経路:地に這いつくばって
日没、古き良き時代のネオンを模した照明が灯り始める。
都市〈アグリゲート〉の繁華街では、二十世紀から二十一世紀の文化を模した物が親しまれていた。
現代の人々にとっては、一周回って新しい物と目に映るのである。
この時間、繁華街を出歩く市民の層ががらりと変わり始める。居酒屋や風俗が営業を始め、その客引きが表に出る頃だった。
ところが現在、人の姿はない。
恐ろしく閑散としている。
主だった通りは、警備局の車両が封鎖していた。機械式甲冑を着込んだ兵士たちが、腕部デバイスから立体投影した地図をしきりに見下ろしている。
地図の上を、『敵性存在』を示す赤い光点が移動中。
横道を駆け、ビルとビルの細い隙間をすり抜け、そして転がり出るように、兵士たちの目の前に飛び出して――
「撃て!」
指揮官の号令とともに、構えられたマシンガンが一斉に火を噴く。
現れた『それ』は、ぼつぼつと音を立てながら、全身を穴だらけにされていく。着ていたオフィススーツはすでにぼろぼろだ。他の場所でも銃撃を受けたのだろう。
そう、銃撃を受けてなお、『それ』は生きていた。
血を撒き散らしながらも、爆ぜるように生まれた傷は、たちまち塞がってしまう。まるでセメントを流し込まれたかのように。
新人と思しき兵士が怯えを露わにし、クローズヘルムの内側で呻きを漏らした。
自己組成型ナノマシンに侵され、肉体を群体へと作り変えられた者。
人は『それ』を、ミダス体と呼んでいる。
ミダス体が頭と胸を防御しながら突進してくる。
迎え撃つは、放電槍を手にした兵士。パワードアーマーの人工筋肉による力の増幅を受けた鋭い刺突が繰り出される。
が、ミダス体は悠々とそれを跳び上がって避けた。
そのまま兵士たちの頭上を越えて、車両の屋根に着地。衝撃でみしみしと揺れる足場にバランスを崩すことなく、すっと立ち上がる。
「しまった……!」
兵士たちの動揺を嘲笑うように、ミダス体は顔を歪め、その向こうへと跳び下りていった。
ヒトのみを虐殺する生物が、なぜ兵士たちを無視したのか。
地図を再確認した指揮官が通信機に怒鳴る。
「逃げ遅れた市民がいるぞ! 特務官を至急こっちに――」
彼らは、さらに頭上、建物の屋上から屋上へと跳び移るもう一つの影に気づかない。
後頭部から尾のような器官をなびかせる異形の生物。
漆黒の外骨格に瞬く、青白い光を。
〇
薄暗い路地裏に、逃げ惑うハイヒールの音が反響する。
一般市民の女性だ。内務局勤めで、オフィスを出た矢先だった。
初めはリストデバイスから伝達される避難指示に従っていたが、いつまでも追ってくる気配にパニックを起こし、ついには経路を無視したのだ。
今、その背中を、ミダス体が遠目に補足する。
このミダス体は変異したばかりで、集積思念体との情報共有はまだだった。
つまりは単なる欲求――ヒトへの殺意、変異時に消耗したエネルギーの補給、それだけに留まらない執着心に、突き動かされているのである。
宿主の記憶によれば、女は恋人だった。婚約も済ませていた。
でありながら、宿主は他の女に手を出した。望まぬ婚約だったわけではない。ただ単に、性欲に従っただけだ。
それで相手が許してくれるはずがない。
破局は必定だ。
にもかかわらず、宿主は女と添い遂げたいという未練を残していた。この期に及んで、添い遂げるべきとさえ思っていた。
ミダス体となった今、その執着心を晴らす術は簡単だった。
女を『自分』にしてしまえばいい。
女の記憶を吸い上げ、自身の記憶を捧げ、まとめて集積思念体の一部と化せばいいのだ。
他者が存在しなければ、惑わされることも、縋ることもない。
波風の立たない、均一化された世界――
ミダス体はせらせらと笑い声を発した。『視認した標的を攻撃する』の意を伝える音声通信だ。受信者はいないが、本能的に『狩り』を宣言したのである。
ただ一人、女がその声を聞いた。
