漂着:疑念は未だ払拭されず
手元のウィンドウを、実体を持たない魚が横切った。
大男の賢人ドゥーベは嘆息をつき、円卓対面のベネトナシュを見つめる。
彼女はここ十分ほど、シートを倒してぼうっと天井を仰いでいた。
〈セントラルタワー〉最上層に位置する評議会室では、陽光差し込む海をイメージしたホログラムが上映中だ。人工遺物から回収したデータをもとに、姿を復元された絶滅種の魚や海草が空中を悠々と泳いでいる。
ベネトナシュも仮想の海に思考を漂わせているらしい。
困ったものだ、とドゥーベはウィンドウを閉じる。
機関各部局からの報告がデータバンクに続々とアップロードされている。
その中で、人工知能が『七賢人の評議を要する』と判断した問題については、目を通さなければならない。
イナミ・ミカナギの受け入れについて評議したことも記憶に新しい。
もっとも、あれはフェアではなかった。
ドゥーベとベネトナシュは彼の特異性にいち早く気づいたことで、他の五人を丸め込むことに決めたのである。
ゆえに、彼から生じる歪みを制御しなければならない、というのがベネトナシュの念頭にあるのだろう。
とはいえ、通常の務めを疎かにし、リラクゼーション用ホログラムの鑑賞に浸ってよしという話でもない。
ドゥーベは大げさに咳払いをしてみせた。
「いつまで沈んでおるのだ」
ベネトナシュがシートを起こし、腹の上で組んでいた手を円卓に乗せた。
「特務官との衝突を揉み消さなかったら、イナミは排除対象になっていた」
「ならば、あやつを隔離するか」
「ダメ。イナミの力はイナミだけのもの。私たちはそれを失うことになる」
即答だった。ベネトナシュはあの青年が持つ力を大いに評価しているようだった。
その点については同感のドゥーベも、「ふむ」と顎を引く。
「ベネトナシュよ。あやつは決してクオノを諦めぬだろう」
ベネトナシュはわずかに俯き「そうかな」と呟いた。
ドゥーベは覚悟を促すように追い打ちをかける。
「遠からず、クオノの存在はミダス体によって暴かれる。完全な秘密などない。その秘密を抱える者が墓に入らぬ限りはな」
「……なら、どうしてイナミに全てを話さないの? イナミに協力を求めれば――」
「我が疑念は未だ払拭されず。あやつが『力』を守る者として相応しいのか、な」
ここ数日の行動から見るに、イナミ・ミカナギという人間はひどく短絡的で自棄的。先見性を持たない男という評価だった。
極度の環境変化に順応できていないのだとしても、そんな男とクオノを接触させてよいものだろうか。
かつて地上を破壊した遺物と同様に、クオノの『力』には危険がある。
一歩間違えれば、この〈アグリゲート〉が壊滅するかもしれないほどに。
「我らが七賢人の使命とは、人類が再び自滅の道を辿らぬように制御すること。ゆえに、あやつを見極めねばならん。いずれ訪れるその『時』に選択を委ねてもよいものか、とな」
席から立ち上がり、ベネトナシュから背を向けて壁に映る海中をじっと見る。
「で、あればだ」
「あれば?」
「特務部第九分室の者たちに任せればよい」
わずかな沈黙の後、海のホログラムがふっと消えた。
「……ドゥーベ、何を考えているの?」
意図が読めないという、疑いや恐れが入り混じった声だった。
そう、ドゥーベとベネトナシュは共犯者であり親子でもあるが、全く異なる考えを持った二人なのだ。
ドゥーベは振り向き、仮面から吐息を洩らした。
笑った、のである。
○
イナミが見たところ、特務官の宿舎は立派な佇まいだった。
というより、この地区に建っている家々は、建物の形や配置、どれも同じだ。
二階建てで庭つき。高台には内部空間があるらしく、シャッターがついている。道路に面しており、乗用車なら悠々と入れそうなスペースだった。
イナミの仮住居である外縁部の古アパートとは雲泥の差がある。
財産を持たない移民が集まってできた都市でも、この百年だかで階層化が進んだらしい。
――船とは全く環境が違うな。
と、イナミは思うのだった。ルセリアが運転するモーターサイクルの後部座席で、彼女に掴まりながら。
