……間違いじゃないって。だから、あなたも……」
そして、彼女はゆっくりと肩を下ろして――
それきり、声を発することはなかった。
「……カザネ?」
イナミが声をかけても、反応しない。
ずっと握り締めていた手を離し、彼女の細い首に触れる。
脈がない。
脇腹の出血も勢いはほとんどなかった。心臓が鼓動を止めたせいで血液が送られなくなったのだ。すぐに体温も失われて、筋肉の硬直が始まるのだろう。
カザネが、死んだ。
今までのように、ここにある身体を単なる物だと思い込めば、喪失感をごまかせるかもしれない。
しかし、イナミには不可能だった。
死んだのは、他の誰でもない、カザネ・ミカナギだ。
これから多大な功績を上げていたかもしれない。それこそ彼女が望んだように、人類の新たな可能性を開拓することだってできたかもしれないのに。
その生涯が、あっけなく閉ざされてしまった。
「未来を切り拓く力?」
イナミは唇を歪め、大きくかぶりを振った。
「何が……未来だ! そんなもの、俺には必要ない! ただここにいられるだけで――お前といられたら――それでよかったのに!」
イナミの自我は、実験体が持つには大きくなりすぎていた。
変異体の殲滅――船員だった者たちの殺戮。
その連続で感情の歯止めが利かなくなっていたイナミは、どうしようもなくなって床を殴った。
痺れが、拳から肘、肩、そして脳にまで伝わる。
もう、何もかもおしまいだ。
無力感に肉体までも支配されかけたときだった。
《亜空間潜航まで、後、六百秒。船員は自室に待機してください》
女性の機械音声に、イナミは手をぴくりと動かした。
いいや、違う。
おしまいでないものが、まだひとつだけある。
イナミはこちらをじっと見つめている視線にようやく気づいた。
クオノが床にぺたんと尻をつけて座っている。
自分自身は役立たずの生物兵器だ。
だが、この少女がどうかは分からない。研究員たちが命を懸けるほどの、本当に未来を変えるような、価値のある力を持っているのかもしれない。
それこそがカザネの見出した希望だというのなら――
イナミの目に暗い輝きが戻る。
命令はすでに与えられている。
「クオノを連れて、脱出する……」
そして、クオノを守り続ける。かろうじて自分の存在意義が残されているとすれば、それしかない。
「そうだな、カザネ」
イナミは物言わぬ彼女を抱き締め、そっと囁いた。
返事はない。もう誰も、イナミに物を教える者はいない。自分で判断するしかない。
イナミは疲労が蓄積して重い身体に鞭を打ち、よろよろと立ち上がった。
「行くぞ、クオノ」
クオノはたどたどしい言葉遣いで尋ねる。
「どこに?」
「船の外だ」
「ふね、って何?」
「ここのことだ」
「そと、って何?」
「……それは俺にも分からない」
問答を繰り返す間に、シーツの血で汚れた部分を引き裂いて、綺麗なほうをクオノの身体に巻きつける。
アセンブラーナノマシンは、血中に注入されて初めて活動を開始する。
空気中に舞った微粒子が皮膚に接触したとしても、そこから人体に侵入することはない。
だが、念のため、吸引を防いだほうがいい。
船室には空のベッドカプセルが残された。
クオノをカプセルの縁に座らせ、カザネの遺体を中に納める。
このまま、〈ザトウ号〉とともに彼女の肉体は空間から消失するのだろう。
そう思うと、何か、彼女は確かに存在したのだと感じられる物が欲しくなった。
持っていける物は何かないか――
一つだけあった。
胸部外骨格を開き、彼女から取り外した黒縁眼鏡をインナーウェアの襟に挟む。再び外骨格を纏えばどこかに落とすこともない。不離一体だ。
――こういうのを『形見』と言うんだったな。
横では、クオノがカプセルを覗き込んでいた。
「このひとは? ねてるの?」
イナミの外骨格に灯る乱れがちなパルス光が、やがて弱々しい輝きとなる。
「死んだよ。もう動かない。だから、ここに置いていくんだ」
クオノは理解していない様子で、再び静かにこちらを見上げた。
イナミは少女を抱き上げ、命尽きてなお美しい女性の眠る姿を記憶にしかと刻みつける。淡々と事実を告げたのは、自分にそのことを思い知らせるためだった。感情を抑圧するための、イナミにできる唯一の術だった。
自分は任務を継続するのだ。
こんなところに留まる理由は、もう何もない。
そうしてイナミは、クオノを連れて血生臭い通路に飛び出した。