女は上半身だけで振り返ろうとしたばっかりに、足をもつれさせ、しまいには挫いた。受け身の心得もなく無様に転倒する。水に溺れているかのように喘ぎ、もがきながら、顔だけはこちらに向けていた。
恐怖に支配され、表情をひどく引きつらせている。
かわいそうに。
一つになってしまえば、怯えなど消え失せてしまうのに。
ミダス体は、腕を投げ出すようなフォームで走って近づき、女へと襲いかかろうとした。
後少しで手が届くところだった。
しかし、その手が女に触れることはなかった。
突然、女の前で、空間が裂けた。
雛が卵を突き破るように、手が、足が、胴体が、虚空から現れる。後頭部から尾を引くように、シロヘビ柄の太いケーブルがずるりと抜けた。
現れたのは、漆黒の外骨格生物。
ミダス体の肉体を構成するナノマシンの一つ一つが、その外骨格生物を知っていた。
同胞にして、ヒトを守ろうとする裏切り者。
実験体一七三号――
「イナミぃいぃィッ!」
奇声を発するミダス体に対し、顔のない外骨格生物は青白い光の紋様を身体中に駆け巡らせた。
ミダス体は伸ばした手で、そのままイナミ・ミカナギの頭を貫こうとする。
が、それよりも速く、固く握りしめられた拳がミダス体の胸部に届いていた。
単純な殴打。暴力。
ミダス体は背中から倒れ、舗装された地面をざりざりと滑る。
素早く起き上がろうとしたところに、イナミが跳びかかって馬乗りになる。潰そうとするように、頭を押さえつけてくる。
イナミの身体がさらに強い輝きを灯した。
「答えろ! 〈ザトウ号〉はどこに落ちた! お前たちはどこから来た!」
――〈ザトウ号〉。
ナノマシンに刻まれた、懐かしい船の名だ。
この実験体は生まれ故郷を求めているらしい。
ミダス体は口を開き、唾液の糸を引かせながら、イナミに向かって吠えた。
「愚か者らしく地に這いつくばって探し続けるがいい!」
「……這いつくばっているのはお前だって同じだろうが!」
イナミを中心に渦巻いた空気が、ぱちぱちと破裂音を奏でる。
刹那、生体電流が押し寄せてきた。
雷光。実験体が処分されるときに見るという閃き。
その輝きに、意識が焼き尽くされる。
〇
焼死体と化したミダス体から、イナミはゆっくりと起き上がった。
ミダス体が地上に存在する以上、〈ザトウ号〉が漂着しているのは確かだ。
しかし、いつ、どこに? 都市を守護する〈デウカリオン機関〉でさえも、それは分かっていない。発見されていないのだ。
いつだったかミダス体は、漂流物の雨を見た、と言った。
〈大崩落〉。
戦争によって破壊された漂流物群が地上に降り注いだ災害。
移民が合流するより遥か昔の出来事だ。データバンクに記録がないのも当然だろう。
イナミはかすかな苛立ちを覚えたが――それ以上の思索は打ち切る。自分の任務は〈ザトウ号〉の位置特定ではなく、市民の救助だ。
ナノマシンが形成した通信機ならぬ通信器を介し、オペレーターに尋ねる。
《エメ。始末した。他に反応は?》
《確認できず、です。今のところ、イナミさんが倒した一体だけですね》
幼さのある少女の声が、流暢に答える。
体表面に付着したミダス体の体液を放電で焼いてから、背後を振り返る。
なぜかつけ狙われていた女性は、手足を投げ出すように倒れていた。
《彼女の容態は?》
《バイタル正常。ただ気絶してるだけですねー。わ、足首腫れちゃって……手当が必要と思われるので、救護班を呼んでおきました》
《了解。念のため、ここで待機する》
と、答え終えたところで、聴覚が二輪モーターサイクルの走行音を捉える。
徐行時、動力部はほとんど音を立てない。タイヤと地面の摩擦音が聞こえたのだ。
音のしたほうへ目を向けると、白い大型マシン――〈プロングホーン〉が角を曲がってきたところだった。
運転しているのは、ブルネットの長髪をサイドテールに結った少女だ。
風で膨らみそうな白いクロークの下に、身体能力を高める圧搾強化服を着用している。
身体に巻いたフルハーネスベルトには、様々な道具を入れたポーチを提げている。ハンドガンを納めたレッグホルスターも、その一つだ。
