姉妹:ちゃんと分かってるんです
運動用のコート、机が並ぶ部屋ばかりの建物、案内された寮。
ここは『学校』と呼ばれる施設らしい。
〈アグリゲート〉では、通信教育が一般的だ。
疑似人格を持つAIを教師につけて、個人のレベルに応じた学習を自室で享受できる。このシステムは、機関が『芽』を見つける手段の一つなのだ。
同年代の子供と出会う機会はほぼ失われつつも、仮想空間上に広がるコミュニティで社交性を育むことはできる。
〈大崩落〉による人口激減の影響で、成人年齢が十五歳と定められたのも相まって、社会では早熟な精神を持つ少年少女が活躍していた。
一方で、その教育システムに異を唱える者も少なくはない。
子供たちは互いの存在を肌で感じられる空間でコミュニティを築くべきだ、という考え方もあったのだ。
原型はあった。技術が復元される以前は、知識の継承は口伝に頼るほかなかった。学ぶ意欲を持つ者が自然と集まり、機関が組織されるきっかけとなった。
そこにシステムが加わることで、管理が容易となる。分化やシンギュラリティに目覚めた新時代の子供たちがどう成長するか。学校施設は集団検査に打ってつけだった。
もっと切実な理由として、孤児養育の役割が期待された。
都市が機能する以前、孤児は路頭に迷って餓死するか、犯罪者になるか、大人たちに搾取されるか――明るい未来は失われたも同然だった。
子供がいなくなれば、人類は老衰する。それだけは阻止しなければならない。
最悪、感染力の強い病原菌の媒体となる危険もある。健康管理を行う学校施設は防疫機関にもなりえた。
……というわけで、通信教育が主流となった今でも、『学校』は一定の信頼を寄せられる組織なのだった。
中でも、この〈アレクサンドリナ女子寮学校〉は、高度な教育、社会性の発達を目的に創設された、今年で七十五年目を迎える名門である――
と、軽く調べ終えたイナミは、リストデバイスをスリープ状態に戻した。
着替えにいったラジエットを寮の応接室で待っているのだ。
耐火加工された木材が、壁や床、柱に使われている。木に馴染みのないイナミでさえも感じる暖かみが、部屋全体に滲み出ているようだった。
ソファのクッションも、宿舎の物より柔らかい。
ただどうも、いまいち落ち着けない。
「あの人がそう?」
「わー、なんか真面目そうな人」
先ほどから寮に住んでいる少女たちが、代わる代わるイナミの顔を覗きに来ていた。
ラジエットが連れ込んだ男、ということで興味を抱かれているらしい。
物理的に閉鎖的な環境だからか、噂や与太話が広まりやすいのだろう。イナミは静かに溜息を洩らした。
取り留めもなく視線を移ろわせているうちに、ふと、木棚に並んだフォトフレームに気がつく。デジタルではなく、紙に現像された写真が飾られているのだ。
イナミはソファから立ち上がり、一枚一枚を眺める。それぞれ顔ぶれの異なる子供たちが同じ老婆を囲っていた。
どれも、みな笑顔だ。
古い写真は分厚いアルバムに収められているようだ。
自由に見てもいいのだろうか。木棚に手を伸ばしかけたイナミは、
「ここを卒業した子よ」
部屋の入口から話しかけられるよりも一拍速く、振り返る。
声の主は、静かな笑みを湛えた老婆だった。
年齢は七十代後半。白く染まった髪と、暗い緑色の瞳。背筋がぴんと伸びた、美しさと凛々しさを兼ね備えた女性である。
写真に写っている老婆と、同じ人物だ。
イナミは、相手がそれなりの立場と察して尋ねた。
「失礼。紙の写真とは珍しい」
「そうね。〈大崩落〉以前はもう、紙はごく一部の機密文書でしか使われなくなっていた。しかし、軽んじられてはいなかったの。電子的なストレージに置いてある物より、物理的な金庫のほうが安全だったから。クラッキングの対抗策としては十分に有用だったのよ」
淀むことのない流暢な語り口に、イナミは微笑を浮かべて応じた。
「だから、復元した?」
「ええ、製紙技術は廃れるべきではない。もっとも、廃れていい技術もないけれど――多少は趣味も兼ねているのよ。フォトアーカイブとは違う。色が紙に乗るでしょう?」
「だが、紙は劣化する」
「万物はいずれ朽ちる」
「資料保全の観点から言って――」
「保全技術も培われる」
老婆は穏やかな笑みを浮かべてみせた。