二人を乗せた〈プロングホーン〉が近づくと、地下車庫のシャッターががらがらと巻き上げられた。
中は見立て以上に広い空間だ。地下方向に高さを確保しているからだろう。
車庫には、通りでよく見かけるセダンタイプの自動車があった。
その隣のスペースに、ルセリアは〈プロングホーン〉を停める。
電源を停止させないので不思議に思っていると、彼女がぶっきらぼうに振り返った。
「いつまで掴まってんのよ」
「ああ、すまない」
イナミは彼女の腰に回した腕を解き、シートから降りる。
ルセリアもマシンから離れると、パワースイッチが自動でオフになった。
「初めてのモーターサイクル、乗り心地はどうだった?」
地上の乗り物を知らないイナミに、皮肉たっぷりに尋ねるルセリアだった。
ところが、イナミにはちょっとしたトゲが伝わらないのである。
「快適だ。ただ倒れると怖いな。この重さを支えられるのか?」
「へ、へーき。オートバランサーがついてるから」
と、ルセリアはぎこちなく笑みを浮かべた。
床と壁の自動点検装置が作動するのを目にして、イナミは興味を惹かれた。外科医さながらにロボットアームが動き回る様は感心させられる。
階段の前に立ったルセリアが、不思議そうに呼ぶ。
「こっちよ」
「もう少し見させてくれ」
「……子供じゃないんだから、さっさと来なさい」
彼女は有無を言わさず腕を組んで、長身のイナミを引っ張ろうとする。
そこまでされて、
「あ、おい、……分かったよ」
抵抗するほどでもないイナミは彼女の後ろをよろよろとついていった。
上階では、金髪の少女が帰りを待っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
ルセリアは少女の背に手を添えて、こちらに向き直った。
「この子はエメテル・アルファ。あたしのパートナーよ」
「イナミ・ミカナギだ。よろしく頼む」
初対面の相手に対する挨拶が分からず、とりあえず握手を求めてみるイナミだった。
だが、エメテルは応じず、肩を怒らせる。
「なんでこんな人、連れてきたんですかっ。ルーシーさんに乱暴なことしたのにっ」
「……あたしが不覚を取っただけよ」
ルセリアは『乱暴』という言葉で思い出したのか、首元の制御装置を気にする素振りを見せた。
「あたし、着替えてくるわ。エメはイナミをオフィスに連れてって」
「えーっ、私がですか!? イヤです怖いですっ」
いたく嫌われたものである。
小動物的な印象の少女だが、だからこそなおさら胸に刺さる。行いが自身に跳ね返ってくるのは分かっていたとしてもだ。
こちらを「むー」と威嚇するエメテルを、ルセリアは「まあまあ」と宥める。
「連れてくだけでいいから。エメは席を外してて」
きょとんとするエメテルだったが、その戸惑いも一瞬で過ぎ去り、今度はパートナーに膨れ面を向けた。
「あれこれの責任を一人で負うつもりでしょうけど、それって下手な気遣いですからね」
「や、エメ、あたしは――」
「大体こんなことになるんじゃないかって、イナミさんの身辺を調べたときから予感はしてたんです。でも、私たちの行動は誰にも止められなかった。それが七賢人様の答えですよ、ルーシーさん」
エメテルは一息に言い切って、深く息を吸うと、イナミに向かって言い放った。
「こっちです。あ、一メートル圏内には近づかないでください」
ばたばたとスリッパの足音を立てて大股に歩く少女の背を見つめ、ルセリアは肩から力を抜く。それからイナミに何やら視線を投げかけ、彼女は二階へと消えていった。
今のアイコンタクトはどういう意味だったのだろう。
イナミは戸惑いながらもエメテルを追う。
案内されたのは、大きなモニターが用意された部屋だった。
ざっと見て窓がないことを確かめたイナミは、出入り口近くを陣取る。いざというときの退路確保だ。
エメテルは角に寄せられたデスクの回転式シートにぽすっと座った。
改めて彼女をよく見ると、耳が長く尖っている。彼女に限らずだが、イナミが知っているヒトとは違う特徴だった。