彼女は、ルセリア・イクタス。同僚の特務官である。
「処理できたみたいね」
「ああ。無事、とは言いがたいが」
「生きてるんでしょ? だったら問題なし」
ルセリアは〈プロングホーン〉から降りると、女性を抱え起こす。それから、タクティカルグラス越しに琥珀色の瞳を瞬かせてみせた。
「あたしの仕事って、これじゃまるであんたの専属運転手ね」
イナミにはまだ、自分専用のマシンが用意されていない。なので、〈プロングホーン〉の後部座席に同乗させてもらい、現場に駆けつけたのである。
そもそも、だ。
「俺は運転免許を取得していない」
「さっさと取りなさいよ。便利よ?」
「ルーシー。移民は定住から一年間、車両の運転を禁止されているんだ」
「そうなの!?」
「移民向けのガイドにそうあった。当分は、お前の後ろに乗ることになるな」
「……まあ、いいけど」
ルセリアは溜息をついてから、物憂げに長身のイナミを見上げた。
「ねえ、イナミ。最近、〈ザトウ号〉のこと調べてるみたいだけど、場所が分かったら、どうするつもりなの?」
問答を通信越しに聞いたようだ。
イナミとて、隠そうという気は一切なかった。
「人の手に戻したいだけだ。管理は機関の判断に任せる。俺は一構成員に過ぎないからな」
「あれ、ずいぶん殊勝じゃない?」
ルセリアは真意を窺うような、それでいてからかうような笑みを浮かべる。
イナミも穏やかに笑い、
「譲れないってほどのことじゃない」
と、肩を竦めてみせた。
〇
特務部第九分室、宿舎一階オフィス。
エメテル・アルファが、背を倒したオペレーターシートに小柄な身体を横たえている。
金髪をラフシニヨンにまとめているので、長く尖った耳が目立つ。彼女は遺伝子操作を受けて誕生した新人類なのである。
十五歳という実年齢よりも、いくらか幼く見える容姿だ。
透き通るような翠玉色の瞳は、ぼんやりと天井を見つめていた。
汚れが気になっているわけではない。物思いに耽っているわけでもない。
右耳のカフ型デバイスから脳へと伝達された情報を、視界に映し出しているのだ。
彼女の世界は、情報が織りなすウィンドウとツリーで彩られている。
〈並走思考〉――複数の思考スレッドで、膨大な情報を処理する能力。
エメテルは今、それを駆使して、ミダス体の宿主の行動記録を遡っていた。
その作業をソファから見守っていた銀髪碧眼の少女、クオノ・ナガスが尋ねる。
「エメテル、何か気になるの?」
「ちょっと変なんです。潜伏体だった男の人、ミダス体発生の現場に居合わせたことがないんですよ」
クオノは宿舎に住んでいるが、特務官ではない。
にもかかわらず、エメテルは任務に関わる情報を素直に話した。
というのも、クオノは〈デウカリオン機関〉を司る『七賢人』の一人、ベネトナシュの名を有しているのである。
加えて、シンギュラリティとは異なる力、外部干渉可能な機械をコントロールする〈感応制圧〉を持っている。
エメテルの作業を、クオノは文字通り『横で見守っていた』のだ。
「それが、変?」
「はい。ご存知のとおり、ミダス細胞は空気感染しません。変異したからには、どこかで活動してるミダス体と接触したはずなんです」
「過去の行動記録を調べれば、どこで移植されたかが特定可能――今までのケースでは」
「そうなんです。それが分からないとなると、機関が把握してる以外の経路があるのかもです」
休眠状態にあるミダス細胞保持者は、『潜伏体』と呼ばれている。
市民に紛れ込んだ潜伏体を暴く術は、今のところ確立されていない。潜伏体本人さえも自分がそうだとは分かっていないまま、ある日突然、変異を迎えるのだ。
ただでさえ後手に回っているというのに、知られざる侵入経路があるとすれば――
エメテルは身体を起こし、クオノと見つめ合う。
しばしの静寂。オフィスがやけに広く感じる。
このことについてイナミとルセリアに相談したかったが、彼らはまだ現場で警戒中だった。