「忠告ありがとう、若い人。でも、『必要は発明の母』という言葉がある。『必要』を作り出すことで、技術の進歩を促せる。誰にも必要とされない技術は、風化していくわ」
「……肝に銘じておこう」
「それに、物理的に飾っておけば、誰かが思いがけず目にすることもある。再び私たちが滅んで、世界から電力が失われたとしても、ね」
そのとおりかもしれないな、とイナミは頷いた。消失するときはデータだって同じだ。知識のバックアップは多様なほどいい。
老婆は、ここでようやく、応接室に入ってくる。
イナミの前に立った彼女は、突然、思いがけないことを口にした。
「顔に触れてもよろしいかしら?」
「ああ、構わない」
皺の多い手が、指が、イナミの頬をそっと撫でる。まるで本当に存在するのかを確かめるように、丹念に。
なぜ、こんなことをするのか
一瞬、透視能力者の疑いが脳裡をよぎる。
が、それは杞憂だ。シンギュラリティに過去を読む力はない。あったとしても超感覚的なスキャナー程度だ。それでイナミの正体を暴くことはできない。
実際、意味はないのだろう。
ひとしきり触って満足したのか、老婆はイナミから離れた。
「直に会えて、よかったわ」
「……直に?」
「ええ、ニュースでなら何度も拝見しているから。あなたは有名人なのよ。どうやら自覚がないみたいだけれど」
それまでにこやかだった老婆の眼差しが、
「あなたがよき市民であることを願うわ」
一瞬、鷹のような鋭さを帯びたのは、イナミの気のせいだろうか。
よき市民。
発言から推測するに、この老婆は、イナミが移民であることも知っているのだ。
〈アグリゲート〉に辿り着く移民が途絶えて久しい昨今、自分は確かに特殊な存在だ。文明の滅んだ世界を放浪してきた、という偽りの経歴が、古株の住民である彼女の興味を引いたのかもしれない。
それにしても、この老婆には、妙な引っかかりを覚えるが――
廊下から聞こえてきた急ぎ足の音が、イナミの思考を中断させる。
「すみません、お待たせして――」
そう言って部屋に入ってきたのは、学校制服に着替えたラジエットだった。
公園で見かけたときと同じ衣服である。他の少女たちは普段着だったので、装いを正してくれたようだった。
ラジエットは老婆に目を留めて、慌ててスカートの裾を払い、お辞儀をする。
「先生、いらしてたんですか」
「この女子寮に若い殿方が招かれたとあれば、わたくしが見定めなければね」
ラジエットは慌てて手を振る。恐らく何度も訂正したのだろう、やや疲れ気味だ。
「この人はお姉ちゃんの同僚さんで……」
「特務官、イナミ・ミカナギさんでしょう?」
もちろん分かっているとも、と老婆はゆっくり頷く。
「ルセリアもここの出なのよ、ミカナギさん」
「そう……だったのか。見たところ、写真には写っていないようだが」
「あの子は特務官のスカウトを受けて、ここを出ていったの。卒業する前にね」
ラジエットが俯くのを横目で確かめながらも、老婆は続けた。
「ルセリアのご両親のことはご存知?」
「ああ、聞いている」
「あの事件があってから孤立して――わたくしは引き留めたのだけど、あの子は結局、一人で考えて決断した。……決断させてしまった。この学校は、拠り所となるべき場所なのに、あの子にとってはそうではなかった……」
悲しげに目を伏せた彼女は、ふう、と息を吐き、控えめに微笑んだ。
「あら、ごめんなさい、気がつかなくて――わたくしがいては二人の邪魔ね。失礼するわ、ミカナギさん」
優雅に一礼する老婆に、イナミも頭を下げる。彼女はゆったりとした足取りで応接室から立ち去った。
ドアがばたんと閉められる。
野次馬の女生徒たちを「はしたないわよ」と叱る声。
静かになった密室で、イナミとラジエットは顔を合わせた。
「『先生』、ということは、彼女は指導者なのか」
「学長さんです。みんなにとってのおばあ様ですね」
「慕われているんだな」
「はい。だからきっと、お姉ちゃんも……」
ラジエットはそこで、イナミから視線を逸らした。
「『聞いた』って、お姉ちゃんからですか?」
「ああ、そうだ。母親が特務官だったことも、事件のことも、……きみのこともだ」
「お姉ちゃんは、同僚さんには、ちゃんと話すんですね」