視線に気づいたエメテルが、少し身を乗り出して睨み返してくる。
「なんですか」
「その耳も分化現象なのか?」
「これは遺伝子操作によるものです。じろじろ見ないでください」
「ああ……悪い」
イナミは頭を下げつつ、ぽつりと洩らした。
「デザインド・チャイルドなのは俺も同じだ」
「え」
「そうか……そういう技術も復元されているんだな」
顔を上げると、エメテルとばったり目が合った。先ほどまでとは異なり、こちらに関心を寄せ始めている様子だった。
「あの、質問してもいいですか?」
「答えられる範囲でなら」
彼女は背筋を伸ばし、幼い顔立ちに知性を漂わせて尋ねる。
「イナミさんはシンギュラリティを持ってないと情報にはありましたが、嘘ですよね」
「さあ、どうかな」
「とぼけてもダメですよ。何度か確認してるんですから。一度目はデクスターさんの家で〈ハニービー〉を破壊したとき」
「……ミツバチ?」
「羽虫みたいな偵察機のことです」
イナミの『ああ、あれか』という表情に、じろりとした目で補足する。
「弁償代、一機でもすっごい高額ですからね」
「……それは、まずいな」
「今さら後悔しても遅いでーす」
責めるように一睨みしたエメテルは、脱線した話を元に戻す。
「二度目はルーシーさんの背後に回り込んだとき。それぞれカメラがイナミさんの姿を見失いました。あれは加速能力などでは説明できない現象です」
「機械の故障じゃないのか?」
「イナミさんが消えるときだけタイミングよく起きる故障ですか?」
にっこりと問い返されて、イナミは困り果てた。
――やはり見咎められるか。
「……説明するのは難しい。自分でもよく分かっていないんだ。だが、シンギュラリティではないことだけは断言できる」
「どうしてですか?」
「シンギュラリティは〈大崩落〉以後の人類が獲得した能力だと聞いた」
「……そうですけど」
「言っただろう? 俺は宇宙人だ。地上人の進化とは関係ない」
エメテルが「はあ……」と曖昧に頷いた。やはりまだ信じてもらえないらしい。
部屋の外から階段を下りてくる足音が聞こえてきた。ルセリアが戻ってきたのだ。
ゆったりとしたニットセーターとデニムパンツに着替えた彼女は、その手にマグカップを持っていた。出入口ですれ違う際、目が合った。
「長話になりそうだし、コーヒーでも飲む?」
「頂こう」
ルセリアは並べたマグカップに黒褐色の粉を移す。
イナミが知っている『コーヒー』は飲み物なのだが、地上では粉末なのだろうか。
そんな心配は、後から熱湯が注がれるのを見てすぐに払拭された。すると今度は、コーヒーの素がそんな粉末だったのかと不思議になってくる。
「エメはいつものお茶でいいわね」
「あ、自分で――」
「いいからいいから」
と、ルセリアはティーバッグを小さなカップに沈める。
「それで、なんの話をしてたの?」
「イナミさんの能力について訊いてました」
「液体金属……ってヤツ?」
イナミは少女たちの会話に割って入る。
「それも含めて、順を追って説明する」
「納得のいく説明ならいいけどね。はい、入ったわよ」
そう言ってマグカップをガラステーブルに置いたルセリアは、こちらをじろりと見る。
「こっちに座ったらどう?」
「いや、ここで――」
「こっちに、座ったら、どう?」
「あ、ああ……」
先ほどの戦闘の罪悪感からか、つい従ってしまうイナミだった。
ソファに腰を下ろし、コーヒーを一口だけ啜る。毒は入っていない。船で飲んだものとは違って酸味があった。
エメテルの前にもソーサーとカップを置いたルセリアは、イナミの横に座る。二人は端と端に座ったため、距離があるように感じられた。
「じゃ、詳しく聞かせてもらおうじゃない」
エメテルもカップを持ち上げ、小首を傾げた。
「その、宇宙人、というお話ですけど」
「そうだ。俺はほんの一週間前まで宇宙にいた」
二人の少女は異口同音に「一週間前?」と訝しんだ。
イナミは頷き、惨劇の光景を脳裡に蘇らせていく。
「俺が乗っていた船は軍の実験施設だったんだ。だが、実験体が逃げ出して――」