その一言には、イナミが想像していたのとは異なる感情が滲み出ているように感じた。
仕草にも表れている。握り合わせた両手、床をさまよう視線、強張った頬――
怒りや憎しみではない。
込み入った話になりそうだ。イナミは改めて覚悟し、ソファの背もたれに手を置いた。
「座って話そうか」
「そう、ですね……」
テーブルを挟んで向かいに座ったラジエットは、閉じた膝の上に手を置く。
ちょっとした動作が頼りなく、ルセリアもまた、こんな弱々しさを見せたことがあったと思い出す。
――こちらから会話の糸口を探っていこう。
イナミは、それが年上である自分の役目だと考えた。たとえ、培養槽の中で作られた肉体年齢と、睡眠学習によって発達した精神年齢が食い違っていて、本当の意味では『年上』ではないにしても。
「ルーシーとはあまり会わないのか?」
「はい。メールは送られてくるんです」
と、ラジエットは左手首のリストデバイスにそっと触れた。
「でも、私のことを訊こうとするばかりで、自分のことは何も話してくれなくて――あ、そういえば、ミカナギさんの話はよくしてますよ」
「俺? 悪く言われていないといいんだが」
イナミは苦笑いを浮かべてみせた。
それに釣られるように、ラジエットもぎこちなくはにかむ。
「安心してください。すごい能力だけど、手のかかる新人さんって感じです」
「そんなに面倒をかけては……まあ、多少の心当たりは、あるかもな」
笑みをくすりと洩らしたラジエットは、再び表情を引き締める。先ほどよりは硬くない。
「あの、……同僚さんみんなに私たち家族のことを話しているんですか?」
「いや、恐らく、直接聞いたのは俺だけだ。エメ――オペレーターは、パーソナルデータから知っていたと思う」
「お姉ちゃんが他の人を連れてきたのって、今年が初めてなんです。それで、あれ、って思って……」
「ルーシーが『連れてきた』のではなく、俺たちが『押しかけた』が正しい。事情があって縁ができたからな」
「エン?」
「繋がり――みたいなものだ。きみの母親が関わっていた任務で、引継ぎがあったんだ」
「そうだったんですか……私、何も聞いてなくて……」
イナミは少し背筋を伸ばして、頭を下げる。
「すまない。詳細は話せないんだ。それでルーシーも黙っていたんだろう」
「なんとなく分かります。守秘義務……ですよね。私も無理に聞きません」
ラジエットはこちらに気を遣ってか、早口で庇ってくれた。
しかしながら、一点、どうしても気になることがあったらしい。視線を合わせず、
「ところで、ミカナギさんは、お姉ちゃんと、どういった関係なんですか?」
「どうって。だから、同僚だ」
「えっと、それだけ……?」
「それ以外に言い様はない。友人というワケでもないしな」
他のどんな返事を予想していたのだろうか。ラジエットは呆然とまばたきをする。
「なのに、どうしてお姉ちゃんはミカナギさんに……?」
「少し、重なったところがある。それで、励まされたというか……あれは多分、そうだったんだろうな」
「重なった、ところ?」
イナミはあまり重く受け止められないように平然と頷いた。
「俺は〈アグリゲート〉の外から移民だ」
「外……」
ラジエットには現実味のない話だろう。ゆっくりと言葉を咀嚼する。
「外って、どんななんですか?」
「資料にあるとおりさ。少なくとも、俺が見てきた外はな」
ツタ植物に浸食された旧市街地。風に軋む建築物。漂着物のクレーター。それらを思い出しながらも、遠い宇宙での出来事を語る。
「俺の他にも人間はいたんだ。だが、全員がミダス体に殺された。それで都市に辿り着いたところで、助かったなんて少しも思えなくてな。ヤケになっているときに、ルーシーたちと出会って、今に至るというワケだ」
「そう、だったんですか……」
イナミとラジエットはしばらく黙って見つめ合う。
共通点が一つできたところで、彼女が張り巡らせていた防壁もまた一枚、取り除かれたようにイナミは感じた。
そこで思い切って、さらに踏み込む。
「ルーシーは、きみに憎まれていると考えているようだ。だが、どうも違うみたいだな」
ラジエットは首を縦にも横にも振らない。
「初めは、そうでした」
彼女は苦しそうに深く息を吸う。
「パパとママは、まだお姉ちゃんの名前を呼んでたんです。……私のことはもう見えてないみたいに、お姉ちゃんの、名前だけを」
「まだ希望はあったと?」
「そうじゃなくて」
ラジエットは一瞬、ためらい、
「どうして私の名前は呼んでくれなかったんだろうって」
イナミは押し黙る。
ラジエットは膝の上の拳に視線を落とす。
「それが気になってたんです。変でしょう? そんなこと、しょうがないのに、頭の中をぐるぐる回って――」
「変じゃない」
イナミの声に、ラジエットははっと顔を上げた。
イナミ自身、無意識に出した言葉だった。迷いながら、自分の胸中を探るように繰り返す。
「……変じゃないさ。確かめる術が自分にはない。誰にもできない。だから苛立つ。分かるよ、俺にも」
一呼吸分の間。
イナミは肩から力を抜きながら尋ねた。
「ルーシーは、両親のことで憎まれていると思い違いをしているようだ」
「それもあります。実際に言っちゃったこともあります」
「なぜそうしたかを聞いていないのか? つまり、どうしてミダス体になってからシンギュラリティを使わなかったのか、を」
「……はい」
意外だった。
問われれば、答えればいい。自分に話してくれた、あの決断を。
せめて妹には心の内を明かすべきではないのだろうか――
「ミカナギさんは知ってるんですか?」
急に訊かれて、
「いいや」
嘘をつく。
他人であるイナミがぺらぺらと喋ることではないと思ったのだ。
知り合ったばかりのラジエットに、イナミの表情を読むことはできない。
「ですよね。じゃあ、特務官になった理由とかは……?」
これも『きみを守るためだ』とは言えない。いや、言うべきか? イナミは迷う。
「力の活かし方を考えた結果、と聞いた」
「特務官が、お姉ちゃんにとって最適なお仕事だって、ミカナギさんも思いますか?」
「基本的な身体能力は高い。銃の腕も文句なしだ」
「……ミダス体にも銃を使うんですか? 効かないって聞きますけど」
「ルーシーの戦闘スタイルでは必要なんだ。シンギュラリティの発動に少し時間がかかる。効かないと言っても、ナノマシンは確かに傷を負うんだ。すぐ再生するだけで。発動さえしてしまえば、間違いなく致命的なダメージを与える。対ミダス体においては比類ない戦力だよ」
「……でも、それって、危険な任務も多いってことですよね」
イナミは束の間、返答に窮した。逡巡の末、真っ向から頷く。
「そうだ。それが特務官だ。最前線で戦うことを選んだ人間だ」
「そんなの……他に誰か……」
「他なんて、誰もいない。少なくとも、ルーシーはそう思ったんだろう」
ラジエットは視線を逸らした。
今までとは違う反応だ。手を見るのではなく、こちらをじっと見つめるでもない。イナミの背後を睨むようだった。
そこに、ラジエットの本心があるように思えた。
より具体的に探ってみる。
「……ラジエット。きみは、ルーシーが特務官になるのを反対したんじゃないか?」
図星だったようだ。ラジエットは目を大きく見開く。
「そ、そうです。その、ミカナギさんの前で言うのも申し訳ないんですけど……」
「いや、気にしない」
「お姉ちゃんを特務官にさせてしまったのは、私が追い込んじゃったからだと思うんです。みんながお姉ちゃんを怖がってたって後から聞いて……」
イナミは、先ほどまでここにいた、学長の言葉を思い出す。
『あの事件があってから孤立して――わたくしは引き留めたのだけど、あの子は結局、一人で考えて決断した。……決断させてしまった』
ルセリアは誰にも相談できず、悩み抜き、そして自ら進むべき道を選んだのだ。本人は自らの意志でそうしたように話すが、本当のところは退路などなかったのかもしれない。
「お姉ちゃんだって辛いに決まってたんです。なのに、私――二人で乗り越えなきゃいけなかったのに……」
ラジエットは自分を罰するかのように、リストデバイスをぐっと握り締めた。
「これじゃダメだって、何度も謝ろうって、メールで伝えてみたんです」
「どうだった」
彼女は力なくかぶりを振った。
「話を聞いてくれないんです。自分のことも全然話さない。ただ、心配してくるんです。それが……本当に一方的で……お姉ちゃん、無茶してるんじゃないかって、怖くて……」
共同墓地公園で聞いた、『心配なんてしないで』というのは、そういうことだったのか。
普段の彼女はそんな素振りも見せやしない。
イナミは思わず、苦々しげに呻いた。
「……俺のことを言えないぞ、ルーシー」
「え?」
「俺とルーシーの本当の共通点は、きっと『それ』なんだ。誰かのために正しい行動していると思い込んでいるが、その正しさは自分一人のものでしかないってことなんだよ」
「えっと……」
戸惑うラジエットに、イナミは自嘲的な笑みを向ける。
「ルーシーに特務官を辞めてもらいたいのなら、それは無理だ。ルーシーも口出しされたくはないと思う」
「じゃあ、どうすれば……」
「何に意地になっているのか分かればいいんだが。俺もこのままでいいとは思えない。人がいつまでもそこにいるとは限らないからな」
ラジエットはそれを聞いて、こくりと頷いた。
イナミには、ラジエットの想いも理解できるのだ。
以前までは、クオノに対して、彼女と同じことを考えていた。クオノには実験体であることも自分に力があることも忘れ、普通の少女として生きてほしい、と。
だが、クオノは選んだ。自分の力を受け止め、その力を何かに役立てることを。そうして十一年もの間、イナミを待っていてくれた。そうしてこれからも、生きていく。
ルセリアはどうなのだろうか。
彼女は選んだのだろうか。それとも選ばされたのか。
イナミはじれったさを感じていた。
ルセリアもラジエットも、相手のことを話すとき、どうしようもなく寂しそうな目をしている。それだけお互いを想っているはずなのだ。
さりとて、二人が歩み寄るには、どうすればいいのだろう。
人間同士、ましてや姉妹でもそれが難しいから、物事というものは複雑怪奇にこじれるのだろう、とイナミは思うのだった。
〇
「俺でよければ」
と、寮の門前でイナミはラジエットを振り返った。
「これからも協力しよう。何かあれば報告する」
「でしたら、あの、……たまにこういうこと、相談してもいいですか?」
「いいとも、任務時でなければ。……とは言っても、さっきですらうまく相手になれたか怪しいけどな」
ラジエットはふるふると首を振った。
「そんなことないです! 他に、こんな話をできる人いなかったので……なんだかほっとしました」
「……きみは素直だな。ルーシーはもっとこう、一言余計だ」
意図せず難しい顔になってしまう。が、ラジエットは初めてルセリアの話題で「ふふっ」と笑ってくれた。
互いのアドレスを交換し合い、リストに登録されているのを確認し終えて、
「ミカナギさん」
「ん?」
「お姉ちゃんを、よろしくお願いします」
深々と頭を下げられ、イナミはその場に立ち尽くした。
戦う理由は、人それぞれだ。
イナミは、この身体を構築するナノマシンの価値を証明するために、戦う。
ナノマシン体は人類の敵ではない、と。
ナノマシン体はカザネたちが希望を託した技術なのだ、と。
だが、どうやって証明する?
人類をミダス体の脅威から救えば認められるのか。
そんなこと、イナミ一人にできやしない。〈ザトウ号〉で思い知ったではないか。
少なくとも、自分の手の届く範囲で、大切な人を守りたい。
クオノだけではなく、ルセリアやエメテルという仲間、彼女たちから広がる近親者――たとえば目の前に立つラジエット。
そんな風に増えていく『大切な人』を、どこまで守り切れるだろうか。
分からない。
行動するしかない。
水面に石を投じれば、周囲に波が広がる――そういうものだと信じるしかない。
この、二度と訪れない一瞬を、踏み締めて。
「……もちろんだ」
イナミはラジエットの肩に手を置き、顔を上げさせる。姉と同じ琥珀色の瞳はわずかに潤みを帯びていた。
彼女を不安がらせてはならない。イナミはふと思いついて、笑みを浮かべる。
「ああ、そうだ。これ、友達と食べてくれ」
紙袋の中からポテトチップスを一袋取り出した。
ラジエットはそれを受け取り、
「あ、ありがとうござ――」
ラベルを見て、表情を険しくする。
「……『シシトウ・アンド・ココア味』って、なんですか?」
奇妙なフレーバーは、やはり、一般市民に親しまれているわけではない。
その事実確認は、イナミには大きな収穫となった。




